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Be Natural

気取りも なんのてらいもなく 
あるがままの自分を 感性の赴くままに
そんな独りよがりの書き捨て日記です。

僕の好きな先生、僕の好きなおじさん【画家”加藤正一先生”の思い出】

2025-08-21 17:16:05 | 雑感

前回、中学校時代の事を書いていた時に

ふと思い出したのが

私立桜ヶ丘学園、桜ヶ丘中学校の2・3年生の担任だった

 

美術教師"加藤正一"先生の事

(卒業アルバム用の撮影でスーツ姿ですが

普段は学校に来てから絵を描いたり

工作し易いような服装に着替え

気楽に声かけられるような方でした。)

もう知ってる人も居ないだろうけど

結核の治療法の一つとして

昔は肋骨切除があって


先生は今で言うところの

インドアタイプ


たぶん若い頃から絵が好きで

家に籠る生活から

結核を患っちゃったんだろうなぁ

と想像してました。


いずれにしても

RCサクセションの”僕の好きな先生”の歌詞そのものの人物で

 



 

https://youtu.be/uYSWnJEgx4A?si=RIsIOiziY-3UgoIy

 

ずっと加藤正一先生の教え子の一人が作った歌だと思ってましたね~

 

そしてこの先生、実は二科展の絵画部で入賞したこともある本物の画家

 

↓ 二科展で入賞した先生だったので
検索したら何か出てこないかなと一生懸命探したのですが
あまりに古すぎてデータが残っていないようで
 
なんとかみつけたのがこの記事
 
 


どんな経緯であの中学校の教師となったのか

とうとう聞かずじまいとなってしまいましたが

(年齢は大正三年生まれの父とたしかほぼ同年代で当時の定年55歳を超えていたはず)

 

美術の時間に工作室で教鞭をとる時も

職員室でもクラスでも

いつも缶ピースを咥えた喫煙姿

(たしか毎日ひと缶吸ってるって言ってたような

 

担任になった時、教壇に立って父兄への第一声が

「お中元、お歳暮をいただけるなら”日本酒”をお願いします

「それと、特級酒や一級酒を一本とお考えなら、二級酒を二本にしていただける方が嬉しいです

との言葉に、父兄達も思わず噴き出してましたねぇ。

 

一年生の時からヤンチャしてたのを知ってた先生

一級上の女子と付き合ったり、前号で吐露したような悪ガキだったので

担任になって心を入れ替えさせようと思ったのか

 

いきなり「オイ○○!明日は五分刈りでこい!」とのお達し

 

しぶしぶ床屋に行って、ウェーブをつけて恰好つけてた髪がバリカンで

パサリ、パサリと落ちてゆく様を眺めるのは辛かった~

 

(これは坊主刈りにした後の遠足での写真)

なぜかそれがキッカケでチリチリの天然パーマになってしまったんですヨ

結局卒業するまでに何度「坊主にしてこい」と言われたかなぁ

途中からもう慣れちゃいましたけどね

 

まあ、悪ガキだったのでしょうがない(笑)

 

そして最初のホームルームで手渡されたのが

受け持ち担当教科とは全く関係のない”漢字ドリル”

 

B5サイズほどの横開きの本で

一頁にたしか10~20文字ほどの漢字が書かれていて

(書き順やその漢字を使った熟語も)

うろ覚えですが見開きの反対側の頁が空欄になっていてそこに繰り返し書いて覚えるもので

 

毎日一頁を埋めて翌朝登校時に提出するとされていたのですが

なんせ小学校時代から”宿題”というものをしたことのない怠け者

 

「すみません。忘れました。」と空白のドリルを渡すと

「コラ、○○また忘れたのか!!!」と頭の天辺に拳骨を食らい

 

 

第一限目の授業中に必死になって書き込んで

休憩時間に職員室に持っていって手渡し

 

通常の授業を終えて

 

その日の終業前のホームルームの時間に

前日の宿題の漢字のテスト(たしかひらがなを漢字に?)が行われ

書き間違えていると、またまたその場で20回ほど繰り返して書き込んで

徹底的に覚えさせるというもので

 

高校入試が(国語・英語・数学)の三教科となって

せめて漢字は書けるようにしてやろうとの心遣いだったのだと気づいたのは

卒業してからでしたが

 

ミスせず満点を何度か続けると

後日、先生自筆の色紙の絵をご褒美でいただけるのですが

 

実は、これが当時でも画商に売ったら一枚数万円はする代物

(号何万とかって人伝に聞いてました)

 

なんせその日の朝に忘れた宿題をさせられていたので

運よく放課後前はまだ覚えていてテストはいつもバッチシ

 

だから家にはその先生直筆の色紙が何枚もありましたねぇ

 

あと、そのおかげで当用漢字はほとんど覚えていて

商船学校時代は勿論、社会人になっても他人より漢字を知ってて助かりました

 

 

画家だった先生は、授業のない時間は

ほとんど美術室に籠って

歌の歌詞のように職員室が嫌いだったのもあったようですが

こうした生徒へのご褒美用の絵やその他にも画商に売るための絵を描いてたんですが

(家では二科展とかに出展する作品も)

 

この先生

私学なので冬はスケート

夏になると林間学校、臨海学校が学校行事として催され

個人的にはボーイスカウトのような少年団活動の団員だったため

そちらの仲間とのキャンプも何度かあったうえに

 

それまでの教え子達を呼んで

奥三河の渓谷でキャンプするのが恒例行事

 

大学生の先輩も何人かいましたが

ほとんどが高校生と、在学中の中学の教え子

 

なのに、大瓶のビールを数ケースに

日本酒の一升瓶を木箱で持ち込んで

キャンプ中は毎晩飲めや歌えの大宴会

 

さすがに先生の前では吸いませんでしたが

隠れてといっても、裏でほぼ公然と煙草もスパスパで無礼講

 

それはそれはとても中学生とは思われない楽しい時間を過ごさせていただいたのですが

 

なんと費用は交通費だけであとは先生の奢りだったような

そのために絶えず絵を描いては画商に売って資金を貯め

教え子たちの喜ぶ顔を見るのを生き甲斐にしていた方でした

 

それから、その先生に連れていってもらったキャンプ場を予約して

小学校時代の恩師と中学校は別々になってしまった同級生を誘って

またまたキャンプ

 

だから夏休みの半分以上はキャンプやお泊りしてたので

思いっきり夏を満喫してましたね~

 

(↑と言うことで、これまた小学生の頃から”夏休みの宿題”も自由研究以外したことなし

(8月の末になって、一応焦って仕上げようとするのですが、お天気欄でお手上げしておしまい)

 

それからこの先生

愛知県と静岡県の県境にある東海道の宿場町で

本陣のあった二川に家があり

スクールバスで国道一号線と交差した場所で乗り降りして

 

そこから家までは

国道一号線を走るツバメのエンブレムの国鉄バスを使って通勤されてたのですが

 

その国道一号線のバス停留所前に

夕方にはたしか刺身類も揃えた有名な角打ちの酒屋があり

学校帰りは毎日その酒屋で一杯ひっかけて家に帰るのが

先生のルーチンワーク

 

遠足ともなると

小学生が持つようなプラスチックの水筒を持ってくるのですが

実は中身は”お酒” 

 

卒業アルバム用の写真撮影でスーツ姿

この日は酒抜きだったかな(笑)

これは遠足だったのか、修学旅行だったのか

悪ガキが問題を起こさないようと

目の前の席に座ってて監視されてたような

でも夜は他の先生達といるのが窮屈だったのか

修学旅行で東京の本郷の旅館に泊まった時は

「おい、◯◯夜鳴きそば食べに行くぞ」

と誘ってくれたりしましたねぇ

先生は勿論コップ酒(笑)

 

そんな、まさしく”タバコと絵具とお酒の匂いの先生”

 

あの先生がいたから

つい真似して大酒飲みになっちゃったんだろうな

 

なーんて責任転嫁しちゃったら

あの世でまた拳骨くらいそう(笑)

 

いずれにしても

あの歌の題名どおりの

”僕好きな先生、僕のすきなおじさん”との思い出話でした。

 

追記:桜ヶ丘高校の本館の最上階から屋上までの階段の吹き抜けの踊り場に

二科展に入賞した時の

たしか巾2、高さ5mほどの大作が飾られていたのですが

 

何年か前に建て替えられてしまい

あの絵がどうなったのか?

 

今度帰省したときに

昔の中学の卒業生だと訪ねたら教えてくれるかな

 

どうか、いまもどこかで飾られてますように

 

【付録】

一年生の時の担任 堀内圭子先生(旧姓柴田で渾名がシバコー))

思春期で木の又を観ても鼻血出しそうな頃だったので

いろいろありました(笑)

 

中一のキャンプの時

人里離れた峡谷の静まり返ったバンガローの中、

ローソクの灯りの下でオバケ話をしたら、怖くて泣きだしちゃって

仕方なく離れた先生のバンガローまで送っていったこともあったなぁ。

 

でも、なんとも可愛い人でしたねぇ

(↓これは中一の春、鎖骨を折った後の遠足での写真:学生服の下で腕吊ってました)

 

加藤先生と主事(校長)の鈴木吾一先生

(大嫌いだった帽子を被れといわれて不貞腐れてた私)

豊城中学校の校長を定年になってから

桜ヶ丘中学で主事+数学教師されてました。

たしか、父よりも年上で明治生まれだったはず

陸連で父の親友だったこともあって

中三の時には冬休みは毎日我が家に来て

入試直前まで教えてくれていたのですが

 

煙草を吸うのが当たり前だった時代のこと

ある日、”いこい”だったか”新生”だったか

母が休憩の時にお茶を持ってきた時に

先生の煙草が無くなってしまったに気づき

「○○、早くお前の煙草を持ってきなさい!」と言われた時には

『オイオイ、公然の秘密だけど先生の目の前で言うかなぁ』と

焦った思い出が

 

たぶん中一の秋の遠足かな? またまた腕吊り

 

たぶん中二、一人だけ恰好つけてVANのボタンダウンのシャツ

 

↓ これは中二の時に訪れた羽田空港での一枚

もうしっかり大人の体形になってるでしょ

 

もう存命の先生もほとんど残ってない様子

 

しっかり御礼しとくんだった~

 

 

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ブログネタが無いので【嗚呼花の応援団】時代を懐古してみた!

2025-08-18 22:38:15 | 雑感

さて

このgoo blogも終了と聞いて

なんだか寂しくなってマメに投稿するようになった今日この頃なんですが

 

もうたいしたネタがない(爆)

 

と言うことで

どうせそのうち消えて無くなるのかもと

 

”若気の至り”の青春の思い出(?)を懐古してみることにしました。

 

以前の記事でも学生時代応援団長をしていたことは吐露しておりましたが

その背景と歴史も備忘録で書き記してみますね

 

昭和48年 1973年4月

夢に描いていた憧れの商船学校に入学したのですが

 

実は、中学時代は手の付けられないワル

何の因果か、あえて私学の中学に進んだのが道を外すキッカケになっちゃんたんですねぇ

 

実は、我が母校愛知県豊橋市の”桜が丘中学校”

特に進学校というわけでもなく

(但し、桜が丘高校の音楽科は一応名の通った名門で偏差値も高かったため

音楽科に入りたくて中学から通ってた女子もいましたが)

東三河でも下から数えた方が早い私学の高校にエスカレーターで進学させたい親を持つ

奥三河の大地主(林業で資産家)の子女(寮があったため)か

または豊橋市内と近郊の商売人の子供がほとんどで

 

教員はほとんどが市内の校長を定年退職してからの再就職組か

二科展で入賞したような美術家や音楽家など

ちょっと一風変わった教師ぞろいで

 

卒業生の中に当時は超難関だった商船学校への進学者が何人かいたため

親にねだってその中学校に入学することを決めたのですが

 

遠方から通学する生徒がほとんどのため、中学専用のスクールバスがあり

豊橋駅前から主要な停留所を経由して運行していて女子は利用していましたが

 

男子のほとんどは自転車通学

 

学校帰りに何をしてても学校側には見つかりにくいのをいいことに

酒屋の息子が酒を持ち込んでは隠れ家に集まって飲酒

当然のごとく喫煙、他校との喧嘩というより脅し等々

自然発生的に”悪ガキ”が醸成されていたこともあって

 

中学一年生の時に、バスケット部に入ってグランドで練習をしていたところ

同じ中学出身で高校に進学した悪ガキが部室に遊びに来て

無理やり煙草を吸わされて、いつしかニコチン中毒にさせられてしまい

そこから悪の道にまっしぐら

授業の合間の休憩時間には

タバコを持って屋上に上がり

同級生を見張りに立たせて喫煙🚬

 

中学一年で175cmのガタイ(体格)と

老け顔で高校生にしか見られなかったこと

気の強い性格で負けず嫌いで、通学中は肩を怒らせて凄味ながらいたため

不良高校生から喧嘩を売られ

 

通学中に人気のない墓地や林の中で大立ち回りするのが日常茶飯事となり

(実際にはそんなしょっちゅうではありませんでしたが、話を盛ってみました)

 

喧嘩とは直接関係がないものの中学生の間に

体育で鎖骨骨折、右手首骨折、交通事故で右足首骨折

自転車の衝突で脱臼に、ヤッパ(刃物)で深い切り傷等々

 

3年間のほぼ半分くらいかなぁ

三角巾で腕を釣ってたり、松葉杖だったりギプスだったり

年がら年中満身創痍

そうそう、実際には松葉杖🩼の代わりに

木刀を杖のようにしてましたねぇ。


いつしか、その姿だけで高校生からも避けられる存在になっちゃってました。


そりゃあ杖代わりとはいえ

気の短かそうな不良が

木刀を手に校内を歩いてるって

逃げるわな😆 

 

そうして、いつしか他校にもその存在が知られるようになってしまい

当時朝鮮中学(名古屋)で番を張ってた一つ年上の不良と

ガンのつけあい(メンチぎり)から喧嘩したのがキッカケで

何故か気に入られて仲良しになり

 

他校の悪ガキ共(ほとんど一級上)から用心棒でいて欲しかったのか

頻繁に声をかけられては

たまり場でたむろするようになってしまっていました。

 

学校帰りや体育祭の時に市内の中学校の門に立ってると

その学校の生活指導担当(ほとんど体育教師?)が出てきて

「生徒達が動揺してるし校舎から出られなくて怯えてるからもう帰ってくれ!」ばっかし

 

「この学校にツレがいるから会いに来たんだけど、なんか文句あるんか」と

物怖じせずに目をそらさずに言うから結局教師もダンマリ

 

『根性ねえなぁ』と好き放題してた時代でしたねぇ

 

それでも親から「希望の商船学校に行きたかったら真面目に勉強しなさい」と

中学三年になると試験対策で英語の塾通いや

中学の国語や数学の先生がお休みには家まで来て家庭教師してくれたおかげで

なんとか鳥羽商船に入学

 

事件にはなりませんでしたが、暴力沙汰で傷害で訴えられそうになったり

深夜徘徊でパトロール中の警官に捕まったことも数知れずありましたが

 

俗にいう”不良”のように

万引きや窃盗、シンナー遊びにヤクザの事務所に出入るするような類は

心底毛嫌いしていたため

(ただチンピラから事務所に遊びに来いよとしゅっちゅう声かけれれましたが無視)

 

 

そんな半端ないツッパリのままで入学式に臨んだところ

 

あまりにも偉そうな新入生ってことで

上級生から制裁(虐め)のターゲットとなり

全寮制の生活の中で

アレコレと無理難題を押し付けられた挙句

(当時は、縦割りで各学年2~3名が混じっての8人部屋)

(コーヒーを淹れろだの、消灯後に深夜過ぎまで按摩だの、夜食のラーメン作りだの)

(大浴場では背中流しに、浴槽の縁に立って歌をうたわさせて挙句には頭から飛び込ませたり)

(部屋だけじゃなくてフロアーの数十名から命令されて学校の授業以外休む暇なし)

一年生の時は、”奴隷”でまるで悪しき軍隊生活のようでした。

 

ある日、夜中に離れた階のボンク(寝室)に呼び出されて

照明を落とされた真っ暗な中で数名が集まって袋叩き

 

絶対の上下関係の中での一方的な暴力に

悔しくて堪らなくなり「オイ、お前らいつか○してやるからな」と言ったのに怖れをなして

その後は、その場でリンチに加担した連中は顔を合わせると逃げ回っていましたが

 

学校内では沈黙のポジションを得ていて

一年生の後期、応援団の一員として選ばれてしまったってわけです。

 

その当時の応援団、各学年のクセモノ&強者だけが選ばれる世界で

1年生で呼ばれたのは、自分の他に航海科の大阪の悪ガキ一人だけ

 

ただもう一人はラグビー部でその後国体選手となり

優勝のメンバーとなるほどの逸材だったため

応援団の活動はそこそことなってしまったのもあるのですが

 

二年生の終わりになって

『次期応援団長は、○○』と任命されてしまったってわけなんです。

それまでの応援団、前述のとおり各学年の強面だけが選ばれ

数名だけの集まりだったのですが

 

わたしが団長を引き継いでからは

ただの一部の強面連中の集まりなんて面白くもなんともないなと

全寮制の低学年寮の全部屋を周って

「よし、お前は明日から応援団の一員にするからな」

と有無を言わせず引き込み

(クラブ活動をしている学生は、夕食後から練習に参加させてました)

消灯までの間、数十名で寮の庭で大声をあげての練習

寮の周囲の住宅地にも響き渡らせてたので

校内だけでなく地域住民にも顔と名前が知れてしまったようでした。

(↓は同学年のメンバー、左が大阪此花出身、右は京都宇治出身で怖いものしらず)

毎晩のように夕食を済ませてから低学年寮の土手で応援団の練習を重ね

 

休日は最寄り駅から電車に乗り込み、隊列を組んで行進しながら伊勢神宮への参拝や

勿論、さまざまな体育会系の試合の応援に出向き

高専大会などのイベントの前には

体育館で全校学年の前で壮行会

文化祭でも一般来場者と教職員が集まる中で演武を披露し

 

それはそれは調子に乗って好き放題してたのでありました。

 

(↓これはたぶん商船学校16歳か17歳の2年生の頃)

低学年寮の部屋にて

 

 

こちらは高校で言うところの3年生(1975年)

低学年寮の屋上にて

 

まあ、そんな応援団の強面になる前はと言うと

(入学した後、初めての帰省が許されたGWかな?)

制服で帰省して大喜びしてくれた父が撮影してくれた自宅前での一枚

(実は、我が家は毎日国旗掲揚をして、寝起きにはベランダから東の皇居に向かって拝礼をする超右翼)

(市長が父の親友だし、任侠の親分達にも一目を置かれ日本愛国党の支部長からは先生と呼ばれてた存在でした)

 

当時、伊勢路を走る駅伝があり、毎年父は陸連の役員として参加していて

その時、伊勢神宮の参宮橋で撮影した一枚

まあ、そんな超硬派な一面もありましたが

3年生の時にあまりに目立つ存在になりすぎて

勉強もしていませんでしたが、教官たちに意図的に落第させられて留年

 

その直前に父が急逝して奈落の底に落とされ

生きる望みさえなくしてしまっていたこともあって

一念発起

 

その後は一応応援団活動も団長の座を後輩に譲り

まだ十代なのに観光地鳥羽の居酒屋でアルバイトするようになり

(これも上級生から後継を頼まれて始めたもの)


週末は寮の食堂で朝御飯の時にオニギリを握って外出し

近くの離島(答志島、菅島、神島、英虞湾等)へ遊びに行くようになり

(↑は答志島を東の端から西の端まで横断した時)


ごく普通の学生になったつもりでしたが・・・

 

服装のセンスと

ポーズの取り方がアレかなぁ

 

こちらは、真冬に当時小船でしか渡れなかった神島(三島由紀夫の潮騒の舞台)へ

行った時の写真

焚火の上を飛び越えるシーンで有名な観的所
(この少し前に山口百恵が潮騒の主人公として出演していた時期)

 

こちら↓は、学校の練習船のポンツーン(浮桟橋)から

ヨット部に頼んで(脅してじゃなかったはず)

沖の無人島に瀬渡ししてもらった日の写真

天然のアサリを採って貝汁を作り

ちょっとしたハイキングを楽しんだ日でしたねぇ

ただ、女っ気のない寂しい野郎だけ(笑)

そんな強面時代を卒業し

航海訓練所の練習船の遠洋航海でトンガに上陸した時の写真

このトンガ上陸がきっかけで青年海外協力隊に参加して

その後の人生につながっていったのでした。

東京を出航してアメリカ西海岸に立ち寄ってから南下してのトンガ

髪の毛が鬱陶しくなって

鋏で自分で散髪した後の姿

 

そうして 

無事、学校を卒業したのが1979年9月

 

その後 船会社で勤務してたのが1979ー1981

青年海外協力隊で第一次トンガ派遣 1981ー1984

シニア隊員として再派遣 1984ー1986

結婚後

(この間、名古屋のJICA中部支部勤務と新宿三井ビルの本部勤務を経て)

JICA専門家としてフィリピン派遣 1987ー1989


 

日本に帰国して第一子が出産したのが 1990年3月

 

久しぶりの日本で、チャンカーと息子を連れて思い出の鳥羽を訪れたのが

たぶん1990年か1991年だったのかな❓

 

練習船を係留しているポンツーンへ行き

練習船の乗組員に

「卒業生なんですけど、乗船(見学)してもいいですか」と尋ねると

 

「はい覚えてますよ応援団長じゃないですか 勿論大歓迎です

言われ

応援団長だった1975年から15年以上経過していたのに

いまだに覚えてくれていた人がいてやっぱり嬉しかったですねぇ

 

教官ではない技術官からも覚えられてたとは

よっぽど印象に残る悪ガキだったんでしょうね

 

学校では、協力隊から戻ってから秋の講演会にスピーカーとして招聘され

学校の公用車で駅からの送迎つきで

低学年と高学年に午前と午後の二部構成で話をして

校長室で幕の上弁当を食べながら校長と雑談したり

当時の教授たちからは講演後に部屋に呼ばれて歓待されたりと

乱暴者すぎて留年までさせられたけど

そんな後世(?)を迎えさせていただいちゃいました。

 

 

そんなわけで

いまでは奈良の片隅の土着だらけの集落で

何の因果か自治会や水利組合の役員にさせられてしまい

仕方なくというか実は嫌々してるのですが

 

田舎者が狭い世界の中で年功序列のつもりなのか偉そうにしていたり

くだらない主張をし始めたら年齢など気にせずつい瞬間湯沸かし器

「オイ、コラ黙っとけ」と威圧してしまうんだよなぁ


出自がバレるって😆

 

昨日も地蔵盆で馬鹿なことをほざくクソジジイに大憤慨

 

そんなわけで、今日の夕方道で出あった別の役員から

「あんまり頭に血がのぼって吠えやんと、もう少しだけ血圧下げてくださいや」

と温和に言われてしまいましたが

 

喧嘩相手を救急車で病院送りにして傷害で捕まって牢屋入りさせられて

あげくに前科がついて多額の慰謝料を払わされた知人を見てからは

絶対に手は出さないことと肝に銘じていますが

(その時は喧嘩に遭遇してしまったため、後日警察署へ参考人として呼ばれ

傷害事件に関与してるかもと疑われていたのですが、ようやくシロとわかり

調書を取ったあとに「団長、ひとつエールをご披露していただけませんか」とお願いされ

応援団長の名が警察署にまで浸透してたのかと驚いたことがありました

 

 

そうしてようやく落ち着いていたはずなのに

年寄りになってから、またド短気に戻ってしまったような 

 

どうせ捕まるんだったら遠慮はいらんがなと悪魔に囁かれそうで

危ない危ない

 

気をつけなければいけませんね。

 

 

 

単なる【父は昔悪かった】話かも (笑)

 

 

 

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♪出張は続くよぉ~いつまでもぉ~♪(線路は続くよどこまでもで)

2025-08-05 10:31:32 | 雑感

7月22日火曜日

 

機器のトラブルでOutstandingとなっている少々厄介な船があり

連絡を受けた時には山口県の徳山沖で投錨してて

その後四日市港に向かい24日に入港するとの連絡

 

面倒な物件は早めに処理しておこうと

それなら四日市で仕事を終えてから週末にかかるので

ついでに久しぶりに故郷豊橋に立ち寄ろう

目論んでいたところ

突然仕向地が千葉となり

 

27日には別件の予定があったため

26日午前中までに戻れるなら千葉で訪船するとしていたところ

 

24日の正午前になってどうやら25日朝には千葉港に入港することが決まり

 

さて、それなら25日の朝のフライトで羽田から直接千葉港の船に向かおうか

それとも24日のフライトで羽田からリムジンで幕張に行き

幕張から電車で千葉みなと駅前のホテルに泊まり

翌日船に乗船しようかと考えていたのですが

 

いつもの閃きで、それなら24日中に豊橋へ車で向かい

連泊して車を置いて翌朝新幹線で千葉を往復したらいいんとちゃう

 との旅程が浮かび

 

そんな突然の出張をした時の旅の記録です。

 

ー・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-

 

7月24日 5:30

7月は池の水利の水管理当番のため

毎朝起きがけで直接田圃に給水する池の水位を確認し

水源の池のバルブを調整

この階段の7段目まで水位が下がると

フロートスイッチでポンプが作動し

地下200mまでボーリングした水脈から水を汲み上げているんです。

 

実は、この水利

元々は矢田丘陵(法隆寺を南端に北に向かって繋がる丘陵)からの湧き水を水源としていたのですが

東急不動産によって宅地開発された際に

その元々の水脈を切ることになったため

地下200mまでボーリングしてポンプで汲み上げて池に溜め

地下水で冷たすぎるからと

その下に遊水地(水温を高める貯水池)を作り

そこからパイプをはわせて組合員の田圃に水を供給するようになっているのですが

(↓中央左が地下からくみ上げた水を貯める池、中央上が遊水地)

(日本最大の円墳で近年発掘調査によって卑弥呼の鑑かもと言われる大発見が続く富雄丸山古墳のすぐ近く)

下池の水位を保つには、上池のバルブを調整するのですが

田圃によって水を入れる量が日々変わり

特に田植え前後と中干後の水を張る時期は消費量が爆増するため

サボっていたら下池が干上がってしまうため

毎日点検と調整をしなければいけないんです。

(ポンプの電力消費量=電気代が半端ないのも

 

7月は去年から組合長となった私の当番

なので遠出はできないのですが

運よくほとんどの田圃が中干してるよう水を使っていない様子を確認してから

 

この日は名古屋方面へのルートに奈良公園から山添村を繋ぐ県道を使うことにして

1時間ほど前に雷雨が発生し土砂降りとなって現れた虹に向かって驀進

オフィスを出発して50分後、いつもこのルートを走る時に立ち寄る

山添村の公衆トイレで小休止(この先で名阪国道となるので)

この山添村

平成の大合併までは山辺郡のひとつの村だったのですが

周囲の村(都祁村、月ヶ瀬村)が全て奈良市に吸収されたのに

たったひとつとなっても残った村で

 

いまだに多くの茅葺の民家が並ぶとても素敵な場所なんですヨ

 

奈良を出発してから3時間後の午後8時豊橋駅前のホテルに到着

チェックインを済ませ荷物を放り込んで晩御飯へ

この日は、車を運転しながら晩御飯は馴染みの町中華と決めていたため

目的のその店に直行

新幹線改札側の駅前(西駅といいます)で営業しているからか

そこそこいろんな有名人も立ち寄っていたようで

以前は、ちゅらさんのおばあ役だった“平良とみ”さんや

豊橋出身の作曲家”馬飼野俊一”(石狩挽歌やてんとう虫のサンバの)の

色紙が飾ってあったりしたんですよ。

とりあえず生中を飲み干して

大好物の天津麺が到着

続いてこれまた名物の餃子も届き

赤星も飲み干し

翌日は仕事と千葉を日帰りで往復する予定なので

深酒は控えたものの

心地良い酔いにまかせて近くの飲み屋街をウロウロと

 

この豊橋西駅

新幹線が開通して新幹線専用の改札口ができたものの

その昔は妖しげな駅裏

 

それこそ戦後からのバラック街がいまも残っており

古くからの餃子屋も残っているものの

 

ほとんどが改装してなにやら”わんぱく通り”とか呼んで

最近では若者にも人気のスポットになっているんだそうです。

 

↓ こちらは、つい先日偶然観ていたマツコのTV番組で

こだまの停車駅周辺を探る企画で マツコも知っていたタコスの店

レトロな店と

隣にはモダンに改装した系列店ができててビックリ

でも、懐古趣味のオヤジには

ほとんどが若者向けに改装されて面白くないなぁと思っていたら

突然タイムマシンに乗って辿り着いたような異空間が出現

今はなき豊橋の小さな酒蔵”公楽”と

小料理 まき との看板

 

 

暖簾を潜るならココしかないよなぁと思いつつ

やはり翌日の仕事を考えて この日は断念

 

翌日、船の千葉の接岸時間が9時で、慌てて向かう必要がなかったので

豊橋を出発したら次は新横浜のひかりを選択

もう嫌ってほど東海道新幹線に乗っているのに

富士川を渡るときになると

どうしても富士山が眺められるか気になっちゃうんですよねぇ

 

この日は残念ながら、先行きを暗示するかのように雲の中

豊橋を出発して1時間21分後、東京駅に到着

京葉線のホームに移動

動く歩道やエスカレーターも増えて便利になったけど

京葉線のホームってほぼ有楽町なんだもんなぁ

千葉みなと駅で下車して、運よく待機していたタクシーに乗り込んだのですが

千葉らしさ満載の怪しげなオヤジの個人タクシーの運転手

いまどき支払いは現金のみって凄くないすか

11時30分に乗船し、簡単な作業だったので30分で終わる予定が

分解して調整する作業をしなけりゃいけなくなって

下船したのが午後1時前

 

富士山が見えずに不吉な予感が的中しちゃった?と思うのは

流石に考えすぎ?

GOタクシーを呼んで

千葉みなと駅に戻り

またまたひかりを選んで乗車

 

そして午後4時前、無事豊橋駅に到着

 

実は、東京駅でいつもの崎陽軒の焼売弁当を買って

車内でロング缶2本でお昼にするつもりだったのに

売り切れで入荷待ちの表示

 

他の弁当には食指が動かず

そんなら豊橋駅構内名物の壼屋のきしめんにしようと考えていたので

改札を出て直行

 

きしめん大盛りと稲荷寿司をオーダー

(壼屋は明治22年創業の豊橋駅老舗の弁当屋で、

明治末期に豊川稲荷にあやかって作られた稲荷弁当なんですよ)

駅の立ち食いうどん&そばも明治から続く一品

大阪風に近い名古屋のきしめんの出汁と全く違う濃い醤油味なのですが

幼少の頃からしっかりと刷り込まれた豊橋っ子のソウルフード

 

とりあえずお腹を満たし

ホテルに戻ってシャワーを浴びて

駅前のバスターミナルから路線バスに乗り

向かったのは、母校の小学校近くにある菜飯田楽の店

旧東海道にある老舗の”菊宗”はいまも炭火で豆腐を焼く名店なのですが

この店は定食のメニューが豊富で酒も飲めるなと

実は、今回豊橋で食べようと決めてたのが菜飯田楽だったのでこの店に

とりあえず枝豆と生ビールを注文し

続けて鮪のやまかけと豊橋の地酒“四海王”の生酒を頼み

この日は、月定食(菜飯田楽と揚げ出し豆腐セット)をいただいたのですが・・・

 

以前は実家の家族でもよく通った店で美味しかった印象だったのですが

久しぶりに食べてみると、やっぱり田楽自体の味は菊宗かなぁとちょっぴり後悔

 

その後、旧日本軍の施設だらけだった跡地を歩き

戦争中の名残を感じさせる古い木造の建物を眺め

豊橋鉄道渥美線の南栄駅に到着

この南栄

戦前・戦中からの名残だったのか

子供の頃には映画館やパチンコ屋もあった思い出深い土地

この昭和レトロ感漂う老舗パン屋は

昔は豊橋駅近くの電停に本店があったものの昭和40年代に閉店

ところが、この南栄店は

広大な旧日本軍の施設跡にできた

名門時習館高校(北の国からの、豊橋工業高校、愛知大学、南部中学校、

聾学校、盲学校、小学校がふたつ(いまは4つ)もあり

中学校の給食が無かった頃や 高校生の昼食

 

そして部活帰りの生徒たちで賑わうからかいまも現役

そんな懐かしい風景を眺めながら 豊橋鉄道渥美線に乗り込み

終点の豊橋駅で下車

 

前日泣く泣く諦めた”小料理 まき”へ

まるでオバケでも出てきそうで

普通の人なら躊躇しちゃいそうな店構えでしたが

 

入らなかったら絶対に後悔しちゃうなと

意を決して暖簾を潜り

 

とりあえず芋ロックを注文

看板には小料理とあったものの いまはスナックみたいな感じで

特に凝ったアテはなさそうだったので

久しぶりにレーズンバターを注文

6人しか座れないカウンターだけの店で

60代、70代男女の常連たちで盛り上がっていたのですが

聞こえてきた話題が 某私立高校と昔の豊橋の話

 

いつものクセでつい会話に加わって大盛り上がり、

芋焼酎をほぼ1本空けてから更にボトルも入れて 

とうとう「よし、今夜はオレの奢り!」と宣言して

「釣はいらねえよ」と大盤振る舞いしたのが嬉しかったのか

いつもは23時頃で閉店するのに 0時過ぎまで開けてくれちゃいました

その後ホテルに戻る前にコンビニに立ち寄って部屋でシメとしたようなのですが

実は記憶なし(最近の習慣でなんでも画像に残すようにしてるので判明

 

翌日は、このところ大のお気に入りの鰻の直販店に向かい

自宅用と姉、兄への土産に蒲焼と白焼きを購入し

今年米寿となった異母姉と二つ上の兄いる実家に立ち寄り

両親の眠る墓地で線香を手向け

いつもの豊橋っ子の台所のスーパーで食材を仕入れ

豊橋からの帰り道

その日は口が”うどん”になっていたため

国道一号線を走りながら店を探すも見つからず

 

東名阪の御在所PAのフードコートに山本屋本店があるのを思い出し

『そんなら味噌煮込みうどんでいいや』と思っていたのですが・・・

 

少し前に、わが社の社員さんから

「名古屋に車で出張していた夫から、

『帰りに名阪国道でオタクの社長さんの好きそうなヤツ食べてきた』と

LINEで知らせてきました」と写真を見せられたのを思い出し

 

『”うどん”よりやっぱそれちゃうん』と即決

 

何度かその横を走りながら、廃墟のパーキングと思い込んでた

伊賀上野サービスエリアに到着

この一角だけ営業しているのがそのお店で

名物が ”どて焼き定食”ごはん中 1,500円也

サイズがわかり難いかもしれませんが

実はご飯はマンガ盛りでトン汁の器は普通うどんに使うもの

 

名古屋名物のどて焼きは

赤味噌でニンジン、こんにゃくなどで煮込んだものですが

この店は少し甘めの白味噌でたぶん伊賀牛のスジ肉だけを煮込んだもの

美味しかったですよ~

もし名阪国道で大阪方面に向かう機会があったら

是非立ち寄ってみてください

 

そしてそのお店(上野パーキングエリア)のすぐ先が

往路で名阪国道に入った”山添インターチェンジ”

 

往路で目が釘付けになった大和棟(瓦葺と茅葺の奈良を代表する民家)や茅葺の民家が並ぶ

里山の風景を写真におさめ家路につきました

 

実は、今回の出張で一番気に入ったのがこの風景

(茅葺の家屋は葺き替えが大変なので、いまはトタンで覆われていますが)

(たぶん手前の小高い丘は古墳だろうなと推察)

 

この時のルートヒストリーはこんな感じ↓

 

仕事先の千葉や東京はほぼ素通りだけでしたが

故郷豊橋と名阪国道で新しいお店に心休まる里山の風景を発掘できて大満足

 

マニュアルシフトのジムニーでの長距離運転がちょっと面倒に感じる今日この頃

さて、この先いつまでこんな出張が続くのでしょうか

 

ま、悩んだところで天命に任せるしかないですよね

 

 

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【復活】我が愛しのVespa50S

2025-07-31 10:27:37 | 雑感

今年4月某日

 

暇潰しがてらアマゾンプライムビデオでも鑑賞しようと

サイトを開いてみたところ

 

あまり面白そうな映画がみつからず

あれこれ探していてみつけたのが 

この”ちょこっと京都に住んでみた”というドラマ

奈良で暮らすようになって35年

最初の頃は【京都人=イケズ】で苦手と思っていたのですが

 

これが馴れてくると結構いい人が多くて

芸能人でも、小林薫、佐々木蔵之介、吉岡里帆、藤山直美、

古くは、加藤和彦に沢田研二は大好き

 

わが社の社員さんも市内ではないものの平安京のまえに都のあった土地の生まれで

性格は明るくて素直で誠実で仕事への取組み姿勢も申し分ないどころか

これまでの人生で一緒に仕事してきた中でも飛び抜けて最高の人材


その上小柄でキュートで

お笑い好きで

いつも吹き出してしまいそうな切り返し

 

彼女のおかげで余計京都の人が好きになったんだろうなぁ

 

その他にも

流石は千年の都で、雅だったり粋だったり

漬物にラーメン、その他もろもろの食べ物も美味しいしと

大好きな土地となっているため

 

このドラマでも

主演の木村文乃と近藤正臣のかけあいも面白く

楽しく鑑賞していたところ

 

準レギュラーの一人がオートバイの修理屋さんで

その古ぼけた店が登場してビックリ仰天

少し前までお気に入りで年に何度も贈答品や自家用

友人知人が京都に来ると連れて行った漬物屋

打田漬物の本店の近くに

 

もう10年以上前、バスで漬物屋に行った時

年代物のバイクが並ぶその店を見つけ

「古いベスパがあるんだけど直してくれますか?」と尋ねたところ

「大丈夫ですよ」と快諾してもらいながら

 

軽トラを持ってなかった頃で運搬をどうしようかと悩みつつ

そのまま忘れていたのですが

 

このドラマを観て ネットで検索して店の名前と連絡先を探し出し

電話で修理のお願いと予約を入れて即決断


そのVesp 

2009年まではガレージに置いていたものの

(もうミニクーパーもアメリカンバイクも手離してしまいました)

(ガレージも今や農機具とガラクタでいっぱい)

ほとんど乗らずに放置していたため

エンジンの噴きが悪く不調

エンジンを載せ替えようかとエンジンの新古品をオークションでみつけ

ついでにレストアしちゃおうかとガレージから運び出したものの

 

忙しかったり暑かったり寒かったりと先延ばししたままで結局自分で修理するのを諦めて

裏庭に放置していたVespaを運び出し

軽トラに積み込み

高速を使わずに下道を走り

その京都の修理屋さんに到着

(もしものために新古品のエンジンも預け)

 

このお店レトロなバイクの修理やレストアで有名らしく

 

いつも素敵なレトロバイクが修理待ちしてるんです

↓ ドラマでも出てきた店内


その後一月ほどして 

修理が完了したとの電話を受けて

喜び勇んでヘルメットを購入してバイク屋に向かい

 

またまた下道を走り続けて約2時間後、お店に到着

エンジンがかからなかった原因は

クラッチやキャブが古い混合ガソリン(2ストロークなので)の

オイルで膠のようになってクラッチの固着やキャブが詰ってしまい

分解して掃除してタイヤやブレーキシューを交換したんだそうで


(あとシートカバーの張り替えも)

 

元々あまり走ってなかったからか

エンジン本体はそのままで

修理できたと話してくれました。

 

修理費は部品代と工賃含めて 約15万円++

 

それなりの出費となりましたが

嬉しかったですね~

 

軽く試運転して軽トラに積み込み

 

最近お気に入りの北野(北野天満宮の近く)の浅漬けのお店に立ち寄り

我が家に到着

 

レトロバイクは、あえてペンキを塗り直したりせずにそのままで走るのが粋みたいなのですが

 

少ししてリアブレーキのゴムが取れてしまい

よくよく観察してみると経年劣化でボロボロ

 

 

ついでにやっぱりホイールくらいは新調しようと

ネットでVespaの部品を販売している店をみつけ

大阪にあるイタリアンスクーター専門店に直行

とりあえずクロムのホイール2セットと

スペア用のタイヤとフロントキャリアを購入して

家に戻り、さてホイールを交換しようとしたところ

これがなかなか固くて外れず大焦り

 

近所のバイク屋で交換を依頼するも軽く断られ

それならとバイク屋を数軒まわるも

Vespaのタイヤ交換はできませんと相手にされずガッカリ

それならいいやと、自分でなんとかアレコレと知恵を絞り交換を済ませたのですが

あとでYouTubeで調べたら そんな作業の動画だらけ

今時は悩んだらネット検索なんだなぁと再認識

Vespaの修理動画も山程あったので

次は、そのうち50ccから85ccへのボアアップしちゃおかな と目論んでる次第です。

 

それからは、通勤もVespaにして近所の買い物もいつもVespa

 

ただ馬力不足はどうしようもないので

そのうちボアアップするつもりですが

そんなこんなで無事復活してくれたVespaを満喫しちゃってるってネタでした

 

 

 

《Vespaを購入することになった背景》

いつものように説明が長いので興味のない方はスルーしてくださいね。

 

1979年9月

3ケ月の住友重工追浜造船所実習と

9ケ月の航海訓練所練習船大成丸と青雲丸の乗船実習を終え

卒業式の数日前、母校の鳥羽に戻ったのですが

 

当時は、学校主催の就職説明会なる催しがあり

様々な求人企業の担当者がそれぞれ自社の説明と求人をしてくれるのですが

 

練習船に乗るまでは、ぼんやりと順当に船乗りとなるのがいいのかな?

それとも実習前にアルバイトしていたヤマハリゾートのマリーナで遊び半分で面白おかしく

仕事するのもいいのかもと思っていたのですが

(当時は、伊勢志摩の”合歓の郷”、静岡の”つま恋”、その他南西諸島にリゾートホテルが山ほど)

 

それが我が身に与えられた運命なのか宿命なのか

遠洋航海で寄港した南太平洋の小国トンガ王国でみた

ボロボロのツナギと日焼けして真っ黒な姿で

現地語を話しながら現地人と笑いながら歩いていた

青年海外協力隊員の姿に衝撃を受け、すっかり魅了されてしまい

 

帰国直後に接岸していた晴海埠頭で

幸運にも青年海外協力隊の募集説明が催され

 

そこで『応募職種の実務経験2年以上』『最低限の語学力』が必要と言われ

なかなかハードルが高いなと半ば諦めかけていたのですが

 

某会社の求人担当者が

「我が社は、客船も保有する外資系船会社で、主に工務監督として勤務してもらえる人材を探しています。」

「業務を覚えたらすぐにでも社船の寄港地や造船所など世界中を飛び回ってもらいます」

「但し、実力重視の会社なので使えなかったらそれまで

「次の口述試験で海技免状(甲種二等航海士・機関士)を取得するのが最低条件です」

 

などと言われ

『ヨッシャ、それならやってやろうじゃないか』と応募


(外資系だったら、協力隊の募集条件の実務経験と語学力も養えるし

なにより転職もしやすいかもとの考えも

 

面接後、内定が決まり

海技免状の合格通知が届いた翌週の1979年11月4日から勤務することとなり

 

京浜地区での造船所実習時代

京急の神奈川新町にあった学校の京浜寮で暮らしていた時に

ユーミンの”海を見ていた午後”のドルフィンを訪れ

根岸森林公園や米軍施設のエキゾチックな雰囲気に魅了されてしまい

 

関東で住むなら根岸線の山手と決めていたため

山手駅前の不動産屋でアパートを探し

 

当時、会社のオフィスのあった東京駅八重洲口へも京浜東北線で直通だしと決め

山手駅近くで暮らすようになったのでした。

 

また、その当時またまた練習船で寄港したニュージーランド、オークランド港の

メインストリート(Queen’s St)の横断歩道を渡っていたところ

まだ直行便もない時代に若い日本人の女性とすれ違い

(JALが直行便を就航するためテストフライトを飛ばし、その乗客としてNZを訪れていたのが彼女)

 

つい反射的に声をかけてしまい

カフェでお茶してから

その日の夜の食事に誘い、食後のパブですっかり意気投合

 

日本に帰国したら連絡するからと別れたのですが

 

そうして東京の会社で働くこととなったため

その後お付き合いするようになり

 

彼女は市ヶ谷の中高一貫の女子の進学校で勤務していて

小田急線の豪徳寺の近くのアパートで妹と暮らしていたのですが

 

ちょくちょく横浜に来るようになり

こちらも時々豪徳寺へ行くようになって

 

山手~(根岸線)~横浜~(東急東横線)~渋谷~(京王井の頭線)~下北沢~(小田急)~豪徳寺

がお互いのアパート間でのアクセス

 

『いっつも鮨詰めの満員だし、乗り換えも面倒臭いなぁ』と思っていたところ

 

伯母(母の姉)の家が世田谷の野沢にあって東京で就職したと報告に行った帰り道

偶然下馬にあったVespa専門店を発見

 

『これは買うしかないな』と一目惚れ


当時、初任給が手取り10万しかなかったのに

中古で35万円のこのVespa50sを衝動買いしちゃったってわけです。

 

ところがこのVespa50sという代物

50ccしかないのに鉄製のボディでトルク不足

 

そのうえハンドルギアでクラッチでは簡単にギアを変えられないため

運転しずらいなんてもんじゃなく

 

横浜の山手から世田谷の豪徳寺へのルートとなると

当時は桜木町から電車沿いに横浜東口、第二京浜(国道一号線)で川崎

多摩川を渡って環八を北上と

真昼間に主要幹線を走るのがあまりに無謀だったので

 

車の通行量が少なくなった深夜でしか移動できませんでしたねぇ。


それでもビュンビュン飛ばす幹線道路脇を

トロトロと一時間以上かけての移動 


出張の多い生活だったので

旅先から戻ってはVespaで東京まで走る

そんなことを何度もしたような


若かったからできたんだろうな(笑)

 

(とりあえず編集中ですがこのまま投稿して、後日また画像を見つけて追加したいと思います)

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東加王国 華華餐廰 郭瑞章さん(台湾高雄出身)は今何処

2025-05-01 11:07:21 | 雑感

これまでブログ記事として何度もトンガ王国のことを書かせていただきましたが

 

そのトンガ時代において

忘れられない仲良しで恩人でもある台湾人の家族がいました。

 

航海訓練所の練習船青雲丸で初めてトンガを訪れた1979年7月

寄港中に当時あった中華レストランで食事をしたのが忘れられずにいたのですが

1982年2月に青年海外協力隊員として赴任した時には

首都Nuku’alofaの王宮横のメインストリートに

小さなチャイニーズレストランができていて

 

(↓これはいまの写真ですが、この場所に掘っ立て小屋に毛の生えたような平屋の店舗がありました)

ランチメニューは隊員の手当でも気軽に食べられるお値段だったので

陸にいて平日のお昼にはほぼそのお店に通い

 

台湾人夫婦で営業していて

英語もTonga語もあまり話せず言葉では意思疎通できませんでしたが

店主の”コーさん”はその昔東京で料理の修行をしていたこともあって

親日家でカタコトの日本語も話せたので

現地では数少ない同じ東洋人とあって

とても仲良しになり懇意にしていました。

 

隣国サモアから駐在員が出張してきた時や日本からの来訪者があると

よく会食にお勧めしてたのが

①王宮の隣にあるRestaurant Sea View (ドイツ人シェフのレストラン)

お気に入りは

フィレット・ミニオンFillet Mignonとハンガリアン・グーラッシュスープ

そしてワインは、Blue Nan

 

②島の最西端のビーチにあったGood Samaritan Inn(フランス人シェフ)

この店では

グリルド・ロブスター他シーフードが大好きでしたねぇ

 

 

そしてこの台湾料理レストラン”華華餐廰”(Hua Hua Restaurant)でした。

 

(※観光客向けのHina Caveという洞窟でウム料理とFire Danceの’Oholei Beachや

同じく観光客向けにドイツ人が経営するFafa Island Resortもありましたが

トンガ在住の人間が普段使いする場所ではありませんでした)

 

前述のレストランはそれぞれが定期的に王様の料理人を兼務していましたが

Hua Huaの店主のコーさんもその一人

 

台湾大使館や1979年にあった中華レストラン”東華(トン・ファ)”のコックだったのか

それとも華僑として新天地を目指してきていたのか

そんな経緯から独立してお店を開いたようでした。

 

小さな狭いお店でしたが

安価で味も良かったのでリピーターが増え

それはそれは繁盛していつもお客でいっぱいになり

 

何時頃だったか(たぶん1983年頃)

実は、その昔1970年代に日本でも有名になったトンガ人の相撲力士の

部屋の息子(楠田氏)がやっていた自称”日本食堂”が王宮近くのビーチ沿いにあり
(不味いけどボリュームだけはある焼飯とかしかありませんでしたが

 

高くはなかったけど美味しくなかったのでお店はいつも閑古鳥が鳴いていて

そのお店を譲ってもらったのか移転

 

おっと、ここでトンガ人力士のこともご説明しておくと・・・

 

1976年にこんな事件があったのを覚えていらっしゃいますか?

 

 

 

 

 

 

トンガ人は、義理を重んじる性格なので

つい亡き親方の女将さん側についてしまい廃業することとなってしまったのですが

 

その親方の息子が、たぶん元力士たちに誘われてトンガに渡り

日本食レストランを営業していた様子

 

 

またまた余談となってしまいますが

当時はチャーリー小野寺なる

自称トンガ王国特別顧問と言っていた詐欺師がいて

 

俳優の田宮二郎にトンガには石油が埋蔵されているとの夢物語と

その採掘利権を得るために国王に会わせるとの甘言に騙され

(実際にチャーリー小野寺は国王にも取り入ってたので信じてしまったみたい)

 

結局、田宮二郎は手形や印鑑証明を乱発して借金を抱え精神的にも追い詰められ

猟銃自殺をしてしまうのですが・・・

 

その他にも、それもチャーリー小野寺絡みだったのか

田中邦衛さん主演のドラマ【トンガ冒険家族】のモデルとなった

トンガの百貨店もどきの商店の支配人として数名の日本人が招聘され移住したものの

 

実際には田舎の雑貨屋の店番

夢破れて、現地で養鶏場を経営して失敗

それでも帰国できずに居残ってアメリカ平和部隊のボランティア相手の食堂をしていた人物なども居ましたが

日本から手当の出ている我々には妬みしかないようで親しく話す間柄ではありませんでした。

 

それとは別に、それこそ戦前(WWII前)に移住した日本人の子孫も居て

彼等は、ほとんど未開の地のようなトンガで床屋や商店を経営し

そこそこ成功した子孫がいたので

つい騙されてしまったんでしょうか。

 

そんな黒歴史もありましたねぇ

ー・ー・ー・ー・ー

 

いつもながらすっかり脱線してしまったので

話を戻しますと

そうして、海岸沿いのそこそこ部屋数のある楠田氏が食堂をしていた一軒家に移ってからは

円卓や普通サイズのテーブルをいくつも置いたホールに加え

人数によってサイズの異なる個室もでき

欧米系の居住者(主に援助団体のメンバーでしたが)にも人気となり

海岸沿いでオセアニア周遊のクルーズ船が寄港すると

それらの観光客も立ち寄るようになり

コックにウエイトレスも増員して大繁盛

 

そんな状況を知ってか、1985年頃には台湾大使館直営のような東華(トン・ファ)が営業を再開し

翌年には新しく離れた場所に台湾華僑のレストランができるなど

競合が現れていましたが、味は華華餐廰が一番で

 

その後もずっと続いていくんだろうな

いずれまたトンガに訪れたら会えるだろうと気軽に考えて

今生の別れとは思わず帰国したのですが・・・

 

時代の流れで世界各国同様、トンガ王国も中華人民共和国と国交を結び

台湾大使館は閉鎖、台湾からの華僑の人々も離れてしまい

 

1993年に再訪した時には

”華華餐廰”も既に中共本土人の店に変わっていて大ショック

 

「前の経営者はどうした?」と尋ねても不愛想に「知らない」とけんもほろろ

 

出身が台湾の高雄だと聞いていたので

その後台湾に出張する機会があったため

高雄でトンガでレストランを経営していた人を探せないだろうかと相談していたのですが

華僑として世界中に移住しているお国柄

 

それとまだトンガで暮らしていた時代(1986年頃)

中華人民共和国がまだ混沌としていた時代で

台湾から対岸の厦門に渡って事業を始める人が増えていたこともあって

”コーさん”も、そんな中国本土での事業展開の夢を語っていたので

台湾には戻ってないかなと

 

いつかTV局にトンガで知り合った台湾の大恩人として売り込み

人探ししてもらえないかなと思いつつ

いつの間にやら三十有余年が過ぎてしまいました。

 

とは言え、いつも心の中には”コーさん”のことがあるからか

先日、FBの友達の【知り合いかも】に”高”さんなる人物があり

もしかしたら”コーさん”の遠い親戚かもと思い出し

メッセンジャーで問合せてみようかな?と思いつつ

Tonga、Fua-Fua Chinese Restaurant、高、とグーグルで検索していたところ

 

↓ こんな記事を発見

 

Fua-Fuaだと思いこんでた”華華”がHua-Huaだと知り

中文にしてみたところ

 

”コーさん”=”高さん”と思い込んでたのが

”郭さん”で

郭瑞章(Kuo Jil-Chang)さんとわかり

 

 

検索でなにか見つけられないかと

東加王国、華華餐廰、郭瑞章と入力してみましたが

この記事以外には何もヒットせず

 

 

それならば、この記事を書いたライターに問い合わせてみようと

決意した次第です。

 

どうしてそこまで会いたいのかと言うと

【故桜井研次さんを偲びながら往時の思い出に浸ってみました。その⑨】で

記事にした劇症肝炎を発症して生死の境を彷徨っていた時に

 

約1月、自宅で寝たきり状態となって動けなくなっていて

いつものように頻繁に食べに来ないことから劇症肝炎を患っていることを知り

郭さんも奧さんのスーリーもとても心配して

超高額な漢方薬の【熊の胆】と栄養剤アンプルの箱を持って見舞いにきてくれ

 

その後緊急帰国を経て、半年後に再赴任し

任期を延長して最終的に帰国することになった時には

 

お店を休んで貸切状態にして普段のメニューにはない料理で

送別会を催してくれて大感激

 

開業当時は、華僑として新天地に向かう時にはよくあるようで

苦労するであろうこと、衛生状態などわからないことから

子供を親族に預けていたようで

新しい店に移ってから奧さんのスーリーが台湾に帰国して娘さんを連れてきたのでした

家族ぐるみの付き合いだったので

娘さんも親戚のおじさんのようにとても懐いてくれてましたねぇ。

(↓左端は、現在ALSで闘病中のオノチン)

ということで、コーさん(郭さん)は生涯忘れることのできない大恩人だったのです。

 

あと台湾の人との想い出の一つが、その任期を終えて帰国した時に

同じFIJI行の飛行機で前述した新しくできた庶民的な中華レストラン

のコックさん夫婦が乗っていて

 

英語もトンガ語もほとんどできず

話しかけてきたので筆談で問いかけると

「FIJIは詳しいですか、どこか安い宿を知りませんか」との質問

 

事情を聴くと

やはり既に大繁盛していた”華華”には敵うわけもなく

お店はいつも閑古鳥が鳴いている状態だったこともあってか

夢を抱いてトンガに渡ってきたものの諦めて帰国することになったと聞かされ

数日後(週に2便しかなかった時代のこと)我々と同じNadiから東京行きのフライトに乗って

乗り継いで台湾に帰国するとのこと

 

それはあまりにも可哀相だなと

空港からSuvaでいつも定宿にしていたアパートメントホテルに連れて行き

支払いをして、出発までゆっくり過ごせるようにと手配して

 

私とチャンカーは日本大使館とJICA事務所で離任の挨拶と会食に招待され

懇意にしていた書記官は長年お疲れ様でしたと

翌日にはFIJI西部のリゾートホテルを手配してくれていたため

搭乗日にNadiでまた会おうねと別れ

 

あまりに不憫で空港では機内で隣同士となるように席を取り

成田までの間も筆談をして日本でもお世話しようと思っていたところ

 

成田では何やら迎えの人がいて

幼児の国に行ってお土産を買うとの話をしてくれたのですが

何のことやら理解できず(どこかの幼児施設と思い込んで)

 

空港で別れてしばらくしてから、ようやく東京ディズニーランドだと気づき

そう言えば、やはり現地での生活が安定するまではと

子供を台湾に残してきたと話していたのを思い出し

 

事業に失敗して失意の帰国でしたが子供に会えるのは嬉しいだろうなと思いつつ

 

帰国してからは、JICA中部支部が一日も早く働いて欲しいと切望されていたため

東京での帰国手続きをしながら名古屋でアパート探しをしたり

実家にも帰らず引っ越しや新しい職場での仕事に忙殺され

名古屋での生活を始めていたところ

 

実家の母から電話があり、何やら国際郵便の小包が届いてるとのこと

 

そのうち帰省するからそのまま置いておいてと伝え

数週間後の週末に家に帰ったところ

台湾からの小包で、送り主が帰国した時のご夫婦と知りビックリ仰天

 

高級烏龍茶やいろんな台湾の食べ物がダンボールにぎっしり詰まっていて

たしか手紙も同封されていて、お世話になったお礼が書かれていました。

 

そんな台湾人の恩義を忘れない義理堅い気遣いにビックリ

 

その後も何度もそうした贈り物が何度も届き

私は名古屋勤務の後、東京の新宿三井ビルのJICA本部となり

そのままフィリピンへの派遣となったのですが

 

フィリピン赴任中に実家が新築することになって

そのご夫婦からの手紙と住所がわからなくなって

とうとう音信不通となってしまいました。

 

そんな訳で私にとって台湾の人はとても大切な存在で

なかでも華華餐廰の郭瑞章さん夫婦はどうしても再会を果たしたいと

もしかしたら、どこかでタグから検索に引っかかるかもと

こんな記事を書かせていただいた次第です。

 

まず、トンガの華僑家族の集合写真を掲載していた

【台湾光華雑誌】に連絡を取って問合せてみて

日本と台湾のTV局に”恩人探し”のネタで番組を作ってもらえないかと手紙を書き

 

台北駐大阪経済文化弁事所(台湾の領事館)を訪ねて

相談してみようと思っているところです。

 

どうか再会が実現されますように

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やっぱオラ夏ばっぱが好きだ!

2025-01-17 20:17:22 | 雑感

半年前、断食している間の時間潰しにと

再放送を録画しておいた朝ドラ”あまちゃん”を

一気に全編視聴したこともあって

すっかりドラマにはまってしまい

 

ほとんどの登場人物が大好きになってしまったのですが

 

その中でも特に気に入ったのが

”夏ばっぱ”

 

海女クラブの会長で

雲丹弁当を作ったり

駅構内で喫茶店とスナックを切り盛りし

遠洋漁業で働く夫を支え

なによりも一本筋のとおったカッコよさに魅了され

ドラマの人物に惚れ込んだのですが

 

その後、能年玲奈ちゃんが干され

苦労していた時に

陰ながら支えていたことを知り

 

 

演者の”宮本信子”さんも大好きになっていたところ

最近はネット検索したらAIが個人の嗜好を読み取って

関連した情報が目につくように表示され

 

宮本信子主演のドラマ”母の待つ里”の放映情報が届き

ワクワクしながら視聴してみたところ

あまりの名演技に圧倒され

調べてみると、この話(ドラマ出演)のオファーを受ける数か月前から脚本を送ってもらい

数か月かけて方言や高齢の老婆の仕草を身体に染み込ませたんだとか

更に、話のストーリーが50歳の時に母を亡くしたこともあって

心の琴線に触れてしまい 大感動

御年79歳とそれなりの年齢になっていたこともあって

そんなにお年を召されてたのかと

寂しい気持ちになっていたのですが・・・

 

更に、今度は民放のドラマ

”海に眠るダイヤモンド”に出演するとの情報が届き

 

”母の待つ里”での老婆姿からは信じられない若々しさにビックリ仰天

まだまだお元気そうで安心したものの

 

やはり”母の待つ里”が忘れられず

ロケ地遠野での聖地巡礼を夢見ていたため

その想いを更に深めようと、急いで原作の文庫本を買いに走っちゃいました

”母の待つ里”を何度も観なおし

 

Google Mapsの航空写真とストリートビューを駆使して

 

①ローカル線の駅

②バスを下車したところにある酒屋さん

③母の待つ曲家

④お寺

⑤夜桜を観に行った神社

⑥精一に背負われて歩いた海岸

⑦分校あとの集会所

を見つけちゃいました

 

残りは、精一を見送った場所を現地で探したら満足できるかなぁ

 

 

ロケをしていた時期は

桜が満開だったので、今年の開花予想を調べてみると

満開が5月1日頃だとか

 

GWの混雑を避けて桜吹雪の頃に訪れよっと

 

炭火焼のジンギスカンも超楽しみ

 

頑張って成就できますように

 

今年はなぜか年明けから風邪気味の体調不良で

各地で最強寒波との情報を得ながらも

極寒の北海道や、生死の境を実感できる極限の大峰山系へ

耐寒装備で出かける気力が湧かず

 

年末年始とたちの悪い風邪をひいてしまい家から出る気力もなく

そのうえ、昨年に引き続き

人間ドックで肺に怪しげな影があると精密検査をしたり

胃の横にリンパの塊があるとCT検査に腫瘍マーカー検査で結果待ち

 

気力がなくなって免疫力が低下してるんだろうなと

今年一年生き延びられるのかな

と思っていたのですが

 

夏ばっぱ&母の待つ里のロケ地を訪れようと

新たな目標ができてとりあえず一呼吸

 

 

できれば今年中に、

トンガ、フィリピン、シンガポールへ行って

友達との再会を果たしたいなと願っているのですが

 

まあ、『為せば成るなさねばならぬ何事も』(意味不明)

あとは運命に任せるしかないかなと思いつつ

 

大好きな夏ばっぱのように

カッコよく生きなければいけませんよね。

 

 

 

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9月11日になると思い出す【私のトラウマ《9.11》】

2024-09-12 16:41:49 | 雑感

はじめに

同時多発テロで犠牲になられた方々のご冥福の祈りと

ご遺族の方々へ追悼の意を捧げさせていただきます。

------------------------------------------------------------------------------------------

さて、運がいいのか悪いのか

 

これまで”何度も命拾い”させてもらってきた人生と

独りで勝手に自負(?)しているのですが

 

そんな思いにさせられた経験のひとつが

2001年9月11日に発生したアメリカの同時多発テロ

 

備忘録をかねてその時に遭遇した出来事を記事にさせていただきたいと思います。

【当時のデジカメで撮影した画像は、動かなくなったパソコンのHDにしかないため

パスポートのスタンプ以外は借り物ばかりでごめんなさい

 

 

2001年は起業した翌年で

まだ安定収入を得られる事業を模索していた時期

時折、手っ取り早く現金収入となる海外での出稼ぎ仕事を請け負っていたところ

 

香港の船会社が所有するタンカーの発電機が致命的な事故を起こし

その大修理を監督する仕事の依頼を受け

 

8月25日

関空から香港に飛び

香港に入国

香港島の湾仔にあった請負元である日本企業の香港駐在事務所に向かったところ

そのタンカーはアメリカのヒューストンに寄港して

修理用の部品一式を積み込むので

アメリカのサービス代理店のワーカーとそこから乗船し

修理完了してから次の寄港地で下船して帰国の途に就いてもらうとの事

 

航空券は香港の船会社の手配で

香港出発が8月28日なので

その前に家族(駐在員夫人とその子供達)が

深圳のアミューズメント施設に行きたがってるので

深圳まで同行して欲しいとの依頼

(深圳でもまだ治安が悪くタクシーなど信用できない時代だったのもあって)

実は、その依頼元は

起業する前まで働いていた会社で

駐在員は元同僚

元々は大の仲良しで彼の誘いでその会社に中途採用で入社し

その後も毎晩のように仕事帰りに飲み歩く間柄で

 

依頼元というよりも友人のような関係だったので承諾して

 

8月27日 

高速船ターミナルのある尖沙咀から高速フェリーに乗り込み

香港出国

その頃から海路での深圳の最もポピュラーな玄関口となった

蛇口に渡り

深圳経済特区での特例観光ビザを受けて

勝手知ったる深圳から中華人民共和国へ入国

タクシーでアミューズメントパーク近くのホテルに送り届け

私はたしか国境近くのホテルに泊まり

のんびりと中華料理を堪能して仕事に備えて身体を休め

翌日の8月28日

今度は陸路で昔からの中国・香港の国境

羅湖から香港に入国

その昔

まだ深圳が未開の地のような荒地だらけだった頃

この橋を渡って香港に入った途端

ホッと安堵の息をついたものでした。

そして羅湖駅から地下鉄に乗って湾仔に戻り

預けておいた荷物を引き取って空港に向かい

香港出国

たしか満席の747のエコノミー席で

太平洋を横断して

LAX(ロスアンゼルス)到着

 

国内線に乗り換えてHoustonに向かい

現地の代理店が予約しておいてくれたホテルに投宿

実は、私が前の会社で管理職だった頃

何度か北米市場開拓でHoustonの代理店を訪問してたり

技術研修で来日していたその代理店の共同経営者の一人と顔馴染みだったこともあって

この時は、DownTownのHilton Hotelを予約してくれてたので

(それ以前は、よくNASAの宇宙センター前にあったHiltonが定宿でした)

 

夜遅くに到着しながら時差ボケと香港からの長旅の疲れを癒そうと

ルームサービスでポンド(煉瓦)サイズの血の滴るレアステーキをルームサービスで頼み

お腹もパンパンとなって大満足

 

翌日の8月29日は

その会社の共同経営者と

(地元南部訛りのアメリカ人と

元”デトロイトディーゼル”で働いてたイギリス人
そしてたしかギリシャ系の移民で技術者ではない出資者の計3人)

 

Houston郊外の風光明媚なSea Food Restaurantに招待してもらい

歓談しながら楽しいひとときを送らせていただきました。

アメリカらしいハイカロリーなワンプレートで

お腹いっぱいになりましたね~

(↓画像は借り物ですが、こんな感じ)

 

「熟練のワーカーを派遣するから安心して」との言葉に安堵しながら

夜、ホテルに戻り

船(タンカー)の入港を待っていたところ

 

突然、別れたばかりの共同経営者の一人から電話がかかってきて

トルネードが直撃する予報で船の入港が遅れそうとのこと

 

慌ててホテルの部屋のTVで竜巻の緊急速報を観ていたところ

次々と新しい巨大な竜巻が発生して

Houstonのど真ん中を直撃するとの進路予想図が映し出され

警報が発令されて高層階の部屋から外を眺めると

道路が閉鎖され、人気がなくなってさながらゴーストタウンの様相

 

しばらくしてホテルの窓ガラスが強風で割れそうになったと思ったら

突如停電となって真っ暗闇

 

非常灯だけはついてくれましたが空調も止まって辛かったですねぇ

(↓Houstonは竜巻銀座なんです)

 

そんな大変な一日もありましたが

竜巻も通過して乗り込む予定のタンカーも入港するとの連絡を受けて

9月2日午後 ようやく乗船

致命的なエンジンの損傷で

重さ数トンの大型部品の積み込みに半日以上費やし

船は予定通り出航したのですが・・・

 

実は、タンカーという代物

勿論、発電所への供給等定期航路に就航している船もあるのですが

ほとんどが先物として取扱われ

荷主(だいたい商社)が市場価格の変動で売買するため

とりあえず積み込んでから

揚げ地が変更するのがざら(ようするに不定期船)

 

この時もHoustonのGalvestonで積み込んだものの

とりあえずメキシコ湾の変針点まで向かうとのことで

 

通常でも組立だけで約1週間はかかる修理工事だったので

気楽に構えていたところ

 

揚げ地がプエルトリコの先のアメリカ領バージン諸島の

St Croixに決まり

入港予定は5日後と伝えられ

 

乗組員も会社からの命令を受けて焦りだし

総勢十数名での突貫工事となりその後の3日間ほぼ徹夜

 

なんせ普段でも高温多湿の機関室なのに

酷暑のメキシコ湾航路とあって気温45℃以上の環境での作業

 

そのうえなんせ香港の船

船内で提供される食事は三食いつも油だらけの中華料理で

アメリカ人のワーカー2人は口に合わずグロッキーになってたのですが

 

一人のフォアマン(職長)はそんな事態も想定してたのか

鰯のマスタード漬け缶詰を持参していて

『油だらけで食べられないよな。良かったら食べて!』と渡してくれ

南部訛りの酷い白人ワーカーだったけど、無口で黙々と作業をしてくれる

頼れる人材で良かったぁと思ってたら

そんな心遣いもしてくれる人柄が嬉しかったなぁ

 

因みにもう一人は、中南米系の明るくてお調子者

どうやら技術者としての技能を持たない単純労働のみのワーカーで

乗り込んだ当初は元気溌剌だったのが

あまりの3K仕事にほぼ倒れる寸前

 

そんなこんなで生き地獄のような数日でしたが

なんとか4日目に試運転を済ませ

 

5日目に港に入港すると乗り込んできた船級協会の検査官の立会いの下

負荷試験や耐久試験をクリアし落成書にサインを取り付けたところ

 

なんせケチケチな香港オーナー

すぐさま帰りの航空券を手配してシャワーを浴びただけで下船することとなり

アメリカ人の二人も一刻も早く逃げ出したかったようで

急いで身支度を済ませ

9月9日午後

数時間後に出発するマイアミ行の航空券が渡され

空港へ直行となったのですが

 

地獄のタコ船から下船してホッとしたのもつかぬ間

このあと空港でひと悶着

 

当時のアメリカは、出国時に航空会社のカウンターで

入国時に入管で渡される入国カードの一端を保存しておき

それを渡すだけで入管の出国スタンプ等はなく

 

この時は、Houstonを出航する時にそのカードを渡していて

一度は出国したことになっていたのに

またまたアメリカ領で上陸することとなり

 

港の代理店が私の再入国手続きをしていなかっため

アメリカ人の二人は問題なく通過できたものの

入管が『あなたは書類不備だからダメ』と言い出し

 

『Houstonから出航した時に出国カードを渡していたのが

またアメリカ領で上陸することになったからだ』と主張して

 

『問題があるんだったらSt CroixかHoustonの港の代理店に連絡してくれ』と伝えるも

時差もあってなかなかHoustonと連絡がつかないのか遅々として動かず

先に搭乗手続きを済ませたワーカー2人が

搭乗の締め切り時刻が迫って心配そうに眺めるなか

 

入管のカウンターを叩いて

『いいかげんにしろ!乗り遅れたらどうすんだ!』と怒鳴ったのが功を奏したのか

ようやく飛行機に乗り込めたのですが・・・

 

マイアミに到着すると

ワーカー二人はHouston行の航空券が手渡され

 

私は、連日の徹夜作業で疲れ切ってるし

東海岸のニューヨーク辺りで休んでから帰ろうと思っていたところ

 

香港の船会社が手配したという

ロスアンゼルス経由で香港行の航空券をマイアミで手渡され呆然

 

(実は、船会社には特別な航空運賃のタリフがあって信じられないような低価格で乗れるんです)

(このような船の機械の大事故では保険で費用が求償できるため技師はビジネスが普通)

(同様に移動にかかる宿泊費や経費もしっかり請求するのが一般的なのですが・・・)

 

たしかカリブ海のSt Croixを出発したのが9月9日の夕方で

夜マイアミでロスアンゼルス行に乗り換え

LAX(ロス空港)に到着したのが9月10日の早朝

 

久しぶりのロスだったのでBroad Wayあたりを歩きたいなと思っていたのですが

疲れ果ててDownTownに行く元気もなく

航空会社のカウンターで翌日のフライトにしてもらう交渉をする気もおこらず

数時間後に出発するジャンボ機に乗り込み

時差で9月11日の朝 

すし詰めのエコノミー席で仮眠することもできず香港到着

香港での乗り換え時間が長かったので

一度は入国手続きをしたものの

やはりDownTownまで行く元気なく

 

再び出国手続きをして

日本(関空)行の飛行機に乗り換え

ようやく関空に到着しリムジンバスで奈良の自宅に帰り

 

ヘトヘトになりながら食卓に座り

TVを横目に晩御飯を食べていたところ

あのマンハッタンのワールドトレードセンターに飛行機が突っ込む

衝撃の映像が何度も繰り返して流され 目が点

その後に判明したテロでハイジャックされた飛行機は

ボストン発が2機、NJのニューアーク発1機と

ワシントン近郊のダレス空港発の1機

 

実は、帰国の途についている間

あまりの待遇の酷さに

『金輪際、こんな劣悪な条件の仕事は断ろう

と心に決めていたのですが

 

もしもあの時

①入管が許可せずSt Croixで一泊していたら・・・

②マイアミから東海岸経由にしてDCかNY辺りに泊まっていたら・・・

③LAからのフライトを一日遅らせていたら・・・

 

たとえマンハッタンに泊まってたとしても

そんな朝早くからワールドトレードセンタービルに行くことはないだろうし

散歩に出て惨事に遭遇することは万に一つもなかっただろうけど

 

もしかしたら自分の乗る飛行機にテロリストが乗り込んだか

ハイジャックされた飛行機に乗ってた可能性はゼロじゃないなと背筋が凍る思い

 

あのテロの後、アメリカ国内では全ての航空機が飛べなくなり

一週間以上足止めされていつ帰れるかわからない状況に追い込まれててたかも

 

まあ、それ以前に

*Houstonで竜巻の直撃に遭遇してなかったら

*タンカーの揚げ地がSt Croixじゃなかったら

(それでもカリブ海の島だったら大体マイアミかLAX経由での帰国になるんですけどね)

 

どうなっていたことか

 

そんな運命に導かれてたのかと

9.11になる度に思い出す自分史の一頁です。

 

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シニアグラス(要するに老眼鏡)

2023-12-14 08:40:00 | 雑感
この私、子供の頃から視力検査で1.5
そこそこ満足していたのですが
 
中学生になると反抗期で授業中もほとんど先生の話を聞かず、高台の四階建て校舎の四階が教室だった事もあり、窓の外に見える遠くの山々ばかり眺めていたからかいつしか視力はいつも2.0が楽々
 
そんな遠視気味だったのが悪かったのか
40歳を過ぎた頃から細かい文字を読むことが苦しくなり、45歳では老眼鏡が手放せないようになってしまったのですが
 
背広やワイシャツ👔を着てる時なら胸ポケットに入れとく事もできるけど、Tシャツや胸ポケットの無い服装では細かい文字を読む時にいちいち取り出してかけるのが超面倒😩
 
そんな風に感じていたある日、たぶん20年近く前にイタリア🇮🇹のCuneo から乗った電車の乗客が着けてたこの眼鏡👓が気に入って欧米のみならず海外出張の度に各地で探すも見つからず、半ば諦めてかけた15年ほど前に故郷豊橋の眼鏡屋に置いてあるのを発見‼️🙌
 


 
 


 
 
でも値段が20,000円と聞かされ、それは高すぎるんとちゃう❓とネットサーフィンしてみると安いので8,000円ほどのもあり🤭すかさず注文🎵
 
目立ちたがりなので外出してると衆目を浴びて喜んでたのですが、その後、大好きなにっぽん縦断こころ旅で火野正平さんも使ってのを観て、嬉しいような悲しいような。😅
 
道を歩いてたり、どこかの窓口で「すみません。その眼鏡どこで帰るんですか?父に贈りたいと思ってたんです。」と、若い女性から何度か尋ねられた事もありました。😊
 
いずれにしてもそれ以降クリックリーダーを使うようになってるのですが、起きてる間は勿論、寝てる時もスマホを見る時につけるハードユーザーだからか経年劣化なのか既に7ケ目❗️😱
 
 


 
 
いつでも直ぐに使えるのが便利で、もはや手放せない身体の一部のような存在なので仕方ないかな😂
 
因みに初期のシンプルなデザインのものから次々と新しいデザインや色が売り出され、最近のお気に入りはエクスパンダブル❣️
幅も長さもゆとりがあるのと、金属のツルが錆びないので選んでいます。
(スタンダードのものは荒い使い方をすると汗で錆びるから緑青が出てきました)
 
 


 
 
ご参考までにお知らせさせていただきますが、クリックの回し者ではございませんので(笑)
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新日本紀行ふたたび 与那国島

2021-06-01 22:30:00 | 雑感



https://youtube.com/watch?v=N3vViNEK0Jkhttps://youtube.com/watch?v=N3vViNEK0Jk


YouTube にこの番組が出てきてビックリ!












一昨日ネットで長命草酒を10本注文したばかりだったので

そこからAIで関連づけられちゃったのかも(;゜0゜)

怖いなあと思いつつ、
あの地にも季節労働で援農隊として日本全国から若者が集まってたんだと知り、なんか無性に与那国島に行きたくなっちゃいました。(*´ω`*)











15年ほど前に生まれ故郷の近所の三州(三河)の吉良の茶畑も季節労働で農家に住み込みで働く若者が集まってたと聞いて、現代の日本にもそんな風習があったんだとビックリしたのを思い出しました。

コロナ禍でどうなってるんだろ?
機械化されちゃったのかな?

共同生活で生涯忘れない貴重な思い出いっぱいできるんだろうな🤗





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小林聡美に首ったけ

2021-02-22 13:21:44 | 雑感

つい2週間前のこと

 

石垣島からの帰り道

 

いつもながらの思いつきで突然訪れた与論島で
この映画の存在を知り、

またあの美しい海を観てみようとDVDを借りたのが大失敗!(笑)

めがね 予告編

「かもめ食堂」のスタッフによる新作映画「めがね」

youtube#video

 

2007年にヘルシンキを訪れる前

現地の参考にと”放映直後のかもめ食堂”を観て
”変(?)な映画”と知っていたのですが

 

この”めがね”で、またまた変な映画だなぁと思いつつ

不思議な魅力に取りつかれ

すっかり小林聡美の虜🤩になってしまい

 

ついついDVDやYouTubeで

”やっぱり猫が好き”
”すいか”
”2クール”
”プール”
”マザーウォーター”
”パンとスープと猫日和”
”東京オアシス”
”レンタネコ”
”トイレット”

と、ここ1週間で一気観しちゃいました😜

 

TVドラマの金八先生や尾道が舞台の映画”転校生”で

ボーイッシュで元気溌剌の女の子のイメージが強かったのが

パンのCMから大変身

 

ほとんどがドラマティックな展開もストリー性もなにもない
なにげない生活をただただ単調に描いている映像の連続で
そのうえBGMや挿入歌がこれまた癒し系のため

ついつい途中で居眠り😪してしまい
テレビドラマでそこそこストーリー性のある”すいか”以外は
全てあとで巻き戻しては続きを観るのがパターン化してました😝が

まったりと精神的にとっても寛げる映画なので
心が疲れている時にとってもオススメです😜

エンドロールと共に流れる大貫妙子の曲がまたいいんだなぁ🥰

 

ほぼ毎回常連の気心の知れたスタッフや共演者に囲まれてるからか

素のままなのか演技なのかわからないほど(笑)

 

もたいまさこ、市川実和子・実日子、光石研、加瀬亮、

片桐はいり、小泉今日子、伽奈 などなど

ほっこりしますよ~

 

 

但し、とてもクセがあって万人受けする映画ではないので
レビューや口コミ投稿を読むなどして

ドラマティックな展開や結果を求めない
猫🐈好きで、現実離れしたシュールな世界感が苦にならない人は
是非一度視聴してみて魅力に憑りつかれちゃってください😉

 


※初心者向けなのは①かもめ食堂 ②パンとスープと猫日和 
慣れたら中級編 ③めがね ④プール ⑤マザーウォーター 
個人的にとっても気に行ったのが ⑤すいか ⑥2クール ⑦レンタネコ かな😅

 

さて、

”山のトムさん”と”てなもんや商社” ”コートダジュールN゜10”

”犬に名前をつける日” ”光とともに” ”ガマの油”

探そっと

 

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マタギに憧れて

2020-12-23 15:53:40 | 雑感

 

伝説の狩猟民・マタギと“山の神”

 

Facebook Watch

 

 

 

2020年5月20日

我が家の淡竹と真竹の竹林に筍を掘りに行ったところ

例年ならすでに数十本の淡竹があがっている時期なのに

まったく姿がみえず

 

よくよく眺めてみると

・・・

どうやらそこらじゅう掘り起こされているみたい

そのうえ、淡竹の皮が散らばっているのをみつけ

 

もしかしたら筍泥棒にやられたのかも

と、一瞬思ったものの

 

よくみると思いっきり掘り返されているのがわかり

ようやくウチの竹林にも猪がきてしまったことを悟りました

いつもなら6月まで 隔日で収穫しているのですが

合計して数百本の淡竹が採れ

季節の味として友人知人に配っていたのが

ほぼ絶望

市役所に電話して

猪が入らないように電柵の設置を相談すると

田畑なら補助金が支給される場合もあるけれど、竹林にはされないと聞いて大ショック

 

あれこれ

最終的に有害鳥獣として猟友会に相談したらいかがですかとの助言があり

地元の猟友会に相談したのですが

「竹林は獣道が定まらへんから難しい」とか

「その近くにも檻の罠してあるけどなかなかかからへん」と

他人頼みしてても埒があかないなと

『よし! そんなら自分で狩猟の免許取ってやろう

『ぼたん肉は美味しいし、なんならジビエ肉として卸したらいいじゃんか

気楽に考えて 

狩猟免許の促進講習会が開かれることを調べ

参加申し込みを済ませ

 

とりあえず”ぼたん肉”を食べて

モチベーションを上げようと 京都和束の肉屋でばら肉を買い

家で焼き肉にして食べてみました

(バラ肉でも1,100円/100gなんですよ~

 

義兄が奥三河の山奥育ちで

若い頃からずっと鉄砲猟師をしていて

毎年のようにぼたん肉をキロ単位で送ってくれていたのですが

(残念なことに6年ほど前に心筋梗塞で急逝してしまいました)

処理が上手だったからか、まったく臭みのない脂身の美味しい肉と比べると

ちょっと残念な味でしたが

『駆除ができてジビエ肉として売れたら”一石二鳥”かも♪

喜び勇んで講習会に参加

当初は、家の竹林に出没する猪退治と思っていたため

罠猟(檻やくくり罠)だけと思っていたのが

講習会で銃(鉄砲)を触らせてもらったところ

なんなんでしょうね

男の本能なのか 銃を持ちたくなってしまい

 

最近訪れた秋田の阿仁マタギを思い出し

 

結局、わな猟と第一種銃猟の狩猟免状を取得してしまいました

免状が届いた翌日に猟友会が開催する 新人ハンター講習会に参加し

猟の仕方や解体を体験したところ

憎き猪とはいえ、果たして罠にかかった動物の命を奪うことができるのか と

ちょっと自信が揺らついているのですが・・・

とりあえず猟友会に加入して

警察で猟銃の所持許可を得るための講習会に申し込み

わな猟の講習会にも参加して

今年度は、とりあえずわな猟の狩猟者登録を済ませました

(銃の所持は警察の管轄で、講習会や射撃場での練習と試験を経て危険人物でないか調査されてから

銃砲店で買う銃を探してから所持申請となるため、銃が持てるようになるには早くても半年から1年かかるんです

そのうえ、我が家の周辺は、銃猟のできない地域のため

銃を持てたとしても猟友会の巻き狩りに参加させてもらうしかなく

山を歩いていて偶然猪や鹿に遭遇するわけもなく

基本的に猟犬を使っての猟となるため

『自分にはちょっとハードルが高いなぁ

銃猟へのモチベーションがすっかり下がってしまったのですが

偶然にも録りだめしてあったDVD録画の中の

目撃にっぽんの”くまやま”を観てしまい。

 

熊は山の神からの授かりものとするマタギの精神と

マタギ勘定や「山で熊に襲われて死ぬのが本望だ」との言葉に

感動してしまいました。

 

もしも銃が持てるようになったら

そんな簡単に受け入れてはくれないだろうけど

農耕に手のかからない冬の間は

秋田の鳥海山の麓か、阿仁や田沢湖の周辺で

クマヤマに参加させてもらおうと考えているところです。

 

結局、12月末まで、我が家の椚の木の枝打ちや

柿、梅、イチジクの剪定と 

年内に片付けておかなければいけないノルマに時間を費やされ

わな猟も よくやく年明けから取り掛かれるかな

 

 

後日また、経過報告させていただきたいと思います。

 

 

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個人情報ダダ漏れ‼️ 😱

2020-11-07 05:13:00 | 雑感

IT社会になってから

忘れた事や知らない事があっても
 
スマホを使って
検索エンジンや動画サイトから
直ぐに調べられるし
 
携帯電話時代から気軽に写真撮って
メールで送ったりブログ投稿したり
FBのニュースにしたりと

いやぁ便利な世の中になったなぁ🤗
 
と喜んでたら
 
SNSの広告サイトには
欲しいと思ってるグッズが出てくるし😲
 
ニュースサイトでは
個人的に興味のある話題が山盛り💦
 
クッキーとやらで知らないうちに
個人情報山ほど盗まれてるんだなぁ😰
 
と、最近つくづくそんな印象を持ってたところ
 
iPhone の写真のアルバムを見て
またまた驚愕の事実を知っちゃいました😳
 
3年前にこの4台目のスマホ📱にしてからの
いつどこで撮った写真か丸わかり❗️🥴
 
自分で思い出すのには便利だけど
 
データが全て残されてたぶん抜き取られてるんだろうなぁ
 
 




















もうすっかり枯れオヤジになって久しく
怪しげな隠密行動(❓)もしないから
 
別にいいんだけど😤 ← ホンマかいや😆
 
写真の枚数とかで
生息地からよく出没する場所まで丸出し😝
 
その上
ポイントカードやら電子マネー
クレジットカードの記録も全てダダ漏れ
 
まあ、今更どーしようもないと思いつつ
みなさんもお気をつけ下さいね🙇‍♂️
 
 
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備忘録 2015

2016-12-09 16:58:32 | 雑感

 

2016年もあと半月

そんな時期ではありますが

 

今更ながらの2015年行動記録を残させていただきいと思います。

(実は、過去の足跡調べるのにダイアリーが手元にない時、このブログ使わせてもらってるんです)

 

 

1月

 

1日 初詣 大安寺&村の鎮守

3日 ツタヤへDVDの返却

4日 千葉へ移動(翌日の仕事に備えて前泊)

5日 千葉港から京葉シーバースの入港中のVLCCで仕事

 

12日 関空より中国青島に出発(ロシア船の事故調査)

13日 青島港に接岸中のロシア船に乗船

14日 青島発関空に帰着 (18:30帰宅)

15日 陸路(新幹線&在来線特急)で長崎県佐世保へ

午後、佐世保重工にて安全教育受講

16日 佐世保重工 入渠中の飛鳥IIにて仕事

17日 同上 造船所で現場作業に従事

18日 同上 (前日追加依頼を受け緊急を要する部品を大学卒業前の次男に運搬を依頼

19日 同上 (別件で緊急を要する部品が発生し家内に運搬を依頼

20日 九州をほとんど知らない家内を連れて長崎観光後、博多経由で帰宅

21日 名古屋にて会社訪問(営業)の予定で移動中に緊急の連絡を受け

奈良に戻り、博多港入港中の飛鳥IIに乗船 深夜に作業を完了し博多のホテルに投宿

22日 早朝、博多発 奈良に移動(新大阪:火事で電車遅延 鶴橋:人身事故で電車遅延) 

25日 トレッキング (生駒山~信貴山)

 

 

2月

 

3日 シンガポール向け関空出発 (SQ直行便)

4日 終日 Sembawangの取引先で打ち合わせ

5日 同上 

6日 朝一で打ち合わせの後 Changi空港に移動し Singapore出国 同日関空着

12日 大阪日本橋へ 作業工具等の調査 

生駒山麓のラッキーガーデンで昼食(スリランカ料理)

14日 疲労が溜まっていて早起きできず雪山行の予定を翌日に延期

15日 山行断念

18日 有休を取り、家内とお伊勢さんに初詣

ブランチ 山口の伊勢うどん 

赤福ぜんざい 

遅めの昼食 的矢で焼き牡蠣のつもりが営業時間外で断念

ヤリクッタ食堂でお刺身定食頼むも見事に撃沈

晩ご飯 家の近所のタコ焼き屋

21日 南比良縦走を狙って雪山ハイクに出かけるも、

権現山からホッケ山の途中で太腿が痙攣を起こし縦走を断念して撤退

【敗因分析】

* 保険をかけるのを失念してるのに気づき、いざとなってもヘリコプターは呼べないなと気分的に落ち込む

* ヘッデン(ヘッドライト)を忘れているのに気づく(道迷いして日が暮れたら雪中で身動きが取れなくなる)

* レイヤード管理を怠り、登りで汗をかきすぎて痙攣を誘発させた

* レジャーシートを忘れていたため、雪上で座り込んでの休憩ができなかった

* 行動食摂取失敗によりシャリバテとビタミン補給の遅れから痙攣を起こした

* 好天となりすぎて腐れ雪となり、スノーシューもワカンも持ってなかったためツボ足でのラッセルで筋肉疲労を起こした

22日 水利組合総会に出席

28日 耕作放棄地の開墾(起こしておいた土の根っ子取り)

 

3月

 

9日 神戸空港から長崎空港経由 佐世保に移動(前泊)

10日 佐世保重工 資源 作業

11日 佐世保~諫早~島原~長洲(熊本)

午後 某社訪問(商談)

長洲~博多経由で帰宅(JR,西鉄、新幹線他)

博多駅 やぶれかぶれ(居酒屋)&だるま(トンコツラーメン)

15日 開墾中の畑で根っ子取り

16日 奈良市役所 事務所改装許可申請

17日 神戸へ 某重工&ポートアイランドの某社で打ち合わせ

20日 マイナールートで岐阜羽島に車両移動

和束~信楽~永源寺~員弁~大垣~安八~岐阜羽島

味噌カツ

21日 ユンボの免許講習(一宮)

22日 同上 免許取得

23日 早朝岐阜羽島発 名神経由で定時出社

26日 中古ユンボ探し(天理他)

28日 開墾中の畑で根っ子取り

30日 ワークショップ清掃 (次男引っ越し)

31日 長男 研修に出発

 

 4月

 

2日 横浜大桟橋にて飛鳥IIの小工事 

終了後新横浜でトンガ時代の先輩OBと飲み会(終電で帰宅)

5日 新幹線で豊橋まで行きレンタカーで作手まで(法事)

その後牛久保と飯村の墓参りを済ませ 岐阜羽島へ移動して泊まり

6日 朝岐阜羽島から奈良に戻りそのまま出勤

18日 午前:ハンマーナイフで草刈り 午後:刈払機 夕方より月例会参加

19日 神戸六甲より阪九フェリー乗船

20日 門司着 小倉~博多~鹿児島~中名 夜喜入にて乗船工事

21日早朝 喜入発 博多にてフィンランド取引先の人間と合流し長崎へ

午後 三菱長崎にて商談 その後博多に移動して会食 泊まり

22日 博多~奈良

23日 健康診断

25日 農耕 (里芋・長芋・蕗・茗荷植付)

26日 KIX T2より石垣島へ

27日 沖縄電力 発電所にて仕事

28日 沖縄電力 発電所試運転立会

29日 石垣周回(途中で事故) 午後 KIXT2着 奈良へ帰着

 

5月

1日 午前 沖縄電力物件電話対応(KHI向け) 午後 畑へ

2日 熊取ハンマーナイフ出動 午後 柿の木にッキャノピー設営 水通し

3日 柿の木 溝切 パイプ&仕切施工

4日 農耕

5日 農耕

6日 午前 水利組合梅雨掘り 午後 種苗購入 生姜植付

9日 里芋 植付

10日 ウコン、小生姜、大生姜植付

16日 午前 農耕 午後 OB会総会出席(橿原)

17日 午前 水路&畦畔草刈り  午後水ナス購入 発送

23日 豊橋日帰り 甥結婚式出席

24日 山ノ上水利組合 梅雨掘り

25~28日 Singapore出張

 

6月

4日 草刈り

5日 KIXへフィリピン時代の秘書の娘さん来日のためKIXT2に出迎え USJで食事

6日 

7日 午前 ハンマーナイフ 午後 土手野焼き

14日 呉へ移動

15日 呉で仕事

19日 尼崎で打ち合わせ

20日 ハンマーナイフ

21日 雨  夜 KIXからSingapore向け出発(夜行便)

22日 Singapore 待機

23日 早朝ホテル発 投錨中のスエズマックスBC乗船

24日 マレーシア沖

25日 カリマンタン沖

26日 ベトナム沖

27日 パラワン沖

28日 ルソン沖

29日 台-比 海峡

30日 先島沖

 

7月

1~5日 沖縄沖にてドリフト(入港調整)

6日 宮崎沖へシフト(台風接近のため)

7日 宮崎沖にてドリフト

8日 豊後水道通過し呉沖へ

9日 呉沖にて投錨

10日 午後 呉入港(製鉄所) 下船 広島から奈良へ

11日 愛媛県 伊予三島へ移動

12日 伊予三島 大王製紙入港中のウッドチップ船にて作業 奈良へ

13日 関空 国際輸入貨物検品

18日 佐賀県唐津へ移動

19日 伊万里にて仕事終了後 奈良へ

20日 農耕 草抜き

25日 京都 打田漬物へ買い出し

27日 岡山 玉野へ納入品トラブルのお詫び訪問

30日 奈良→浜松→岐阜羽島

31日 牛久保・飯村 墓参 

 

8月

1日 草刈り

2日 草刈り

4日 夕方野焼

8日 車で 豊田~作手~牛久保~飯村~伊良湖~鳥羽~賢島

9日 横山展望台~大王崎~鳥羽(漣で”あこや”定食)

15日 バイク洗車・充電 午後草刈り

16日 ツーリング(和束~信楽~永源寺~御在所)

19日 午後 広島へ移動

20日 宇品(新来島どっく)にて仕事 終了後奈良へ

23日 広島・呉へ移動 大和ミュージアム拝観

24日 呉にて仕事 午後 鉄のくじら館 拝観

25日 東京へ 新宿ミュンヘンで会食(UEC時代の同僚と) 散会後東中野へ

28日 大和高田(学生時代の同級生の職場へ)

29日 草刈り(ハンマーナイフ) 夕方 鶴橋にて同級生と会食

 

9月

2日 神戸空港経由長崎

3日 三菱長崎にて商談(フィンランド人と) 神戸空港経由で帰宅

5日 京都へ (ラーメン藤と打田漬物)

7日 トンガ時代の知人が出てるTVを視聴

13日 午後 心斎橋大丸へおはぎを買いに行く

19日 草刈り(ハンマーナイフ) 28,227歩

20日 村の環境整備と集会

21日 京都へ(ラーメン藤、打田漬物&醍醐でおはぎ購入)

22日 名古屋で学生時代の同期会のため

岐阜の同級生と羽島で味噌カツランチ 豊橋泊まり

23日 墓参(牛久保・飯村) サンヨネ・ヤマサ・チャオ

 

10月

3日 同級生来阪 新世界・天王寺界隈散策 鶴橋で食事 谷町泊

4日 奈良に戻って車で 京都、奈良案内

8日 午後 下関へ移動 下関泊

9日 下関(旭洋SY)で仕事 終了後新門司からフェリー乗船

10日 徳島着 眉山周辺散策食べて 和歌山へフェリーで渡りラーメンを食して奈良に戻る

12日 農耕 山芋収穫 里芋試し掘り

14日 打田漬物

15日 新宿京王プラザでUEC同窓会 神保町に立ち寄ってから奈良に戻る

17日 伏見大社(ブロンコビリーでランチの後)

18日 バイク車検後 桜井の笠蕎麦と荒神

21日 関空よりフィリピンへBjorn、宮木さんと合流して(バタンガス経由でミンドロへ)

22日~24日 Puerto Galeraでバカンス 24日午後 タガイタイ経由でマカティへ

25日 American墓地観光後帰国

26日 横浜へ移動(野毛の三陽で食事)

27日 MHI本牧で仕事

28日 MHI本牧で仕事

29日 彩華ラーメン

31日 農耕(畑)

 

11月

1日 豊橋へ墓参帰省

7日 農耕(里芋・生姜・ウコン収穫)

8日 ラーメン河を目指して吉野へドライブ 馬酔木で昼食

14日 ホームセンターでウコン用網購入

15日 ウコン加工(スライス、日干し)

17日 JOCV50周年にあわせ同期会・忘年会のため

東京へ(新宿ミュンヘンでランチ後東中野から中華街へ) 夜行バスで奈良へ

18日 早朝奈良着

20日 自社用用地として奈良DL横移転検討のため不動産屋さんへ

21日 農耕(消石灰・糠漉き込み)

22日 草刈り&畝作り

23日 初瀬の長谷寺散策

28日 農耕(京菜、菊菜植付)

29日 トレーラーハウス購入検討のため製造会社のある豊橋に帰省

帰路、伊良湖・鳥羽経由で奈良に日帰り

 

12月

5日 名古屋にて同級生と会食(本山)帰路徒歩で名古屋駅まで

駅前のサウナに宿泊

6日 朝 近鉄にて奈良に帰る

12日 吉野 馬酔木で焼き肉(家内・次男と)

16日 Singapore出張のため関空出発(TG)

17日 バンコク~シンガポール

18~20日 Singapore (19日JOCV同期と会食)

21日バンjコク経由で帰国

23日 Vespaのエンジンの掘出し物を見つけ購入のため名古屋へ

赤池で同級生夫妻と会食

26日 小学生時代の恩師にカレンダーを手渡しながら挨拶のため帰省

チャオとトンカツの宝来亭で食事 

28日 敦賀にて新日本海フェリーの仕事 深夜京都にてラーメン(新福菜館)

29日 万博公園にてJICC時代の同僚と忘年会(ランチ)

その後鶴橋で学生時代の同級生と痛飲

 

 

 

 

ということで、

出張が

国内 21回 48日

(千葉、佐世保、長崎、博多、佐世保、有明、神戸、岐阜羽島、横浜、新門司、小倉、鹿児島、博多、

長崎、博多、石垣、呉、呉、唐津、伊万里、玉野、浜松、広島、呉、長崎、下関、徳島、和歌山、横浜、敦賀)

 

海外 6回 40日

(青島、Singapore, Singapore, Singapore, Philippine, Singapore)

 

草刈り&農耕に

31日

 

プライベートの外出が

33日

(大安寺、生駒・信貴トレッキング、伊勢神宮、比良山系トレッキング、新城法事、豊橋結婚式、

京都漬物、豊橋墓参、豊橋墓参&作手・伊良湖・鳥羽・賢島、鈴鹿越えツーリング、

東京新宿ミュンヘン同窓会、鶴橋同窓会、京都ラーメンと漬物、京都ラーメンと漬物、

岐阜&名古屋同窓会、豊橋墓参、鶴橋同窓会、京都・三輪同窓会、

京都漬物、東京新宿会社同窓会、京都ハンバーグと伏見稲荷、桜井笠蕎麦、

豊橋墓参、吉野焼き肉、東京・横浜JOCV同期会、長谷寺散策、

名古屋・豊橋・伊良湖・鳥羽(宝くじ)、名古屋同窓会、吉野焼き肉、

名古屋Vespa&同窓会、豊橋墓参&カレンダー配布、EXPOランド同窓会)

 

 

 

そこそこ忙しくて バタバタしてた気がしてたんだけど

合計してもたったの152日

 

 

近年稀な出張も外出も控えめとなった年でした 

 

 

 

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これまでの人生で最も衝撃を受けた映画作品のひとつ ”血と骨”

2015-11-06 15:23:33 | 雑感

 

https://www.youtube.com/watch?v=docxzjrPODU

 

いまからかれこれ10年前のこと

話せば長くなるので, 詳細の経緯はまたの機会にしたいと思いますが

インターネットカフェを経営していたことがありました。

その時

店内での貸し出し用に買い揃えたDVDの中に

この一本があったのです。

 

ある日のこと

店をスタッフに任せ

一番奥まったブースに入り、この作品を鑑賞してみたのですが・・・

 

その衝撃たるや一言や二言で言い表せれるものではありませんでした!!!

 

 

当時、関西に暮らすようになって15年

 

生まれ故郷の愛知県三河地方の豊橋でも

小学校の校区内に朝鮮学校(小学校)があり

 

小学校の同級生や先輩後輩の中に在日朝鮮人の子もいたし

その後も仲良くなった他の校区の子供の家がパチンコ屋だったり

我が家の近所の空家を借りてスーパー向けの餃子を作る家もあったし

 

中高生の時には、街の繁華街でメンチキリがきっかけで

人気のない公園や駅の公衆便所で大立ち回りのケンカをした相手がだいたい在日韓国朝鮮人

(一級上のケンカ相手とは、その後親友と呼べるほど仲良しになりましたが)

 

ごくごく普通の生活を送っている市井の人間と比べたら 

そこそこ(在日韓国朝鮮人のことは)知ってると自負していたのですが

 

この映画を観て、日本における歴史とその生き様を初めて知らされた気がしました。

 

映画について 素人あれこれと言うのは好きではありませんので

まだご覧になっていない方で興味を持たれましたら

↓ から全編をご覧になってみてください。

https://www.youtube.com/watch?v=4zmYrFUrBpY

 

私は、この映画を観たあとで衝撃と興奮が冷めやらず

原作者の梁石日(ヤンソギル)氏の小説を片っ端から読んでしまったほどです。

 

特にオススメしたいのは ”夜を駆けて” 

在日の話とは異なりますが”闇の子供達”も衝撃を与えられた一作です。

 

 

最後にもうひとつ加えさせていただくと

この映画、シリアスで、絶望のどん底のような真っ暗な映画と思いきや

コミカルで笑いを誘うようなシーンもあり

ケンチャナヨ(気にしない、構わない)精神の民族だったと

思い出して胸を撫で下ろしました。

 

(このブログを読んでいただいた方が映画を視聴し終わったと思われる頃、映画の感想を記事にしたいと思います。)

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有言不実行

2015-01-28 16:50:51 | 雑感

 

これまでの人生

”有言実行”を旨として生きてきました!

 

というのも

元々いい加減でちゃらんぽらんな性格の人間のため

公言することによって逃げ道をなくし

 

もしも、後々で深慮して躊躇しするようなことがあったとしても

自分のプライドにかけて、絶対に成し遂げるんだ!

 

 

そんな思いから、人生訓として守ってきたのですが・・・

 

 

このところ、仕事に忙殺されて

口にしたことを反故にせざるを得ない状況に多々追い込まれてしまいました。

 

 

”東北の大震災の被災地に応援ツアーに行こう”

”協力隊同期隊員と毎年同期会を開こう”

 

などの企画立案して実施しようと宣言していたのに

次々と突発の仕事が舞い込んできて

いつの間にやらウヤムヤになって自然消滅

 

 

山歩きも、2014年内には

空木岳縦走に木曽福島側からの木曽駒ヶ岳登頂

奥駆道(山上が岳~普賢岳~八経ケ岳走破)

狼平か武奈ヶ岳での雪山テン泊

等々

 

いくつか計画していながら

気が付いたら季節はもう冬となってしまい

 

その上、現場仕事で疲れ切った身体では、ジム通いもできなくて

体力的にも縦走するだけの準備ができておらず

夢のまた夢で終わってしまいました

 

 

実行できないなら黙っているべきと思いつつ

黙っていたら弱気な自分に負けて

なにもせずに過ごしてしまいそう

 

大口叩いておいて

狼オヤジ(少年じゃないので)と後ろ指をさされたくないし

まったく悩ましいところです

 

 

とりあえず、次の週末は

比良山系か伊吹山へ雪山ハイクに出かけるつもりでいます

 

伊吹山なら朝5時出で

近鉄、新幹線、バスを乗り継いでとなる予定

 

だけど、今朝から風邪気味でクシャミは出るわ

熱っぽくて身体は重いわとネガティブな兆候が見られるのが不安材料

 

 

またぞろココでこうして宣言しておいて

はたして実行できるか否か

 

 

2015年はどうなるでしょうか

運を天に任せたいと思います

 

 

【追記:2015年1月31日 06:35】

当初予定では、

この時間、京都でこだまに乗り換えなきゃいけない時間なのですが・・・

昨日、以前取引のあった国内の某社から

ミシシッピ周辺で船の修理ができる会社を紹介して欲しいとの電話を受け

金曜だし、時差があるし、何社かに電話してたら・・・

いつの間にやらこんな時間に!

 

 

雪崩注意報も出てたし

これもまた運命なんだろうと、本日の登山は諦めました

 

さて、この”有言不実行”状態

いつになったらやめられるのでしょうか

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