シベリウス作曲ヴァイオリン協奏曲二短調
第3楽章はティンパニと低弦の奏でる力強いリズムで幕を開ける。
それまでの神秘的かつ幻想的な情景が一変し、生々しい躍動が解き放たれるオープニングは、聴き手の心に少なからぬ驚きを呼び起こす。
私ははじめて聴いた時の驚きを今も忘れない。
ズンドコ、ズンドコ、ズンドコ、ズンドコ ・・・ という例のリズム、ヤルヴィ指揮シンシナティ響の演奏するこの部分について、「バッファローの群れがやってくるのか?」と、ブログでコメントしていた人がいて、うまいこと言うな~と感心してしまったが、その時は私も足元がぐらぐらと揺れているような錯覚を覚えた。
ヤルヴィは決して強奏するタイプではない。だから私を揺り動かしたのは音量ではない。弓で擦るよりは叩くといった低弦パートの奏法のせいか、音の一つ一つにエネルギーが充填されていて、そこに打楽器を加えた強靭なベースラインが絶えず聴き手に揺さぶりをかけてくる。スコアから掬い取ったイメージを他者と共有するのが指揮者の仕事で、彼の場合その情熱が桁外れなのは前から知っていたが、この時は彼のイメージがオケの隅々まで浸透して増幅され、波になってこちらに迫ってくるようだった。
話は2009年11月に遡るが、実を言うと私はその時までシベコンを聴いているのが退屈だった。以前書いたように、私はソリストが庄司紗矢香という理由だけで演奏を聴きに行ったので、曲についての前情報をほとんど持っていなかった。しかしいざ聴いてみるとこの曲は予想を超えて巨大で、手ぶらの初心者には到底太刀打ちできない。事前に一度でも聴いておけばよかったと後悔しても後の祭りで、第1楽章では曲の途中で迷子になったし、第2楽章で呈示される神秘的世界も自分からは遠く隔たった印象で、全く曲の中に入れなかった。ヤルヴィの演奏にはいつもならわくわくするようなグルーヴがあるんだけど、今回は不発かな。私はそう思って、アクティブな聴き手になることを半ばあきらめかけていた。
しかしオケの反撃はここから始まった。冒頭の怒涛のズンドコ節は私が待ちに待った反撃ののろしだった。何よりも強く私の心をとらえたのは、リズム隊(←低弦と打楽器を指す)の刻むベースラインがしっかりとダンスビートを感じさせていたこと。第3楽章はもともと舞曲とされるが、そんなインフォメーションがなくてもこのベースラインを聴いただけで、ヤルヴィの意図は火を見るよりも明らかだった。
この曲は
A-B-A-B-A´
のロンド形式で、AメロとBメロが交互に現れる構成になっている。
Aメロ、Bメロともに拍子は3拍子だが、このリズムはワルツと呼ぶにはあまりにも荒々しく土着的だ。Aメロのズンドコ節のリズムは上述のとおりバッファローの突進だし、Bメロはズンドコ節に比べればいくぶん垢抜けているものの、ズンチャッチャ、ンチャーチャ、ズンチャッチャ、ンチャーチャ、とチェロが刻むリズムパターンは、優雅な舞踏会よりもむしろ焚き火を囲んだインディアンの踊りにふさわしいだろう。
Aメロのリズムを8ビートに例えるならBメロのリズムはもう少し複雑な16ビートといったところで、このふたつのリズムが交替でヴォーカル(←ソロ・ヴァイオリンを指す)をけん引し、曲を前進させる駆動力になるのだが、ヤルヴィは異なるリズムの書き分け(弾き分け?)が見事で、それを巧みに操って聴き手をダンスの陶酔へと誘い込んでいく。特にAメロのズンドコ節は、このリズムパターンをサンプリングしてループで流したら一晩中踊れるんじゃないかってくらい腰に響いた。
私の血が騒いだのは言うまでもない。さっきまであきらめかけていた反動も手伝って、
きたきたきた~、 と俄然前ノリになってしまった。
というわけで、ビートの利いたノリノリのダンスミュージックというのが、初めて聴いた時の第3楽章の印象だった。ヤルヴィの演奏は、それまで手が届かない遠い存在だったシベコンを一気に身近に引き寄せてくれた。
でもしばらくすると、ほんとにこれでいいのだろうか、と自分の聴き方に疑問を抱くようになった。第3楽章の最初の印象が、時間の経過と共にいささか偏った、不適切なもののように感じられてきたのだ。
原因は私の中に起こった変化にある。私はこの曲に魅せられて、その後立て続けに5枚のCDを聴くことになった。はじめのうちは第3楽章の興奮の記憶を追体験するのが嬉しくて、ズンドコ節が始まるとつい伴奏に重心が偏って、耳がリズム隊ばかり追いかけていた。でも世間にはいろんなシベコンの演奏スタイルがあり、第3楽章があった。5種類の演奏を聴き終えた私はやがてこう考えるようになった。
ヤルヴィのリズム感が優れているのは確かだ。その演奏に私は強くインスパイアされた。
でもそれはひとつの解釈に過ぎない。そこに強い共感が生まれたのは、
たまたま私の嗜好と彼の解釈がうまく一致したからだ。
だから他のシベコンの演奏をその印象になぞらえて聴いても意味がないし、
それは曲の本来あるべき姿を歪めることになるだろう。
経験に勝る知識はない。気がつくと私は聴き手として一段高いステージに上がっていた。
同時に私はシベコンの情熱的な部分だけでなく、静謐な部分にも目を向けるようになった。CDを繰り返し聴くうちに、私はソロ・ヴァイオリンの紡ぎ出すスピリチュアルな調べに歩調を合わせることができるようになった。そしてその調べに寄り添いながら第1楽章と第2楽章の中をくまなく歩き回り、それらが内包する謎を少しずつ視認できるようになった。そのようにしてシベコンの世界に深くコミットするようになると、当たり前ではあるが、やはりもっとヴァイオリンを聴かなければと思うようになってくる。そしてこの重層的で深遠なシベコンワールドの前では、自分が第3楽章に抱いた最初の印象が、なんだか矮小で脇道にそれたものに感じられてくるのだった。
だってCDを聴くと、ソロ・ヴァイオリンは第3楽章で相当難しいことをやっている。世界で一流とされるヴァイオリニストが皆一様に、まるで尻に火が付いたような切迫感を漂わせてこの楽章を演奏しているのだ。しかしどういうわけか私の記憶の中にヴァイオリンの姿はない。あの日の記憶から蘇ってくるのは、オケが刻む強靭なリズムと、それによって生まれるフィジカルな興奮と、バッファローの突進と、インディアンの踊り。どこをどうひっくり返してもヴァイオリンの記憶なんか出てこない。オケの伴奏の印象が強烈なあまり、庄司さんのプレイはすっかり消し飛んでしまっている。
いくら私がヴァイオリンの知識が乏しいとはいえ、そして踊れる音楽が好きとはいえ、
これはあまりにお粗末な結果ではないだろうか。
これではとてもヴァイオリン協奏曲を聴いたとは言えないのではないだろうか。
さらに私はヤルヴィの演奏スタイルにも疑問を感じはじめた。
そもそもあのダンスビートは伴奏のレベルを超えていたのではないだろうか。
オケの音がヴァイオリンの音に覆い被さってソリストのパフォーマンスを妨げる、
というようなことはなかっただろうか。
庄司さんの演奏がいまひとつさえない印象だったのは、本来は主役であるヴァイオリンが
オケによって脇に押しやられたせいではないだろうか。
ひょっとしてヤルヴィのアプローチは曲想を逸脱していたのではないだろうか。
果たしてシベリウスはそのような音楽の姿を求めていたのだろうか。
それからしばらくの間、シベコンが第3楽章のズンドコ節にさしかかるたびに、
私の心にはこのようなあてのない疑問が湧きあがることになった。
でもある日、私はCDの解説を読んでいてひとつの言葉に目を止めた。
その時読んでいたのは千住真理子盤に添えられた曲目解説である。一部を引用してみる。
「この曲は、管弦楽部が独創的な手法をもち、きわめて充実している。ふつう協奏曲
といえば、独奏者の技巧を誇示するため、演奏にはかなりの難技巧が必要だが、
この曲はそれ以上に、交響的性格が強くあらわされている。」
私の心の琴線に触れたのは「交響的性格」という言葉だった。私はそれに近い表現をどこかで読んだことがあった。そこで記憶の糸をたぐりよせ、今度はジュリアン・ラクリン盤の解説を引っ張り出して読んでみた。そこにはこう書いてあった。
「この作品はシンフォニー作家であるシベリウスの特徴がよく表れているもので、
ヴァイオリンの華麗な技巧や展開が全面に打ち出されたものではなく、
あくまで交響曲としての曲想のなかに独奏ヴァイオリンが溶け込んでいる。
その意味では従来のヴァイオリン協奏曲には見られなかった、
シベリウスならではの個性が見られるものとなっている。」
私はこれらの解説をはじめて読んだわけではなかった。
過去にCDを聴きながら何度となく目を通していた。初心者の私はそこに書かれた言葉を手掛かりにシベコンの不思議を解き明かそうと試みたのだ。残念ながらその時は筆者の言わんとすることがよくわからなかった。しかし経験に勝る知識はない。シベコンをいやというほど聴き込んだ今になって読み返してみると、ふたつの解説が暗示する内容に、いくつかに思い当たることがあった。それは私にこうほのめかしているようだった。
「ぶっちゃけ、これって交響曲だよね。だってこのスケール感は
ヴァイオリン協奏曲の範疇をとっくに超えて、もはや交響曲レベルだもん。
だからこの曲を聴く時は、これから交響曲を聴くんだという心構えが必要で、
それなしで、一般的なヴァイオリン協奏曲のつもりで聴き始めると
君はとんだ返り討ちにあうことになる。なにせ交響曲だからね。
シベリウスはそのつもりで書いているからね。ヴェートーヴェンの9番が
合唱付きの交響曲であるように、シベコンはヴァイオリン・ソロの付いた交響曲なんだ。
この曲を聴く君には、ぜひそのへんを承知した上で演奏に臨んでほしいな。」
というわけで、私は今までの経験をいったんリセットして、
シベコン第3楽章を、交響曲を聴く気持ちで一から聴き直してみた。
するとそこには興味深い発見があった。 ( 第15回へ続く )
*** *** *** *** *** *** *** ***
~ お知らせ ~
シベコンの演奏会が下記の日程で生中継されます。
9月10日(金)午後7時~午後9時10分 NHKFM「ベストオブクラシック」←本日です!
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第3楽章はティンパニと低弦の奏でる力強いリズムで幕を開ける。
それまでの神秘的かつ幻想的な情景が一変し、生々しい躍動が解き放たれるオープニングは、聴き手の心に少なからぬ驚きを呼び起こす。
私ははじめて聴いた時の驚きを今も忘れない。
ズンドコ、ズンドコ、ズンドコ、ズンドコ ・・・ という例のリズム、ヤルヴィ指揮シンシナティ響の演奏するこの部分について、「バッファローの群れがやってくるのか?」と、ブログでコメントしていた人がいて、うまいこと言うな~と感心してしまったが、その時は私も足元がぐらぐらと揺れているような錯覚を覚えた。
ヤルヴィは決して強奏するタイプではない。だから私を揺り動かしたのは音量ではない。弓で擦るよりは叩くといった低弦パートの奏法のせいか、音の一つ一つにエネルギーが充填されていて、そこに打楽器を加えた強靭なベースラインが絶えず聴き手に揺さぶりをかけてくる。スコアから掬い取ったイメージを他者と共有するのが指揮者の仕事で、彼の場合その情熱が桁外れなのは前から知っていたが、この時は彼のイメージがオケの隅々まで浸透して増幅され、波になってこちらに迫ってくるようだった。
話は2009年11月に遡るが、実を言うと私はその時までシベコンを聴いているのが退屈だった。以前書いたように、私はソリストが庄司紗矢香という理由だけで演奏を聴きに行ったので、曲についての前情報をほとんど持っていなかった。しかしいざ聴いてみるとこの曲は予想を超えて巨大で、手ぶらの初心者には到底太刀打ちできない。事前に一度でも聴いておけばよかったと後悔しても後の祭りで、第1楽章では曲の途中で迷子になったし、第2楽章で呈示される神秘的世界も自分からは遠く隔たった印象で、全く曲の中に入れなかった。ヤルヴィの演奏にはいつもならわくわくするようなグルーヴがあるんだけど、今回は不発かな。私はそう思って、アクティブな聴き手になることを半ばあきらめかけていた。
しかしオケの反撃はここから始まった。冒頭の怒涛のズンドコ節は私が待ちに待った反撃ののろしだった。何よりも強く私の心をとらえたのは、リズム隊(←低弦と打楽器を指す)の刻むベースラインがしっかりとダンスビートを感じさせていたこと。第3楽章はもともと舞曲とされるが、そんなインフォメーションがなくてもこのベースラインを聴いただけで、ヤルヴィの意図は火を見るよりも明らかだった。
この曲は
A-B-A-B-A´
のロンド形式で、AメロとBメロが交互に現れる構成になっている。
Aメロ、Bメロともに拍子は3拍子だが、このリズムはワルツと呼ぶにはあまりにも荒々しく土着的だ。Aメロのズンドコ節のリズムは上述のとおりバッファローの突進だし、Bメロはズンドコ節に比べればいくぶん垢抜けているものの、ズンチャッチャ、ンチャーチャ、ズンチャッチャ、ンチャーチャ、とチェロが刻むリズムパターンは、優雅な舞踏会よりもむしろ焚き火を囲んだインディアンの踊りにふさわしいだろう。
Aメロのリズムを8ビートに例えるならBメロのリズムはもう少し複雑な16ビートといったところで、このふたつのリズムが交替でヴォーカル(←ソロ・ヴァイオリンを指す)をけん引し、曲を前進させる駆動力になるのだが、ヤルヴィは異なるリズムの書き分け(弾き分け?)が見事で、それを巧みに操って聴き手をダンスの陶酔へと誘い込んでいく。特にAメロのズンドコ節は、このリズムパターンをサンプリングしてループで流したら一晩中踊れるんじゃないかってくらい腰に響いた。
私の血が騒いだのは言うまでもない。さっきまであきらめかけていた反動も手伝って、
きたきたきた~、 と俄然前ノリになってしまった。
というわけで、ビートの利いたノリノリのダンスミュージックというのが、初めて聴いた時の第3楽章の印象だった。ヤルヴィの演奏は、それまで手が届かない遠い存在だったシベコンを一気に身近に引き寄せてくれた。
でもしばらくすると、ほんとにこれでいいのだろうか、と自分の聴き方に疑問を抱くようになった。第3楽章の最初の印象が、時間の経過と共にいささか偏った、不適切なもののように感じられてきたのだ。
原因は私の中に起こった変化にある。私はこの曲に魅せられて、その後立て続けに5枚のCDを聴くことになった。はじめのうちは第3楽章の興奮の記憶を追体験するのが嬉しくて、ズンドコ節が始まるとつい伴奏に重心が偏って、耳がリズム隊ばかり追いかけていた。でも世間にはいろんなシベコンの演奏スタイルがあり、第3楽章があった。5種類の演奏を聴き終えた私はやがてこう考えるようになった。
ヤルヴィのリズム感が優れているのは確かだ。その演奏に私は強くインスパイアされた。
でもそれはひとつの解釈に過ぎない。そこに強い共感が生まれたのは、
たまたま私の嗜好と彼の解釈がうまく一致したからだ。
だから他のシベコンの演奏をその印象になぞらえて聴いても意味がないし、
それは曲の本来あるべき姿を歪めることになるだろう。
経験に勝る知識はない。気がつくと私は聴き手として一段高いステージに上がっていた。
同時に私はシベコンの情熱的な部分だけでなく、静謐な部分にも目を向けるようになった。CDを繰り返し聴くうちに、私はソロ・ヴァイオリンの紡ぎ出すスピリチュアルな調べに歩調を合わせることができるようになった。そしてその調べに寄り添いながら第1楽章と第2楽章の中をくまなく歩き回り、それらが内包する謎を少しずつ視認できるようになった。そのようにしてシベコンの世界に深くコミットするようになると、当たり前ではあるが、やはりもっとヴァイオリンを聴かなければと思うようになってくる。そしてこの重層的で深遠なシベコンワールドの前では、自分が第3楽章に抱いた最初の印象が、なんだか矮小で脇道にそれたものに感じられてくるのだった。
だってCDを聴くと、ソロ・ヴァイオリンは第3楽章で相当難しいことをやっている。世界で一流とされるヴァイオリニストが皆一様に、まるで尻に火が付いたような切迫感を漂わせてこの楽章を演奏しているのだ。しかしどういうわけか私の記憶の中にヴァイオリンの姿はない。あの日の記憶から蘇ってくるのは、オケが刻む強靭なリズムと、それによって生まれるフィジカルな興奮と、バッファローの突進と、インディアンの踊り。どこをどうひっくり返してもヴァイオリンの記憶なんか出てこない。オケの伴奏の印象が強烈なあまり、庄司さんのプレイはすっかり消し飛んでしまっている。
いくら私がヴァイオリンの知識が乏しいとはいえ、そして踊れる音楽が好きとはいえ、
これはあまりにお粗末な結果ではないだろうか。
これではとてもヴァイオリン協奏曲を聴いたとは言えないのではないだろうか。
さらに私はヤルヴィの演奏スタイルにも疑問を感じはじめた。
そもそもあのダンスビートは伴奏のレベルを超えていたのではないだろうか。
オケの音がヴァイオリンの音に覆い被さってソリストのパフォーマンスを妨げる、
というようなことはなかっただろうか。
庄司さんの演奏がいまひとつさえない印象だったのは、本来は主役であるヴァイオリンが
オケによって脇に押しやられたせいではないだろうか。
ひょっとしてヤルヴィのアプローチは曲想を逸脱していたのではないだろうか。
果たしてシベリウスはそのような音楽の姿を求めていたのだろうか。
それからしばらくの間、シベコンが第3楽章のズンドコ節にさしかかるたびに、
私の心にはこのようなあてのない疑問が湧きあがることになった。
でもある日、私はCDの解説を読んでいてひとつの言葉に目を止めた。
その時読んでいたのは千住真理子盤に添えられた曲目解説である。一部を引用してみる。
「この曲は、管弦楽部が独創的な手法をもち、きわめて充実している。ふつう協奏曲
といえば、独奏者の技巧を誇示するため、演奏にはかなりの難技巧が必要だが、
この曲はそれ以上に、交響的性格が強くあらわされている。」
私の心の琴線に触れたのは「交響的性格」という言葉だった。私はそれに近い表現をどこかで読んだことがあった。そこで記憶の糸をたぐりよせ、今度はジュリアン・ラクリン盤の解説を引っ張り出して読んでみた。そこにはこう書いてあった。
「この作品はシンフォニー作家であるシベリウスの特徴がよく表れているもので、
ヴァイオリンの華麗な技巧や展開が全面に打ち出されたものではなく、
あくまで交響曲としての曲想のなかに独奏ヴァイオリンが溶け込んでいる。
その意味では従来のヴァイオリン協奏曲には見られなかった、
シベリウスならではの個性が見られるものとなっている。」
私はこれらの解説をはじめて読んだわけではなかった。
過去にCDを聴きながら何度となく目を通していた。初心者の私はそこに書かれた言葉を手掛かりにシベコンの不思議を解き明かそうと試みたのだ。残念ながらその時は筆者の言わんとすることがよくわからなかった。しかし経験に勝る知識はない。シベコンをいやというほど聴き込んだ今になって読み返してみると、ふたつの解説が暗示する内容に、いくつかに思い当たることがあった。それは私にこうほのめかしているようだった。
「ぶっちゃけ、これって交響曲だよね。だってこのスケール感は
ヴァイオリン協奏曲の範疇をとっくに超えて、もはや交響曲レベルだもん。
だからこの曲を聴く時は、これから交響曲を聴くんだという心構えが必要で、
それなしで、一般的なヴァイオリン協奏曲のつもりで聴き始めると
君はとんだ返り討ちにあうことになる。なにせ交響曲だからね。
シベリウスはそのつもりで書いているからね。ヴェートーヴェンの9番が
合唱付きの交響曲であるように、シベコンはヴァイオリン・ソロの付いた交響曲なんだ。
この曲を聴く君には、ぜひそのへんを承知した上で演奏に臨んでほしいな。」
というわけで、私は今までの経験をいったんリセットして、
シベコン第3楽章を、交響曲を聴く気持ちで一から聴き直してみた。
するとそこには興味深い発見があった。 ( 第15回へ続く )
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シベコンの演奏会が下記の日程で生中継されます。
9月10日(金)午後7時~午後9時10分 NHKFM「ベストオブクラシック」←本日です!
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