ガンバレ よし子さん

手作りせんきょ日記

シベコン by 神尾真由子(2)

2010年05月25日 | シベリウス バイオリン協奏曲
シベリウス作曲ヴァイオリン協奏曲二短調。

ウィキペディアによると、この曲の冒頭のテーマは2分の2拍子、続くサブテーマは4分の6拍子で書かれているらしい。しかし神尾さんの弾き始めは、拍子も自由、テンポも自由、指揮にもオケにも縛られない、というカデンツァ状態だった。指揮者のビェロフラーヴェク( 以下、ビェロ様 )のことは意識せず、ただ自分の中に湧きあがってくる旋律を、心の赴くままに奏でているように見えた。そりゃそうだ。マイペースでなかったら、こんな長いテーマ、最後まで弾き切れるわけがない・・・ と、これは私もキョンファ盤のCDで予測していた。シベリウスは第1楽章の冒頭部分について、「極寒の澄み切った空を、悠然と滑空する鷲のように」と述べている。鷲は空を飛ぶときに2分の2拍子とか4分の6拍子なんていうルールにはとらわれないのだ。

とはいえ、この曲は無伴奏曲ではなく協奏曲である。チャイコンみたいに模範的とはいえないが、この曲にもいちおう伴奏がある。テーマは鷲のように自由に滑空する。でもどんなに空高く飛んでも、最終的にオケの和音から切り離されることはない。曲自体はあくまで団体行動で動いていく。そこには「自由」と「協調」という二律背反のベクトルがあるのだが、それをうまくすり合わせてまとめていくのが、リーダーのビェロ様の役目である。彼はまず、自由に滑空するテーマをつかまえて、2分の2拍子の枠に入れなければならない。テーマを伴奏に乗せるためには、やはり拍子というルールが不可欠なのだ。というわけで、ビェロ様に目を転じると、なるほど、彼はちゃんと2拍子で棒を振っている。でもそれはふだん目にする指揮とはちょっと異なる行為に見えた。

ビェロ様はオケに向かって立ち、神尾さんは客席に向かって立っているので舞台上の二人はちょうど背中合わせの格好である。でもビェロ様は正面ではなく、絶えず斜め後ろの神尾さんに視線を向けている。そして、神尾さんのヴァイオリンがテーマを奏でると、「ほいきた!」とばかりに、それをタクトで2拍子に分割していく。
そうか、これならカデンツァ状態でも拍子がとれるのか
私は思わず膝を打った。(もちろん、心の中で。)
つまり、順序が逆なのだ。
指揮者が拍子を刻み、それに沿ってテーマが生成されるのではなく、
まずテーマが生まれ、指揮者がそれを即座に拍子へと分解していく。

でもこれって難しそう。
音が鳴ってから棒を振っても遅いのだ。指揮者は常にソリストの先を読み、予測を立てた上で棒を振らなければならない。ビェロ様は神尾さんの一挙手一投足に全神経を集中していた。たぶん、弓の上げ下げとか、圧力のかけ方とか、間合いとか呼吸とか表情とか、ありとあらゆるデータをかき集めて変化を読み、次に来る展開を予測するのだろう。そのためには、目や耳のみならず五感を総動員する必要がある。

同じような光景を、前にも見たことがある。
2009年ヴァン・クライバーン・コンクールで優勝した辻井伸之さんのドキュメンタリーだ。
コンクールのセミファイナルで、辻井さんはタカーチ四重奏団とシューマンのピアノ五重奏曲を演奏する。リハーサルで、リーダーの男性は「曲をスタートする時に、どんな合図を送ればいいのか。」と辻井さんに質問する。普段はメンバーがアイコンタクトで曲を弾き始めるのだが、辻井さんは全盲だから、アイコンタクトに代わる合図が必要になる。リーダーはそう考えて、まずそこを確認しようとしたのだ。それに対し辻井さんはこう答える。
「普段のままでいい。演奏前にメンバーが一斉に息を吸うのが聴こえるから、その音が合図になる。」本番はその言葉どおり奏者五人の出だしがぴたりと合って、辻井さんはファイナリストに勝ち残り、決勝も同じ要領で演奏して勝利を手に入れる。

この人は聴覚だけではなく、野生のカンみたいなものを駆使して演奏しているんだな、と私はそれを見て思ったものだが、この日のビェロ様も、辻井さんがタカーチ四重奏団に向けて発していたのと同様の、動物的緊張を漂わせていた。

この緊張をオケが感じないはずがない。
この曲の第1主題から第2主題までの伴奏はかなり変則的で、各パートの出番がモザイクのように断片的にちりばめられている。たいていの奏者は、演奏時間よりも休符を数えて出番を待っている時間のほうが長い。拍子が取りにくい上にテーマに抑揚がつくので、休符を数えて入りのタイミングをつかまえるのは至難の業だと思うのだが、ビェロ様の姿に野生の本能が刺激されたのか、みなさんどう猛にテーマに喰らいついてくる。一度タイミングを逃したら二度と挽回のチャンスはなく、その奏者は永遠に曲に入れないまま奈落の底へ落ちていく、というこの難所を、一人の落後者もなく、無事に切り抜けていた。(・・・と私は思ったのだが、この件については、ある人が異論を唱えていたようだ。詳細は後日。)

第3主題が静まると、オケはとたんに緊張が解けてやれやれという感じで、それにつられて私も一瞬気が抜けてしまったが、神尾さんはここからカデンツァに入る。

冒頭のオクターブで音を引っ張りすぎたのか、その後音程のコントロールを失いかけたので「あ~、ここから崩れるかな?」と、ハラハラするが、神尾さんは落ち着いて立て直した。ふぅ、あぶない。でもヒヤリとしたのはここだけだった。といっても、その後の演奏が完璧だったとは言い難い。まだ立ち上がりのせいなのか、高音が伸び切らず、音程を外す場面は何度かあった。その度に「がんばれっ!」と拳を握りしめて声援を送る私。(もちろん、心の中で) ・・・なんだかバンクーバー五輪の浅田真央の演技を見ているようで、とっても疲れるのだが、不思議なことに、神尾さんは毎回いつのまにかバランスを調整して体勢を立て直してしまう。

なんだろう、この柔軟さは?

その秘密は中低音にあった。
神尾さんの奏でる中低音は、つやつや、もちもちでハリがあり、分厚くてしなやか。
まるで、茹でたての讃岐うどん。
この弾力のある中低音が、ウィスパー並みの吸収力で、高音のゆがみやひずみを飲み込んで帳消しにしてしまうのだ。中低音の基盤を信頼しているから、ミスがあっても動じない。心理的なダメージを引きずることなく、すっきりと次にいく。そこには楽器の力ももちろん働いているだろう。神尾さんの使用楽器は1727年製ストラディヴァリウス。楽器がすごいのは織り込み済みだ。でもこの柔軟な調整力の源は神尾さんの中にある。それは間違いなく彼女のオリジナルな力だ。彼女は名器に負けないパワーを秘めている。恐るべし、讃岐うどん。

カデンツァの後で三つの主題が再現され、終盤からは急降下。
テンポを加速してコーダへ突入。
ツボを押さえた演奏、とでも言えばいいのだろうか。神尾さんは、曲の節目を必ずオケと揃えてくる。コーダは難所中の難所で、ソロ・パートには浅田真央のフリープログラム並みに要素が詰まっている。ここではソリストが細部まで丁寧に弾こうとするあまり、リズムに乗り遅れて伴奏の足を引っ張る、という事態が時として起こる。庄司さんがそうだった。でも神尾さんはオケとの縦の線が乱れない。それどころか、その表情には、オケが追い付くのを待っている余裕すら。
ひょっとして、途中で弾き飛ばしている箇所があるんじゃないかしら??
タイミングが合いすぎる、と言ったら変だが、あまりにも着地がきれいに決まるので、ついそんなふうに疑ってしまう。でも神尾さんの演奏に欠けている部分は見当たらない。その音は耳に馴染んだキョンファ盤のCDと同じように聴こえる。あるいはそこにある欠損は、私の耳では聴き取れないのかもしれない。フィギュア・スケートみたいにVTRで確認すれば、どこかに回転不足があって、減点の対象になるのかもしれない。でも私はジャッジじゃないから細かいところはわからないし、たとえミスがあっても神尾さんはかまわず前へ行くだろう。彼女にとってはエレメンツの完成度よりも、曲の流れが途切れないことや、曲に勢いを持たせることのほうが大切なのだ。

その意志は聴衆にしっかりと伝わっていた。
着地がひとつ決まると「よし!」という感じで聴衆がOKサインを出す。
そのサインは演奏者にすぐに跳ね返り、演奏者はさらに見事な着地を披露して
聴衆にもっと大きなOKサインを要求する。
両者のエネルギーが循環しながら大きくなっていくのが目に見えるようだった。

最後はステファン・ランビエールばりの高速スピンの後、ホップ・ステップ・ジャンプという感じで、内側に力をため込んでから、思い切ってドン!と飛び降りるのだが、神尾さんとオケの着地は最後まで乱れなかった。(・・・ って、フィギュアじゃねっつの。)

第1楽章終了後、1階席の真ん中あたりからパラパラと拍手が起こった。これは一般的にはタブーとされる行為である。楽章の間に拍手するなんて失笑もの、とばかりに黙殺されたが、実を言うと、私もここで拍手したい気持ちでいっぱいだった。
シベコンの第1楽章を、これだけの密度で破綻なく弾き切るなんて、もう、それだけで、
あっぱれである!快挙である!
この第1楽章だけで1万2千円の価値がある!
拍手で称えてしかるべきである!
でも私はそれを思いとどまった。まだ後半がある。ここで拍手を入れることは
演奏者の集中を妨げてしまうかもしれない。

第2楽章に入る前に、神尾さんとビェロ様は長いインターバルを取った。
呼吸を整え、調弦し、立ち位置を確認する。
照明の中に浮かび上がる二人は、どちらも引き締まった表情で、まるで後半の反撃に向けてコンディションを整えるハーフタイムのサッカー選手と監督みたいに見えた。
ここまでの演奏に、彼ら自身も手応えを感じているようだ。
私も暗がりの中でジャケットを脱いで後半に備えた。
開演前は空調が寒いくらいだったのに、第1楽章で興奮したせいか、
気がつくと、両脇がじっとりと汗ばんでいた。  ( 第12回へ続く )


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シベコン by 神尾真由子(1)

2010年05月18日 | シベリウス バイオリン協奏曲
シベリウス作曲ヴァイオリン協奏曲二短調。

先日、この曲の素晴らしい演奏を聴いたので
予定を変更して、その演奏会について書くことにする。
演奏会の詳細は下記のとおり。久々に、タイムリーなエントリだ。

NHK音楽祭 plus
平成22年5月12日(水)
会場:NHKホール

エルガー:序曲「南国で」
シベリウス:ヴァイオリン協奏曲
トボルザーク:交響曲第9番「新世界から」

ヴァイオリン独奏:神尾真由子
指揮:イルジー・ビェロフラーヴェク
BBC交響楽団



イギリスはフィンランド以外で真っ先にシベリウスの音楽を評価した国である。そしてBBC響はイギリスの名門オケである。ゆえに、彼らのシベコンが充実した内容を持つのは間違いない。見事な三段論法である。そして、なんとも豪華な共演である。
シベコン広報部長の私(←?)としては、この共演を聴き逃すわけにはいかない。
それにしても、日本で演奏されるシベコンて、か・な・り、ハイレベル
「ヤルヴィ+庄司さん」 然り、
「BBC響+神尾さん」 然り、年末には
「ロンドン響+諏訪内さん」 という悩殺カードも控えている。
ソリストは世界を股にかけて活躍する日本人ヴァイオリニストばかりで広報部長(←?)もうれしい限りである。海外の音楽事情に詳しくないので断言はできないが、このメンツの充実度は地元フィンランドに勝るとも劣らないのではないだろうか。それだけ日本にこの曲のファンが多いということなんだろう。

ところで、テキスト冒頭に「予定を変更して」と書いたが、私はこのブログを下記の予定に沿って書いている。

1) まずシベコンの魅力を自分なりに噛み砕いてみなさんに紹介する
2) 1)を踏まえた上で、ヤルヴィの伴奏を分析しつつ庄司さんの演奏を総括する
3) 庄司さんにエールを送って締めくくる


当初はこのようなプランが念頭にあった。そして1月にこの演奏会のチケットを取った時点では、5月12日はまだまだ先で、時間はたっぷりあるように思えた。
「4ヵ月もあるんだから 1)から 3)までのテキストは余裕で書き終わるでしょ。
その後で神尾さんのシベコンの感想を、おまけにつければいいや・・・。」
カレンダーに予定を書き込みながら、私はそう思った。
しかし、ものごとはそう簡単には運ばなかった。月日は無情に過ぎ去り、あっという間に5月が到来。テキストはまだ 1)の途中で、なかなか先に進まない。この調子じゃ庄司さんの演奏に辿り着くのはいつになることやら・・・って、どーしよう、来ちゃったよ5月12日。
・・・ ヤバイ、頭の中に保存しておいた「シベコンby庄司紗矢香」のメモリが、新しい演奏で上書きされちゃう ・・・ あれー、おっかしいな、こんなはずじゃなかったんだけど・・・
ま、いいや。とりあえず記憶が鮮明なうちに、「シベコンby神尾真由子」のほうを先に総括してしまおう。

まず、チケット購入にあたり、私の中で絶対に外せない条件があった。
それは、ソリストと指揮者がよく見える席であること。
ふだんは、音が聞こえればいい、音のバランスが良ければステージからの距離にはこだわらない、サントリーホールなら2階のP席、NHKホールなら3階のC席で十分、というのが私のチケット購入時の基本方針である。でも今回はその方針を大きく転換した。
この演奏は、どうしても、1階席のソリストの近くで聴きたかった。
私がこの曲のCDをそれこそ数え切れないほど聴いた、というのは第8回のテキストのとおり。シベコンの第1楽章の冒頭部分の拍子の取りづらさについては第4回のテキストのとおり。冒頭から第3主題の開始まで、めっちゃ拍子の取りにくいこの部分で、ソリストとオケがどうやってタイミングを合わせているのか、CDを聴くたびに大きな謎で、実際の演奏がどんなふうに行われるのか、ぜひともこの目で確認したかったのだ。
( 第8回のテキストは こちら )
( 第4回のテキストは こちら )

とはいえ、S席やSS席は論外というもの。(海外オケのコンサートの一等席ってほんとうに高いのだ。)悩んだ挙句、落ち着いたのは左ブロック通路側の端っこ。A席とはいえ通路をはさんだ右側は中央ブロックなので、座ってみるとSS席とほとんど遜色がなく、この位置ならソリストと指揮者のやりとりがつぶさに見える!という良席である。NHKホールには何度も来てるけど1階席に座るのはこれが初めて。日々つましい生活を送る私にとって精いっぱいの贅沢である(涙)。
ちなみにこの演奏会はひとりで聴いた。いつもはじいや(←夫のこと)が付き添ってくれるので、単独鑑賞は久々である。もちろんこれには訳がある。いつも私たちが座るC席はA席の半額。この日は座席をA席にランクアップしたために、チケットを1枚しか買えなかったのだ。じい、ゴメン。迷いに迷った末の苦渋の選択だったのだ。しっかり留守を守ってくれ。そして10月のアーノンクールと11月のヤルヴィは一緒に聴こう。

・・・ 前置きはこれくらいにして本題に入ろう。
神尾真由子さんは2007年チャイコフスキーコンクールの覇者であり、将来を嘱望される若手ヴァイオリニストである。プログラムを見ると、齢23にして、リンカーンセンターでのリサイタルを筆頭に、華々しい経歴がずらりと並んでいる。使用楽器は1727年製ストラディヴァリウス。写真のお顔は、これが最近のメイクの流行りなのか、アイラインまっくろ&チークばっちりで、ちょっと隈取りを連想させる。
「庄司紗矢香が連獅子なら、神尾真由子は隈取りで登場か?」
一瞬期待で胸が高鳴るが、舞台に現れたご本人は予想に反してナチュラルメイク。そして青田典子似。衣装は、・・・すみません、
田舎の結婚式の披露宴で、新婦が、3回目のお色直しで着るドレスかと ・・・。

う~ん、これはやぼったい。
ブリっ子(←死語?)ドレスを、周りに着せられた という感じ?

でも本人はドレスのことなんか頭になく、(なはっから割り切って着ているんだね。)
既に自分の世界に入っていることが見ていてわかる。

おぬし、できるな。

ここで私もスイッチ・オン。
重心を前に移していっきにファイティング・モードに。

彼女がこれから弾こうとしている曲について私見を述べさせてもらえば、
この曲にはチャイコンのような華やかなイントロはない。
気がつくと、ソロヴァイオリンが静かにテーマを歌い出していた、という始まり方をする。
ソリストが紡ぎだすテーマに同伴者はいない。
他のヴァイオリン協奏曲ならばオケの伴奏がテーマに同伴するところだが
この曲の伴奏は弱音でたよりない上に、
そもそもテーマのサポートを目的として書かれていないふしがある。
拍子も取りにくく、安定したリズムがテーマを支えることもない。

「極寒の澄み切った北の空を、悠然と滑空する鷲のように」

シベリウスは第1楽章の冒頭部分についてこう述べている。
作者はテーマに同伴者を求めることを禁じているようだ。
テーマはそれ自体の力で成長し、羽ばたいていかなければならない。

伴奏や拍子に頼らない、なかばカデンツァ状態でテーマを生成していくのは
フリーハンドで図形を描いていくようなもので
途中で揺れたりぶれたりするのは避けられない。
でもこの曲のテーマは、その揺れを引き受けた上で成り立つように作られているというか、
曲自体がその揺れを駆動力にして前に進んでいくという作りになっている。

当然のことながら、演奏には高い精神性が要求される。
ソリストは自分の霊的なレベルを一段上げて演奏にとりかかる必要がある。

指揮者にしろオケにしろドレスにしろ聴衆しろ
外界のことはいったんすべてシャットアウトして
自分の内面だけに照準を合わせて精神を統一する。
もしくは、
普段とは別の次元にチャンネルを合わせて
意識をシベコン・モードに切り替える。
あるいは、
そこには私の想像の及ばない、神尾さん独自のメソッドがあるのかもしれないが、
とにかくそのような特別なスイッチの切り替え作業が彼女の中で行われ、その感触は
客席にいる私にもありありと伝わってきた。

この人は、なんかやってくれそうだ。

ステージに登場した瞬間からその人の音楽は始まっているというけれど
それって本当だ。
神尾さんはまだ1音も発していない。ただ演奏に向けて静かに集中しているだけだ。
でもその姿はまるで強力な磁石のように聴き手の心を引き付けていく。
( 第11回へ続く )

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なぜシベコンのテーマは覚えられないのか?(2)

2010年05月01日 | シベリウス バイオリン協奏曲
シベリウス作曲ヴァイオリン協奏曲二短調。

私は何回聴いてもこの曲の1主題を覚えることができない。
なぜ覚えられないのか?それはテーマが長いからである。この曲は規格外れに長いテーマを持っている。 ・・・と、ここまでは前回のテキストでおわかりいただけたと思う。
大きなものを小さな枠に押し込もうとした当然の結果として、
シベコンはちょっと耳慣れない音楽になっている。
( 前回のテキストは こちら

そのせいかどうかわからないが、シベコンは、はじめはほとんど理解されなかった。
この曲は1904年に初演されたが、作者自身もその出来栄えに満足せず、さらに1年を費やして曲を大幅に書き直した。しかしその決定稿でさえ聴衆には受けなかった。決定稿はチェコの名ヴァイオリニストをソリストに迎えて演奏され、会場にはソリストの師匠も足を運んだ。師匠はヨーゼフ・ヨアヒムだった。当時最も卓越した音楽家のひとりだったヨアヒムですらこの曲を酷評した。シベリウスがこの曲で提案した音楽は、それまで誰も聴いたことのないものだったから、聴衆はそれに対してどんな反応をすればいいかわからなかったのだ。しかし不評にもかかわらず、シベリウスの音楽はその後もシベコンの路線を推し進めていった。シベコンは彼にとって重要な意味を持つ作品となった。

シベリウスは1890年代の終わりに「フィンランディア」でブレイクし、当時のフィンランドで最もポピュラーな作曲家だった。とはいえ、「フィンランディア」の成功は、作曲家よりも指揮者であるロベルト・カヤヌスの力によるところが大きかったようだ。カヤヌスはドラマティックなスタイルで聴衆を煽る指揮者であり、時流を読む能力に長けた音楽プロデューサーだった。彼はシベリウスの音楽が持つフィンランド的な部分をクローズアップして演奏し、民族独立の気運の高まる国内のマーケットに向けて発信した。彼の狙いは的中し、「フィンランディア」は愛国心を呼び覚ます音楽として聴衆の圧倒的な支持を受けた。その結果シベリウスは独立闘争を象徴する音楽的アイコンに祭り上げられた。しかし当のベリウスのほうは、作曲家として成熟するにつれて、政治的な意図よりも、もっと純粋な内的動機のために音楽を作るようになっていた。

シベコンの中で、彼はその新しい音楽性をより明確に打ち出している。そしてこの曲を境にして、彼の作風はそれまでの国民的音楽スタイルから遠ざかっていった。
シベコンを書くにあたり、彼は常識よりも一段高いハードルを自らに課し、それを乗り越えるために新しい音楽語法を作り出さなければならなかった ・・・というのは前回のテキストのとおりだが、おそらくその作業の過程で彼に何かしら変化が起こったのだろう。
( 前回のテキストは こちら

転向後、シベリウスの創作のエネルギーはもっぱら交響曲に向けられた。
1907年に完成した交響曲第3番において、彼はシベコンで展開した独自の音楽語法をさらに深化させている。しかし評判は芳しくなく、続く交響曲第4番に至っては、スカンジナヴィアに加えてイギリスやアメリカなど、より多くの聴衆の前で演奏されたにもかかわらず、全く受け入れられなかった。その後の交響曲も作曲作業に困難を極め、完成までに長い時間と多くの労力を要した。

彼が選んだ道はきわめて厳しい道だった。
そして彼の音楽の変化はファンをあまり喜ばせなかった。
でも彼は過去のスタイルには二度と戻らなかった。
いったい、彼にどんな変化が起こったのだろう。何が彼を孤独な探究へと
駆り立てたのだろう。

シベリウスの晩年の言葉にそのヒントがある。

交響曲の本質は形式にあると、よく考えられている。
しかし、それは誤りだ。
主たる要素は内容なのであり、形式は二義的なものだ。

音楽自体がその外的形式を定めるのであり、
ソナタ形式がなんらかの永続性をもつためには、それが内部から出てこなければならない。


音楽形式がどのようにつくり上げられるかを考えるときには、

よく雪の結晶のことを考える。


雪は永遠の法則に従って、
もっとも美しい模様をつくり上げるのだ。

シベリウスはここでソナタ形式について語っている。しかし同時に、彼は明らかに楽式のレベルを超えたものについて語っている。ルールとかサイズとか、そんなものとは別の、もっと大きな、もっと普遍的なものについて、彼は語っているのだ。

自然の摂理と同じくらいの普遍性を
彼はソナタ形式の中に見出したのではないだろうか。
あるいは、自然の摂理と同じくらいの普遍性を
彼はソナタ形式に与えようとしたのではないだろうか。

この言葉はシベリウスの決意表明である、と私は思う。自分の資質が厳格なソナタ形式と相容れないという事実に思い至った時、彼は頭を抱えたに違いない。シベコンのテーマは誰がどう見ても無茶に長い。でも彼は決意した。

テーマはこれしかない。そしてサイズは問題じゃない。
音楽それ自体が摂理にかなっていれば、そこにおのずと形式が現れるはずだ。

彼はそう信じたのだ。
その信念があればこそ、これほど長いテーマを与えながらも、シベコンを最後まで書き切ることができたし、その後もテンションを下げることなく、交響曲を生み出し続けることができたのだ。

固有の資質と一般的な形式との妥協のない共生。シベコンはそれを目標に掲げて書かれている、と私は思う。もともとソリの合わない者同士が同居しているから、シベコンにおけるソナタ形式はかなり不格好で不安定である。シベリウスの持ち味である長いテーマ、その自由な拡がりを抑圧しないように、形式はできる限り相対化されている。だからチャイコンみたいに整然とした音楽にはならないし、私は何回聴いても第1主題を覚えられない。ひょっとしたらソナタ形式として不完全なのかもしれない。

でもこの曲には、間違いなく彼の独自のスタイルがある。

シベコンのCDの楽曲解説を見ると、第1楽章は「自由に拡大されたソナタ形式」とか、「きわめて独創的なソナタ形式」とか、「かなり変形されたソナタ形式」といった言葉で説明されている。その言い回しは解説者ごとにまちまちである。楽曲解説には、ほかにも「交響的性格を持つ」とか、「動機的に発展する」とか、国語辞典に載ってない形容詞が満載で、最初のうちは読んでもさっぱり意味がわからなかった。この曲を理解するために解説を読んでいるのに、そこに登場する珍妙な日本語のためにかえって混乱してしまうのだ。

でもそれは解説者のせいではない。それはシベリウス独特の音楽語法のせいである。
シベコンはとても解説者泣かせだ。あまりにもスタイルが異質すぎて、みんなそれをうまく言葉で伝えられないのだ。  ( 第10回へ続く )

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