シベリウス作曲ヴァイオリン協奏曲二短調。
ウィキペディアによると、この曲の冒頭のテーマは2分の2拍子、続くサブテーマは4分の6拍子で書かれているらしい。しかし神尾さんの弾き始めは、拍子も自由、テンポも自由、指揮にもオケにも縛られない、というカデンツァ状態だった。指揮者のビェロフラーヴェク( 以下、ビェロ様 )のことは意識せず、ただ自分の中に湧きあがってくる旋律を、心の赴くままに奏でているように見えた。そりゃそうだ。マイペースでなかったら、こんな長いテーマ、最後まで弾き切れるわけがない・・・ と、これは私もキョンファ盤のCDで予測していた。シベリウスは第1楽章の冒頭部分について、「極寒の澄み切った空を、悠然と滑空する鷲のように」と述べている。鷲は空を飛ぶときに2分の2拍子とか4分の6拍子なんていうルールにはとらわれないのだ。
とはいえ、この曲は無伴奏曲ではなく協奏曲である。チャイコンみたいに模範的とはいえないが、この曲にもいちおう伴奏がある。テーマは鷲のように自由に滑空する。でもどんなに空高く飛んでも、最終的にオケの和音から切り離されることはない。曲自体はあくまで団体行動で動いていく。そこには「自由」と「協調」という二律背反のベクトルがあるのだが、それをうまくすり合わせてまとめていくのが、リーダーのビェロ様の役目である。彼はまず、自由に滑空するテーマをつかまえて、2分の2拍子の枠に入れなければならない。テーマを伴奏に乗せるためには、やはり拍子というルールが不可欠なのだ。というわけで、ビェロ様に目を転じると、なるほど、彼はちゃんと2拍子で棒を振っている。でもそれはふだん目にする指揮とはちょっと異なる行為に見えた。
ビェロ様はオケに向かって立ち、神尾さんは客席に向かって立っているので舞台上の二人はちょうど背中合わせの格好である。でもビェロ様は正面ではなく、絶えず斜め後ろの神尾さんに視線を向けている。そして、神尾さんのヴァイオリンがテーマを奏でると、「ほいきた!」とばかりに、それをタクトで2拍子に分割していく。
そうか、これならカデンツァ状態でも拍子がとれるのか
私は思わず膝を打った。(もちろん、心の中で。)
つまり、順序が逆なのだ。
指揮者が拍子を刻み、それに沿ってテーマが生成されるのではなく、
まずテーマが生まれ、指揮者がそれを即座に拍子へと分解していく。
でもこれって難しそう。
音が鳴ってから棒を振っても遅いのだ。指揮者は常にソリストの先を読み、予測を立てた上で棒を振らなければならない。ビェロ様は神尾さんの一挙手一投足に全神経を集中していた。たぶん、弓の上げ下げとか、圧力のかけ方とか、間合いとか呼吸とか表情とか、ありとあらゆるデータをかき集めて変化を読み、次に来る展開を予測するのだろう。そのためには、目や耳のみならず五感を総動員する必要がある。
同じような光景を、前にも見たことがある。
2009年ヴァン・クライバーン・コンクールで優勝した辻井伸之さんのドキュメンタリーだ。
コンクールのセミファイナルで、辻井さんはタカーチ四重奏団とシューマンのピアノ五重奏曲を演奏する。リハーサルで、リーダーの男性は「曲をスタートする時に、どんな合図を送ればいいのか。」と辻井さんに質問する。普段はメンバーがアイコンタクトで曲を弾き始めるのだが、辻井さんは全盲だから、アイコンタクトに代わる合図が必要になる。リーダーはそう考えて、まずそこを確認しようとしたのだ。それに対し辻井さんはこう答える。
「普段のままでいい。演奏前にメンバーが一斉に息を吸うのが聴こえるから、その音が合図になる。」本番はその言葉どおり奏者五人の出だしがぴたりと合って、辻井さんはファイナリストに勝ち残り、決勝も同じ要領で演奏して勝利を手に入れる。
この人は聴覚だけではなく、野生のカンみたいなものを駆使して演奏しているんだな、と私はそれを見て思ったものだが、この日のビェロ様も、辻井さんがタカーチ四重奏団に向けて発していたのと同様の、動物的緊張を漂わせていた。
この緊張をオケが感じないはずがない。
この曲の第1主題から第2主題までの伴奏はかなり変則的で、各パートの出番がモザイクのように断片的にちりばめられている。たいていの奏者は、演奏時間よりも休符を数えて出番を待っている時間のほうが長い。拍子が取りにくい上にテーマに抑揚がつくので、休符を数えて入りのタイミングをつかまえるのは至難の業だと思うのだが、ビェロ様の姿に野生の本能が刺激されたのか、みなさんどう猛にテーマに喰らいついてくる。一度タイミングを逃したら二度と挽回のチャンスはなく、その奏者は永遠に曲に入れないまま奈落の底へ落ちていく、というこの難所を、一人の落後者もなく、無事に切り抜けていた。(・・・と私は思ったのだが、この件については、ある人が異論を唱えていたようだ。詳細は後日。)
第3主題が静まると、オケはとたんに緊張が解けてやれやれという感じで、それにつられて私も一瞬気が抜けてしまったが、神尾さんはここからカデンツァに入る。
冒頭のオクターブで音を引っ張りすぎたのか、その後音程のコントロールを失いかけたので「あ~、ここから崩れるかな?」と、ハラハラするが、神尾さんは落ち着いて立て直した。ふぅ、あぶない。でもヒヤリとしたのはここだけだった。といっても、その後の演奏が完璧だったとは言い難い。まだ立ち上がりのせいなのか、高音が伸び切らず、音程を外す場面は何度かあった。その度に「がんばれっ!」と拳を握りしめて声援を送る私。(もちろん、心の中で) ・・・なんだかバンクーバー五輪の浅田真央の演技を見ているようで、とっても疲れるのだが、不思議なことに、神尾さんは毎回いつのまにかバランスを調整して体勢を立て直してしまう。
なんだろう、この柔軟さは?
その秘密は中低音にあった。
神尾さんの奏でる中低音は、つやつや、もちもちでハリがあり、分厚くてしなやか。
まるで、茹でたての讃岐うどん。
この弾力のある中低音が、ウィスパー並みの吸収力で、高音のゆがみやひずみを飲み込んで帳消しにしてしまうのだ。中低音の基盤を信頼しているから、ミスがあっても動じない。心理的なダメージを引きずることなく、すっきりと次にいく。そこには楽器の力ももちろん働いているだろう。神尾さんの使用楽器は1727年製ストラディヴァリウス。楽器がすごいのは織り込み済みだ。でもこの柔軟な調整力の源は神尾さんの中にある。それは間違いなく彼女のオリジナルな力だ。彼女は名器に負けないパワーを秘めている。恐るべし、讃岐うどん。
カデンツァの後で三つの主題が再現され、終盤からは急降下。
テンポを加速してコーダへ突入。
ツボを押さえた演奏、とでも言えばいいのだろうか。神尾さんは、曲の節目を必ずオケと揃えてくる。コーダは難所中の難所で、ソロ・パートには浅田真央のフリープログラム並みに要素が詰まっている。ここではソリストが細部まで丁寧に弾こうとするあまり、リズムに乗り遅れて伴奏の足を引っ張る、という事態が時として起こる。庄司さんがそうだった。でも神尾さんはオケとの縦の線が乱れない。それどころか、その表情には、オケが追い付くのを待っている余裕すら。
ひょっとして、途中で弾き飛ばしている箇所があるんじゃないかしら??
タイミングが合いすぎる、と言ったら変だが、あまりにも着地がきれいに決まるので、ついそんなふうに疑ってしまう。でも神尾さんの演奏に欠けている部分は見当たらない。その音は耳に馴染んだキョンファ盤のCDと同じように聴こえる。あるいはそこにある欠損は、私の耳では聴き取れないのかもしれない。フィギュア・スケートみたいにVTRで確認すれば、どこかに回転不足があって、減点の対象になるのかもしれない。でも私はジャッジじゃないから細かいところはわからないし、たとえミスがあっても神尾さんはかまわず前へ行くだろう。彼女にとってはエレメンツの完成度よりも、曲の流れが途切れないことや、曲に勢いを持たせることのほうが大切なのだ。
その意志は聴衆にしっかりと伝わっていた。
着地がひとつ決まると「よし!」という感じで聴衆がOKサインを出す。
そのサインは演奏者にすぐに跳ね返り、演奏者はさらに見事な着地を披露して
聴衆にもっと大きなOKサインを要求する。
両者のエネルギーが循環しながら大きくなっていくのが目に見えるようだった。
最後はステファン・ランビエールばりの高速スピンの後、ホップ・ステップ・ジャンプという感じで、内側に力をため込んでから、思い切ってドン!と飛び降りるのだが、神尾さんとオケの着地は最後まで乱れなかった。(・・・ って、フィギュアじゃねっつの。)
第1楽章終了後、1階席の真ん中あたりからパラパラと拍手が起こった。これは一般的にはタブーとされる行為である。楽章の間に拍手するなんて失笑もの、とばかりに黙殺されたが、実を言うと、私もここで拍手したい気持ちでいっぱいだった。
シベコンの第1楽章を、これだけの密度で破綻なく弾き切るなんて、もう、それだけで、
あっぱれである!快挙である!
この第1楽章だけで1万2千円の価値がある!
拍手で称えてしかるべきである!
でも私はそれを思いとどまった。まだ後半がある。ここで拍手を入れることは
演奏者の集中を妨げてしまうかもしれない。
第2楽章に入る前に、神尾さんとビェロ様は長いインターバルを取った。
呼吸を整え、調弦し、立ち位置を確認する。
照明の中に浮かび上がる二人は、どちらも引き締まった表情で、まるで後半の反撃に向けてコンディションを整えるハーフタイムのサッカー選手と監督みたいに見えた。
ここまでの演奏に、彼ら自身も手応えを感じているようだ。
私も暗がりの中でジャケットを脱いで後半に備えた。
開演前は空調が寒いくらいだったのに、第1楽章で興奮したせいか、
気がつくと、両脇がじっとりと汗ばんでいた。 ( 第12回へ続く )
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ウィキペディアによると、この曲の冒頭のテーマは2分の2拍子、続くサブテーマは4分の6拍子で書かれているらしい。しかし神尾さんの弾き始めは、拍子も自由、テンポも自由、指揮にもオケにも縛られない、というカデンツァ状態だった。指揮者のビェロフラーヴェク( 以下、ビェロ様 )のことは意識せず、ただ自分の中に湧きあがってくる旋律を、心の赴くままに奏でているように見えた。そりゃそうだ。マイペースでなかったら、こんな長いテーマ、最後まで弾き切れるわけがない・・・ と、これは私もキョンファ盤のCDで予測していた。シベリウスは第1楽章の冒頭部分について、「極寒の澄み切った空を、悠然と滑空する鷲のように」と述べている。鷲は空を飛ぶときに2分の2拍子とか4分の6拍子なんていうルールにはとらわれないのだ。
とはいえ、この曲は無伴奏曲ではなく協奏曲である。チャイコンみたいに模範的とはいえないが、この曲にもいちおう伴奏がある。テーマは鷲のように自由に滑空する。でもどんなに空高く飛んでも、最終的にオケの和音から切り離されることはない。曲自体はあくまで団体行動で動いていく。そこには「自由」と「協調」という二律背反のベクトルがあるのだが、それをうまくすり合わせてまとめていくのが、リーダーのビェロ様の役目である。彼はまず、自由に滑空するテーマをつかまえて、2分の2拍子の枠に入れなければならない。テーマを伴奏に乗せるためには、やはり拍子というルールが不可欠なのだ。というわけで、ビェロ様に目を転じると、なるほど、彼はちゃんと2拍子で棒を振っている。でもそれはふだん目にする指揮とはちょっと異なる行為に見えた。
ビェロ様はオケに向かって立ち、神尾さんは客席に向かって立っているので舞台上の二人はちょうど背中合わせの格好である。でもビェロ様は正面ではなく、絶えず斜め後ろの神尾さんに視線を向けている。そして、神尾さんのヴァイオリンがテーマを奏でると、「ほいきた!」とばかりに、それをタクトで2拍子に分割していく。
そうか、これならカデンツァ状態でも拍子がとれるのか
私は思わず膝を打った。(もちろん、心の中で。)
つまり、順序が逆なのだ。
指揮者が拍子を刻み、それに沿ってテーマが生成されるのではなく、
まずテーマが生まれ、指揮者がそれを即座に拍子へと分解していく。
でもこれって難しそう。
音が鳴ってから棒を振っても遅いのだ。指揮者は常にソリストの先を読み、予測を立てた上で棒を振らなければならない。ビェロ様は神尾さんの一挙手一投足に全神経を集中していた。たぶん、弓の上げ下げとか、圧力のかけ方とか、間合いとか呼吸とか表情とか、ありとあらゆるデータをかき集めて変化を読み、次に来る展開を予測するのだろう。そのためには、目や耳のみならず五感を総動員する必要がある。
同じような光景を、前にも見たことがある。
2009年ヴァン・クライバーン・コンクールで優勝した辻井伸之さんのドキュメンタリーだ。
コンクールのセミファイナルで、辻井さんはタカーチ四重奏団とシューマンのピアノ五重奏曲を演奏する。リハーサルで、リーダーの男性は「曲をスタートする時に、どんな合図を送ればいいのか。」と辻井さんに質問する。普段はメンバーがアイコンタクトで曲を弾き始めるのだが、辻井さんは全盲だから、アイコンタクトに代わる合図が必要になる。リーダーはそう考えて、まずそこを確認しようとしたのだ。それに対し辻井さんはこう答える。
「普段のままでいい。演奏前にメンバーが一斉に息を吸うのが聴こえるから、その音が合図になる。」本番はその言葉どおり奏者五人の出だしがぴたりと合って、辻井さんはファイナリストに勝ち残り、決勝も同じ要領で演奏して勝利を手に入れる。
この人は聴覚だけではなく、野生のカンみたいなものを駆使して演奏しているんだな、と私はそれを見て思ったものだが、この日のビェロ様も、辻井さんがタカーチ四重奏団に向けて発していたのと同様の、動物的緊張を漂わせていた。
この緊張をオケが感じないはずがない。
この曲の第1主題から第2主題までの伴奏はかなり変則的で、各パートの出番がモザイクのように断片的にちりばめられている。たいていの奏者は、演奏時間よりも休符を数えて出番を待っている時間のほうが長い。拍子が取りにくい上にテーマに抑揚がつくので、休符を数えて入りのタイミングをつかまえるのは至難の業だと思うのだが、ビェロ様の姿に野生の本能が刺激されたのか、みなさんどう猛にテーマに喰らいついてくる。一度タイミングを逃したら二度と挽回のチャンスはなく、その奏者は永遠に曲に入れないまま奈落の底へ落ちていく、というこの難所を、一人の落後者もなく、無事に切り抜けていた。(・・・と私は思ったのだが、この件については、ある人が異論を唱えていたようだ。詳細は後日。)
第3主題が静まると、オケはとたんに緊張が解けてやれやれという感じで、それにつられて私も一瞬気が抜けてしまったが、神尾さんはここからカデンツァに入る。
冒頭のオクターブで音を引っ張りすぎたのか、その後音程のコントロールを失いかけたので「あ~、ここから崩れるかな?」と、ハラハラするが、神尾さんは落ち着いて立て直した。ふぅ、あぶない。でもヒヤリとしたのはここだけだった。といっても、その後の演奏が完璧だったとは言い難い。まだ立ち上がりのせいなのか、高音が伸び切らず、音程を外す場面は何度かあった。その度に「がんばれっ!」と拳を握りしめて声援を送る私。(もちろん、心の中で) ・・・なんだかバンクーバー五輪の浅田真央の演技を見ているようで、とっても疲れるのだが、不思議なことに、神尾さんは毎回いつのまにかバランスを調整して体勢を立て直してしまう。
なんだろう、この柔軟さは?
その秘密は中低音にあった。
神尾さんの奏でる中低音は、つやつや、もちもちでハリがあり、分厚くてしなやか。
まるで、茹でたての讃岐うどん。
この弾力のある中低音が、ウィスパー並みの吸収力で、高音のゆがみやひずみを飲み込んで帳消しにしてしまうのだ。中低音の基盤を信頼しているから、ミスがあっても動じない。心理的なダメージを引きずることなく、すっきりと次にいく。そこには楽器の力ももちろん働いているだろう。神尾さんの使用楽器は1727年製ストラディヴァリウス。楽器がすごいのは織り込み済みだ。でもこの柔軟な調整力の源は神尾さんの中にある。それは間違いなく彼女のオリジナルな力だ。彼女は名器に負けないパワーを秘めている。恐るべし、讃岐うどん。
カデンツァの後で三つの主題が再現され、終盤からは急降下。
テンポを加速してコーダへ突入。
ツボを押さえた演奏、とでも言えばいいのだろうか。神尾さんは、曲の節目を必ずオケと揃えてくる。コーダは難所中の難所で、ソロ・パートには浅田真央のフリープログラム並みに要素が詰まっている。ここではソリストが細部まで丁寧に弾こうとするあまり、リズムに乗り遅れて伴奏の足を引っ張る、という事態が時として起こる。庄司さんがそうだった。でも神尾さんはオケとの縦の線が乱れない。それどころか、その表情には、オケが追い付くのを待っている余裕すら。
ひょっとして、途中で弾き飛ばしている箇所があるんじゃないかしら??
タイミングが合いすぎる、と言ったら変だが、あまりにも着地がきれいに決まるので、ついそんなふうに疑ってしまう。でも神尾さんの演奏に欠けている部分は見当たらない。その音は耳に馴染んだキョンファ盤のCDと同じように聴こえる。あるいはそこにある欠損は、私の耳では聴き取れないのかもしれない。フィギュア・スケートみたいにVTRで確認すれば、どこかに回転不足があって、減点の対象になるのかもしれない。でも私はジャッジじゃないから細かいところはわからないし、たとえミスがあっても神尾さんはかまわず前へ行くだろう。彼女にとってはエレメンツの完成度よりも、曲の流れが途切れないことや、曲に勢いを持たせることのほうが大切なのだ。
その意志は聴衆にしっかりと伝わっていた。
着地がひとつ決まると「よし!」という感じで聴衆がOKサインを出す。
そのサインは演奏者にすぐに跳ね返り、演奏者はさらに見事な着地を披露して
聴衆にもっと大きなOKサインを要求する。
両者のエネルギーが循環しながら大きくなっていくのが目に見えるようだった。
最後はステファン・ランビエールばりの高速スピンの後、ホップ・ステップ・ジャンプという感じで、内側に力をため込んでから、思い切ってドン!と飛び降りるのだが、神尾さんとオケの着地は最後まで乱れなかった。(・・・ って、フィギュアじゃねっつの。)
第1楽章終了後、1階席の真ん中あたりからパラパラと拍手が起こった。これは一般的にはタブーとされる行為である。楽章の間に拍手するなんて失笑もの、とばかりに黙殺されたが、実を言うと、私もここで拍手したい気持ちでいっぱいだった。
シベコンの第1楽章を、これだけの密度で破綻なく弾き切るなんて、もう、それだけで、
あっぱれである!快挙である!
この第1楽章だけで1万2千円の価値がある!
拍手で称えてしかるべきである!
でも私はそれを思いとどまった。まだ後半がある。ここで拍手を入れることは
演奏者の集中を妨げてしまうかもしれない。
第2楽章に入る前に、神尾さんとビェロ様は長いインターバルを取った。
呼吸を整え、調弦し、立ち位置を確認する。
照明の中に浮かび上がる二人は、どちらも引き締まった表情で、まるで後半の反撃に向けてコンディションを整えるハーフタイムのサッカー選手と監督みたいに見えた。
ここまでの演奏に、彼ら自身も手応えを感じているようだ。
私も暗がりの中でジャケットを脱いで後半に備えた。
開演前は空調が寒いくらいだったのに、第1楽章で興奮したせいか、
気がつくと、両脇がじっとりと汗ばんでいた。 ( 第12回へ続く )
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