前回、中学校時代の事を書いていた時に
ふと思い出したのが
私立桜ヶ丘学園、桜ヶ丘中学校の2・3年生の担任だった
美術教師"加藤正一"先生の事
(卒業アルバム用の撮影でスーツ姿ですが
普段は学校に来てから絵を描いたり
工作し易いような服装に着替え
気楽に声かけられるような方でした。)
もう知ってる人も居ないだろうけど
結核の治療法の一つとして
昔は肋骨切除があって
先生は今で言うところの
インドアタイプ
たぶん若い頃から絵が好きで
家に籠る生活から
結核を患っちゃったんだろうなぁ
と想像してました。
いずれにしても
RCサクセションの”僕の好きな先生”の歌詞そのものの人物で

https://youtu.be/uYSWnJEgx4A?si=RIsIOiziY-3UgoIy
ずっと加藤正一先生の教え子の一人が作った歌だと思ってましたね~
そしてこの先生、実は二科展の絵画部で入賞したこともある本物の画家


どんな経緯であの中学校の教師となったのか
とうとう聞かずじまいとなってしまいましたが
(年齢は大正三年生まれの父とたしかほぼ同年代で当時の定年55歳を超えていたはず)
美術の時間に工作室で教鞭をとる時も
職員室でもクラスでも
いつも缶ピースを咥えた喫煙姿
(たしか毎日ひと缶吸ってるって言ってたような)
担任になった時、教壇に立って父兄への第一声が
「お中元、お歳暮をいただけるなら”日本酒”をお願いします」
「それと、特級酒や一級酒を一本とお考えなら、二級酒を二本にしていただける方が嬉しいです」
との言葉に、父兄達も思わず噴き出してましたねぇ。
一年生の時からヤンチャしてたのを知ってた先生
一級上の女子と付き合ったり、前号で吐露したような悪ガキだったので
担任になって心を入れ替えさせようと思ったのか
いきなり「オイ○○!明日は五分刈りでこい!」とのお達し
しぶしぶ床屋に行って、ウェーブをつけて恰好つけてた髪がバリカンで
パサリ、パサリと落ちてゆく様を眺めるのは辛かった~
(これは坊主刈りにした後の遠足での写真)
なぜかそれがキッカケでチリチリの天然パーマになってしまったんですヨ
結局卒業するまでに何度「坊主にしてこい」と言われたかなぁ
途中からもう慣れちゃいましたけどね
まあ、悪ガキだったのでしょうがない(笑)
そして最初のホームルームで手渡されたのが
受け持ち担当教科とは全く関係のない”漢字ドリル”
B5サイズほどの横開きの本で
一頁にたしか10~20文字ほどの漢字が書かれていて
(書き順やその漢字を使った熟語も)
うろ覚えですが見開きの反対側の頁が空欄になっていてそこに繰り返し書いて覚えるもので
毎日一頁を埋めて翌朝登校時に提出するとされていたのですが
なんせ小学校時代から”宿題”というものをしたことのない怠け者
「すみません。忘れました。
」と空白のドリルを渡すと
「コラ、○○また忘れたのか!!!」と頭の天辺に拳骨を食らい
第一限目の授業中に必死になって書き込んで
休憩時間に職員室に持っていって手渡し
通常の授業を終えて
その日の終業前のホームルームの時間に
前日の宿題の漢字のテスト(たしかひらがなを漢字に?)が行われ
書き間違えていると、またまたその場で20回ほど繰り返して書き込んで
徹底的に覚えさせるというもので
高校入試が(国語・英語・数学)の三教科となって
せめて漢字は書けるようにしてやろうとの心遣いだったのだと気づいたのは
卒業してからでしたが
ミスせず満点を何度か続けると
後日、先生自筆の色紙の絵をご褒美でいただけるのですが
実は、これが当時でも画商に売ったら一枚数万円はする代物
(号何万とかって人伝に聞いてました)
なんせその日の朝に忘れた宿題をさせられていたので
運よく放課後前はまだ覚えていてテストはいつもバッチシ
だから家にはその先生直筆の色紙が何枚もありましたねぇ
あと、そのおかげで当用漢字はほとんど覚えていて
商船学校時代は勿論、社会人になっても他人より漢字を知ってて助かりました
画家だった先生は、授業のない時間は
ほとんど美術室に籠って
歌の歌詞のように職員室が嫌いだったのもあったようですが
こうした生徒へのご褒美用の絵やその他にも画商に売るための絵を描いてたんですが
(家では二科展とかに出展する作品も)
この先生
私学なので冬はスケート
夏になると林間学校、臨海学校が学校行事として催され
個人的にはボーイスカウトのような少年団活動の団員だったため
そちらの仲間とのキャンプも何度かあったうえに
それまでの教え子達を呼んで
奥三河の渓谷でキャンプするのが恒例行事
大学生の先輩も何人かいましたが
ほとんどが高校生と、在学中の中学の教え子
なのに、大瓶のビールを数ケースに
日本酒の一升瓶を木箱で持ち込んで
キャンプ中は毎晩飲めや歌えの大宴会
さすがに先生の前では吸いませんでしたが
隠れてといっても、裏でほぼ公然と煙草もスパスパで無礼講
それはそれはとても中学生とは思われない楽しい時間を過ごさせていただいたのですが
なんと費用は交通費だけであとは先生の奢りだったような
そのために絶えず絵を描いては画商に売って資金を貯め
教え子たちの喜ぶ顔を見るのを生き甲斐にしていた方でした
それから、その先生に連れていってもらったキャンプ場を予約して
小学校時代の恩師と中学校は別々になってしまった同級生を誘って
またまたキャンプ
だから夏休みの半分以上はキャンプやお泊りしてたので
思いっきり夏を満喫してましたね~
(↑と言うことで、これまた小学生の頃から”夏休みの宿題”も自由研究以外したことなし)
(8月の末になって、一応焦って仕上げようとするのですが、お天気欄でお手上げしておしまい)
それからこの先生
愛知県と静岡県の県境にある東海道の宿場町で
本陣のあった二川に家があり
スクールバスで国道一号線と交差した場所で乗り降りして
そこから家までは
国道一号線を走るツバメのエンブレムの国鉄バスを使って通勤されてたのですが
その国道一号線のバス停留所前に
夕方にはたしか刺身類も揃えた有名な角打ちの酒屋があり
学校帰りは毎日その酒屋で一杯ひっかけて家に帰るのが
先生のルーチンワーク
遠足ともなると
小学生が持つようなプラスチックの水筒を持ってくるのですが
実は中身は”お酒”
卒業アルバム用の写真撮影でスーツ姿
この日は酒抜きだったかな(笑)
これは遠足だったのか、修学旅行だったのか
悪ガキが問題を起こさないようと
目の前の席に座ってて監視されてたような
でも夜は他の先生達といるのが窮屈だったのか
修学旅行で東京の本郷の旅館に泊まった時は
「おい、◯◯夜鳴きそば食べに行くぞ」
と誘ってくれたりしましたねぇ
先生は勿論コップ酒(笑)
そんな、まさしく”タバコと絵具とお酒の匂いの先生”
あの先生がいたから
つい真似して大酒飲みになっちゃったんだろうな
なーんて責任転嫁しちゃったら
あの世でまた拳骨くらいそう(笑)
いずれにしても
あの歌の題名どおりの
”僕好きな先生、僕のすきなおじさん”との思い出話でした。
追記:桜ヶ丘高校の本館の最上階から屋上までの階段の吹き抜けの踊り場に
二科展に入賞した時の
たしか巾2、高さ5mほどの大作が飾られていたのですが
何年か前に建て替えられてしまい
あの絵がどうなったのか?
今度帰省したときに
昔の中学の卒業生だと訪ねたら教えてくれるかな
どうか、いまもどこかで飾られてますように
【付録】
一年生の時の担任 堀内圭子先生(旧姓柴田で渾名がシバコー))
思春期で木の又を観ても鼻血出しそうな頃だったので
いろいろありました(笑)
中一のキャンプの時
人里離れた峡谷の静まり返ったバンガローの中、
ローソクの灯りの下でオバケ話をしたら、怖くて泣きだしちゃって
仕方なく離れた先生のバンガローまで送っていったこともあったなぁ。
でも、なんとも可愛い人でしたねぇ
(↓これは中一の春、鎖骨を折った後の遠足での写真:学生服の下で腕吊ってました)
加藤先生と主事(校長)の鈴木吾一先生
(大嫌いだった帽子を被れといわれて不貞腐れてた私)
豊城中学校の校長を定年になってから
桜ヶ丘中学で主事+数学教師されてました。
たしか、父よりも年上で明治生まれだったはず
陸連で父の親友だったこともあって
中三の時には冬休みは毎日我が家に来て
入試直前まで教えてくれていたのですが
煙草を吸うのが当たり前だった時代のこと
ある日、”いこい”だったか”新生”だったか
母が休憩の時にお茶を持ってきた時に
先生の煙草が無くなってしまったに気づき
「○○、早くお前の煙草を持ってきなさい!」と言われた時には
『オイオイ、公然の秘密だけど先生の目の前で言うかなぁ』と
焦った思い出が
たぶん中一の秋の遠足かな? またまた腕吊り
たぶん中二、一人だけ恰好つけてVANのボタンダウンのシャツ
↓ これは中二の時に訪れた羽田空港での一枚
もうしっかり大人の体形になってるでしょ
もう存命の先生もほとんど残ってない様子
しっかり御礼しとくんだった~