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仏教

2017-01-16 20:17:16 | 仏教
『自業自得 改訂』
 大学の合格発表の掲示板に自分の名前を見つけた時、思わず「あった!」と叫びます。
過去の苦労がよみがえってきます。
仕事がうまくいった時、
好きな人に告白された時、
周りから評価を受けた時、
成功した時は「努力が報われた」と喜びます。
努力や苦労が一通りでなければ、その喜びも一通りではありません。
 成功者に、「何故、あなたは成功したのですか」と水を向ければ、果てしなくしゃべりまくり、ゴーストライターに自伝まで書かせます。
ここが勝負時だと思ったとか、委細にわたり、時には針小棒大に熱く語ります。
「他人のやらないことをやったから成功できた。この成功は自分の努力と苦労の結晶だ」と自負します。
もちろん、その通り。
その言葉に偽りはない。
その時の決断とその時の行動が、その人を成功に導いたことに間違いはない。
 では、失敗した時はどうでしょうか。
それがわかるのなら、成功した時だけでなく失敗した時も、その時の自分の決断とその時の自分の行動に原因を求めなければならないのではないでしょうか。
成功したのが自分の力量であると言うなら、失敗したのも自分の力量不足であると言わなければ、一貫性がありません。
成功した時は、常に自分の手柄であり、失敗した時は、いつも「あいつのせいだ。環境のせいだ。俺は悪くない」では自己本意に過ぎるのではないでしょうか。
良い時はその原因を自分に求めて、悪い時は八つ当たりしたり犯人探しを始めるとしたら、あまりにもご都合主義であり、どこかの隣国のように身勝手過ぎるのではないでしょうか。
 すべては自業自得。
スイカの種からはスイカの芽が出る。
まいたタネしか生えない。
遅速はあっても、原因があれば結果は必ず現れる。
それだけのこと。
運命でもなければ、宿命でもない。
神の御加護でもなければ、悪魔の妨害でもない。
 釈迦はこれを因果の道理として、教えています。