ガンバレ よし子さん

手作りせんきょ日記

「協奏曲」と「交響曲」

2010年09月26日 | シベリウス バイオリン協奏曲
シベリウス作曲ヴァイオリン協奏曲二短調

この曲を「協奏曲」ではなく、「ヴァイオリン・ソロの付いた交響曲」と仮定する。
「協奏曲」と「交響曲」の一番の違いは、管弦楽部、つまりオケの影響力にある。ふつう「協奏曲」といえば、ほとんどの場合、独奏楽器がメインであり、オケが曲に与える影響はゼロに等しい。しかし「協奏曲」が交響的性格を強め、「交響曲」に近づいていくと、それに比例してオケの影響力も増していく。前者における力関係が「オケ<独奏楽器」であるのに対し、後者では、「オケ=独奏楽器」、さらには「オケ>独奏楽器」となるケースが出てくるのだ。それを踏まえた上で、第3楽章をもう一度聴き直してみよう。

この曲の第3楽章は
A-B-A-B-A´
のロンド形式で、AメロとBメロのふたつの楽想が交互に現れる構成になっている。
これを楽想ごとに5つのブロックに見立てて、メロディを演奏するパートを登場順に
書き加えていくと、次のようになる(時間はキョンファ盤による)。

第1ブロック:Aメロ
00:07 ソロ・ヴァイオリン
第2ブロック:Bメロ
01:19 第1・2ヴァイオリン と チェロのユニゾン
01:58 ソロ・ヴァイオリン
第3ブロック:Aメロ
03:22 トゥッティ
03:35 ソロ・ヴァイオリン
04:31 トゥッティ
第4ブロック:Bメロ
04:44 クラリネットとファゴット
05:21 ソロ・ヴァイオリン
第5ブロック:Aメロを素材にしたコーダ
06:25~ラスト ソロ・ヴァイオリン  オケ が入り乱れる

オケを青色、ソロ・ヴァイオリンを赤色で表示しているのだが、これを見ると、第1ブロックを除いた各ブロックで、最初にメロディを演奏するのは青色のオケであることがわかる。例えば、第2ブロックでは、まずオケのユニゾンが、直近のAメロと異なるBメロを歌って楽想を切り替える。オケはそのままBメロを30秒間歌い続け、ソロ・ヴァイオリンは、オケがBメロを歌い終えた後でようやく登場し、オケからメロディを引き継いで、それを繰り返す。ひとつのブロックの中でソロ・ヴァイオリンの歌が後回しになっているのだ。


ふつうの協奏曲は順序が逆ではないだろうか。お手本となるメロディを、まず独奏楽器が演奏し、それがオケに引き継がれて曲が進行するのではないだろうか。
そう思って、手持ちの他のヴァイオリン協奏曲(→ メンデルスゾーン、ブラームス、チャイコフスキー)の第3楽章も同様にメロディの受け渡しの順番をチェックしてみると、やはりこれらの3曲では、作曲家が磨き上げた自慢のメロディを最初に披露するのはソロ・ヴァイオリンであった(ただ、メンデルスゾーンのBメロについては一瞬首をかしげてしまった。ここは一聴すると、オケのトゥッティがメロディを呈示して楽想を切り替えているように感じる。しかし、よく聴いてみると、オケはBメロの最初の4小節を繰り返しているだけで、威勢よく始まったトゥッティはやがてソロ・ヴァイオリンに乗っ取られ、最終的にBメロを完成へ導くのはソロ・ヴァイオリンである)。

これは当然といえば当然である。第12回のテキストで書いたとおり、ロマン派の時代はヴァイオリンが楽器の花形に躍り出た時代であり、ヴァイオリニストがスターだった。当時のヴィルトゥオーソ達を取り巻く聴衆の熱狂ぶりを読むと、彼らの存在は、私の世代でいうところのマドンナやマイケル・ジャクソン並みの影響力を持っていたようだ。同時に、旧体制の崩壊と市民の台頭という時代の変化の中で、貴族のサロンのBGMだった音楽はビジネスに姿を変え、コンサートはお客さんが集まらなければ成り立たないイベントとなった。客を集めるにはまずスターが必要。スターを呼ぶにはその輝きにふさわしいヒット曲が必要。というわけで、ロマン派の作曲家がこぞってヴァイオリン協奏曲を書いた背景には、ヴィルトゥオーソ・ブームと連動した集客効果や商業的成功を見込んだ下心があったのは否めない。そのため、当時のヴァイオリン協奏曲には、ソリストを中心に据えた曲構成のパターンが、どの曲にも慣例的に採用されている。そのパターンを箇条書きにすると、次のようになる。

1)メロディの受け渡しの順序は「ソリスト→オケ」
2)曲中の力関係は「ソリスト>オケ」
3)ソリストには常に主役の座が用意されている。

これに対して、シベコンの第3楽章では、主に「オケ→ソリスト」という、 1) とは逆の順序でメロディの受け渡しが行われている  ・・・ と、ここまで読んで、
「じゃあ、アレはどうなの?」
と思ったあなた。
はいはい、アレですね。わかってますとも。ここはやはりブラームスのヴァイオリン協奏曲のオーボエ・ソロにも言及しなければいけませんね ・・・ というわけで、しばしの間、話がシベコンからブラコンへ逸れてしまうのをお許しいただきたい。

実を言うと、 1) と逆パターンのメロディの受け渡しは、ブラームスのヴァイオリン協奏曲で既に採用されている。ただしブラームスの場合、第3楽章ではなく第2楽章にこのパターンが現れる。この曲の第2楽章冒頭では、ソロ・ヴァイオリンがなかなか出てこない。ソロ・ヴァイオリンの出番が来るのは、開始から2分40秒後(時間は手持ちのジネット・ヌヴー盤による)で、その間はオーボエがソロを取ってAメロを歌う。オーボエはソロ・ヴァイオリンを差し置いて、オケをバックに、いつ果てるとも知れない、息の長い、同時にとても美しいメロディを連綿と歌い抜く。だからこの楽章の冒頭はまるでオーボエ協奏曲を聴いているようで、とにかくオーボエばかりが目立つ。

「アダージョでオーボエが全曲で唯一の旋律を聴衆に聴かせているときに、
ヴァイオリンを手にしてぼんやりと立っているほど、私が無趣味だと思うかね?」

サラサーテがそう言ってブラームスのコンチェルトにケチをつけた、というのは有名な話だ。他の楽器が自分より目立つなんてもってのほか、そう公言するサラサーテに「オレ様」な印象を抱くのは、私が21世紀に生きる現代人だからで、時代を19世紀後半に遡れば、当時の音楽シーンはやはりヴィルトゥオーソ中心に回っていて、ソリスト最優先の曲作りが当たり前のこととして受け止められていたのだろう。

ブラームスのヴァイオリン協奏曲はそのような「当たり前のこと」に対する反動から生まれた。ブラームスはサラサーテがブルッフのコンチェルトを演奏するのを聴いて感動し、しかし同時に、その演奏が技巧の発露だけで終わっていることに疑問を感じ、自分ならもっとうまく書けると豪語してヴァイオリン協奏曲を書き始めた。だからブラコン(←ブラザー・コンプレックスじゃないよ、ブラック・コンテンポラリーでもないよ、)には、上述の 1) から 3) の慣例的パターンを乱すような反則技が、しばしば現れる。アダージョ楽章で「オケ→ソリスト」のメロディの受け渡しが行われるのも、そのひとつだ。ブラームスはここで、従来ソロ・ヴァイオリンだけに与えられていた優位性を他の楽器にも与えることで、それまで「オケ<ソリスト」だった曲中の力関係を、「オケ=ソリスト」へと変化させている。この他にも、ブラコンを聴いていると、第1楽章でソロ・ヴァイオリンがなかなか登場しないとか、登場してもなかなか主題に入らないとか、慣例的なパターンに慣れた聴き手の足元をすくうような反則技がいろいろ出てくる。初心者の私などは、はじめて聴いた時に、この本題に入るまでの前置きの長さに耐えかねて、途中でCDを聴くのを放棄してしまったくらいだ。
ブラームスはこのような試みを通して、ヴィルトゥオーソ偏重の曲作りを相対化して、音楽が本来あるべき姿を聴き手に問いかけているように見える。それは間接的に、それまで神のごとく絶対化されていたヴィルトゥオーソの存在を相対化する試みでもあった。したがって、ブラームスの反動がサラサーテにとって面白いわけがなく、機嫌を損ねたサラサーテは、この曲を生涯一度も演奏しなかったという。

話をシベコンに戻そう。
シベコンの第3楽章では、ブラームスが行った慣例的パターンの相対化が、更に念入りに行われている。まず「オケ→ソリスト」のメロディの受け渡しであるが、ブラコンでは一度きりなのに対し、ここではそれが反復して行われる。冒頭で色分けして示したとおり、第2ブロックから第4ブロックまで、3回に渡って、オケがソロ・ヴァイオリンに先んじてメロディを演奏している。さらに、オケの人数が多い。ブラコンで先制攻撃を仕掛けたのがオーボエ奏者一人であるのに対し、シベコンではユニゾンやトゥッティといった集団がソロ・ヴァイオリンの機先を制している。特に第3ブロックから第4ブロックにかけてはそれが顕著で、ここで数に勝ったオケが見せる、ソロ・ヴァイオリンを隅に追いやるような傍若無人な振る舞いには、目を見張るものがある。 ・・・ といっても、いまひとつぴんとこない方が多いと思うので、この部分をさらに詳しく書いてみる。

02:44
ソロ・ヴァイオリンが3連符の連続でBメロを変奏する。素人にはよくわからないが、
かなり難しそう。ソリストが熱演を繰り広げ、聴き手も自然に力が入るところだ。
03:20
オケが見る見るうちに集結し、ソロ・ヴァイオリンの前に立ちはだかったかと思うと、
全員参加の大音量で、Aメロを歌い出す。シベコンファンならおわかりだろうが、
このトゥッティの破壊力は凄まじいものがある。私はこの8小節を聴くたびに、
足元の地面が真っ二つに割れて、その下から新しい大地が、がががっと隆起してくる
地殻変動をイメージする。天地創造のスペクタクルが頭の中で繰り広げられるトゥッティ
なんて、他のヴァイオリン協奏曲ではついぞ体験できない。
03:45
フォルテ→ピアニシモの強引な幕引きでオケが姿を消した後、あらん限りの力を込めて
Aメロを歌う孤高のヴァイオリン。オケのフォルテの残響の中から浮かび上がってくる
その音色は、神々しさすら湛えている。
04:31
しかしその健闘もむなしく、ひとしきりAメロを積み上げたところで、再びオケが集団で
割り込んでくる。ソロ・ヴァイオリンはAメロの末尾をトゥッティに奪われ、オケはそれを
もぎ取るようにして終わらせると、間髪を入れずにチェロが16ビートのリズムを刻み始め、
曲がBメロに逆戻りする。
04:44
ソロ・ヴァイオリンは木管楽器の後塵を拝し、Aメロで上昇したテンションを切り替えて、
今度は一からBメロを積み上げていかなければならない。オケの横暴に翻弄される
ソロ・ヴァイオリン。溜まっていく鬱憤。高まっていくエントロピー ・・・ ・・・


オケはソロ・ヴァイオリンと対峙するかたちで登場し、ソロ・ヴァイオリンが積み上げた楽想を断ち切って逆のメロディを開始する。ソロ・ヴァイオリンはその度に気勢をくじかれ進路変更を余儀なくされるのだ。

「アレグロで、オーケストラが分厚い壁のように進路を阻んでいるときに、
ヴァイオリン一艇で切り込んでいくほど、私が自虐的だと思うかね?」

サラサーテはそう言って、献呈されたシベコンの楽譜をすぐさま破り捨てたという ・・・ というのは真っ赤な嘘で、残念ながらサラサーテとシベコンの邂逅の記録はない。サラサーテはシベコン初演の4年後に鬼籍に入っている。でも、もしもサラサーテがシベコンに出会っていたら、彼はこの曲に対してブラコン以上に冷ややかな対応をしただろう、と私は思う。

ブラコンの第2楽章冒頭では、オーボエとソロ・ヴァイオリンが同格に扱われ、両者の力関係が「オケ=ソリスト」に変化していた。サラサーテはその変化が気にくわなかったわけだが、シベコン第3楽章でオケが見せる存在感は、ブラコンのオーボエ・ソロをはるかに上回っている。ここではオケが圧倒的な存在感でソロ・ヴァイオリンを封じ込め、両者の力関係は「オケ>ソリスト」に逆転している。ヴァイオリン協奏曲におけるこのような力の逆転は、「オレ様」ヴァイオリニストのサラサーテとは全く相容れないものである。そしてこの逆転こそが、シベコンを「協奏曲」ではなく「ヴァイオリン・ソロの付いた交響曲」たらしめる理由になっているのだ。

しかし、ここでひとつの疑問が湧く。
なぜシベリウスはこのような逆転を行ったのだろう。
「ヴァイオリン協奏曲」ではなく「ヴァイオリン・ソロの付いた交響曲」を目指すことで、
彼は聴き手に何を伝えようとしたのだろう。

「それは、やはりビートだろう。」
というのが、私の個人的な意見である。         ( 第16回へつづく )


*** *** *** *** *** *** *** ***

~ お知らせ ~
シベコンがTV放映されます。
今回オンエアされるのは、9月のN響定期公演の録画です。
ソリストはロシア出身のミハイル・シモニアンくんです。
この演奏、私とカスタマーたかの判定はNGなのですが、
皆さんはどんな感想を持たれるでしょうか。

9月26日(日)午後9時~ NHK教育「N響アワー」←本日です!



前へ       次へ



シベコン by 神尾真由子(5)の前に

2010年09月08日 | シベリウス バイオリン協奏曲
シベリウス作曲ヴァイオリン協奏曲二短調

第3楽章はティンパニと低弦の奏でる力強いリズムで幕を開ける。
それまでの神秘的かつ幻想的な情景が一変し、生々しい躍動が解き放たれるオープニングは、聴き手の心に少なからぬ驚きを呼び起こす。

私ははじめて聴いた時の驚きを今も忘れない。
ズンドコ、ズンドコ、ズンドコ、ズンドコ ・・・ という例のリズム、ヤルヴィ指揮シンシナティ響の演奏するこの部分について、「バッファローの群れがやってくるのか?」と、ブログでコメントしていた人がいて、うまいこと言うな~と感心してしまったが、その時は私も足元がぐらぐらと揺れているような錯覚を覚えた。

ヤルヴィは決して強奏するタイプではない。だから私を揺り動かしたのは音量ではない。弓で擦るよりは叩くといった低弦パートの奏法のせいか、音の一つ一つにエネルギーが充填されていて、そこに打楽器を加えた強靭なベースラインが絶えず聴き手に揺さぶりをかけてくる。スコアから掬い取ったイメージを他者と共有するのが指揮者の仕事で、彼の場合その情熱が桁外れなのは前から知っていたが、この時は彼のイメージがオケの隅々まで浸透して増幅され、波になってこちらに迫ってくるようだった。

話は2009年11月に遡るが、実を言うと私はその時までシベコンを聴いているのが退屈だった。以前書いたように、私はソリストが庄司紗矢香という理由だけで演奏を聴きに行ったので、曲についての前情報をほとんど持っていなかった。しかしいざ聴いてみるとこの曲は予想を超えて巨大で、手ぶらの初心者には到底太刀打ちできない。事前に一度でも聴いておけばよかったと後悔しても後の祭りで、第1楽章では曲の途中で迷子になったし、第2楽章で呈示される神秘的世界も自分からは遠く隔たった印象で、全く曲の中に入れなかった。ヤルヴィの演奏にはいつもならわくわくするようなグルーヴがあるんだけど、今回は不発かな。私はそう思って、アクティブな聴き手になることを半ばあきらめかけていた。

しかしオケの反撃はここから始まった。冒頭の怒涛のズンドコ節は私が待ちに待った反撃ののろしだった。何よりも強く私の心をとらえたのは、リズム隊(←低弦と打楽器を指す)の刻むベースラインがしっかりとダンスビートを感じさせていたこと。第3楽章はもともと舞曲とされるが、そんなインフォメーションがなくてもこのベースラインを聴いただけで、ヤルヴィの意図は火を見るよりも明らかだった。



この曲は
A-B-A-B-A´
のロンド形式で、AメロとBメロが交互に現れる構成になっている。
Aメロ、Bメロともに拍子は3拍子だが、このリズムはワルツと呼ぶにはあまりにも荒々しく土着的だ。Aメロのズンドコ節のリズムは上述のとおりバッファローの突進だし、Bメロはズンドコ節に比べればいくぶん垢抜けているものの、ズンチャッチャ、ンチャーチャ、ズンチャッチャ、ンチャーチャ、とチェロが刻むリズムパターンは、優雅な舞踏会よりもむしろ焚き火を囲んだインディアンの踊りにふさわしいだろう。

Aメロのリズムを8ビートに例えるならBメロのリズムはもう少し複雑な16ビートといったところで、このふたつのリズムが交替でヴォーカル(←ソロ・ヴァイオリンを指す)をけん引し、曲を前進させる駆動力になるのだが、ヤルヴィは異なるリズムの書き分け(弾き分け?)が見事で、それを巧みに操って聴き手をダンスの陶酔へと誘い込んでいく。特にAメロのズンドコ節は、このリズムパターンをサンプリングしてループで流したら一晩中踊れるんじゃないかってくらい腰に響いた。

私の血が騒いだのは言うまでもない。さっきまであきらめかけていた反動も手伝って、
きたきたきた~、 と俄然前ノリになってしまった。

というわけで、ビートの利いたノリノリのダンスミュージックというのが、初めて聴いた時の第3楽章の印象だった。ヤルヴィの演奏は、それまで手が届かない遠い存在だったシベコンを一気に身近に引き寄せてくれた。

でもしばらくすると、ほんとにこれでいいのだろうか、と自分の聴き方に疑問を抱くようになった。第3楽章の最初の印象が、時間の経過と共にいささか偏った、不適切なもののように感じられてきたのだ。

原因は私の中に起こった変化にある。私はこの曲に魅せられて、その後立て続けに5枚のCDを聴くことになった。はじめのうちは第3楽章の興奮の記憶を追体験するのが嬉しくて、ズンドコ節が始まるとつい伴奏に重心が偏って、耳がリズム隊ばかり追いかけていた。でも世間にはいろんなシベコンの演奏スタイルがあり、第3楽章があった。5種類の演奏を聴き終えた私はやがてこう考えるようになった。
ヤルヴィのリズム感が優れているのは確かだ。その演奏に私は強くインスパイアされた。
でもそれはひとつの解釈に過ぎない。そこに強い共感が生まれたのは、
たまたま私の嗜好と彼の解釈がうまく一致したからだ。
だから他のシベコンの演奏をその印象になぞらえて聴いても意味がないし、
それは曲の本来あるべき姿を歪めることになるだろう。
経験に勝る知識はない。気がつくと私は聴き手として一段高いステージに上がっていた。

同時に私はシベコンの情熱的な部分だけでなく、静謐な部分にも目を向けるようになった。CDを繰り返し聴くうちに、私はソロ・ヴァイオリンの紡ぎ出すスピリチュアルな調べに歩調を合わせることができるようになった。そしてその調べに寄り添いながら第1楽章と第2楽章の中をくまなく歩き回り、それらが内包する謎を少しずつ視認できるようになった。そのようにしてシベコンの世界に深くコミットするようになると、当たり前ではあるが、やはりもっとヴァイオリンを聴かなければと思うようになってくる。そしてこの重層的で深遠なシベコンワールドの前では、自分が第3楽章に抱いた最初の印象が、なんだか矮小で脇道にそれたものに感じられてくるのだった。

だってCDを聴くと、ソロ・ヴァイオリンは第3楽章で相当難しいことをやっている。世界で一流とされるヴァイオリニストが皆一様に、まるで尻に火が付いたような切迫感を漂わせてこの楽章を演奏しているのだ。しかしどういうわけか私の記憶の中にヴァイオリンの姿はない。あの日の記憶から蘇ってくるのは、オケが刻む強靭なリズムと、それによって生まれるフィジカルな興奮と、バッファローの突進と、インディアンの踊り。どこをどうひっくり返してもヴァイオリンの記憶なんか出てこない。オケの伴奏の印象が強烈なあまり、庄司さんのプレイはすっかり消し飛んでしまっている。
いくら私がヴァイオリンの知識が乏しいとはいえ、そして踊れる音楽が好きとはいえ、
これはあまりにお粗末な結果ではないだろうか。
これではとてもヴァイオリン協奏曲を聴いたとは言えないのではないだろうか。

さらに私はヤルヴィの演奏スタイルにも疑問を感じはじめた。
そもそもあのダンスビートは伴奏のレベルを超えていたのではないだろうか。
オケの音がヴァイオリンの音に覆い被さってソリストのパフォーマンスを妨げる、
というようなことはなかっただろうか。
庄司さんの演奏がいまひとつさえない印象だったのは、本来は主役であるヴァイオリンが
オケによって脇に押しやられたせいではないだろうか。
ひょっとしてヤルヴィのアプローチは曲想を逸脱していたのではないだろうか。
果たしてシベリウスはそのような音楽の姿を求めていたのだろうか。

それからしばらくの間、シベコンが第3楽章のズンドコ節にさしかかるたびに、
私の心にはこのようなあてのない疑問が湧きあがることになった。

でもある日、私はCDの解説を読んでいてひとつの言葉に目を止めた。
その時読んでいたのは千住真理子盤に添えられた曲目解説である。一部を引用してみる。

「この曲は、管弦楽部が独創的な手法をもち、きわめて充実している。ふつう協奏曲
といえば、独奏者の技巧を誇示するため、演奏にはかなりの難技巧が必要だが、
この曲はそれ以上に、交響的性格が強くあらわされている。」

私の心の琴線に触れたのは「交響的性格」という言葉だった。私はそれに近い表現をどこかで読んだことがあった。そこで記憶の糸をたぐりよせ、今度はジュリアン・ラクリン盤の解説を引っ張り出して読んでみた。そこにはこう書いてあった。

「この作品はシンフォニー作家であるシベリウスの特徴がよく表れているもので、
ヴァイオリンの華麗な技巧や展開が全面に打ち出されたものではなく、
あくまで交響曲としての曲想のなかに独奏ヴァイオリンが溶け込んでいる。
その意味では従来のヴァイオリン協奏曲には見られなかった、
シベリウスならではの個性が見られるものとなっている。」

私はこれらの解説をはじめて読んだわけではなかった。
過去にCDを聴きながら何度となく目を通していた。初心者の私はそこに書かれた言葉を手掛かりにシベコンの不思議を解き明かそうと試みたのだ。残念ながらその時は筆者の言わんとすることがよくわからなかった。しかし経験に勝る知識はない。シベコンをいやというほど聴き込んだ今になって読み返してみると、ふたつの解説が暗示する内容に、いくつかに思い当たることがあった。それは私にこうほのめかしているようだった。

「ぶっちゃけ、これって交響曲だよね。だってこのスケール感は
ヴァイオリン協奏曲の範疇をとっくに超えて、もはや交響曲レベルだもん。
だからこの曲を聴く時は、これから交響曲を聴くんだという心構えが必要で、
それなしで、一般的なヴァイオリン協奏曲のつもりで聴き始めると
君はとんだ返り討ちにあうことになる。なにせ交響曲だからね。
シベリウスはそのつもりで書いているからね。ヴェートーヴェンの9番が
合唱付きの交響曲であるように、シベコンはヴァイオリン・ソロの付いた交響曲なんだ。
この曲を聴く君には、ぜひそのへんを承知した上で演奏に臨んでほしいな。」

というわけで、私は今までの経験をいったんリセットして、
シベコン第3楽章を、交響曲を聴く気持ちで一から聴き直してみた。
するとそこには興味深い発見があった。           ( 第15回へ続く )


*** *** *** *** *** *** *** ***

~ お知らせ ~
シベコンの演奏会が下記の日程で生中継されます。
9月10日(金)午後7時~午後9時10分 NHKFM「ベストオブクラシック」←本日です!



   前へ          次へ