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鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

決戦!深夜バス

2023-12-26 | バスの旅


令 和 元 年 神 在 月 廿 参 日 ( 水 )

午 後 八 時 参 拾 分

島 根 県 松 江 市

宍 道 湖 遊 覧 船 第 2 渡 船 場





夜の遊覧船のりば。
こんな時間に舟遊びなどするわけはなく、タイトルの通り、ここで深夜バスを待っているのです。



深夜バス。

あの百戦錬磨のどうでしょう軍団を地獄にたたき落としてきた深夜バス。

韓国語だと、シンヤポス。

大学生の時分、仙台→新宿の移動で利用したことのある深夜バス。

あの当時も車内で寝付くことができず、完全敗北を喫した、深夜バス。

あれから20年の月日が流れ、100名城登城の旅で、ついに深夜バスに乗る日が来てしまいました。




バスがやってくる時刻まで、松江の夜景を眺めていましたが・・・
島根県第一の高さを誇る山陰合同銀行ビルは、緑色に妖しくきらめています。




21時51分、バスはプシューと音を立て、土俵入りする横綱力士のごとく威厳高らかに入ってきました。

これは本当に地獄行きのバスになるやもしれないぞ・・・。

バスを見た瞬間に感じる、ただならぬ戦慄。
そのバスから、乗務員氏2名が下りてきました。

乗車チケットの確認を受け、手荷物を車床のトランクに預け入れます。
そして座席の割当て。
チケットに座席は記入されておらず、座席の割当ては当日乗車時に乗務員氏から言い渡されます。
私は、一番前の窓側の席のようです。
車酔い体質の私にとっては幸先良いスタート。



そう思ったのは束の間。



乗り込んだ瞬間、ゲンナリ。

座席は・・・4列か。

4列シート。
昼運行の高速バスによくある座席配列で、中央に通路があり、左右に2×2の座席列が続くもの。
昼運行の比較的距離が短いバスなら4列でもいいのですが、長距離の深夜バスにはなかなかキツイ。



時刻は21時を回り、出発時刻となりました。
これより深夜の決戦へ。

やったぞ、隣りは誰もいない!

隣りの席は空席、人は座っていません。
夜間の睡眠に大きな障害となる隣人の不存在はかなりデカい!!




令 和 元 年 神 無 月 廿 参 日 ( 水 )

午 後 九 時 参 拾 分 ご ろ

鳥 取 県 米 子 市

J R 米 子 駅 付 近

バ ス 乗 車 か ら 参 拾 分


米子で隣席の男が乗ってきやがった!!

ハイ、地獄の旅、確定。

隣席の男、礼儀は正しいようですが、私より恰幅が良い。

当然、隣席の男の存在を否が応にも感じてしまいます。

米子で乗り込んできた乗客はそんなにいなかったはずですが・・・
それでも隣席が必要になるほどだったのでしょう。
車内を見回すことはできなかったのですが、たとえば私のひとつ後ろの席は・・・隣人がいない模様。

ひょっとして2人席が埋まっているのは私の所だけなのでは!?

兎にも角にも、半日間の隣人とともに、東京へと向かう地獄の帰路は始まったばかり。




午 後 拾 時 参 拾 分 ご ろ

岡 山 県 真 庭 市

米 子 自 動 車 道 上 り ・ 蒜 山 高 原 S A

バ ス 乗 車 か ら 壱 時 間 半


バスは米子市内で高速道路に入りました。
すなわち山陰自動車道、そして米子自動車道へ。

中国山地のまっただ中、岡山県に入ったばかりの蒜山(ひるぜん)高原サービスエリアで、早くも1回目の休憩に入ります。



山の中のサービスエリア。
お店はすべて閉まっており、利用できる施設はトイレだけ。



オリオンバスさんの全貌。
座席の前後には余裕たっぷりの「コンフォート・タイプ」なのだそうな。
(前後も重要ですが、左右の余裕もとっていただきたかった・・・)
座席の空間をとったためにトイレがないというものなので、サービスエリアに入ったらためらいなく用を足しておく必要があります。


座席4列、トイレ無もなかなかですが、それよりも戦慄をおぼえたのが、車のナンバー。

4が4つも並んでいるのだ!!

「4」といえば連想しやすいあの事象。
ましてや旅客運送業では避けるべき数字と考えられているはずです。
その数字「4」を敢えて車のナンバープレートに並べる・・・それも4連続で。

「こんな物忌みなど意味がないくらい、安全運行に努めているのです!」

オリオンバスさんの妙な「自身」も読み取れますが、私はリクライニングを倒しているときもシートベルトを決して外そうとはしませんでした。


さてこの蒜山高原で、乗務員氏は乗客の就寝の準備を調えます。
各座席はカーテンで仕切られ、車窓も遮光のためカーテンで閉ざされます。
こんな山の中なんだから刺激的な光なんで入ってこねぇんじゃねぇか? とは思いつつも、わが車窓も一枚の厚手の布で閉ざされることとなりました。

外なんか見てねぇで、黙って寝ろ!

ということなんでしょうが、果たして私はすんなりと眠りにつくことができるでしょうか???



私の憂慮とは関係なしに、バスは発車。
米子自動車道から中国自動車道に入ります。




令 和 元 年 ( 2 0 1 9 年 )1 0 月 2 3 日 ( 木 )

午 前 0 時 5 4 分

兵 庫 県 宝 塚 市

新 名 神 高 速 道 路 ・ 宝 塚 北 S A

バ ス 乗 車 か ら 4 時 間 弱


岡山県内で日付は変わり、中国地方を脱出。
高速道路も中国道から新名神に入り、西日本最大のサービスエリアといわれる宝塚北サービスエリアへ。

車内が予告なく明るくなり、サービスエリアで休憩することを知らせてきます。



それにしても・・・寝れねえなぁ。

なんだ・・・隣りの男、いびきかいて寝てやがる!

なんとなくだけど・・・私の座席、スペースを隣りに取られてねぇか?!

こうしてなかなか寝付けない私は、サービスエリアに着いたので下車・・・したかったのですが、隣人がすっかり寝入っているので、それを起こすわけにもいかず、下車を断念。




午 前 3 時 1 0 分

愛 知 県 刈 谷 市

伊 勢 湾 岸 自 動 車 道 上 り ・ 刈 谷 P A

バ ス 乗 車 か ら 6 時 間 1 0 分


バスは東へ。
新名神から伊勢湾岸自動車道に入りました。
沿線にはナガシマスパーランドレゴランドジャパンといった魅力あるアトラクションがあります。
そして夜景の美しい「名港トリトン」と呼ばれる3番の斜張橋を通っていきます。

まったく記憶にございません。

車窓がカーテンに覆われていたということもありますが、このあたりではそれなりに眠りにつくことができたのでしょう。
しかし、車内が急に明るくなります。


(・・・また休憩かよ)

(せっかく寝付いたころだったのに)




観覧車もある、一大ハイウェイオアシス・刈谷パーキングエリア
真夜中では何も見えませんし、そもそも歩き回る気力もありません。
トイレを早々に済まして、そそくさとバスに戻りました。



関ヶ原は通らなかったのですが、関ヶ原くらいの経度のところを超え、いよいよ東に入りました。
深夜バスとの闘いですか? もちろん・・・

やられまくってますよぉ~。




午 前 5 時 5 4 分

静 岡 県 御 殿 場 市

東 名 高 速 道 路 上 り ・ 足 柄 S A

バ ス 乗 車 か ら お よ そ 8 時 間




空は明るくなっていき、夜が明けようとしています。
この期に及んではもはや寝ることはあきらめ、



朝うどんセット、うまい!
この旅最後の食事がいたって普通のフードコートめしですが、闘いの最中のめしとあってとても美味く感じました。



バスに戻ると、車内を仕切っていたカーテンが開け放たれていました。
乗務員、乗客、皆それぞれの気力を振り絞って、目的地の東京を目指していく。
バスとの闘いは最終章へ。




午 前 8 時 4 3 分

東 京 都 千 代 田 区

丸 ノ 内 鍛 冶 橋 駐 車 場

バ ス 乗 車 か ら 1 1 時 間 4 3 分


着いた~!!

松江からおよそ半日かけて、高速バスターミナル・鍛冶橋駐車場に到着。
所要時間11時間43分は、あの憧れのサンライズ出雲よりも25分も早いではありませんか!

しかし、サンライズは1時間半以上も前の午前7時08分に東京駅に到着しています。
嗚呼、やっぱりサンライズで帰りたかった・・・なんて深夜バスとの闘いの後ではそんなことは思い浮かぶべくもありません。
闘いをやり遂げたという感傷に浸る余裕なども全くなく、



早く柏に帰りてぇ。
早く横になりてぇ。


私は足早に、東京駅八重洲南口に入っていきました。



もう二度と深夜バスには乗るものか!!!



【今回の乗車記録】

松江駅北口 宍道湖遊覧船第二乗船場前 21時00分発
★オリオンバス 1652便コンフォート 東京行き
丸ノ内鍛冶橋駐車場 8時43分着(7分早着)

*所要時間 11時間43分
*移動距離 808km
*運賃 5,800円(当時「テレビCMセール」ということで格安で乗れました)





憧れのサンライズ出雲

2023-12-26 | 鉄道の旅


令 和 元 年 神 在 月 廿 参 日 ( 水 )

午 後 六 時 拾 四 分

島 根 県 出 雲 市

西 日 本 旅 客 鐡 道 出 雲 市 駅





この旅最後の晩餐をいただき、JR出雲市駅に戻ってきました。



さて、こちら出雲市駅の時刻表。



上り線の15時台から22時台までを抜粋したものです。
普通列車が1時間につき1本から2本、特急列車も同じくらいの本数といえます。
行き先は、普通列車が米子、特急列車は岡山または鳥取というのが大半のようです。

しかし、1本だけ・・・東京の表示があるではありませんか!

列車の名は、特急「サンライズ出雲」
ただの特急ではなく寝台特急、そして現在本邦にて運行している唯一の寝台特急なのです!!



上り線の発車標に、燦然と輝く文字。
「●号」という号数はなく、「サンライズ出雲」とだけ表示される列車名。
そして何より、遠く離れた大都会「東 京」という行先が、特別感満載といったところですね。




午 後 六 時 伍 拾 壱 分

出 雲 市 駅 を 発 つ


サンライズ出雲は出雲市駅を発ち、山陰本線を東へ。
最初の停車駅は、宍道駅
読み方は湖と同じ「しんじ」です。
ここで接続する木次(きすき)からの乗客を加えます。



次の停車駅は、松江
宍道湖の夕陽はとても美しかったです・・・。



松江の次は、安来
難攻不落を誇る月山富田城へは、この駅からバスで向かいます。
緒方拳が演じた大河ドラマでの尼子経久は、恐ろしくも素敵な人物でしたね。



安来駅を発ち、鳥取県に入ります。
鳥取県最初の停車駅は、米子
「鬼太郎列車」の運行する境線の接続駅ですね。
列車は、米子駅の先の伯耆大山(ほうきだいせん)で山陰本線と別れ、伯備線を進んでいきます。


サンライズ出雲は伯備線を進み、中国山地を踏破していきます。
岡山県に入り、山あいの街・新見(にいみ)の中心駅・新見駅で小休止。
新見駅からは姫路へと続く姫新(きしん)が分岐しますが、列車はそのまま伯備線を進みます。


引き続き中国山地の間を進み、備中高梁(たかはし)に停まります。
現存天守を擁する名城・備中松山城の登城拠点となる駅です・・・いつかは行ってみたいなぁ。


約2時間で中国山地を抜け、倉敷駅へ。
鉄道の大動脈というべき山陽本線東海道本線のルートに入り、東京を目指します。



ももたろうランドがあるという岡山駅に到着。
ここでさぬきうどん駅 高松駅からの「サンライズ瀬戸」7両を連結して、東へと向かいます。


列車は中国地方を出て、兵庫県へ。
関西地方に入って最初の停車駅は、姫路



昼間は見える世界遺産・姫路城も、いまは闇の中。
姫路城には二度訪れてはいますが、「平成の大修復」のために華麗なる天守の中には入れていません。
ここもいつかは再訪しなければならない場所ですね。


港町・神戸に入り、日付が変わります。
そして列車は三ノ宮駅で停車。
神戸駅には停車しません。
いつの間にか山陽本線は終わり東海道本線に入っている、といった感じです。


そして西の大都市・大阪へ。
サンライズ号は巨大駅・大阪に停車。
ここで最後の乗客を収容し、東へと向かいます。



午 前 六 時 四 拾 伍 分

横 浜 駅 に 到 着


列車は出雲市駅をおよそ半日かけて、東の大都市・横浜へ。
まぁ、途中静岡、富士、沼津、熱海に停車したらしいのですが・・・ね~て~ま~し~たぁ~。
毎度のことながら、発車メロディを聞いて「関東に帰ってきた」という感覚を味わいます。


そして午前7時08分、長い長い旅路の果てに東京駅に到着しました。



【サンライズ出雲の運行ルート】

JR西日本 出雲市駅 2番のりば 18時51分発
[D]山陰本線 寝台特急 サンライズ出雲 東京行き 7両
岡山駅 4番のりば 22時30分着  サンライズ瀬戸を連結

岡山駅 4番のりば 22時34分発
[S]山陽本線 寝台特急 サンライズ出雲・瀬戸 東京行き 14両
TYO 東京駅 8番線 翌日7時08分着

*所要時間 12時間17分
*移動距離 953.6km
*料金  23,210円
  ・運賃    12,210円(出雲市~東京)
  ・特急料金  3,300円(通常期)
  ・寝台料金  7,700円(シングル(B寝台))





午 後 六 時 参 拾 伍 分

島 根 県 出 雲 市

一 畑 電 車 電 鉄 出 雲 市 駅


嗚呼、サンライズ出雲で東京に戻れたらなぁ~。

サンライズ出雲が入線しているであろう時刻、



JRの出雲市駅ではなく、一畑電車の電鉄出雲市駅のホームにいました。

 

そうそう、忘れずに「城攻め」を。
電鉄出雲市駅では半分城鶴ヶ城を攻略できました。
「鶴ヶ城」といえば福島の会津若松城の雅称で有名ですが、出雲地方にもあるようです。
「半分城」って、「じゃあ残りの半分は何なの?」とでもいいたくなる名称ですね。



そしてこれから乗るのは、松江しんじ湖温泉行きの普通・一畑電車7000系電車です。
当然、寝台などはついていません。はぁ~。



この日の朝に購入した「一畑電車フリー乗車券」を使いたおし、とりあえず松江に戻ります。




午 後 七 時 四 拾 伍 分

島 根 県 松 江 市

一 畑 電 車 松 江 し ん じ 湖 温 泉 駅




朝、フリー乗車券を買った窓口。
松江しんじ湖温泉駅に戻ってきました。
これで一畑電車の全路線、上り下りともに完全乗車ということになりますね。



「温泉」とつく駅らしく、足湯があります。



足湯のそばにおわす、お湯かけ地蔵尊。
これから始まる地獄の帰路を前に、旅の安全祈願をしました。



旅の疲れを癒す・・・というより、地獄の帰路に備え、足湯に浸かります。
気持ちいい、気持ちいいのですが、これから始まる戦慄の旅路を前に、緊張感が先に出てしまいます。



松江しんじ湖温泉駅から宍道湖沿いを歩いて、松江市街へ。





この旅の最後を飾るにふさわしい、松江の夜景です。



朝、駆け足で渡った宍道湖大橋をじっくり眺め、



ゆったりとした足取りで渡ります。
まだまだ松江に滞在したいという思いがあるからか、やや足取りが重いかもしれません。



宍道湖から離れ、中海への水路となっている大橋川へ。
最終決戦の地・遊覧船第2渡船場に到着・・・・・・してしまいました。





出雲そばはどうでしょう・後編~献上そば「羽根屋」

2023-10-25 | グルメ


令 和 元 年 神 在 月 廿 参 日 ( 水 )

午 後 参 時 参 拾 九 分

島 根 県 出 雲 市

電 鉄 出 雲 市 駅





出雲大社から、電鉄出雲市駅へ。



JR出雲市駅とは通路で繋がっています。



出雲大社の本殿を模した北口



ロータリーの向かいにはおなじみのビジネスホテルもあって、出雲市の玄関口のようですね。



JR出雲市駅の東側にある電鉄出雲市駅は、なんだか隅に追いやられたようにもみえます。
人通りも多くなく、JR駅と比べるとどこか寂しげです。



電鉄出雲市駅を通り過ぎ、東へと歩いていきます。
駐輪場がありますが、構わず進みます。



公道に出たら、左へ。



"ARION"のビルの方へ歩いていきます。



この通りはおろち通りというそうです。
おろち通りを北へと歩きます。



グリーンリッチホテル出雲の看板が見えたら、すぐ先の信号を右折。
青いコンビニが角にありますね。



屋根つきの商店街を進んでいくと・・・



今宵のお食事をいただく献上そば「羽根屋」さんに到着しました。
屋号にもある「献上そば」って何でしょうね?
羽根屋さんのサイトによると・・・

明治40年(1907年)大正天皇がまだ東宮(皇太子)の御時、山陰地方に行啓された折に、羽根屋が出雲そばを御食膳に供したところ、殿下がおおいにお気に召され、「献上そば」の名をお許しになりました。
また昭和40年(1965年)には上皇・上皇后両陛下が東宮の御時に、御食膳に羽根屋の「献上そば」が供されました。


・・・のだそうです。
いわば皇室ゆかりのおそば、といったところ。
そのようなことは全く知らない私でしたが、とにかく入店。


「いらっしゃいませ」
入店の挨拶に次いで、店員氏が問いかけます。
「何名様ですか」
私はひとり旅なので「1名」と答えると、
「こちらの席へどうぞ」



入口からほど近い窓際のカウンター席、「献上そば 羽根屋」の「ば」の字のあたりの席に案内されてしまいました。

嗚呼、ここじゃない別の席に座りたかったのに・・・!

私の思いなど知る由もない店員氏は、ルーティーンを継続。
望まぬ席に、そば茶を供して立ち去ります。


店の奥にはテーブル席があり、私が座りたかった席もありそうです。
そんなこととは関係なく、店員氏は私のオーダーを受け、また立ち去っていきました。
私の心底にある最大のオーダーは、置き去りにされたまま。


やはり欲求は抑えられない。
私はトイレに行くというていで店の奥へ。
テーブル席には何組かが着座していましたが、私が座りたかった席は空いていました。



中庭への扉のそばにあるこの席。
この席こそ、水曜どうでしょう「原付西日本制覇」にてどうでしょう班が着座した席なのです。
私がちょっとばかり感動しながら写真を撮っていると、他のお客さんたちは「この人、何やってんだ?」というような表情をしていました。


席に戻り、



出雲そば割子三段、うまい!
ただ、かえしはみりんが少々強めのように感じました。でもうまかった!



そば完食 & そば湯完飲!



行きと同じ道をたどって、



JR出雲市駅に戻っていきました。





出雲市駅へ

2023-10-25 | 鉄道の旅


令 和 元 年 神 在 月 廿 参 日 ( 水 )

午 後 参 時 参 拾 九 分

島 根 県 出 雲 市

一 畑 バ ス 日 御 碕 灯 台 停 留 所



日本一の高さを誇り、日本海を一望できる出雲日御碕灯台【国指定重要文化財】を下りてきました。



日御碕灯台に最も近い駐車場。
出雲大社へと戻るバスも、こちらから発着します。


日御碕は、夕陽の名所。
なにせ日沉宮(ひしずみのみや)(日御碕神社下の宮)が鎮座し、夕陽の神様がおわすのですから。

しかしこの日は曇り空。
これから晴れることはなさそうでした。

そしてなにより、私はこの日千葉へと帰らなければならない。
そのためには、この時間で日御碕を辞去しなければなりません。




15時47分、後ろ髪を引かれつつも、やってきた一畑バス・出雲大社行きに乗り込みました。





進行方向右側の席に座り、行きと同様に日本海を望みながら、出雲大社へと戻ります。





きついカーブと、アップダウンの連続。
旅立ちの前は「レンタサイクルで行ってやるぞ~!」と息巻いていましたが・・・。
バスで移動して大正解です、まったく。

 

 

車窓からの日本海をじっと眺めていきます。
再び日本海を見るのは、しばらく先のこととなりそうですからね。




16時10分、出雲大社バス連絡所に到着しました。

バスのラッピングを見て・・・出雲ナンバー、かっこいいなぁ。
絵柄は神話とドラクエⅢに登場するヤマタノオロチですね。

それにひきかえ・・・わが本拠地のナンバープレートの絵柄なんて、ほとんど印象に残らないです。
まぁ私の主観なんで、これ以上は申し上げませんが、どうでしょう?






出雲大社勢溜(せいだまり)に戻りました。
ここから駅まで続く神門通りの土産物店で買い物をして・・・



出雲大社前駅へ。




午 後 四 時 弐 拾 分

一 畑 電 車 出 雲 大 社 前 駅


今度の電車は、



17時13分発 普通電車 川跡行きです。
発車時刻までかなり時間があるので・・・



お土産物をじっくり観察。

左は、中浦食品「どじょう掬い饅頭」

ぽっと出のキャラクター饅頭かな・・・と思ったら、とんでもない。
販売が始まってから50年以上たつという、山陰地方を代表する銘菓なのだそうです。
こちらは、職場に持っていこうかな。

中央と右は、彩雲堂「若草」
包装紙に包まれているのは女王様ご一家へのお土産用。
そして小さな箱のほうは、おやつとして買ってきたもの。
電車の待ち時間がそこそこあるようなので、



文化財に登録されているステンドグラスの美しい洋風の駅舎で、松江を代表する和菓子「若草」をいただきましょう。



「若草」・・・想像以上に甘い!
緑色の食べ物は、草餅とか抹茶系のように甘さ控えめなイメージがありますが、この「若草」はストレートに甘いです。
そりゃあ、お抹茶と一緒に口にする和菓子ですから、お抹茶の苦味に負けないように甘くできていますよね。

「若草」というお菓子は、「どじょう掬い饅頭」以上に歴史が深く・・・

松江藩七代目の城主松平治郷(はるさと)公は、産業や治水林産などに力を尽され、藩中興の名君としてつとに有名でございますが、号を不昧(ふまい)と称され、茶道不昧流の名声は高く、風流をたしなまれた殿様でございました。
不昧公が当時茶事に用いられたお菓子は非常に多く、茶事十二ヶ月の中に記録されていますが、中でもこの「若草」は一月から四月、春のお茶席に好んで用いられたお菓子です。
若草の由来は、藩主がよまれた歌の

曇るぞよ 雨ふらぬうちに 摘てこむ
栂尾(つがお)山の 春の若草


から命名されたものです。
お菓子のあざやかな色彩と求肥(ぎゅうひ)の柔かい口あたり、感触が春の萌える新緑を連想させます。


・・・箱の説明文によると、こういうものなのだそうです。

そういえばこの「若草」、何かに似ているような気がします。
松江に来る前・・・JR東海道線あたりで見たような・・・。



これです!
このイメージに引っ張られたからか、「若草」は甘さ控えめの和菓子だと思い込んでいたんですね。



文化財の駅舎でちょっとした「お茶席」を愉しんでいると、一畑電車さんが、ホームに入線していました。

出雲大社、稲佐の浜に日御碕。
この日すべての目的地を訪れ、「縁結び祈願のたび」は帰路に就きます。



わが本拠地・柏への帰路。
その最初の電車が、一畑電車大社線 川跡行きです。



17時13分、出雲大社前駅を発ち、



17時24分、川跡駅へ。



ここでは、朝に乗車した松江しんじ湖温泉駅方面の電車ではなく、その反対方向の電鉄出雲市駅行きの電車に乗り換えます。





17時36分、電鉄出雲市駅に到着しました。





日御碕灯台~その高さ、日の本一

2023-10-25 | 岬・灯台


令 和 元 年 神 在 月 廿 参 日 ( 水 )

午 後 弐 時 拾 六 分

島 根 県 出 雲 市

日 御 碕 灯 台 へ 向 か っ て 歩 く





こぢんまりしながらも、見どころの多い日御碕神社を参拝しました。
ここで再び、バス停にあった案内図を借用して・・・



神社を出た私は、この後日御碕灯台の方へ歩いていきます。
この案内図のルートで行けば20分かからずに着くようですが、日本海の景色を満喫したかった私は、なるべく海寄りのルートを歩くこととしました。




早速、日本海が見える漁港・・・?
そういえば案内図には「グラスボート乗船場」って書いてあったけど、ここのことでしょうか?



漁港? 乗船場? の目と鼻の先に、鳥居が立っている島があります。
この島こそ、かつて日御碕神社の日沉宮(ひしずみのみや)が鎮座していた経島(ふみしま)です。



高台へ上がると、さびれた漁港と思っていた場所は、思いのほか乗用車が停まっていました。




自然の造形美!



経島の全容が見えてきました。
漁港?の防波堤から歩いて渡れそうにも見えますが、れっきとした島。
船がなければ上陸できません。



経島は大小ふたつの島からなり、仏教の経文を積み重ねたような岩の形からその名がついたといいます。
このあたりには、毎年12月ごろに約5,000羽のウミネコが渡来し、4月から5月に産卵しヒナをかえします。
そして7月ごろには北の海へと飛び立っていきます。
経島は、日本海西部における代表的なウミネコの繁殖地として、昭和11年(1936年) 大正11年(1922年)に国の天然記念物に指定されています。


・・・と案内看板をおおいに参考に・・・この看板、間違えてるじゃねぇか!
あやうくウソ情報をわがサイトに載せるところでした。

経島って一枚岩の島ではなかったんですねぇ、この駄文を編集しているたった今知りましたよ~。
なお当時は10月下旬、ウミネコはまだ飛来していませんでした。




岩場の崖っぷちが続く海岸。
2時間サスペンスドラマで出てきそうな風景ですなぁ。



松林の向こう、白亜の灯台が見えてきました。



経島の全景。
経文よりも左を向く魚の形をしているように見えます。
魚でいう尾びれの部分が、大小ふたつのうちの小さい島・・・・・・かな。




岩場の風景を愉しみながら、灯台の方へと歩いていきます。
ここからなら、経島がふたつの島だということがわかりますね。







五角柱や六角柱の岩石がびっしりと詰められて立っている柱状節理の素晴らしい光景。
日御碕の岩石は、流紋岩という白みを帯びた火山岩からできているのだそうです。




日御碕、到達!




高さ日本一の白亜の灯台・出雲日御碕灯台【国指定重要文化財】!!



灯台への行く手を阻む断崖の入り江。
こういう場所って、見えない何かの力が働くのか、なぜか近寄って水面を眺めてみたくなるんですよね。



回り込んで、灯台の入口へ。



断崖の入り江。
先程まではこの向かい側にいました。



やっぱり近寄って見てしまう・・・。
いやいや、北斗の神に魅入られる前にこの場を離れよう。




午 後 弐 時 伍 拾 八 分

出 雲 日 御 碕 灯 台




灯台の入口までやってきました。
おやおや、幼稚園児でしょうか? ぞろぞろと外に出てきました。
崖っぷちを散策している折に灯台から聞こえてきた歓声は、彼らのものだったのですね。
彼ら全員が出るのを待ってから、中に入るとしましょう。


受付の淑女に、「参観寄付金」という名の入場料300円を払います。
参観寄付金は中学生以上から発生するようです・・・すなわち先ほどの皆さんは無料ということですね。



受付のところにこのようなものが置いてありました。
このスタンプ帳は、全国各地の中に入れるところ限定の灯台のスタンプを集めるというもの。
中に入れる灯台は、たったの16基しかないのだそうです。
これはコンプリートは簡単・・・ではありません!!

基本的に灯台は海のそば、岬の突端にあるので、そこまでのアクセスが困難。
そして16基のうち3基は離島にあります。
日本100名城の完全制覇と、灯台16基完全制覇・・・どちらが先に達成できるでしょうか。
それはともかく、最初のスタンプを頂戴しましょうか。



12番、出雲日御碕灯台!


出雲日御碕灯台は、明治33年(1900年)に着工し、設計から施工まですべて日本人の手により行われ、明治36年4月1日に点灯しました。
高さは43.7メートルで、建設当初から現在に至るまで日本一です。
灯台の光度は48万カンテラ、光達距離は21.0海里(約39km)です。


なお、私が訪問した当時は登録有形文化財となっていましたが、令和2年(2022年)2月9日に国の重要文化財に指定されました。




いざ、参らん!



狭くて急ならせん階段。



あの園児たちはおとなしく上り下りできたのでしょうか。
引率する先生たちの苦労が思い起こされますね。



100段目に到達。
銚子の犬吠埼灯台は、九十九里浜にちなんで階段は99段なのだそうですが、日本一の灯台はこれを軽く凌駕していきます。



118段目だったと思います。
これで階段はおしまい?



最後の階段ですね。



灯台のテラスに到達です。





絶景ですが、やっぱり高いですね。
テラスは欄干で囲われてはいますが、乗り越えてしまうこともできなくはない・・・。
引率する先生方は、園児たちが欄干をよじ登ってしまわないか、しっかりと見張らなくてはならなかったことでしょう。
先生方、本当にお疲れ様でした。



かつて日御碕神社日沉宮(ひしずみのみや)が鎮座していた経島(ふみしま)が一望できますね。





地上へ下りました。



そういえばこの地にもお城があるそうな・・・「城攻め」!



宇龍城を攻略・・・って、こんなときに女王様からのLINEが入るとは!





日御碕神社~夜の守護社

2023-06-26 | 神社


令 和 元 年 神 在 月 廿 参 日 ( 水 )

午 後 壱 時 四 拾 六 分

島 根 県 出 雲 市

一 畑 バ ス ・ 日 御 碕 神 社 停 留 所





島根半島の北西の果て・日御碕(ひのみさき)へ。



バス停にあった案内図を借用して・・・
ここから歩いてすぐのところに、日御碕神社が鎮座しています。


奈良時代に編さんされた『出雲国風土記』美佐伎社(みさきのやしろ)と記されている、歴史ある神社である日御碕神社。
下の宮日沉宮(ひしずみのみや)と上の宮「神の宮」の二社からなり、両社を総称して「日御碕神社」といいます。
ご祭神は、日沉宮が天照大神(アマテラスオオカミ)、神の宮が天照大神の弟・素戔嗚尊(スサノオノミコト)です。

素戔嗚尊は出雲の国づくりをした後、自らの鎮まる地を定めて占ったところ、現在の神の宮の裏手にある丘と出ました。
その5世孫にあたる天葺根神(アメノフキネノカミ)は、御魂をこの地でお祀りしたといいます。
また、天葺根神が神社近くの浜・清江の浜にお出かけになったときに、浜から離れてたたずむ経島(ふみしま)の松が輝くと、天からお言葉がもたらされました。
「私は日の神です。ここに鎮まり天下の人々に恵みを与えましょう。あなたはすみやかに私をお祀りなさい」
天照大神の御神勅をたまわった天葺根神は、ただちに経島に大神をお祀りしたといいます。

経島に鎮座する神社は、日の沈む西に立つことから「日沉宮」と呼ばれ、「日の本の夜を守る」神社とされています。







うまそうなイカですなぁ~。
神社を詣でた後に、1杯いただきたいですねぇ。




バス停から歩いて1分、もう着いちゃいました。
境内の入口・神の宮鳥居【国指定重要文化財】です。
寛永16年(1639年)に3代将軍・徳川家光が寄進したもので、昭和10年(1935年)に現在の地に遷されたそうです。




稲佐の浜の近くでも見たような感じのレリーフですねぇ・・・・・・なになに、和布刈(めかり)神事」


成務天皇13年(143年)1月5日早朝、一羽のウミネコが海藻を神社の欄干にかけて飛び去りました。
これを不思議に思った神主が海藻を水洗いして乾かすと、それはワカメになったといいます。

この故事に倣って行われる神事が、「和布刈神事」です。
近くにある宇龍港に浮かぶ権現島に鎮座する熊野神社で、毎年旧暦の1月5日に行われます。
権現島の岩場でワカメを刈り上げ、熊野神社にお供えして豊漁を祈願するものです。
日御碕のワカメ漁は、この神事が終わってから初めて行われるというしきたりとなっています。



手水舎でみそぎをし、



日沈宮楼門【国指定重要文化財】へ。
果てなく広がる青空、それと朱に染まる立派な門構えとのコントラストがなんとも素晴らしい!・・・んでしょうね。
残念ながら、空は灰色、曇り空。
それでも、海の近くならではの開放的な空間に建つ楼門は、朱がより際立っていたように感じました。



斜めから見た日沈宮楼門。
門から入って右側の高台に鎮座するのが神の宮です。
ちなみに「ひしずみのみや」の表記ですが、文化庁さんは常用漢字の「沈」を用いているようですね。




楼門をくぐると、境内末社が2社あります。
そのうち右側、神の宮寄りにあるのが、門客人社(かどまろうどしゃ)(1)【国指定重要文化財】です。
「(1)」って何じゃいと思われるでしょうが、文化庁さんがこう云っているんですから仕方ありません。



楼門をくぐって左側は、門客人社(2)【国指定重要文化財】・・・だってぇ~文化庁が、文化庁が・・・。
ご祭神は、(1)が櫛石窓神(クシイワマドノカミ)、(2)が豊石窓神(トヨイワマドノカミ)です。
2柱とも門を守る神様ですが、じつは名前を複数もっている同じ神様です。




楼門の正面に建っている日沈宮拝殿【国指定重要文化財】。
日御碕神社で最も大きい建物です。
日御碕神社の社殿は、神様がお住まいになる本殿、人々が神様をお祀りし参拝する拝殿と、この2つをつなぐ幣殿という3つの構造からなる権現造で構成されています。
権現造は江戸時代に流行した建築様式で、現存する社殿も江戸時代前期の寛永21年(1644年)に3代将軍徳川家光の命令により造られました。


それでは、日沉宮にてお祈りを捧げましょう。
こちらの神社は、通常通り二拝二拍一拝の作法によります。
夜の守護社ということですが、私は今宵に新たな旅立ちをしますので・・・

(ペコッ ペコッ)
パン! パン!

一路平安! 交通安全!
(旅立ちなのにもかかわらず)戦勝きが~~~ん!!!


(ペコッ)


さあ、これで安心してわが本拠の柏に帰れそうですな。ウム。





神の宮が鎮座する高台へ。
そこから日沉宮を見てみると、深緑の松にあざやかな朱色の社殿がとても映えて美しいですね。
「竜宮城」に喩えられるのも頷けます。




神の宮拝殿【国指定重要文化財】へ。
ここでは大社に続いて縁結び祈願を。


(ペコッ ペコッ)
パン! パン!

縁結び祈願! 縁結び祈願!
この旅最後の縁結びきが~~~ん!!!


(ペコッ)







朱色美しい神の宮本殿【国指定重要文化財】を垣間見て、神の宮を後にします。





あらためて日沈宮楼門



内側からの楼門も、まことによろし。



楼門の蟇股(かえるまた)に施されているのは、なぜか大根のお彫り物。
そういえば島根半島の東にある中海には、「大根島」とかいう島があったと思いますが、多分関係ないでしょうね。




最後に御朱印を拝領して、



バス停近くの鳥居とは別の神の宮鳥居【国指定重要文化財】より、日御碕へと歩き出しました。





稲佐の浜から日御碕へ

2023-06-26 | バスの旅


令 和 元 年 神 在 月 廿 参 日 ( 水 )

午 後 壱 時 弐 拾 九 分

島 根 県 出 雲 市

一 畑 バ ス ・ 稲 佐 の 浜 停 留 所





神々にまつわる伝説の地をめぐり、稲佐の浜停留所に戻ってきました。
ここからバスに乗り、島根半島の西の果て・日御碕(ひのみさき)を目指します。




13時29分、日御碕行きのバスがやってきました。
定刻より4分遅れの出発ですが、まったくの許容範囲内ですね。
日本海を眺めたい私は、進行方向左側の座席に着席しました。




稲佐の浜を後にして、



浜の近くの漁港・大社漁港を過ぎると、







海岸は砂浜から一変し、崖と岩場の景色へ。
日御碕へ向かう島根県道29号線は、激しいアップダウンを繰り返しながら崖っぷちを進みます。

旅に出る前は、この道をレンタサイクルで行こう!なんて息巻いていましたが・・・いやぁ~、よかったよかった。
こんな道、私のなまくらな脚では自転車じゃ行けません。
バスで行って大正解です。



バスに揺られながらも、巌の海岸風景を愉しみます。



高台から下ったところにあるこちらは、ひろげの浜というそうです。



高台へ。
小さな島?岩礁?がぽつぽつと見えます。




何でしょう? お墓かな?
調べてみるとこれは墓ではなく碑文で、おゆう茶屋碑というのだそうです。
大正時代にこのあたりで、おゆうさんという女性が茶屋を営んでおり、繁盛していたのだとか。
茶屋はなくなってしまいましたが、いつしか有志の方が石碑を立てたのだそうです。




島か、岩礁か。



天におわす天照大御神



崖っぷち。




やかんのふたのような島。
つぶて島というそうです。

国譲りにて、建御雷神(タケミカヅチノカミ)建御名方神(タケミナカタノカミ)が力比べをしたときのこと。
2柱の神は稲佐の浜から岩を投げ合い、どちらが遠くに投げられるかを競いました。
その投げた岩が同じ場所まで飛んで積み上がり、つぶて島ができたのだといいます。



13時46分、



日御碕停留所に到着。
乗車時間は20分にも満たないものでしたが、日本海と岩場の海岸の風景を大いに愉しむことができました。



バスを見送り、この旅最後の縁結び祈願へ、



【今回のバス乗車記録】

一畑バス 稲佐の浜停留所 13時29分発(遅れ4分)
日御碕線 日御碕・宇竜行き
日御碕停留所 13時46分着(遅れ4分)

*所要時間 17分
*運賃   470円





出雲さんぽ・最終章~国譲りの舞台

2023-06-26 | 神社


令 和 元 年 神 在 月 廿 参 日 ( 水 )

午 後 拾 弐 時 参 拾 壱 分

島 根 県 出 雲 市

稲 佐 の 浜



稲佐の浜



日本でもっとも神話に彩られた砂浜といっても過言ではないでしょう。

稲佐の浜は、神在月の出雲国にて、諸国の神々が最初に上陸する浜とされています。

稲佐の浜に上陸した神々は、「神迎えの道」を通って出雲大社にお越しになるそうです。
「神迎えの道」は、稲佐の浜の常夜燈の所から大社の勢溜(せいだまり)まで続く道が現在もあるのですが・・・当時の私はそのようなことは知らなかったのでした。
再び出雲大社を参拝する機会があったなら、今度は稲佐の浜から「神迎えの道」をたどってみたいですね。




稲佐の浜は、「国引き神話」の舞台でもあります。
これは奉納山公園の段で申し述べたとおりです。



南西の方を見ると、稲佐の浜と、神戸川の河口からその先に続く薗の長浜



北の方には、朝鮮半島から引っ張られてきたという日御碕(ひのみさき)・・・は見えませんね。




稲佐の浜のシンボルともいうべきこの岩は、弁天島といいます。
かつては湾のはるか沖にあったといい、昭和60年代までは島の前まで波が打ち寄せていたようですが、現在は砂浜の上にある岩のようですね。
神道と仏教とを足して2で割る信仰がまかり通っていた神仏習合の時代においては、弁財天がお祀りされていました。



そして稲佐の浜は、「国譲り神話」の舞台でもあります。


天上界・高天原(たかまがはら)の神である高皇産霊尊(タカミムスビノミコト)は、自分の孫である天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホニニギノミコト)を可愛がり、地上界・葦原中国(あしはらなかつくに)の君主にしようとしました。
しかし地上界にも神々が多くいたので、このままでは瓊瓊杵尊を君主とすることはできません。
「私は葦原中国の邪神どもを平定したいと考えている。誰を派遣すべきか」
神々を集めて議論したところ、天穂日命(アメノホヒノミコト)を派遣することとなりました。
しかし天穂日命は、地上の神の長である大己貴神(オオアナムチノカミ)に従うようになり、3年たっても報告に戻らなかったのでした。


大己貴神は出雲大社の神様ですね。
百戦錬磨の大己貴神の計略に、天穂日命がまんまとかかってしまったようです。

高皇産霊尊はふたたび神々を集めて議論をし、天稚彦(アメワカヒコ)が派遣されることとなりました。
天稚彦は高皇産霊尊から天鹿児弓(あめのかごゆみ)天羽羽矢(あめのははや)を授かって、葦原中国へと下っていきました。
ところが天稚彦は任務を果たそうとせず、大己貴神の娘を娶ると、自らが葦原中国を支配しようと企むようになりました。

高皇産霊尊は報告が来ないことを怪しく思い、雉を遣わしました。
雉が天稚彦の屋敷前にあるカツラの木に止まるのを見た天探女(アメノサグメ)は、天稚彦にこのことを報告します。
すると天稚彦は、地上に下る前に授けられた天鹿児弓と天羽羽矢で雉を射殺してしまいました。
雉を射抜いた矢は、高天原の高皇産霊尊まで飛んでいきました。
「この矢はかつて天稚彦に授けたもので、血に染まっている。地上の神々と戦っていたのだろうか」
そう言って矢を地上に投げ返すと、矢は休んでいた天稚彦の胸を射抜き、彼は絶命してしまいました。


大己貴神の智謀再び、といったところでしょうか。
ちなみに天探女は、いわゆる天邪鬼(あまのじゃく)のモデルとされています。

高皇産霊尊はみたび神々を集め、今度は誰を地上に派遣すべきかを議論しました。
神々は経津主神(フツヌシノカミ)を推薦しました。
会議の場には武甕槌神(タケミカヅチノカミ)がおり、彼は進み出て抗議します。
「経津主神だけが丈夫(ますらお)で、私はそうではないというのか!」
武甕槌神が熱心に言うので、彼も経津主神の副使として派遣することとしました。


筆者の地元にかかわる2柱の神が登場しました。
経津主神は下総(千葉)佐原の香取神宮の神様、武甕槌神は常陸(茨城)鹿嶋の鹿島神宮の神様です。

2柱の神は出雲の五十田狭之小汀(いたさのおはま)に降り立つと、十握剣(とつかのつるぎ)を地面に逆さまに立て、その切っ先にあぐらをかいて座り、大己貴神を威圧しながら問いただしました。
「高皇産霊尊は皇孫を天から降そうとして、地上の君主にしようとなされている。その前に地上を平定すべく、我々を派遣された。あなたはどうなさる?」
大己貴神は、息子に尋ねてから答えを出すと応じました。
大己貴神の子・事代主神(コトシロヌシノカミ)は、
「父は去るべきでしょう。私もそれに反することはありません」
と答え、海の中にお隠れになりました。
息子が去ってしまったので、大己貴神も去ることとしました。

経津主神武甕槌神はその後も服従しない神々を討伐して回り、地上を平定して、天に戻っていきました。



以上は、『日本書紀』による国譲りの記述をかんたんにまとめたものです。
『日本書紀』はわが国最初の公式歴史書で、国譲り神話もしっかり収録されています。

同じ時代に成立したもうひとつの歴史書、『古事記』
こちらは公式ではないですが、わが国最初の歴史書です。
『日本書紀』が歴史を記録したものという性格なのに対し、『古事記』は日本国の歴史を記録しつつも文学作品のようなストーリーが展開されます。
その『古事記』によると、国譲りはこのようにすすめられたといいます。


高天原におわす天照大御神(アマテラスオオミカミ)は、「葦原中国は我が子の天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)が治めるべき」と考え、命に天下りを命じました。
命は天から下界を見て、「葦原中国は大変騒がしく、私の手に負えません」と答えました。
そこで天照大御神と高御産巣日神(タカミムスビノカミ)は神々を集めて、「私は葦原中国の邪神どもを平定したいと考えている。誰を派遣すべきか」と問いました。
神々が議論を重ねた結果、天菩比命(アメノホヒノミコト)を派遣することとなりました。
しかし天菩比命は、葦原中国を統治している大国主神(オオクニヌシノカミ)の家来になってしまい、3年たっても報告に戻らなかったのでした。


このように『古事記』と『日本書紀』では、大まかなストーリーは共通していますが、細かい部分で違いが見られます。
登場する神様の表記(「天穂日命」と「天菩比命」、「大己貴命」と「大国主神」)もそうですが、『古事記』では国譲りを最初に考えた神様が天照大御神となっています。

天照大御神高御産巣日神はふたたび神々を集めて議論をし、天若日子(アメノワカヒコ)が派遣されることとなりました。
天若日子は天照大御神から天之麻迦古弓(あめのまかこゆみ)天之羽羽矢(あめのははや)を授かって、葦原中国へと下っていきました。
ところが天若日子は任務を果たそうとせず、大国主神の娘を娶ると、自らが葦原中国を支配しようと企むようになりました。

天照大御神は報告が来ないことを怪しく思い、雉を遣わしました。
雉が天若日子の屋敷前で大きな声をあげて鳴いていると、これを見た天佐具売(アメノサグメ)が「この鳥は鳴き声が不吉なので射殺しておしまいなさい」と天若日子をそそのかしました。
天若日子が地上に下る前に授けられた弓矢で雉を射殺すると、雉を射抜いた矢は高天原まで飛んでいきました。
高御産巣日神は地上からの矢が天若日子に授けたものであることを神々に示し、
「天若日子に邪な心があったならば、矢よ、天若日子を射抜け!」
そう言って矢を地上に投げ返すと、矢は休んでいた天若日子の胸を射抜き、彼は絶命してしまいました。


このあたりは『古事記』『日本書紀』あまり大きな違いはありませんね。

天照大御神はみたび神々を集め、今度は誰を地上に派遣すべきかを議論しました。
神々は建御雷神(タケミカヅチノカミ)を推薦しました。
さらに天鳥船神(アメノトリフネノカミ)を副使として派遣することとしました。


三度目の正直、国譲りを成し遂げる神の登場。
『古事記』には香取神宮の神様・経津主神が登場せず、鹿島神宮の神様が前面に出てきます。

2柱の神は出雲の伊那佐之小浜(いなさのおはま)に降り立つと、十掬剣(とつかのつるぎ)を地面に逆さまに立て、その切っ先にあぐらをかいて座り、大国主神を威圧しながら問いただしました。
「天照大御神はご自分の御子が地上を治めるべきとお考えだ。あなたはどうお思いか?」
大国主神は、自分の前に息子の事代主神(コトシロヌシノカミ)に尋ねてから答えを出すと応じました。
そこで2柱の神は事代主神に国譲りを迫ると、事代主神は国譲りを承諾し、海の中にお隠れになりました。

2柱の神が大国主神に事の次第を告げると、大国主神はもうひとりの息子である建御名方神(タケミナカタノカミ)にも尋ねるようにいいました。
ちょうどその時、建御名方神が巨大な岩を手の先で持ちながらやって来て、建御雷神に力比べを挑みました。
建御雷神は建御名方神の腕を掴み、いとも簡単にぶん投げてしまったので、建御名方神は恐れをなして逃げ出します。
建御雷神は後を追い、科野国(信濃国)の州羽(すわ)の海(諏訪湖)に追いつめました。
建御名方神はついに降参し、国譲りを認めること、天の神々に背かないこと、自らが科野国から出ないことを約束しました。


『古事記』オリジナルの物語が、建御名方神の登場、そして建御雷神と建御名方神の戦いです。
この2柱の神の戦いが、日本の国技である相撲の起源とされています。
なお建御名方神は諏訪大社の神様で、国譲りの後は信濃国の発展に力を尽くしたといいます。

建御雷神は出雲に戻り、大国主神に再び尋ねました。
大国主神は「二人の息子が従うなら、私もこの国を差し上げます。その代わり、私の住まう所として、天から下る神の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建てていただきたい」
その後出雲の多芸志(たぎし)の浜に、大国主神のための大きな宮殿が建てられたといいます。

建御雷神は地上を平定すると、天に戻っていきました。


大国主神が求めた大きな宮殿こそ、現在の出雲大社です。





弁天島を照らす日輪。
空は快晴ではなく、雲がところどころを覆っていました。
どことなく神秘的で、高天原から神々が降臨しそうな雰囲気でした。




午 後 壱 時 六 分

一 畑 バ ス ・ 稲 佐 の 浜 停 留 所




稲佐の浜でしばし足休めをした後で、次なる目的地・日御碕へのバスの停留所へ。
発車時刻まではまだ時間がありました。
道を挟んでバス停の向かいに、



国譲りの談義を表したレリーフがありました。
歴史書では「剣の切っ先にあぐらをかいて・・・」などという記述がありますが、このレリーフでは杖を立てるように剣を砂浜に突き立てている、人間離れしていない神様が描かれていますね。
このレリーフの中央には、稲佐の浜にあった屏風岩という大岩が描かれています。
国譲りの談義はこの屏風岩の前で行われたといい、バス停からさほど遠くない場所に、屏風岩がなお残っているのだとか。

早速、参りましょう!




とある民家の裏手・・・



神々が国譲りを談義したという屏風岩・・・。
これって人の家の裏庭じゃないだろうねぇ?!



兎にも角にも、こちらが屏風岩でございます。
神代から時は流れ、稲佐の浜は狭くなり、屏風岩の周囲は住宅地になりました。
岩自体も風雨の浸食によって削られ、小さなものとなってしまいました。

「こんなところで国譲りの話でもしたのかな?」

国譲り神話と、他人の民家の裏にある土地と岩。
スケールがあまりにも違い過ぎる両者。
歴史上の大きな出来事というものは、案外こういった身近でちっぽけな場所から事が起こるものなのかもしれませんね。

・・・などといろいろ考えながら、稲佐の浜のバス停に戻っていったのでした。





出雲さんぽ・第2章~神様の会議室

2023-06-26 | 神社


令 和 元 年 神 在 月 廿 参 日 ( 水 )

午 後 拾 弐 時 拾 九 分

島 根 県 出 雲 市

奉 納 山 公 園



出雲大社を出て、日本海をめざして出雲の街中をぶらり。



奉納山公園から、さらに西へ。



なんでしょうか、この空間。神社・・・?



質素な造りですが、こちらもれっきとした神社。
出雲大社の末社である大歳宮(おおとせのみや)です。

ご祭神は大歳神で、稲作の神様、五穀豊穣の神様とされています。
大歳神の父神は素戔嗚尊(スサノオノミコト)で、出雲大社のご祭神・大国主神とは異母兄弟にあたります。



鳥居もない、社殿も小さいのですが、それに比べると境内は広め。
芝生も植わっていて、その周りを御垣が取り囲んでいて、ちょっと豪華?
そして社殿の前にある領域は、社殿を造りかえるときの新たな敷地であり、神聖な敷地つまりは入ることの許されない禁足地となっています。



大歳宮のすぐ近くに・・・



今度はなかなか立派な社殿が建っています。
こちらは出雲大社上の宮
出雲大社の摂社ということで、先ほどの大歳宮よりも格式が高い、こちらの神社。
ご祭神は素戔嗚尊、そして八百万神(ヤオヨロズノカミ)
八百万神とは、いろいろな神様、神様みんなということです。

この上の宮こそ、年1回開かれる「神様サミット」の会場なのです!
正しくは神議(かみはかり)といいます。



某ローカルタレント(だった御方)がいうように「神様の慰安旅行」「飲み会」の会場ではありませんよぉ~。



上の宮からさらに下っていくと・・・



出雲大社下の宮へ。
ご祭神は天照大御神(アマテラスオオミカミ)です。
神様の中の神様で、素戔嗚尊のお姉さまにあたります。

こちらの下の宮と先ほどの上の宮は、両方ともに参拝するのが正式とされています。
そんなことは露とも知らない私でしたが、図らずも双方のお宮を参拝させていただきました。





国道431号線に戻りました。
近くにあったバス停で、発車時刻を確認しておきましょう。



この後向かう日御碕(ひのみさき)へのバスは、1日8本とあまり多くはありません。
このときの時刻は午後12時29分でしたが、午後1時すぎのバスに乗り遅れないように注意を払いつつ、さらに出雲さんぽを続けます。





午後12時31分、国譲りの舞台・稲佐の浜に到達しました。





出雲さんぽ・第1章~お国さんの足跡

2023-04-09 | 公園・庭園


令 和 元 年 神 在 月 廿 参 日 ( 水 )

午 前 拾 壱 時 伍 拾 八 分

島 根 県 出 雲 市

出 雲 そ ば 「 八 雲 」



出雲大社縁結びを祈願した私は、このまま境内を出て・・・



早めのお昼をいただいた「八雲」さんの前に来ていました。
もう一度そばをいただきたかったのですが、さすがにお昼どきとあって中は混みあっているようでした。
おそばは諦め、「八雲」さんの面する国道431号線を西に進み、海へと向かいます。




午 後 拾 弐 時 参 分

出 雲 阿 国 墓 所


「八雲」さんから300メートルほど、ゆっくり歩いて5分ほどで・・・



出雲阿国墓所に着きました。

 (この像は別のところにありますよ~)

出雲阿国(いずものおくに)は、歌舞伎踊りの創始者とされています。
その素性や生涯は伝説に彩られていて定説を見ませんが、出雲国杵築(きつき)(出雲大社のあたり)の鍛冶・中村三右衛門の娘として生まれたと考えられています。
阿国は成長して出雲大社の巫女となり、勧進のため諸国を回り評判となったといいます。

記録では、慶長5年(1600年)京の都にて「クニ」なる人物が「ヤヤコ跳」を踊ったと記されています。
この「クニ」が阿国と考えられ、さらに3年後の慶長8年に「かふきおとり」を踊ったとあることから、歌舞伎踊りを創始したのはこのころと考えられています。

慶長12年(1607年)江戸城で勧進歌舞伎を上演し、これを最後に阿国は歴史の表舞台から消えてしまいます。
その後阿国は出雲に戻って尼となり、87歳で生涯を閉じたという伝承があるそうです。



伝説の女性・出雲阿国が眠るという墓。



墓碑には「歌舞伎元祖 出雲お国墓」とあります。
平成14年(2002年)に修繕されたものです。
阿国の墓の後ろには、阿国の生家とされる中村家の墓があります。


・・・・・・合掌して、次の場所へ。




午 後 拾 弐 時 拾 参 分

奉 納 山 公 園


出雲阿国墓所から約300メートル、ゆっくり歩いて5分ほどで・・・



大きなイチョウの木が前面に立つ奉納山公園の入口へ。
このイチョウは「乳房イチョウ」と呼ばれているそうです。



高台へのぼってみる前に・・・



出雲阿国終焉地の碑
人間国宝であった歌舞伎役者・二代目中村鴈治郎の書によるものです。
ちなみに二代目鴈治郎の長女は中村玉緒でございますぅ~おぼぼぼぼ。



高台の中腹には於国塔が安置されています。
歌舞伎の中村家や市川家をはじめとした役者たちの寄進により、昭和11年(1936年)にはじめて建てられました。
現在の於国塔は、昭和43年(1968年)に再建されたものです。



塔の土台となっている石段には、再建当時に寄進した名優の名を見て取ることができます。




奉納山公園の展望台に上がってみました。
眼下には稲佐の浜、そして日本海



南西の方を見やると、稲佐の浜から続く(その)の長浜、そしてその先にはおぼろげながら三瓶山(さんべさん)も見えますね。
薗の長浜、そして彼方の三瓶山については、「国引き神話」という物語があります。


「国引き神話」は、わが国の正史ともいうべき「古事記」「日本書紀」に記述はなく、「出雲国風土記」にのみ記述がある物語です。
そこでは、八束水臣津野命(ヤツカミズオミツヌノミコト)という神によって国引きがなされたとされています。

最初に造られた出雲国は、「細長い布のように東西に長い、失敗作だ」と八束水臣津野命は考えていました。
そこで志羅紀(しらぎ)高志(こし)都都(つつ)などにあった余った土地を裂いて、綱で引っ張って出雲国に縫い合わせたといいます。
この国引きでできたのが、現在の島根半島だといいます。
志羅紀は朝鮮半島の新羅、高志の都都は「越」の国(越前・越中・越後)・・・ではなく能登国の珠洲(すず)であると考えられています。

八束水臣津野命は、引き寄せた土地が再び離れていかないように、大きな杭を立てて縄で結びました。
のちに、志羅紀からの土地を結んだ綱は薗の長浜稲佐の浜となり、大きな杭は三瓶山となりました。
また、高志の都都からの土地を結んだ綱は弓ヶ浜となり、大きな杭は大山(だいせん)となったといいます。



「国引き神話」の地に想いを馳せ「国引き神話」など知らない当時の私は、ただただ「境港以来の日本海だぁ~」なんて思いながら、ぼんやりと景色を眺めていたのでした。