





この週末
以前からとっても楽しみにしていた”望年会”に出席のため横浜方面に行ってきました
最初の予定では、金曜の夜に京都発の夜行高速バスに乗ってゆき
懐かしの横浜をのんびりと散策するつもりでいたんだけど
どうやら夏場の疲れとかがどーっと出てしまった様子で
このところ、ちょくちょく顔を出す、なんとも表現しがたい体調不良に襲われ
我慢して土曜の朝の新幹線に変更してしまいました。
実は、この体調不良
ここ10数年来、季節の変わり目に発症する一種の年中行事
とはいえ、なんとなーく突然鼓動が止まっちゃうんじゃない?って思わされるほど
で、今回は急いで遺言状をアップデートしてしまいました
ちょうどお昼時間に合わせて友達と待ち合わせをして中華街に移動
あっさりとお粥でもと思っていたけど
お友達と会って元気を取り戻せたんで 今回は海員閣に行ってみました
このお店
外観からもわかるように 昭和レトロなんてもんじゃーない
見栄えなんて関係なく続く超人気の場所だったんですよ。
自分が住んでた30数年には
いっつも大行列で、どんなにお客が並んでいようとも、休憩時間になったら
さっさと扉を閉めてお客は夕方前の開店時間までただ根気よく待つ
そんな感じのお店でした
でも考えてみればそんな風にしてるのも仕方ないですよね。
途切れることなく訪れるお客を受け入れてたら調理人も疲れきって
それこそお店の存続にもかかわることになるでしょうからね
といことで、時代の流れなのか、そんなタカビーな態度に客が離れてしまったのか
土曜日だというのに、ほとんど待たずに入店することができました
ここの名物は、牛と豚のバラ肉そば、またはご飯
今回は、シュウマイ+牛バラ煮込み+八宝菜+豚バラそばをいただきました
もともと海員閣の名のとおり、山下埠頭に入る船員向けに
安くてボリュームのある料理を出していた、いたって庶民的なお店
かたくなに昭和をレトロな店で営業しているところが気に行ってます(笑)
その他のお勧めの(庶民的な)お店としては
関帝廟近くの 清○楼のワンタン&シウマイ
○満園の五目そば
景○鎮の陳麻婆豆腐
○和楼の麻醤麺にワンタン
昔からの人気店、四五六菜館や金陵もいいけど
出張で中国や台湾、香港に行くことが多くなってから
特に庶民的なお店ばっかし行ってます
食後は、昔働いていた会社の横浜オフィスのあったNew Grandも覗いてみたものの
あまりの変わりようにただただビックリしてトイレだけ使って出てきちゃいました
その後、腹ごなしをかねて、山手に上がり、外人墓地の横を通って山手教会
山元町を抜けて根岸森林公園の横を通り
いまの(←ココ大切)ドルフィン(たしか三代目)に立ち寄ってみました。
ユーミンの歌に出てくるお店とは全く違う
ミーハー向けの安っぽいレストランになってしまいましたが
それだけが売りなのか、眺望はなかなか
ソーダ水の中を貨物船が通りそうでした。
(楽しい望年会のお話、ここでは割愛させていただきますね)
翌日、今回のために準備していただいたホテルのカーテンを開くと
昨日に続く素晴らし晴天
よし、今日はまた横浜に戻ってセンチメンタルジャーニーの続きをしよう!と思っていた矢先
駅の向こうに見えるのは・・・
た、丹沢じゃーん!
あのコルに見えるのは間違いなく富士山だなー!
とすっかり興味が山にいってしまいました
それにしてもここってどこらなんだろ・・・と地図をみると
なーんだ!茅ヶ崎のほぼ真北になるのかーと 改めて認識しちゃいました。
んじゃ、いつでも行ける横浜はまたの機会にってことにして
今回は丹沢方面に行ってみようと決めちゃいました
いつもながら、人生と同じで”行き当たりばったり”ってのが大好き
だからしょーがないか
それにしても、海老名って、小田急に相鉄にJRまであるんだもん
ベッドタウンとしてますます発展しそうな場所だったんですね~
9:50分発の急行に乗ってみました(急行といっても、本厚木から松田まで各駅停車)
秦野で途中下車しようかと思っていたら
富士山が見え隠れしだして興味はイッキに富士山に
路線図をみてたら松田で御殿場線に乗り換えられると知って松田で下車しちゃいました
駅構内の地図からもハイキングコースが満載
いま関東方面に住むことになったとしたら・・・
間違いなく海老名に住むな!
新宿にも茅ヶ崎にも横浜にも丹沢にも箱根にも
大好きなトコばっかし
小腹がすいたので、駅前でちくわ天そばをいただいちゃいました
ちくわ天も揚げたて。 その上そばの量も多くて大満足でした
実は、このマニラ食堂っていう中華料理店にもむっちゃ興味があったんだけど
どうやらいまは営業していない様子でした
それにしても名前の由来はなんなんだろう?と興味シンシンだったんですけどね
この御殿場線、御殿場の手前まで ほぼ無人だったりでワンマンカー
中学生のサッカー小僧たちが試合に行くためにか、小田急から乗り継いできていましたが
パスモが使えないからと ブーブー文句言ってました
「まじかよー! 日本じゃねーじゃん!」とか(笑)
2両編成のワンマンカー 行楽客なのか、結構満員状態でした
途中にパラグライダーができる場所があるらしく
沢山のパラグライダーが飛んでいて、
それを見つけた年配のオバアサン
「ほらあっち観てご覧。 落下傘がいっぱいいるよ!」
久々に”落下傘”という単語を耳にして、喜んじゃいました(笑)
それにしても見事な晴天で、ずーっと素敵な富士山を眺めることができました
感謝感謝
御殿場方面からだと大沢崩れがあんなにハッキリ見えるんだった
横浜や東京で暮らしていた頃、
何度か週末にレンタカーを借りて御殿場から富士山を一周してたのを思い出しちゃいました
そうこうしてようやく沼津に到着!
10年ほど前に、下田の知人を訪ねて遊びに行った帰り道
往路につかった鉄路よりも、他のルートにしようと
西伊豆に出て、高速船で沼津に着いた時以来の土地でした。
船着き場の辺りにある魚市場が観光名所になってて
魚貝類がとっても美味しいんだって知ってるんだけど、今回はパス
三島から新幹線に乗ろうと思っていたのに
またまた気が変わって普通電車で我慢できるだけ乗ってみようということにしました。
レトロな沼津駅の地下通路にもプチ感激
見てよこの段差! バリアフリーじゃないんだもんなー!
まづは島田行きの普通に乗車
一時間少々で島田駅に到着! 次は浜松まで
小学校の5年生のときに安倍川の上流でキャンプして川遊びしたんだよな~。
大井川鉄道の起点の金谷駅は何年ぶりだろ?
フィリピンで仕事してた時の一時帰国で寸又峡温泉に行った時以来
25年ぶりくらいなかー?
袋井といえば法多山! 小学生の頃、毎年冬になると父に連れられて
秋葉神社と一緒にまわってたな。。。
などなど 場所場所で思い出に浸ってみました。
そうこうしてる間に天竜川を通過
浜松駅からもまた普通かよー!
いまやすっかり廃れてしまった”うなぎ問屋”もまだあったんだとなんか嬉しくなりました。
豊橋にも、子供の頃はうなぎの養殖場がいたるところにあったんですよ
きっと”浜名湖のうなぎ”として全国に流通してたんだろうな
いまだったら産地偽装ってことになるんだろか
写真には撮らなかったけど、豊橋で名物の立ち食いきしめん(壺屋)を食べてから
快速に乗り換えて一路名古屋へ
JRになってから、競合の名鉄に負けないようにと
豊橋~岐阜間だけ急行料金を払わなくてもいい快速が走ってるんですよ
それに比べて、競争相手のいない静岡県内は
通勤時間のホームライナー(急行券が必要)以外 普通のみ
やっぱ競争は必要ですね
日曜の夕方ということもあって近鉄名古屋駅もごったがえしていました
鉄ちゃんのために 近鉄特急車両も撮ってみました!
これは、その昔、おしぼりサービスがあった時代の車両
いまでいうところのヤンキーネエチャンが ふてくされながら
おしぼりを配って回収してた時代が懐かしかー
(ほとんどが内装が改装されてこぎれいになってます。)
これ↓が一世代前の新型特急車両 最新式はもっとモダンになってます
(JR東海のN700系みたいに、車内に喫煙コーナーがあります)
↓これも一世代前のアーバンライナー(元は名古屋ーなんば専用車両)
新型車両は、運転席のカメラが撮った進行方向の映像が映ります。
といことで、実は鉄ちゃんなんですって地雷を踏んだ記事でした(笑)
もしかしたら せっかくこのブログを観ていただいている方々から
大顰蹙&軽蔑されるかもしれませんが・・・
実は私、大正一桁どころか片手生まれの両親のもとに生まれ
一般の同級生の家庭と比べて、非常につつましやかな
生活の中で育ちました。
西洋風なオヤツが与えられることはなく
月額で決まったお小遣いもなし
衣服は、基本的に兄のおさがり
厳寒の季節にあってもコタツもフトーブもなく練炭の暖房のみ
高度成長まっただなかの世の中にあって
我が家はいつまでたっても昭和初期のような生活でした(笑)
とはいえ
母は苦学して、家庭に入るまでは当時稀な職業婦人
反対に父は、体育会系の出身でしたが
物ごころついた頃から医者でも教職でもないのに世間からは”先生”と呼ばれ
運転手付きの車が家に送り迎えにきていました。
(政治家ではないですからネ)
母方の伯父は、茅ヶ崎の東海岸に板塀に囲まれた女中さんのいる数百坪程の自宅と
葉山の御用邸の近くに別荘を持ち
歳の離れた従兄は昭和30年代、自分がいまだ幼稚園当時に東大の研究職にあって
アメリカ・カナダに客員教授として招聘され
その当時、渡米する数少ない邦人のひとりとして歓待された日本大使が世話人となって
従妹がふたりカナダ大使公邸に寄宿しながら留学している。
もう一人の伯父宅は
世田谷の等々力に住む油絵の画家で 一年の半分を
愛車のデボネアを運転しながら日本全国を旅しながら絵の題材を探していて
子供がいなかったので、小学校がお休みになると
兄とふたり東京に招待されて 遊園地や動物園はもとより
博物館に美術館、富士山から箱根、日光などなど
連れていってもらっていました。
そしてそれがとっても自慢なタカビー小僧でした(^^;)
これは単なるほんの一例ですが、
幸か不幸か、自分の意志には関係なく
そんな家庭に育っちゃったんです
ある日のこと、小学校の高学年にあがった頃
ボーイスカウトに入団したかったのに
そんな父が横浜で生まれた日本が生んだ青少年育成団体を
地元に持ってきたからと、その団体に入団するようにされてしまいました。
そして、小学校5年生になった歳の夏
その団体が実施していた年間最大行事の全国大会が
発祥地横浜で開催されることになり
海の記念日に伊勢佐木町でパレードに参加し
その後、地元の団員のお宅に泊めていただくとことなったのです。
幼稚園の頃から、茅ヶ崎の伯父さんの家に遊びに行っていたので
大都会で西洋の雰囲気たっぷりの横浜は
さぞやエキゾチックで魅力的な街なんだろうと期待していたところ・・・
ホストファミリーの場所は
横浜市鶴見区生麦!
実は、その青少年団体、貧しい家庭の子供達が
明るく健全に育って欲しいとの願いから設立されたため
裕福な山の手の子供達よりも下町を対象に広めていったもの
そのため、当時でも下町中の下町
京浜工業地帯のまっただなかにある生麦に行きました。
おどろくような部屋(?)に寝かされ
でも、当時まだ活気のあった街、鶴見のあちこちに連れていってもらって
到底忘れられないさまざまな思い出を作っていただきました。
それはそれは、言葉で表すことのできないほどのカルチャーショックでしたが
その後も時間をみつけては当時を懐かしみながら再訪し続けています。
そんな生麦と京浜工業地帯が懐かしくなって
先日、東京方面に出張した折に、鶴見線の旅をしてみました。
鶴見線のホーム
朝夕の通勤ラッシュ時には、溢れかえる人でゴッタがえしていた場所でした。
活気があって、明日への希望に溢れた人々の姿、
笑顔で帰宅する風景が未だに瞼に焼き付いています。
駅前に、工員さんで賑わう立飲み屋さんがあるかと訪れてみましたが
残念ながら時間切れで陽の高いうちに鶴見方面に戻ることに・・・
このままではあまりにも寂しいので国道駅にも立ち寄ってみました。
とても平成の時代とはおもえないこの佇まい☆
ノスタルジックな想いにかられ おもわず涙がこみあげてきそうでした
その昔は、ガード下のほとんどが昼日中から客で賑わう
飲み屋街だったんですが・・・ いまはたった一軒しか残っていませんでした。。。
鶴見駅の崎陽軒売り場
ココのシュウマイ弁当が大好きなんですヨ~
この橋の下の風景は、昭和43年当時とはすっかり様変わりしてしまいました。
当時は、こんなにしっかりした護岸でなく、漁港もない自然のままの川岸に
漁船がつながれ、アサリの名産地でもあったため
道路はほとんどが貝がらで覆われていたことを思い出します。
この前の記事でも、すでにお知らせしているとおり
G.W.明け(?)の5月8日から14日までの1週間
2年半ぶりにフィリピンに行ってきました
以前は、関西からフィリピンへのフライトと言えば
長年TG(タイ航空)か、NWが主流でしたが、最近TGがKIX-マニラ便を廃止したため
PAL(Philippine Air Lines : フィリピン航空)が就航していました
(アヨロ大統領時代に”ジャパユキさん”の日本への渡航が禁止されたため、
乗客が激減したのが原因かな?と勝手に想像)
その昔、この国で暮らしていた頃に聞いたPALの陰口は
Plane Always Late の略とか
たしかに、当時国内線はPALの一社独占であり
所有する機材を、国内の主要都市に就航させ、ギリギリのスケジュールで飛ばしていたため、
ただでさえ時間にルーズなところに、熱帯特有の積乱雲が発生したり
バケツをひっくりかえしたようなシャワー(スコール)に遭遇して
夕方のフライトになると、定刻の4~5時間遅れなどザラ
一種ジョークのようにして現地人と話していたのが
『PALの飛行機、いったいいつ整備してるんだろうね?』
『オイオイ!やめてくれよ! そんなこと想像したら怖くて乗られなくなっちゃうじゃん』
機材もどこかからの中古の払い下げなのか、ただでさえ相当年季の入ったものばかり
業務出張で、ほぼ毎週のように離島と首都を往復していたため
エンジニアの私にとって、飛び立ったあとにエンジンの不調な音が聞こえると
ただ目を瞑り、両手を握り締めて一刻も早く着陸するのを祈るばかりでした
離陸したと思ったら、そのままグルッとまわって着陸したり
しばらくしても翼が収納できなくなって高度が得られず出発した空港に引き返したり
胴体着陸にそなえて、マニラ湾の上空で急旋回で燃料を使い果たしたり
フッカー(プロペラ機)に乗っていた時などは、到着前に積乱雲の中に飛び込んでキリモミ状態になったり
貴重な経験を山ほどさせてくれた
そんな時代でしたねぇ(笑)
さて、今回の訪問時は なんと運に恵まれた(?)ことか台風1号の通過直後
久しぶりにスリル満点のランディングをあじあわせていただきました
今回の宿泊先は、米軍の空軍基地があったClarkにある Oasis Hotel
施設は古いものの、元々米軍関係者用に使われていた落ち着いた雰囲気のリゾート風ホテル
この地域にしては快適に過ごすことができました
とはいえ、さすがはフィリピン
あなどることなかれ ”飲料水には適してません”との注意書きが
こちらは、現在、Clark経済特区となっているエリア内にある Duty Free Shop
元は、米空軍用のPXのようでしたが、いまだにアメリカからの物資が溢れていてビックリ
帰路マニラに向かうときに休憩した 高速道路のサービスエリア
いやはや こんなモダンな施設までできたんだ~と感慨無量でした
外より割高な飲食店のメニューから物価をみると・・・
シュウマイ・肉マン 約60円 ミニラーメン 約100円
いまだに数十年前と全く変わらない市井の光景にも多々出くわしますが
やはり時代の流れはしっかりとフィリピンにも流れ込んできたようで
リビングスタンダードは、そこそこモダンになっていてちょっぴり安心した旅の印象でした
昔は、国際空港と国内空港ターミナルだけでしたが
いまは、航空会社による振り分けとなっていますのでご注意を
昔からの国際線ターミナルは、第一ターミナルとして海外の航空会社専用
第二ターミナルがPAL 第三ターミナルが 新興のセブパシフィック航空
その他の国内線は、昔からのドメスティックターミナルとなっています。
その昔は、あえてそんな風に望んで仕事を選んでいた時期もありました
日本とは真逆の南半球か 真冬には、それに加えて熱帯地域とか
そんな贅沢もいってられなくなって久しいのですが
今回久しぶりに、真冬に南米の話が飛び込んできました
以前は、商談などでの旅だったので比較的自由がきき
その昔の植民地と宗主国の関係で南米への航路が豊富にある
スペイン・イベリア航空を使いヨーロッパ経由(via マドリッド)で入ったり
アメリカ西海岸⇒マイアミ経由して向かったものでしたが
便数も少なかったため、往復それぞれの経由地で1泊か2泊してのゆったりとした日程
ところがいまどきは、いろんなルートで飛べるようになったこと
また、乗り継ぎも便利になって、経由地でのトランジットはたったの数時間
便利さってのは 快適さとは違うんですよね。。。
と、いうわけで 今回は、JL、AA&LP(LAN CHILE)のNRT+NY(JFK)経由
国内では、最近めったに乗らなくなったJALに搭乗しました
運が悪いのか なんなのか
JALのチェックインカウンターでは、いっつも対応の悪さに泣かされています
(今回は、ど新人グランドスタッフのOJT 教育も大切だろうけど、お客のことも考えて
もう少し慣れるまで練習してから実践させて欲しいんだよなぁ。。。とグチっちゃったりして)
近々また尾翼の鶴のマークが復活するとか・・・
以前のJAL栄光の時代が懐かしいですね
成田からはAA 嫌いなんだよなぁ
この会社 LCC並みでサービス悪すぎ
乗客のほとんどが、アメリカ人+中国、韓国、その他アジアからのトランジット客
成田を飛び立って約13時間 ハドソン川の上流もしっかり凍てついてました
ロングアイランド南端のロングビーチ辺りもすっかり冬景色
この日の外気温は、-13℃とのアナウンスがありました
JFK着陸寸前 彼方にマンハッタンの夜景が見えたのですが・・・ボヤケテますよねぇ
トランジットは、JFKターミナル8からターミナル4へ
昔は、JFKからNewArkへ移動なんてのもありましたから、それに比べたら便利
時間が時間だったので、出発便は長距離がほとんど
LAN(チリ航空)は、南米の太平洋側路線ではもっともメジャーな航空会社なんですね
約8時間のフライトで、Jeorge Chavez A/Pに到着(スペイン語読みで”ホルヘチャヴェス”)
そこそこ新しそうな空港ビルでしたが、雰囲気は発展途上国色たっぷり
CallaoのPlaza Grau とっても意味プーですよね(笑)
ココから沖にアンカー(投錨)している船への通船が出ています
なんせ、遅い船でビックリ(爆) とはいえ、お客で乗ってる分には気分は楽チン
「ふむふむ、アンデスはこんな感じなんだな」とひとり頷いてみました
ホホォー この船があるということは 海底資源があるんだな と これまた一人合点
レーダーに写る点々が、周辺の船
実は、港湾ストライキ中で、20隻以上の船が沖待ちさせられていました
4月に大統領選があるとのことで、条件闘争で、大統領候補にかけあっているとのこと
より良い条件を出した候補に組合で推薦して投票するとの一種の脅し
FUJIMORI大統領の娘のKEIKO FUJIMORI(フヒモリって発音するから笑っちゃいました)も
立候補してて、山岳部の貧困層からは絶大なる人気があるらしーです
Callao港沖に浮かぶ サンロレンソ島
草木の生えない砂漠状の島で、いかにもペルーらしい感じでした
港湾スト中でしたが、直接経済に影響するクルーズ船とコンテナ船は対象外とのこと
Limaや地上絵のナスカ(バスで片道約7時間)へのオプショナルツアーに行くらしいです。
この日は2隻のクルーズ船が停泊していて、聞いた話では乗客のひとりが観光中に
心臓発作をおこして急死したため、捜査が完了するまで船も足止めをくってるとか
のんびり船旅を楽しんでるようなお客さん達だから平気なのかな?
ちなみに こんな航路があります
http://www.cruisetimetables.com/visitingcallaolimaperu-jan2011.html?offset=11
典型的なペルー飯のひとつ LOMO SALTADO(牛肉と野菜の炒めもの)
↑これまた名物のCEVICHE(セビッチェ:ペルー風刺身) レモンとチリがきいて絶品です
これに生姜を加えると フィリピンのキニラウ
または、トマトやキュウリ&ココナッツミルクで合えたら南太平洋のオカ または オタイカ
実は、ペルーの食事での一番の楽しみがコレでした
いつものことながら、レストランでは飲み足らず、外でセルベッサを仕入れてきました。
ただ、このcallaoのPilsenは、あんまりおいしくなかったかな
ペルーでお勧めのセルヴェッサは これ↓
なかなかおしかったですよ~
では とりあえず今日は ここまで~ (たぶん続く)
どうして空港へ向かわなければならなかったか?
それは、実はAir IndiaのETDが07:30 夜明けの第一便だったんです。。。
チェックインできるんだったら、ターミナル内のビジネスラウンジに行って
仮眠室もシャワーも使ったらいいかと考えてたんですが・・・
Air Indiaは翌朝までチェックインもできないことが判明
またまた仕方がないので、空港到着後、まだビールが飲み足らなかったのを思い出し
空いてる店を探してもすでにどこも閉店したあとばかり
仕方がないので、閉店準備をしていた粥屋で夜食することにしました
ピータン牛肉粥+油條(中国揚げパン)で、しめてHK$24(300円)
おいしかったけど・・・間違いなく太るなこりゃ
することがないので、荷物カートを眺めていたら・・・
んっ? なになに? SUKIDA?
スズキとホンダをもじった名前の中国製バイクの広告でした~(爆)
この日の最終便が、02:00発の韓国釜山行き
05:20のAIのチェックイン開始時刻まで空港はしばしのお休み
他の空港寝泊まり客と一緒にベンチで夜を明かしました
(これがまた、ほとんど空きベンチがないくらい沢山の人がいてビックリ)
翌朝(?)、一番目でチェックインを済ませ、ターミナル内で朝食をとることに
この日は、パンケーキ+ソーセージセットに小豆パイを
”甘さひかえめ” は良いとして、普通はシリアスじゃないんかい!とひとりでツッコミ
でも、そこそこ美味しかったです 日本にもあるのかなぁ?
次に目にとまったのが、電動カートの有料サービス
普通は、お年寄りやハンディキャップの人達への無償サービスだったのに・・・
とおもっていたら、最近、ターミナルの増設工事が終わり、第二ターミナルもできて
501-530ゲートができていました
たしかに、巨大ハブ空港って、ターミナル内の移動時間もバカになりませんよね
動く歩道や、エアトレインが走っていても大変
有料シャトルのサービスも一般向けなんだなと納得しました。
これも最近設置された無料のPCインターネットサービス
Free Wi-Fiも使えるようになって、とっても便利になってますヨ
【旅のおわりに】
残念ながら、やっぱりAIはお勧めじゃなかったです。
この香港出発時刻の不便さもさることながら、
機内エンターテイメントは、映画は古いし、食事もイマイチともいえないグレード
帰りの機内では、イヤホーンを配るのさえ忘れてるのかなんなのか・・・
それから、操縦が上手いのか下手なのか
離着陸の粗さに 久々にこれで最期かと覚悟を決めたほど
乗客のほとんどは、インド人客とインド観光の日本人ツアー客
年配のお客だから仕方ないのかもしれませんが、マナー無視の無法地帯
とりあげて長所をあげるとすると・・・
そんなこんなで 機内はガラガラ ってことでしょうか
こんなだったら、早く他のLCCが飛んで欲しいなと、改めて願った次第です。
今回は、香港島からの出発
とはいえ、正直な話、こうして公開しているのが申し訳ないほど
ストーリー性もテーマもなく、ただ自分が動いたままダラダラと書き連ねてばかり
自分の記録のつもりの自己満足ブログなので、よければこのままスルーしてくださいネ
中環(セントラル)のバスターミナルを出たバスが、しばらく走って信号で停止
偶然にも、ビルの谷間からセントラルプラザが
これは写真に撮っておきなさい って天の声を聞いた気がしてすかさずパチリ
この日は、久しぶりに赤柱(スタンレー)に行ってみました
(路線は、6X アバディーントンネル経由)
何年ぶりだろ 7~8年は来てなかったはず
昔から変わらないマーケットの迷路では、花文字が流行っているようでした
昔は、そこそこ興味があったけど、いまどきどこでもなんでも買えちゃうから
商売は厳しいでしょうね
なんとなく、上野のアメヨコや、神戸三宮のガード下みたいな感じで
ノスタルジックな気分にさせてくれるんです
ここ赤柱(スタンレー)周辺は、香港らしからぬ風景でとっても心休まる雰囲気が漂う場所
ただ、いっつも観光客が多すぎるのがちょっと
とはいえ赤柱は、歴史的にも由緒のある土地
ただ、昔は海賊が出没する危険地帯だったたそうです
海岸沿いにPubが並んでいて、昼から堂々と飲めるのがまた気にいっちゃってます
↑こちらは、赤柱の西側にあるビーチリゾート 浅水湾(Repulse Bay)
この辺りはホント、香港の別世界
半端じゃない金持ちの住む地域なので、駐車している車も高級欧州車ばっかし
ちなみに、観光で有名なケーブルカーでゆくPeak辺りは、
コンドで3ベッドルームが20億円 4ベッドルームだったら30億円超
浅水湾は、グッと下がって3ベッドルームで10億円以下からあるみたいです。
http://www.starts.co.jp/hongkong/admin/special/pdf/8.pdf
帰りは、浅水湾道から深水湾道を抜けて銅鑼湾に出る山越えルート
狭い断崖絶壁の道を走るスリル満点なルートで超オススメです
峠付近には、凡人には全く見当もつかない一戸建ての大豪邸もあって、
茫然と口を開いたまま見入ってしまいました
街中に出ると アチコチに竹が積まれて・・・
ビルの外壁塗装ようの足場にはいまでも竹が使われていました
その昔は、数十階建ての建築現場も足場はほとんど竹だけでしたよね
北角(ノースポイント)で、バスを降り、今度はトラムに乗り換えることにしました
香港でもっとも賑やかな繁華街 銅鑼湾のそごう前は、いつも変わらず大混雑
若かりし頃には、この入り口でよく待ち合わせしたものでした (渋谷の109みたいでしょ)
香港島では、トラムが便利で大好きです
ただ、ただでさえ渋滞している路面を走り、道路事情に左右されて時間がかかるので、
地元の人達はもっぱら学生か老人、それと近距離利用者がほとんど
ただ、暑い季節は汗ダクになっちゃうのがタマにキズですなんだけど
安いから(一律大人HK$2)文句は言えません
ココ↑はHappy Valleyの分岐点 この辺りは飲食店が多くて馴染みの場所
一般道路はバスや乗用車でうめ尽くされているから、自転車やリヤカーが
よく線路内を走っています。 でも、 気持ちはよくわかるなぁ
その昔は、いたるところで見られた露天商風景
観光地の女人街だけじゃなくて、いまだに湾チャイ辺りにも残っててホッとしました
風水にこだわった変わったビル(中国銀行&Lippo)の立ちならぶ金鐘(アドミラリティ)付近
10年ほど前には、このビルが最も高かったのになぁ
そのまた昔は、マンダリンホテル(中央左側)もランドマークだったのに。。。
Mid-levels エスカレーター (ボヤケててすみません)
ちょっとオシャレなSOHO辺り
この辺りは、Pubや欧州レストランも多くて人気のスポット
薄暗くなってきたので、再び中環から半島側に戻ることにしました
またまたStar Ferryで、今度は尖沙咀へ
夜景で眺めると、IFCの異様な高さに改めてもう一度ビックリ
(ちなみに IFC2:高い方 が88階だそうです。ICCは、108階)
こちらは、尖沙咀の新人気スポット ”1881Heritage”
20数年来の友人がマネージャーをしてる(ちょっと自慢?笑)
老舗Peninsula Hotelを横目で眺め、
今回の旅の目玉にしようと考えていた重慶マンションへ
ところが、半径数十メーターに入ると、イスラム系の鬱陶しい客引きだらけ
特にキャリーバックを引きづっていたもんだから五月蠅いのなんのって
とうとう頭にきて重慶マンションを諦めて とりあえず腹ごしらえすることに
広東料理の中でも、特にコノ↑ Roast Porkが大好物
クリスピーなパリパリの皮と、味付けしてないジューシーな柔らかい肉が最高
これがまたビールに合うんですよね~
↑ココは、とっても人気の日本風ラーメン屋さん
NYとかでも最近流行ってるけど、きっと手軽で早くてそこそこ食べ応えもあるってのが
気に入られてるのかもしれませんね
これが香港島のSOHOのように特に欧米系が好きなKnutford Terrace
こ洒落たレストランやパブが沢山あるナイトスポット
Roast Porkを堪能した後だったんで、Pubで飲むことにしました
運良く(?)優しい美麗な香港の小姐に話しかけ、会話が弾んでいたところ・・・
エッエーーーーッ!!! 香港空港って 24時間開いてんじゃ~ないって?!
そう言えば・・・たしかにトランジットで夜中に乗り換えしたことはあったけど
なんか、異様なほど閑散としてたような記憶が。。。
せっかく勝手にひとり今宵のアバンチュールを夢見ていたのに・・・
後ろ髪をひかれる思いで、でも焦ってAirport ExpressのMTR九龍駅に移動し
最終に間に合ってなんとか事なきを得たけど、ホント残念だったなぁ(冗談ですよ )
(ご参考までに、九龍からの最終が00:52 始発は05:53)
【その3に続く】
突然、突拍子もないことをお尋ねしますが
地名の呼び方に疑問を感じたことってないですか
比較的、現地の発音に忠実な日本のような国と
あくまでも自分達のルールに従って、オリジナルには全く拘らない国々と・・・
アメリカ人は、ご存知のとおり我が道をゆく無法者
現地の呼び方など全く気にせず、自分達の発音だけに忠実ですよねぇ
一例をあげると・・・
サンクト・ペテロブルグ⇒セイント・ピーターズバーグ
モスクワ⇒モスコウ
ウラジオストック⇒ヴラディボストック
ヨハネスブルグ⇒ジョハネスブルグ
ロシア人は
ヨコハマ⇒ヨコガマ
ハンブルグ⇒ガンブルグ
そして中国人の
大阪⇒ターパン
東京⇒ドンチン 等々
と、前置きが長くなりましたが
すでにおわかりになられたかと思いますが
ようするにシャンガンとは香港の北京語発音(ホンコンは広東語発音)
ということで、本日は、中国広州からの旅の続き、
広九鉄道を降りた紅磡(ホンハム)駅からの始まり始まり~
さて、紅磡駅からどうしようかと迷った末、とりあえずバスに乗って黄埔花園へ
終点のバスターミナルで下車してから、海方向を目指して歩いていると・・・
何故か陸に、実にリアルな客船風の建物が
実はコレ↑ ホンハムのジャスコでした
ベビーカーを押しながら、雑談に余念のない日本人駐在員妻の一団に遭遇
おっと、この辺りも日本人が多いのか~と実感しました
どうしてこの場所に来たかというと・・・
実は、コレ↓ スターフェリーの紅磡埠頭があるんです
ここから、北角(ノースポイント)、湾仔(ワンチャイ)そして中環(セントラル)に渡れます
今回は、香港島側のメインのバスターミナルを目指し、セントラル行きに乗船
昼過ぎの閑散期で、乗客はまばら ココからは、二階席のみみたいでした
出航して5分もたたないうちに、目の前には香港島の摩天楼が
それにしてもIFC(International Finance Bildg.)高っかいな~
と思って後ろを振り向いてみたら
ドッヒャ~! 尖沙咀側のビルもできちゃってんじゃん
あとで調べたら名前がICC(International Commerce Centre)ビルと判明
中国に返還される頃は、香港が貯めた資産を持っていかれないようにってことで
建設ラッシュだったけど、
その後は、メキメキと世界経済の一翼を担う大国として台頭を表してきた
新生中国の窓口として、以前よりももっと繁栄しちゃってんだもん 凄すぎ
と感慨に耽っているヒマもなくフェリーは中環(セントラル)に到着
Central Pierのすぐ隣では、またまた大掛かりな建築現場に
ノンビリと工事を眺めている人達も
(なんとなく、NYのグランドゼロの建設現場を思い出してしまいました)
【その2に続く】
前回の1月12日、
香港空港から乗車したバスで向かったのがココ↓
広州市の越秀区解放北路にある中国大酒店
(China Hotel, a Marriott hotel,Guangzhou:広州で最初にできた☆☆☆☆☆)
築30年で、モダンさはないものの、アクセスの便利さ、ロケーション&設備の良さに
充分満足できました
Receptionでチェックイン
パスポートの名前を照合したと思ったら、なぜか急にスタッフがアタフタとしだし、
即座にアシスタントマネージャーが飛んできて挨拶
「○○様、ようこそいらっしゃいませ。」
「本日は、当ホテルをご利用いただき大変ありがとうございます。」
「ご予約いただきましたお部屋からスイートにグレードアップさせていただきました」
「また、Executive Lougeもご自由にお使いいただけますが、よろしいでしょうか?」
とアレコレと矢継ぎ早に説明されて ちょっとドギマギ
手続きを終えたと思ったら、ベルボーイを呼ばずにフロントの女性スタッフが先導して
部屋まで案内するとのこと
「荷物もないから、エレベーターホールまででいいですよ」と押し問答を繰り返していたら
今度はジェネラルマネージャーが登場
またまた丁重にホテル利用のお礼を述べられて・・・
『一体、ど、どーしちゃったの?』と VIP待遇に驚いてしまいました
17FのExective Floorは、ペントハウス用のように専用エレベーターではないものの
このフロアーの部屋のカードキイを差し込まないと、フロアーへは入れない仕組み
当日の外気温が一桁だったにもかかわらず、白人客が泳いでいてビックリ
Fitnessで運動したあとだったのかなぁ
これは、中国大酒店に隣接する老舗ホテル東方賓館(ドンファンピンガン)
昔のロシア同様、共産時代を彷彿とさせる巨大ホテルのようでした
中国大酒店は、築30年で、モダンさはないものの、調度類は贅を尽くした重厚なものばかり
アクセスの便利さ、ロケーション&設備の良さもあわせて充分満足
広州も、すでに何本もの地下鉄線ができあがっていました
さすが中国 アッと言う間にインフラが整備できちゃうんですよねぇ
周辺の越秀公園・流花湖公園・龍湖公園等用に貸し出されているレンタル
と、いうことで(?) ホテルの周辺をブラついてみました
ココ↑は、東方賓館の先にあった最近流行りのチェーンの中華料理店
広東風というか、マカオ風ですが、そこそこイケますヨ
個人的には、昔ながらの飲茶を売りにしているような餐庁が好きですが
道路を隔てて向かい側、流花湖公園内にあった 超高級海鮮餐庁
この鯉のバカでかさ!
水族館じゃ~ないんですよ 水槽にウミガメが泳いでるけど
自分には場違いな 富裕層御用達って感じ
即座に退散することにしました
これは、その隣にあった粥の専門店
といっても、ただの粥じゃなくて、こちらもやはり高級海鮮を使った粥が売り物で
ひとりで入れる店じゃありませんでした。。。
仕方がないので、いつものお馴染みの蘭州のラーメン屋で牛肉面を食べて
コンビニでビールを買ってホテルに戻りました
↑は、ハルビンビール ↓は、広州の地ビール 珠江啤酒
ホテルの裏手には、香港・マカオとの直行バス乗り場があってとっても便利
しかし、同じルートで往復するのが嫌いなので 帰路は電車にしました
昔から良く使ってる”広九(広州・九龍)鉄道”
昔は、シベリア鉄道と同じ、頑丈さばかりが目立つ古臭い車両でしたが、
最近では、欧州モデルのWデッカー車両とかもあるんですヨ
その昔、中国本土人が香港はもとより、深センへも自由に出入りすることができなかったので
ほぼ、香港人や外国人の専用電車の様相でしたが、いまではほとんどが中国本土人
最近は広州東駅が、広九鉄道での玄関口
広州‐深センの”広深鉄道”も、すっかり新幹線のように変貌していてビックリ
時間に余裕のある人は、深センから羅湖(香港国境)に入ってみるもの面白いですヨ
昔から治安の悪いところなので、防犯カメラも至る所にあり、警察官もウヨウヨいます。
その昔、筆談で切符を買ったことを思い出してしまいました
大変な時代だったなぁ。。。
土産物売り場に並んでたプーアール茶
雲南のモノが貴重で高価なんですヨ 一種の資産のように扱われたりします
↑このサイズで、約1万円弱
これが特等車両の内部(Wデッカーの下の車両)
特等では、水とピーナッツの配給(?)あり
食事は、メニューから選んで注文すると持ってきてくれるようでした
車両によっては、食堂車もあって鉄道の旅もより楽しめます
香港の羅湖付近の国境風景
その昔は、なんとなく緊張したものでしたが、今はもう不要な気させしてしまいます。
九龍駅(いまは
羅湖から深センに入り、TAXIを飛ばして行ったものの、途中で降ろされ
オートバイの後ろに乗せられて丸一日かけての移動が普通でしたね
運よく広州行きの電車に乗れても
駅舎を出た途端に何人もの物乞いにまとわりつかれ
ようやく広場を抜けてTAXIを捕まえても、幼児をおぶった物乞いが扉の間に手を差し込み
扉を閉めることができなくて困っていても、運転手も素知らぬふり
また、往きはよいよい帰りは怖いで
ある時、昼に仕事を終えて、急では深セン行きしか乗れないだろうと
広州東駅に向かい、切符売り場で時刻表を眺めていたところ、
なにやら外国人を認めた怪しい英語を話す人物が現れ
「今日は、もう深セン行きは終わりましたよ」
「私が、明日の切符を買っておきますから、今日は近くの招待所に泊まるのがいいですね」
「そうそう、荷物は持ち運ぶのが大変でしょうから、明日まで私の事務所に置いてください」
「イヤ。別に運ぶのは大変じゃないから、招待所まで持ち運ぶから平気だ」と話しても
”どうしても荷物を置いてゆけ”との一点張り
「なんでそこまで荷物にこだわるのか理解できないぞ! もう構わないでくれ!」と突き放し
切符売り場で、筆談で尋ねてみたら なんと深セン行きがまだあるとわかってビックリ
・・・そんな時代でしたねぇ
当時の現地での出来事を書き始めたらキリがないので これくらいにしておきますが、
昨今の変貌ぶりには、いまだに目を丸くして眺めているばかりです。
先週、急に思い立って プチ出張に
今回の機材は、コレ↑ ちょっと前まで747(ジャンボ)だったけど
さすが時代の一翼を担ってる新興国
時代の流れに沿って777になってました
それにしても経由地多すぎ
ムンバイ行きには使いたくないですねぇ
機内は、結構ゆったりした配置
通常の777のエコノミー席だったら 3+4+3なのに
AIでは 3+3+3 シートもゆったり
このフットレスト 裸足で使うとツボに入って快適でしたヨ
コントローラーも初めて見るタイプ
さすがAI 機内誌のエンターテイメントも、ほとんどインドものばかり
ハリウッドじゃなくてBOLLYWOODってとこの感性にひとりおおうけ(笑)
でも、インド映画って、
1本の中にアクションあり、ラブロマンスあり、コメディーあり、ミュージカルありで
なんでも楽しめちゃうから、結構ハマっちゃうんですよね
フルタッチスクリーンの液晶画面
USBのジャックもあって携帯の充電もできて助かりました
ここまでマンガチックなCGも珍しいな(爆)
インドビールが出てくるかと思ったら タイガーでした
でも、なんにも言わなくても2本くれて 嬉しかったりして
ま、こんなもんでしょ 本日は、チキンカレーにしてみました
空港に降り立って、さてどうやって、どこに行こうかと考えた末
よし、バスにしょうってことでバスターミナルへ
知らない間に、とってもキレイなバスターミナルができていました
(↑は、Mainland方面行き乗り場)
7・8年ぶりだったから、やっぱインフレしてるんだなぁ~って印象でした。
おっと、そろそろ出発しないと
またあとで、編集しなおしま~す
初めて中国を訪れたのが、1979年の夏
未だ学生の時、戦後初めての招待とかで、船で天津に入りました。
当時は、未だ一般開放されてない時代だったので、自由に出歩くことができず
1日目が夜中に出発して北京へのバスツアー
天安門広場、故宮、頤和園を観光し、当時最高級のホテル北京大飯店で
共産党幹部に迎えられての歓迎レセプション
2日目は天津市内の絨毯工場、翡翠工場の市内見学とやっぱり歓迎レセプション(笑)
人民元も一般用と外国人用が別で、基本的にシーメンズクラブでの食事や
土産物や輸入品が買えるだけ
高速道路なんて勿論なくて、車もバスと軍のサイドカーやトラックをちらほら見かけるだけ
一般車を見かけることはほとんどなく、目につくのは自転車ばかり
舗装をされていない道を埃だらけになりながら移動したことを昨日のように思い出します
入港前に注意事項として伝えられたのが、
”支那”という言葉は絶対に使用厳禁
たとえ人民服であっても女性の下半身を見つめないように(目をやらないように)
そんな時代でしたねぇ。。。
その後、1990年以降になって仕事で訪れる機会が増え、
主に沿海部のアチコチを20回以上訪れてきました
深セン、東莞、広州、上海、大連、天津、北京、シャーメン(アモイ)、青島、杭州、ニンボウ、
舟山、そして今回の連運港
昭和初期でも、日本はもっと発展していただろうと思われるような時代から
高層ビルやマンションが乱立し、地下鉄が走り、高速道路が全国を網羅し、
高級車がウヨウヨと走りまわる現在まで
なにもない荒れ地が大都市へと変貌してゆく姿を、驚愕の眼差しでみつめてきました。
そして、最近とみに感じるのが開発、発展による”古き良き時代の姿”が
ほとんど見られなくなってしまったことへの、えも言われぬ寂寥感でした。
ところが今回、連運港からの帰路、江蘇省と山東省の境辺りの農村風景を眺め
昔ながらの姿が残っていることがわかりました
煉瓦積みの平屋の家々
越冬するための(暖房や炊事用)トウモロコシの枯れ草が家を覆うほど積まれ
川や池がすっかり凍結しているのに、綿入れ服や人民服で出歩く人々
昔ながらの用水沿いに並木の植わった道路をゆっくりと走る自転車
とはいえ、遠からず、こうした昔ながらの村も変わっていくんだろうな・・・
『よし、近々時間を作ってあんな田舎を歩いてみよう』 との決意をしたのでした。
黄海の沿岸部の浅瀬を堰き止めて農地に転換したような見渡す限りの広大な開拓地
時速100キロで約30分この風景が続いていました。
比較的裕福そうな農村も
【付録】
今回帰国前日に泊まった機場近くのQUEENS HOTEL
飛び込みで、シングル バイキング朝食付き388元(約5000円)
これもホテル 丹頂鶴大酒店ってネーミングがすごい(笑)
これも近くのホテル 危ないサウナが売りのようでした
さて、ホテルのバスルームというとコレ
中国なりの ホテルの定義があるんでしょうね
安全套はわかるんだけど・・・なぜに震動付き?(爆)
こちらはミニバーのカウンターに置かれた カップ麺と靴下に男女の下着
ホテルの前の歩道がキレイ
で、よくよく凝視してみたら 爆竹の包み紙でした
こちらは、もう使わなくなった廃墟 築10年くらいなのにきっと取り壊しになるんでしょうね
道を歩いていて警察官が行き倒れ風の若者へ尋問しているところに遭遇
こちらは、安宿(賓館) 招待所よりは格が上なんですヨ
ハングル表示があるあたり、朝鮮族が多いと想像がつきました。
早餐(ファストフード)のお店 ほとんど10元(125円)以内で食べられます。
まだまだポピュラーな運搬車 オート三輪も沢山走っています。
これは便利店(コンビニエンスストアー)
こちらは超市(スーパーマーケット)という名ばかりの雑貨屋(笑)
さて、何と書いてあるのでしょうか? (ヒントあり)
集合住宅(アパート)の 不動産物件と求人(お手伝いさん)広告
朝鮮族の多い地域なので、豚足料理の専門店もありました
この日の夕食 (麻辛豆腐+香辛肉糸+青菜炒)
外でウロウロしていたら、ハキハキして感じのいい、この店の娘さんに声をかけられて
迷わずに入ってしましました なかなかの美人だったし
結局、青島ビール3本飲んだら おなかいっぱいになっちゃって・・・
しめに酸辛湯頼んでギブアップしてしまいました(合計 65元:約800円)
今回の旅でとっても役に立った防寒用品 すべてダイソーで買っていきました(合計550円)
今回の中国土産 左下の食べるラー油ピーナッツ入りが とっても美味ではまっちゃいました
あと、左上の歯磨きは、見事偽物を買ってしまいました!
普通の超市で本物が30元前後なのに、6元だったからおかしいな?とは思ったんだけど・・・
恐るべし中国! みなさんもお買い物には十分注意してくださいネ
あと、ザーサイは、白粥で食べるのがとってもお勧め 飲んだあとのお茶漬けとかにも最高です。
豚肉か鶏肉の細切りと炒めて、ラーメンに入れてもおいし~ですよ~
ま、この程度はカワイイ誤字ですよね
部屋に置いてあった なかなか意味不明なマッサージ広告
青島空港 一見するとってもモダンですが・・・
雨が少なくて黄砂の多い地域なんで、よく見ると土埃が堆積してて残念
この霞んだ感じがいかにも中国
訳もなく広々としたターミナル内部の空間 開放的ではありますけどネ
高速道路の料金所には ”一路平安(イールーピンアン)”ってあったなぁ (笑)
出発ゲート前の土産物店
店によっては、同じモノが3~4倍の価格で置いてあります。
ただでさえ、外より高いので、空港内でのショッピングはホントお勧めできません
たぶん当初はスタバだったのかな? ってカフェ
外のスーパーで3元の青島缶ビールが30元(400円弱)!
足元みすぎだ!っちゅ~の
帰りの飛行機は 団体観光客もおらずガラガラで超快適
なんといっても、小柄で超美麗なスッチーがいたのにビックリ!
まだ恥じらいが残ってて、控え目な態度ながら真面目な接客に感激しちゃいました
「どーせまた最悪だろうな」と諦めてたぶん、反動でムッチャ嬉しかったのかな
次からの中国行きは、MUにしよ っと(爆)
やっぱ、お客さんに好印象を与えるってとっても大切だな って
つくづくと思い知らされた出来事でした
今回宿泊したホテル 明珠万豪国際酒店
英語名が、Mingzhu Seaview Hotelですけど、海は見えなかったなぁ。。。
だから(海が見えない)って、別に浴室が覗けなくてもいいんだけど・・・
インターネットは接続無料 でもやっぱりしっかりと監視されてるから
繋げるサイトの制限があるし、なんせ重いというか遅いというか
ま、贅沢は言えませんね
連運区のメインストリート 中山中路かな(?)
いつの日か、きっと懐かしの風景になるかと撮ってみました
さて、なんと読むのでしょうか?(ヒントは、左上の看板)
こちらが中山中路みたいでした~ 一応、ファッション系のお店が並んでたし
この手のビルも、15年前にはとってもモダンだったんですけど
ブルーの建物が”実験小学校”って書いてありましたけど、ようするに小学校
中央の店が、中国ではもっともポピュラーなラーメン屋さん
ウルムチとかあちら方面の人達がやっています。
牛肉面(小)5元(約60円) 場所によっては、注文を受けてから
テーブルに叩きながら手延べで麺を打ってくれるんですヨ
ココは狗肉料理専門店
夜の屋台でも、”正宗狗肉”とかってうたい文句で売っていたけど・・・
正宗じゃない肉があるってことなんだろうなぁ。。。
いずれにしても、中国の特に上海より北では狗肉料理がとてもポピュラー
韓国もそうだったけど、寒い地方と関係があるのかな?
これはアダルトグッズ専門店 この手の店もけっこうあります。
町歩きしてたら 突然、この↑連中と遭遇
どっかから逃げてきたのか、放し飼いなのか。。。 謎(笑)
レストランは、この手の火鍋の店が大半でした 狗肉も使ってそうだったんでパス
下町にあった食堂 普通の1品が5~7元 チンジャオロースーや回鍋肉が10元
お昼時には、どの店もほぼ満席状態で賑わっていました
徐州が近いからか羊肉専門店もよく見かけました
蒙古鍋とか北京鍋、火鍋には欠かせない食材 でも、羊肉湯とか羊肉面って・・・なんか臭そー
下町感たっぷりのアパート でもこれもまだ10年くらいの建物だと思うなぁ
なんせ、改装とか再塗装とかって観念がなくて、へたすると取り壊して
また新しく建て直すんですよネ 韓国もけっこう近い感覚があるみたいですけど
昔は、こんな店で食べるのが好きでしたけど
最近になって、食材が怖くて行けなくなってしまいました
ホテルに戻り、昼間の町歩きで、冷え切った体を温めるために
日本で買った焼酎をお湯割りにして飲んだもんだから そのまま撃沈
目が覚めて外を覗いたらすっかり夜になっていました
どんなに薄汚れたビルも、ライトアップするとそこそこキレイそうに見えるから不思議ですよねぇ
それにしても 中国系は、この手の赤いネオンが好きですねぇ
アムステルダムだったら”飾り窓”(英語名:レッドライト)だっての(笑)
繁華街にあった中国らしくない輸入酒専門店 日本酒もしっかりありました
夕食に選んだのが、この鍋料理
ビールは、ポピュラーな銘柄にしようと思ったのに
日本人とみたら高いのしか勧めないっていうか、高いのを注文するまで諦めない(爆)
それにしても”精王”ってどんな意味やねん って感じ (王子碑酒:王子ビール)
スープの味から調味料、具材すべてメニューの中から選ぶものだったので
知ってるものしか頼めませんでした
羊肉、平茸(シイタケ)、香菜、白菜、青菜、木耳、冬瓜、おろしニンニク
写真にはありませんが、これに肥肉(牛肉)+冷菜のピータンと
ビール3本を加えて100元 (1250円)
キッチリ100元ってのがウソ臭いんだけど 面倒だったんでそのまま支払ってきました。
夕食のあとには、足浴に 90分コース60元(750円)
漢方薬入りの足湯+足蒸し+全身マッサージ+足ツボマッサージ(角質削り、カッピング込み)
5・6年前の広州では35元くらいでしたから、やっぱりインフレしてるんでしょうね
それにしても 黄海に面してし、緯度的にももう少し温かいかと思ったら
夜にはしっかり零下になっていた様子でした。
さて、これから仕事に向かいます。
また船の乗り込むのでネットはしばらくの間お預け
今回は、なんの問題なく戻ってこられますように
さて、先週のこと
依頼元より「来週のご都合はいかがでしょうか?」との電話に
「空いてなくても空けますよ♪」と返事したところ、どうやら今回の仕事先が
連運港とのこと。
初めて訪れる土地でもあり、一体どんなとこかと少々心躍らせながら旅立ってきました。
とはいえ、約1年ぶりの中国行き
今回は、久しぶりに中国東方航空の直行便 を利用。
(これまでの青島行きは、いつも韓国仁川経由を使ってました。)
その昔、スッチーは最悪、Mealも最悪、機材も最悪の3拍子で
「二度と乗るもんか!」と思っていましたが、
機材も内装がリフォームされて、スッチーも、Miealもそこそこ改善されてました
今回なによりも驚かされたのが、乗客
たぶん90%が中国人観光客
(噂に違わず、みんなMade in Japanの炊飯器お土産に持ってましたヨ)
まだまだモラルに問題ありですが、その昔と比べたらずいぶん良くなっててこれまたビックリ
やはり”衣食足りて礼節を知る”なんでしょうね
韓国人もそんな感じだったし、 我々日本人だってそうだったんですよね
JALとの共同運航便だけど、日本-中国間はマイレージ加算なし
ラウンジも使えなくて、仕方なく ダイナースカードで利用できる"金剛”に
缶ビール 1本¥500は高いな~。。。(外の売店だったら¥250)
といいながら、2本飲むヤツ (結局、外で生ビールと追加の缶ビール飲みましたけど)
ヒマだったんで ちょっとマイレージカードを見せびらかしちゃったりして
スターアライアンスグループのチケットだったら、いろんな特典が使えるんですけどね
これは、関空とセントレア、成田で使える自動化ゲートの登録スタンプ
自動化ゲートを使えば、日本の入出国スタンプが押されなくなったので、
その分パスポートの増補も更新も伸びたらいいなって思って
まだまだ登録者も少ないから、行列に並ばなくてもよくてとっても便利ですよ
青島から連運港までの高速のサービスエリア
外観では遠目+夜景ではそこそこですが、内部はとってもチープ感たっぷりで
「ふむふむ、やはり中国だな」と納得してしまいました
中国のホテルならではのバスルーム販売グッズ
なぜか、必ず保健用品 ”明るい家族計画”モノがあるんだよなぁ~ これが(爆)
今回のホテルは、連運区にある明珠万豪国際酒店(★★★★★)
一瞬豪華そうに見えて、極めて低品質な調度類(バスルームの扉閉まらないし・・・)
これで五つ星はないやろ!って感じ(笑)
建設中の高層ビルもありますが、他の沿海主要都市の開発と比べると遅れてる印象
ホテルの裏手にある后運台山側の住宅地も
開発(年代)の度合いによっていろんな種類のアパートのあるのが面白いですネ
実は、こんな感じの方が、個人的にはとっても親しみがもてて大好きです
温故知新じゃないけど、なんでもかんでも新しくてモダンばっかしって方が
かえって寂しい気がしてしまって
以前には何かの施設があった場所が、近年の開発・発展の象徴である
スクラップ&ビルドで更地になってました。
朝から何千か何万かの爆竹が鳴り響いてビックリ
どうやら工事開始の儀式のようでした
車も急激に増加して、駐車場が間に合わない状態
ロシアとか東欧もこんな感じなんですよネ
そういう日本も、昭和40年代はそんな感じでしたねぇ。。。
さて、この連運港という場所
今回訪れるまでは知りませんでしたが、
”新ユーラシア・ランドブリッジ”として鉄路を使ったアジア側の玄関として
開発中の港とのこと
いや~ すごい勉強になりました
アジアと欧州とを結ぶ シベリア鉄道以外の鉄路での輸送方法
ディーゼル機関車じゃなくて、電車だったら
どーやって発電するかが課題ながら、環境的にもとっても良いこととは思うけど・・・
よーく考えてみたら 将来、商売あがったりになるな こりゃ
ネタがなくなったわけじゃないんですが
途中でほっぽったままにしてたフランスの旅の続きしてみますネ
ということで、Menton(マントン)の写真をアッチコッチのアルバムを探してみるも
どうしても見つかりませんでした。。。
ではってことで、ネットからの画像をお借りして・・・
http://photoenligne.free.fr/AlpesMaritimes2/Menton/Menton.html
http://www.tourisme-menton.fr/-Tourisme-Decouverte-de-Menton-.html
↑こんな感じの街です。 (むっちゃいいかげん)
Côte d'Azur(コート・ダジュール)の中心的な街であるNice(ニース)やCannes(カンヌ)
Antibes(アンティーブ)、Monaco(モナコ)と比べ、街の規模もずっと小さいので、
真夏のハイシーズンでもホテルのキャパから受け入れられる人数が限られているので
落ち着いてて、のんびりできる場所でした
旧市街も起伏があるものの、こじんまりとしてて、とっても居心地の良い空間でしたヨ
マリーナに面したあたりは、海を眺められるこ洒落たレストランが立ち並び、
旧市街の昼にはマルシェ(市場)が立ち並ぶスパニッシュでたとえるならパティオ(中庭)のような空間にも、カフェレストランが数多く店を構え、
オレンジ色の街燈に照らし出された中世時代の古色蒼然とした建物の壁
ランプの灯りに照らされた軒先に広がる濃いめのグリーンやえんじ色のテント
そしてテーブルのランプやロウソクの灯りに浮かぶ籐の椅子やテーブル
所狭しと並んだSea Food(大好きなブイヤベースやMussel等)料理とたっぷりのレモン
舌鼓を打ちながら談笑するお客達の表情 忙しそうに立ちまわるウェイターにウエイトレス
庭の中央には、とても古そうなアコーディオンでBGM音楽を奏でる
年老いたミュージシャン
絵になるんだよね~ なにひとつとっても
私が泊まった Hotel Menton Chambordのあるホワイエ通り
http://www.hotel-chambord.com/intro.php
もう1泊したいところでしたが、Provence鉄道に乗りたくて
朝からMentonを出発
前日、TGVから在来線に乗り換えたNice(ニース)に向かいました。
このあたり、French Rivieraと呼ばれるだけあって、海岸線には
いたるところに、プライベートビーチを持ったとっても瀟洒な別荘が立ち並んでいます
ココは、F-1でも有名なモナコ公国のモンテカルロ地下駅
地下なのに とってもオシャレで、さすがモナコって感じでした
Nice駅のコインロッカーにカバンを預けようと四苦八苦したあげく
結局、最大のロッカーにも入れることができなくて断念
当初乗るつもりだった電車に乗り遅れ、次の電車まで2時間以上もあったので
Provence鉄道のNice CP駅近くでお昼にしました~
生マッシュルームとハム&玉子のガレットに 生ビール
オシャレで美人のパリジェンヌのお勧めに、ついつい昼からビールを何杯も(笑)
「ウィ~ムッシュ~」とかって愛想よくしてもらっちゃうと つい財布の紐もゆるむって(爆)
こちらが鉄チャン(鉄道ファン)垂涎のProvence鉄道 (黒いカバンが私のです)
Annot(アノー)に行こうか Entrevaux(アントルヴォー)にしようか迷ったあげく
要塞で有名なEntrevauxにしました~
この電車(?) ディーゼルカーで、トラックのようなエンジン音をたてながら
登山鉄道のような、狭くて急な坂をノンビリと走るんですよ(笑)
これがEntrevaux ↑ 中世の要塞都市なんです~
これが街の案内図 頂上の要塞には もちろん歩いて上るしかないんです
コインロッカーもなくて どうしようかと思っていたら 観光案内所のマダムが
「あらあら! そんな重たいバッグ持って上までなんか行かれないわよ~!」
って感じのことをフランス話で言いながら、案内所で預かってくれました~
それも親切にも無料で 快く
嬉しくなって、ガイドブックを買うっていったら
「気にしなくていいわよ~ それにフランス語のしかないから~」
と言われましたが、(たぶん)「ノンノン、まったく問題ナシ!」ってことで買いました~
怪しげな東洋人のオッサンの一人旅なのに 超優しいですよ~
これは、頂上に辿り着くまでの道から撮った街並みの風景
これが、博物館でもなく、いまでも普通に人々が生活してるんだから驚き
ここの湧水がとっても冷たくて 気持ちよかった~
これが一番テッペンの建物から撮影したNice方向の風景です
汗ダクで 体からシオ吹かせながらの登頂でしたが、天気も抜群
イヤ~最高~ 来てよかった~
って喜んでいたら・・・
なぜか とある無人駅にひとり取り残されてしまいました
というのも、ココは、Breil Sur Royaというこれまた中世の街
Niceに戻って、
今度は、Tende(タンド)鉄道の最終でイタリアのCuneoまで行くつもりだったのに・・・
すっかり油断してしまいました。。。
まづ、Niceで出発時刻になっても Tende線の電車が来ない
やっときた Breil Sur Roya行きに乗って Breil Sur Royaに到着したものの
目の前で最終のイタリアへの連絡電車が出発
なんせヨーロッパでは、行き先までの切符を持っていないと無賃乗車とみなされて
多額の罰金を払わされるから、駅でキップを買いなおそうとしたのが大失敗
最終電車が出発したら 駅員もそそくさと自家用車に乗りこんで帰ってしまい
駅には人っ子一人いない状態に
仕方なく旧市街まで徒歩で移動し、ツーリストセンターのある
街の中心の教会横に行ったものの、もう閉まってて 誰~もいない状態
隣の交番にもしっかりと錠がかかっていて扉を叩いても返事なし
仕方なく公園に佇んでいたら ジャンギャバン風の気のいいフランス人のオッチャンが近付いてきて
「オイ、観光客かい? どーしたの? 泊まるとこがないのかい」(全部フランス語のみ:なので内容はただの憶測)
「そーだったのか! よし安心しなさい! 知り合いのホテルがあるから大丈夫」と
近くの一軒目のHotelも満室で部屋がないとの返事
二軒目も、やはり満室 ゴメンね~と慰められながら断られてしまいました。
親切にも、3キロほど離れたとこにあるホテルにも電話してくれたんだけどヤッパリ満室
ここは、カフェレストランもしてて、カタコトの英語が通じたんでよく聞くと
翌日は、週末の上に、独立記念日でフランス中、三連休となるため
どこもかしこも行楽客でゴッタ返しているはずとのこと
どっひゃ~ そら あきまへんがな。。。
仕方なくトボトボと駅に戻りながら、移動式のピザ屋をみつけてなんとか夕食を確保
真っ暗で、だーれもいない駅で ひとりきりの晩餐となりました~
「オイオイ、○十歳にして野宿かよ~。。。」と嘆きながらベンチで寝ていたら
放し飼いの犬が ハァーハァーいいながら近寄って愛想ふりまいてくるわ
そのうち警戒心の強そーだった黒ネコともすっかりお友達に(笑)
翌朝、始発電車がくるまでの間、無人のBreil Sur Royaの街を歩いてきました~
ようやく到着したVetimiglia発イタリア国鉄のCuneo行き始発電車
このTende線も 鉄チャン憧れのローカル線なんですよぉ~
時間が許せば、ひと駅ごとゆっくりと街歩きがしたくなりそうな場所でした
http://www.youtube.com/watch?v=vgWpYPFQ_yk&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=Wd97_3eKsHc&feature=related
国境手前のTende駅で反対側のホームで電車を待つ
そこそこ年齢のいったマドモアゼル発見 オシャレなんだよね~ アチラの人達
と、野宿の疲れも忘れて うつつをぬかすヤツ
それにしても、まったくフランス語喋れないのに フランス語しか通じない場所に行って
よくやるよな~いい歳をして と無鉄砲な性格に呆れながらも
フランス人の優しさに触れることのできた とっても素敵な旅でした
(いつか続きの Cuneo→Trino→Parisも記事にしたいと思いま~す)
日本人の心にすっかり刷り込まれてしまった”フランダースの犬”
その物語の中でシンボル的存在であったルーベンスの絵画と
涙を流しながら迎えた終焉の アントワーペン大聖堂を訪れてきました。
ネロとパトラッシュを思い出しながら・・・
wikipediaからの引用ですが、”フランダースの犬”の物語について:
日本語版は1908年(明治41年)に初めて『フランダースの犬』(日高善一 訳)として内外出版協会から出版された。西洋人の固有名詞が受容されにくいと考えられた為か、ネロは清(きよし)、パトラッシュは斑(ぶち)、アロアは綾子(あやこ)、ステファン・キースリンガーは木蔦捨次郎(きつた・すてじろう)などと訳された。
んだそうです。
とりあえず写真貼り付けておきますネ