ガンバレ よし子さん

手作りせんきょ日記

シベコン by 神尾真由子(4)

2010年07月16日 | シベリウス バイオリン協奏曲
シベリウス作曲ヴァイオリン協奏曲二短調

ヴァイオリン独奏:神尾真由子
指揮:イルジー・ビェロフラーヴェク
管弦楽:BBC交響楽団
2010年5月12日の演奏会より第2楽章
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第2楽章は静かなクラリネットの二重奏で幕を開ける。
クラリネットのフレーズをオーボエとフルートが引き継ぎ、
ティンパニのトレモロが真夜中を告げると
夜行性の小動物のように、暗闇のあちこちで管楽器が動き出す。

月の光が地上を照らす中、ソロ・ヴァイオリンが密やかにAメロを歌う。
ピチカートでミステリアスな情景を添えていた弦パートが裏にまわり、
入江に寄せるさざ波のように一定のリズムを刻んで徐々に響きを高めると
ソロ・ヴァイオリンの旋律が満ち潮のように緩やかに上昇しながら高揚する。
やがて訪れるピークを挟んで旋律は下降に転じ、
ゆっくりと弛緩しながら振り出しに戻り、
そこでひとつのループが完結する。
満ち足りた気持ちでAメロの余韻をなぞるヴァイオリン。
この昇降がもっと続けばいいのに。淡い期待が胸に浮かぶ。
ひたひたと打ち寄せる弦のさざ波が、ループの連続性を予感させる。

でもその期待を裏切って場面は一変する。
厚い雲が月を覆い隠し、世界が闇に包まれる。
出し抜けに短調のBメロが現れて、
弦パートのユニゾン→トランペット→オケのトゥッティと、
次々に呼応しながら瞬く間に大きく渦巻いていく。
冷たく重い水がさざ波に流れ込んで混じり合う。
各パートは主張したかと思うとすぐに引っこんで、フロントがくるくる替わるから
フレーズが乱立してどれがBメロの旋律なのかわからない。
変化が一度に起こるせいで、
ただ漠然と聴いているだけでは回線がショートしてパニックに陥りそうになる場面だ。
でも急激な展開をあわてて追いかけても道に迷うだけ。
たしか第1楽章にもこんな場面があった。
庄司さんの演奏で、同じようにして出口のない森を彷徨ったのを覚えている。
急展開は見せかけだ。背後でシベリウスはひっそりと聴き手に謎を問いかけている。
そう思って辛抱づよく音楽に耳を澄ませていると
やがてそこに微かではあるが一貫した流れがあることがわかる。
さらにじっと耳を澄ませると、
短調のフレーズは
元をたどれば楽章の冒頭のクラリネットの二重奏に辿り着き、
突然の転調は、もともと曲が内包していた音符の噴出に過ぎないことに思い至る。
AメロもBメロも根っこは一緒。光も闇も同じひとつの心から生まれている。
聴き手は時間の経過とともに、その表と裏を見ているのだ。

オケのトゥッティの嵐が止み、静寂の中でソロ・ヴァイオリンが歌う短調のアリア。
シベリウスはここでせめぎあうふたつの心を重音に託して息詰まる場面を作り出す。
アリアは冒頭から二声に引き裂かれている。
高音はループに復帰して前に進もうとする心。低音は暗闇で停滞しようとする心。
交錯する光と影のように二声が入れ替わり、せめぎあい、進路を奪い合う。
神尾さんが繰りだす超絶技巧を、聴衆が固唾をのんで見守っている。

どうしてこんなことがわかるんだろう。
私は不思議に思う。
私の耳がここまで深いドラマを読み取れるはずがない。
私の耳はまだそこまで訓練されていない。
家でCDを聴く時もこのへんは聞き流していた。アダージョ楽章、眠くなる、
はやくノリノリのアレグロが聴きたい、とか思って。
重音はただハモっているだけに聴こえたし、楽章全体についても
ふつうに美しい緩徐楽章という印象しかなかった。
それが神尾さんの見事な重音のワンプレイをきっかけに一転した。
今まで絵だと思って見ていたものが、実は彫刻だったと気づいたみたいに、
そこにある精緻な仕組みを、いろんな角度から見て理解することができた。

やがてソロ・ヴァイオリンの高音が、決心したようにいっきに音階を駆け上がり、
残された低音は力尽きてオーボエに吸収される。
メランコリックなアリアから解放されたソロ・ヴァイオリンは奔放な走句へと姿を変えて
さらなる高みを目指して昇降を繰り返し、
ソロ・ヴァイオリンからアリアを引き継いだオーボエはヴィオラと合流し、
ヴィオラの旋律はいつのまにか長調のAメロの始点に回帰し、
Aメロの旋律がオケ全体に伝播し(このへんのシベリウスの書法はすごくトリッキー。天才的!)、
ソロ・ヴァイオリンの高音の走句が上昇するAメロをきらきらと美しく装飾して、
やがて迎える2回目のピーク。

たぶん、シベリウスの技巧に対する独自のこだわりが引き起こした現象だ。
私はそう思う。
シベコンにおいて技巧は心象風景と分かちがたく一体となっている。
技巧は物語を進める契機として重要な役割を果たしている。
そのため技巧は時として物語のより深い部分にアクセスするためのパスワードになる。
それは迷宮に続く隠された扉のようなものだ。
ひとつの技巧をきっかけにリスナーのイメージが拡がって、
それがひとたびシベリウスの心象風景と共振すれば、
リスナーの意識はあっという間にシベリウスの意識とつながって
深い観念の世界に引きずり込まれる。
私にとってはあの重音がパスワードになった。
あの重音をきっかけに私の意識はシベリウスの意識とつながり、
そこで見た風景が私の経験値のレベルを一気に押し上げた。
一種の化学変化が起こった結果、私はひとつの分水嶺を越えたのだ。
そう考えれば説明がつく。
そんなことあるわけない、と思う人もいるかもしれない。
でも私は十分起こりうると思う。
この曲のイマジナティブなのりしろの大きさを考えれば、
それくらいの奇跡は起こっても不思議はないと思う。
それくらいの魔力がなくて、この急速に変化していく世の中で、
音楽が1世紀以上の時の試練を耐えられるだろうか。
それともうひとつ。
そこに神尾さんというファンタジスタの力が働いていることを忘れてはいけない。
この人はほんとうに、奇術師のように鮮やかなプレイをする。

昇降を終えて2周目のループが完結すると
Aメロが振り出しに戻って、みたび上昇を始める。
ソロ・ヴァイオリンが上昇する音符をやさしく刻んでAメロに情景を添えて、
フルートが下降する音符でソロ・ヴァイオリンと交錯する。
いくつもの泡がきらめきながら水面を目指して昇り、波間から差し込む光と溶け合うシーン。
ふと気がつくと、オケがさざ波のリズムを歌いだしている。
月を覆っていた雲もいつのまにかどこかへ消え失せている。
世界は元のループを取り戻し、この循環は二度と途切れることはないと月の光が教えている。


そして、ここからの、神尾さんの歌いっぷりときたら!

讃岐うどんのような音(中・低音だけでなく、もはや全ての音が讃岐うどんと化している)が、
どこまでも、伸びる、伸びる。
つるつるののどごしはとめどなく続き、
もちもちの歯ごたえは食べても食べてもなくならない。
これぞ神尾マジック。
まるで空っぽの箱の中から両端をつなぎあわせた色とりどりのハンカチを
次から次へと引っ張り出してくる手品みたいだ。


「 ・・・ 一体、いつまで続くんだ?」
私が呆然としてつぶやくと、
「ハンカチが1階席を埋め尽くすまで。」
神尾さんがクールに答える。
「で、でも、そんなにたくさん、いったいどこに隠しているの???」
「たねもしかけもありません。」

そして3度目の絶頂がやってくる。
オケとソロ・ヴァイオリンのユニゾンが力強く頂点を指し示すと
その5つの音符がカウントダウンになって、夜が明ける。


・・・ う~ん。ファンタジスタ ・・・

気がつけば妄想の中で二人で会話しているくらい、引き込まれてしまった。
ここは彼女が秘め持つ無尽蔵のポテンシャルを感じさせる、一番のハイライトだった。

昇ったばかりの新しい太陽の光に包まれて
Aメロの余韻を残しつつ最後のループが完結し、楽章が静かに幕を閉じる。

それにしても。
生演奏で聴く第2楽章のAメロの美しさは格別。
CDでもきれいなメロディだと思ったけど、生だと余韻がいっそう心にしみる。
シベリウスって幸せだなぁ、と私はつくづく思った。
神尾さんとか、庄司さんとか、その他大勢の若くひたむきな演奏家が
こうして夜な夜な、世界各地のコンサートホールで、
全身全霊をかけて美メロのテコ入れをしてくれるのだ。
作曲家冥利に尽きる。
天国でこの演奏を聴きながら、シベリウスはきっとそう思っているだろう。  ( 第14回へ続く )



*** *** *** *** *** *** *** ***

この演奏会のもようは下記の予定で放送されます。
7月16日(金)午後11時~午前1時15分 教育テレビ「芸術劇場」
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シベコン by 神尾真由子(3)

2010年07月15日 | シベリウス バイオリン協奏曲
シベリウス作曲ヴァイオリン協奏曲二短調。

1904年に初演されたこの曲は、1世紀を経た現在もなお世界各地で演奏される名曲である。同様に、世紀を超えて愛されるヴァイオリン協奏曲は他にもいくつかある。近年演奏会で頻繁に取り上げられる曲をピックアップして年代順に並べると次のようになる。

1725年ごろ

ヴィヴァルディ作曲「四季」

1775年作曲

モーツァルト作曲ヴァイオリン協奏曲第5番「トルコ風」
1806年初演

ベートーヴェン作曲ヴァイオリン協奏曲ニ長調
1810~1830年ごろ

パガニーニ作曲ヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調「ラ・カンパネラ」
1845年初演

メンデルスゾーン作曲ヴァイオリン協奏曲ホ短調
1867年初演

ブルッフ作曲ヴァイオリン協奏曲第1番ト短調
1879年初演

ブラームス作曲ヴァイオリン協奏曲ニ長調
1881年初演

チャイコフスキー作曲ヴァイオリン協奏曲ニ長調
1904年初演

シベリウス作曲ヴァイオリン協奏曲二短調

このうちシベコンだけが20世紀に入って書かれた曲で、あとは19世紀以前に書かれた曲である。ここで注目すべきは、パガニーニ以降のコンチェルトはすべて超絶技巧曲になっている、という点である。メンコンにしろ、ブラコンにしろ、チャイコンにしろ、曲を構成する上でヴァイオリンの超絶技巧が欠かせない要素になっている。その理由は19世紀半ばから後半にかけて世界を席巻したヴィルトゥオーソ・ブームにある。この時代、ヴァイオリンは改良されて飛躍的に機能が向上し、従来より大きな音で、より華麗なプレイが可能になった。そこへパガニーニ、サラサーテといったヴァイオリン演奏の名人が登場し、カリスマ的テクニックを披露して聴衆を熱狂させた。特に、パガニーニの演奏はアクロバティックな技巧を誇示して観客を喜ばせる傾向を持っていた。彼らはヴィルトゥオーソと呼ばれ、世界各地でコンサートを行い、そのパフォーマンスは同時代の作曲家たちに大きな影響を与えた。その結果、パガニーニ以降に書かれたヴァイオリン協奏曲は超絶技巧満載の難曲路線へと進むことになった ・・・ というわけで、パガニーニ以降に書かれた6曲を演奏の難易度順に並べ替えると次のようになる。

1位:シベリウス作曲ヴァイオリン協奏曲二短調
2位:パガニーニ作曲ヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調「ラ・カンパネラ」
3位:ブラームス作曲ヴァイオリン協奏曲ニ長調
4位:チャイコフスキー作曲ヴァイオリン協奏曲ニ長調
5位:メンデルスゾーン作曲ヴァイオリン協奏曲ホ短調
5位:ブルッフ作曲ヴァイオリン協奏曲第1番ト短調

テクニカルな見地からいうとシベコンが最も難しい。個人的な感覚では、シベコンの難しさを100とすると、パガニーニとブラームスは90、チャイコフスキーは50、メンデルスゾーンとブルッフはせいぜい15といったところだろうか。 ・・・ と、まるで全ての曲が弾けるような口ぶりであるが、私自身は全くヴァイオリンを弾くことはできない。実はこのランキングには元ネタがあって、新交響楽団のヴァイオリニストの前田知加子さんのテキストがベースになっている。( 前田知加子さんのオリジナルテキストは こちら
新交響楽団は東京にあるアマチュア・オーケストラで、2005年10月の演奏会でシベコンを取り上げている。前田さんは本番では第2ヴァイオリンを、リハーサルではソリストの代役としてソロ・パートを担当し、その経緯から、楽曲解説としてこのテキストを同楽団のHPに寄稿したようだ。読めばおわかりいただけると思うが、やはり実際に演奏した人の言葉は重みが違う。「8倍」とか「5倍」とか、表現が具体的で文章に説得力がある。
しかし、ここでひとつの疑問が湧く。シベコンが「ラ・カンパネラ」を上回る超絶技巧曲だとしたら、それを生み出したシベリウスはパガニーニを超える超絶技巧ヴァイオリニストだったのだろうか ・・・ というわけで、上記ランキングの作曲者をヴァイオリンの腕前順に並べ替えると次のようになる。

1位:パガニーニ
2位:シベリウス
3位:ブラームス
選外:チャイコフスキー、メンデルスゾーン(ブルッフについては資料がないので割愛)

やはりヴァイオリンの鬼神といわれるパガニーニは別格である。しかしシベリウスもまた優れたヴァイオリン奏者だった。彼は作曲家を志す前はヴァイオリニストを目指していて、ウィーン・フィルのオーディションを受けたこともある。しかし、あがり症で人前で実力を発揮することができなかったため、演奏家への道を断念せざるを得なかった。ちなみに3位のブラームスも、そこそこヴァイオリンは弾けた。でもヴァイオリンよりピアノの演奏のほうが得意だった。選外の二人は鍵盤楽器が専門で、ヴァイオリンにはあまり詳しくなかった。
ヴァイオリンをろくに弾けない作曲家が、ヴァイオリンの超絶技巧曲を書くことができるのか、と疑問に思う人もいるかもしれない。しかしロマン派の作曲家に不可能はない。彼らの表現欲求はどんな困難をも乗り越えていく。作曲家に足りない知識や技術はその友人が補った。メンデルスゾーンはダーヴィト、チャイコフスキーはコチェークと、それぞれが腕利きのヴァイオリニストを技術アドバイザーに迎えて曲を完成させている。そこそこヴァイオリンが弾けたブラームスも、作曲の過程で友人のヨアヒムに助言を求めている。今で言うところのコラボレーション作業である。ヴァイオリンをろくに弾けない作曲家が、ある日突然ヴァイオリン協奏曲を書こうと思い立ち、自分に欠ける知識と技術を友人からパクってでも超絶技巧曲を世に送り出そうと試みる。このあたりに、当時の音楽界を席巻したヴィルトゥオーソ熱の高さが感じられる。

話をシベリウスに戻そう。彼はシベコンを独力で書き上げた。パガニーニには度胸で及ばないものの、シベリウスも自分のイマジネーションをそのままヴァイオリンのパフォーマンスに置換できるくらいの腕前を持っていた。彼は誰の力も借りずにこの曲を書いた。シベコンで繰り広げられるのは純度100パーセントのシベリウス・ワールドである。そこには先輩たちの作品に見られるような時代の熱に侵された高揚感はない。この曲で聴衆が最初に目に(耳に)するのは、素っ気ないくらい平熱の世界だ。たぶんこの曲が20世紀に入ってから書かれたせいだろう。1904年の世界ではヴィルトゥオーソ・ブームは既に過ぎ去っていた。シベリウスはヴィルトゥオーソ・ブームから時間的にも精神的にも遠く離れた場所でこの曲を書いた。19世紀との隔たりは、彼の技巧に対するスタンスにも色濃く現れている。これだけ技術的に難しい曲でありながら、シベコンには「どうだ、すごいだろう。」と聴き手を煽るようなニュアンスは微塵もない。あるのは徹底した自己探求のみである。技巧はアクロバットの披歴のためではなく、エゴの発露のためでもなく、ただ、より深く曲の世界に入っていくための契機として機能している。それらはシベリウスによってひとつひとつ念入りに検証された上で配置され、そのすべてが曲中の心象風景と分かちがたく結びついている。ひとたびイメージが共振すれば、聴き手の意識はすぐにシベリウスの意識につながることができる。この内省的なアプローチは、パガニーニおよびパガニーニ・フォロワーが提出するヴァイオリン腕自慢大会的な興奮とは異なる、特別な奥行きをこの曲に与えているように思う。そしてシベコンが提出する「内省された心象風景」は、今を生きる現代人のモードに合っていて、心にうまく引っかかる。近年この曲の演奏の機会が増えた理由はそのへんにあるんじゃないかと思う。

と、この程度ならもっともらしい文章がいくらでも書ける。でも、ここから先が問題なのだ。私の場合は。もし、ここまでのテキストを読んだ人のうちの誰かに「じゃあ、具体的にどの部分の、どの技巧が、どんな心象風景とつながっているの?」と尋ねられたとしても、私はすぐには答えられない。たとえば、前述の前田さんなら、重音の左指の動きの難しさをツイスターゲームに例えてわかりやすく説明できる。でも、私には前田さんのように具体的な、一歩踏み込んだ臨場感のある説明はできない。
だって、弾けないもん、ヴァイオリン。
弾けないどころか、楽器に触ったことすらない。
技巧については言うに及ばず、である。
前田さんが取り上げた重音にしたって、私の中では「高音と低音がハモっている奏法」くらいの認識しかない。よくそれでシベコン広報部長を名乗れますね、と前田さんは驚いてあきれるかもしれない。まあ、それはないとしても、引け目は常に自分の中にある。
私ごときでは本当の意味でシベコンを理解することはできないのではないか、
やはりヴァイオリン演奏に精通する人の理解の深さは及ばないのではないか、
所詮何を書いても前田さんほどの説得力は持ち得ないのではないか ・・・・。

しかし、この日の第2楽章を聴いて状況は一変した。
ここにも重音が登場する(キョンファ盤でいうと03:49のあたり)。転調と同時に暴れ出したオケが静まって、ソロ・ヴァイオリンが悲しげなアリアを歌うところだ。

ここで一艇のヴァイオリンから二つの音が聴こえてくる。
フロントで旋律を弾いているのは神尾さんひとりで
オケのヴァイオリン・パートは後ろに回っている。
でも、どういうわけか、聴こえてくる音が二つある。
重音。ダブルストップ。私はヴァイオリンを弾けないけど、そういう奏法があることくらいは知っていた。キョンファ盤CDを聴きながら、この部分は重音で弾いているんだろうな、と
ぼんやりと想像していた。
しかし
実際に弾いている様子は
私の想像を超えた、マジックのようなものだった。
私の席からは神尾さんの手元がよく見える。
でもいくら目を凝らしてみても
どうしてひとつの楽器から二つの音が同時に鳴るのか
不思議でならない。
もうひとつ気付いたことがある。私の認識では、「重音」=「高音と低音がハモっている」という程度だったが、それは間違いだった。
現場の状況はもっと複雑精緻で、
二声が同時にハモるのではなく、
高音のメロディと低音のメロディのそれぞれが意志を持ったように別々に動くのだ。
まるで手品だ、と私は思った。
100年前にシベリウスが仕掛けたトリックを
神尾さんは鮮やかな手さばきで次々に再生していく。

このプレイには特別な意味がある。
私はふとそう思った。
高音と低音。光と影。
このヴァイオリンは葛藤する二つの心だ。
そう思った瞬間、この曲の全てがいっぺんに理解できた。
まるで作曲をするシベリウスの傍らに立ってその頭の中を覗いたみたいに、
一瞬のうちに、一から十まで理解できたのだ。
これなら一歩どころか、十歩も二十歩も踏み込んだリアルな文章が書ける。

というわけで、前置きが長くなってしまったが、
神尾真由子ファンのみなさん、お待たせしました。
次回は記憶のVTRを巻き戻して第2楽章のスタート地点まで遡り、時系列に沿って演奏を再現しながら、私の中で起こった変化を検証してみる。もちろん、今までよりヴァージョン・アップした文章で。フフ。

でも、その前にウォーミングアップを兼ねて初歩的なインフォメーションをひとつ。
シベコンの第2楽章の内容を簡単に表すと

00:01~00:39
プロローグ
00:40~03:12
Aメロ(長調)の1回目
03:13~04:44
Bメロ(短調)
04:45~05:35
Aメロ(長調)の2回目
05:36~06:31
Aメロ(長調)の3回目(クライマックス)
06:32~08:08
エピローグ

となる(時間はキョンファ盤による)。ごらんのように、
この楽章はAメロの循環をベースにしてBメロが挿入される三部形式である。加えて、
Aメロの循環は一周を終えるごとにより高い始点に到達するらせん構造になっている。
( 第13回へ続く )

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この演奏会のもようは下記の予定で放送されます。
7月16日(金)午後11時~午前1時15分 教育テレビ「芸術劇場」←明日です!


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