父・市辺押磐皇子が大泊瀬幼武尊(後の第21代雄略天皇)に殺されると、
兄の億計王(おけ)と弟・弘計王(をけ)は逃亡、身を隠します。
播磨国に身を潜め、牛馬の飼育に携わっていました。
第22代清寧天皇の時代、弘計王は王族であることを明かし、子がなかった清寧天皇は宮中に迎え入れます。
清寧天皇が崩御すると、兄弟で次代の皇位を譲り合い、その間、飯豊青皇女が執政しました。
結果、兄の説得に折れ、弘計王が即位。
第23代顕宗天皇として即位します。
長い間、苦労した経験から民衆を愛する政治を執ったと伝えられています。
38歳(48歳とも)で崩御し、
傍丘磐坏丘南陵(かたおかのいわつきのおかのみなみのみささぎ)に葬られました。
奈良県香芝市にある前方後円墳が治定されています。
大きな道路がすぐそばを通り、住宅に囲まれています。
この天皇、そして次代の兄・仁賢天皇の実在性は疑問視されています。
即位前に執政した飯豊青皇女を史上初の女帝をとらえる説もあります。
一度、行ってみて
奈良県香芝市 顕宗天皇陵