ばくっちの巣穴 ドット blog

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スーパー能〔世阿弥〕

2013-04-19 | 能楽堂
本日、能楽鑑賞デー。
千駄ヶ谷で、スーパー能〔世阿弥〕を見る。梅原猛の脚本で、詞章は現代語、シテ梅若玄祥、語り(アイ)野村万作、その他有名能楽師多数出演の超話題作…
の割には大味だったなあ。
節が能楽風なので現代語でも結構イケるもんだ、というのは分かったけど、〔○○なのです〕という語尾が多くてリズムが悪く、耳障りだった。せめて〔○○なのでございます〕としたほうがよかったと思えるところがたくさんあった。梅原猛はリズム音痴だよ、多分。または敢えてそうしたなら失敗だと思う。やってる人たちが一番解るだろうに、やっぱ大先生を立てなきゃいけないのかね。あるいはいつもと違うことやるのが、みんな超楽しくなっちゃったか…。

囃子と地唄が舞台右奥の御簾の中というのは斬新だった。いつもは閉まってるから、あんな風になってたんだ…と感動するも、始まってみたら、楽団と合唱?が遠くから聞こえてくるようで、違和感あり。舞台と切り離されちゃったかんじで残念。
観客の質?も今ひとつだった。途中で着信音が鳴るわ、飴?の包装を破る音が何度もするわ、終演後に“邪魔だった”vs“邪魔してない”の口論から激昂して怒鳴り散らす下品なおっさんまでいて。それも見所にいるうちからだよ。どんだけ腹が立ったか知らないが、そもそもあんたの存在自体が迷惑なんだよ。そんな人まで来てた。
だがしかし、そもそも芸能とはそんなもの。いろんな人がおやつでも食べながら、自由に見てたはず。現代の能楽業界は特に閉じられているからな…。そこがイヤミだと感じるときは確かにあるけど。お客がみんな友達だったりナントカ先生のお弟子さんだったりして。
そういう意味では今日は、お能初めてさんがたくさんいて、逆に健全?ではあったのかも。そんな初めてさんたちにとって、今日の演目はどうだったかな。お能仲間の自己満足で終わってなかったかな。
お能には始めと終わりの型があって、何度か見れば中身は分からなくても、終わったことくらいはすぐに分かるようになるんだけれど、今日のお客さんたちは、終わったあとに、終わり?中入りなのでは?とザワつく場面も。知ってる人にしか分からないって…やっぱり脚本に難があったんじゃないかなあ…。

新しいものはダメだと一概に言うつもりはないけど、やっぱり600年という時間の積み重ねの中で出来上がったあらゆる演出や型は、それなりに取捨選択されて洗練されたものなんだな、と改めて気づかされた。そうは言っても今の古典だって初演を迎えた日、二回目のとき、三回目のときがあったわけで。今日のスーパー能も1000年後にはこなれているかもね。

んー、なんだか満足感は今ひとつだけど、これもいい経験かも。

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