ガンバレ よし子さん

手作りせんきょ日記

チャイコフスキーはお好き?

2010年03月25日 | シベリウス バイオリン協奏曲
シベリウス作曲ヴァイオリン協奏曲二短調。

前回に引き続き、この曲が持つ独自性と革新性について語ることが私の目的である。
でも、その前にみなさんに質問をひとつ。

チャイコフスキーは、好きですか?

「 ・・・ ちょっとー、まだチャイコで引っ張るつもり?
いったい、いつになったらシベリウスの話が始まるの?」
という不満の声が聞こえてきそうだが、まぁ、怒らないで読んでいただきたい。

チャイコフスキーといえば、稀代のメロディメーカーである。彼は数多くの魅力あるメロディを後世に残した。「白鳥の湖」、「くるみ割り人形」、「ピアノ協奏曲第1番」etc ・・・ 多くの人が、そのタイトルを見ただけですぐにメインテーマを思い浮かべるのではないだろうか。もちろんヴァイオリン協奏曲も然り。メインテーマのキャッチーさにおいては前述の3曲に劣らないと思う。

しかし、チャイコフスキーの音楽は、クラシックを聴きこんだ人々にしばしば軽んじられる。
「深みに欠ける」、「新味に乏しい」、「葛藤がない」 ・・・ 理由はだいたいこんなところか。
実を言うと、私ももともと彼の音楽に興味はなかった。
同じロシア出身のメロディメーカーでも、甘さ控えめで大人のロマンティシズムをたたえたラフマニノフに比べると、コンビニで売ってるイチゴショートケーキ並みに甘ったるい、コドモ向けの音楽じゃん、と思っていた。

でも、そのトレードマークの甘いメロディにいったん目をつぶり、
ソナタ形式という新しい観点からチャイコンを検証してみると、
私はそこに別の発見をすることになった。

前回のテキストでお分かりのように、彼はチャイコンでソナタ形式を忠実に実行する。彼はメロディを徹底して反復し、その反復は、確実にメロディの魅力を底上げして、曲を親しみやすいものにしている。その過程はまるでソナタ形式のお手本を見るようで、「なるほど、チャイコフスキーはこういう効果を頭の中に描きながら作曲をしていたのか」と、私はちょっと目を開かれる思いがした。
この人はメロディの達人と言われるけど、その先天的な資質に安住していたわけではなく、「まだ足りない」とか、「あとこれがあれば」とか、常にプラスアルファを追求しながら音楽を作っていたんだな、と思った。そして、その企業努力の積み重ねがチャイコフスキー・ブランドのメロディを今日まで残したんだな、と思った。

ソナタ形式を手掛かりにしてチャイコンを聴き進んでいくと、そこにはたくさんのアイディアや工夫があることがわかってくる。私は試行錯誤しながら作品を生み出していく作曲家の姿を思い浮かべて、その姿に共感することができた。チャイコフスキーに共感する自分がいるというのは、かなり新鮮な発見で、自分が聴き手としていくらか成長し、守備範囲が拡がったという実感があった。

コンビニのイチゴショート並み。とりあえずその暴言は撤回しよう。この音楽には、たとえば、アテスウェイのガトーフレーズに淹れたてのコーヒーを添えるのと同じくらいの敬意を持って接するべきだ。私は素直にそう思った。

しかし、それでチャイコフスキーの音楽を全面的に支持できるかというと、それはまた別の話である。「チャイコフスキーは、好きですか?」と、冒頭の質問を向けられても、私はYesとは答えられない。
その理由は、彼の態度があまりにも優等生的で、型にはまったものに見えるからだ。

私はチャイコフスキーの作品をすべて聴いたわけではないので、一概に断言はできない。でも話をチャイコンに限るならば、彼はソナタ形式に対して極めて従順である。そこには葛藤や矛盾がほとんど見当たらない。チャイコフスキーは1881年にこの曲を作った。これはベートーヴェンの死後54年目にあたる。半世紀を経てもなお、彼は何の疑いもなく、ベートーヴェンと同じフォーマットに乗っかっているのである。このあたりが、私としてはどうも気に食わない。チャイコンが古典的な作品として優れているのは認める。でもそれは音楽の進化に貢献しているだろうか、と考えると、首をかしげざるを得ない。どちらかといえば、前進より停滞に近いのではないか、という気がする。だったらベートーヴェンを聴いたほうがスリリングだよ、と思ってしまう。

しかし、一方のチャイコフスキーにも言い分はあるだろう。
彼が優等生に見えるのには、それなりの事情がある。
メロディメーカーとソナタ形式。両者はとても相性がいい。前者の武器は美しくキャッチーなメロディであり、後者は聴き手にメロディを浸透・定着させるべく進化した楽式である。ふたつが揃えば鬼に金棒。メロディメーカーにとって、ソナタ形式はまさにうってつけのツールである。つまり、チャイコフスキーが本来備える個性とソナタ形式は、たまたまベクトルが同じだった。それゆえ彼はソナタ形式を抵抗なく、すんなりと受け入れることができた。チャイコフスキーはロシア人だけど、自らの資質を十分に活かした音楽を作り出すために、このドイツ流儀を進んで取り入れ、同化しようとしている。それは彼にとって当然の選択である。

では、シベリウスはどうだろうか。

ここからが本題である。
結論から言うと、彼はこのドイツ流儀が、どうにも窮屈だったようなのだ。 ( 第8回へ続く )

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