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仏陀

2017-02-19 04:22:02 | 仏教
『釈迦の半生④ そして覚りへ』
 シッダルタの苦行は、節食・断食・呼吸のコントロール・特殊な座り方・立ち方・肉体的苦痛を受ける等により、肉体に打ち勝つ精神力の鍛錬を目的とするものでした。
ところが、どれだけ激しい苦行を続けても覚りを得ることができず、いたずらに心身が衰えていくだけでした。
まともに歩くことさえできなくなったシッダルタは、これまでの苦行主義を捨てることを決意し、苦行林を出ます。
苦行によって衰弱した心身を回復しなければ正しい智恵は生まれないと考えるに至ります。
そして、ニレゼン河に入って水を浴び身体の垢を除いて身を清めますが、苦行で疲れきったシッダルタには岸に這い上がる気力も残っていません。
そこで、通りかかった村娘のスジャータから乳粥の布施を受けます。
スジャータの布施によりシッダルタはようやく気力を回復しますが、この一部始終を5人の家臣がひそかに見ていました。
「太子は苦行に耐えきれずに遂に堕落した。
修行者には大蛇より怖いとされる女人から乳粥の布施を受けてしまった。
こんなことでは、太子には絶対に覚りなど得られない。
堕落した者と一緒にいたら、我々も堕落してしまう」とささやきながら、シッダルタを見捨て、その場から立ち去ります。
 一方、決意を新たにしたシッダルタはニレゼン河の畔のブッダガヤの菩提樹の下で座禅を組みます。
そして、「我れ正覚を成せずんば終に此の座を起たず」(私は覚りを開くまでは絶対にここから動かない)と覚悟を決めます。
やがて、心の中に様々な悪魔や化け物が現れ、シッダルタを脅し誘惑します。
しかし、シッダルタの意志は動かざること山の如く、深きこと海の如し。
「マーラ(悪魔)よ、立ち去れ」
ことごとく征服し、シッダルタ35歳の12月8日。
「三界皆苦 吾当安之」
一切の迷いから解放され、宇宙を貫く真理を体得し、覚者(仏陀)となります。
以来45年間、80歳で2月15日に亡くなるまで、布教と伝道に生涯を費やしました。
そのシッダルタ45年間の教えが仏教です。

仏陀

2017-02-18 06:37:29 | 仏教
『釈迦の半生③ 出城と苦行』
 浄飯王はシッダルタの行く末が心配でたまりません。
春夏秋冬の宮殿を建て、それぞれの宮殿に五百人の美女を侍らせ、昼となく夜となく、歌や踊りでシッダルタを慰めます。
しかし、シッダルタには夢幻の如し。
虚しさを感じるばかりで、そこには喜びはありません。
ある日の真夜中、ふと目を覚ましたシッダルタは周りを見て驚きます。
昼間は綺麗に着飾っていた美女たちが酒に酔い潰れ、踊りに疲れ果て、あられもない恥ずかしい醜態で寝転がっていました。
いびきをかき、衣服は千々に乱れ、昼間とはまるで別人の姿にシッダルタは愕然とします。
私は騙されていた。
私は騙されていた。
これこそが人間の真実の姿なのだ。
もうだめだ。
いつまでも迷ってはいられない。
今こそ城を出よう。
出城を決断したシッダルタはシャノクという従者を従え、ケンジョクという名の馬に乗って、夜明け前にひそかに城を脱け出しました。
シッダルタ29歳2月8日のことでした。
 シッダルタは当時のインドで有名な仙人を訪ね、覚りへの道を尋ねます。
しかし、どの仙人の教えもシッダルタを満足させることはできませんでした。
そこで、シッダルタは独りで覚りを求める決意をします。
当時の仙人と言われる人たちの教えを理解し、既にそれらを超えていたと言われるシッダルタは、誰も到達していない真理を得るため、ニレゼン河東岸の苦行林という場所で想像を絶する苦行に打ち込みます。
 一方、シッダルタの出城を知ったカピラ城の驚きと悲しみは大変なものでした。
浄飯王は早速家臣を集めて、シッダルタの行方を探させます。
5人の家臣がシッダルタ探索のために遣わされ、シッダルタの跡を辿りますが、見つけたと思った時は既に立ち去った後・・・。
そんな繰り返しの後、ようやく一本の樹の下で座禅をしているシッダルタを発見します。
家臣はシッダルタに向かって、父王と妻ヤシャダラー、息子ラゴラの「太子に帰ってきて欲しい」という切々たる思いを伝えます。
「太子様、世に出家の動機は四つあると聞いています。
一つは長い病苦で生きていても楽しみがないから。
二つは老人になり身の自由や将来の希望を失ったから。
三つは財産を失い生活に困っているから。
四つは家族に死別して世をはかなむしかないから。
しかし、太子様の場合、これら全てがあてはまりません。
年若く、健康で、財産も地位もあり、家族の方々もお元気です。
何故、一衣一鉢の姿になられ、果てしなく遠い覚りを求められるのですか。
私たちにはわかりません。
どうしても太子のお気持ちがわからないのです。
浮世を離れた仙人でさえも、人恋しい思いを起こしますのに・・・」
涙を流しながらシッダルタに訴え、決心を変えて城に帰ることを求めます。
 しかし、無上の覚りを開くまでは断じて帰らないというシッダルタの決意は、岩のように堅固で揺らぐことはありません。
シッダルタは5人の家臣に対して毅然と言い放ちます。
お前たちにはわからないのか。
あの激しい無常の嵐がわからないのか。
すべてのものは常住しない。
いつかは衰え、いつかは滅びる。
快楽の陰にも無常の響きがある。
美女の奏する絃歌は欲をもって人を惑わすのみ。
三界に在るのは悩みのみ。
猛き火の如く、浮かぶ雲の如く、幻や水泡の如し。
若さを愛すれども、やがて老・病・死によって壊れ去るのだ。
シッダルタの火のように激しい求道への心と深い無常観に5人の家臣は心をうたれます。

仏陀の教え

2017-02-17 14:29:09 | 仏教
『釈迦の半生① 四門出遊』
 約2600年前、釈迦はインドのカピラ城主の浄飯王の太子として生まれました。
4月8日にルンビニー園の花園で生まれたので、釈迦の誕生日を「花祭り」として祝います。
母親の名前はマーヤ。
大変な難産だったためか、太子を出産後7日目に亡くなります。
シッダルタと名付けられた太子は生後7日目で実母マーヤと死別します。
 父親の浄飯王のシッダルタへの思いは格別なものがありました。
待望の後継者であり、愛妻マーヤが命と引き換えに産み落とした忘れ形見です。
そんなシッダルタの将来への期待は日毎に高まります。
ある日、高名のアシダ仙人を招き、シッダルタの将来を占わせました。
ところが、アシダ仙人はシッダルタを一目見るや否や涙を流します。
「太子を前に涙を流すとは不吉である。何事か」と激怒する浄飯王に対して、アシダ仙人は答えます。
「私は太子を哀れと思って涙を流したのではありません。自分を哀れと思って涙を流したのです。」
「どういうことか」と尋ねる浄飯王にアシダ仙人は答えます。
「太子はただのお方ではありません。王位を継承されれば転輪王(世界を治めうる優れた王)となるでしょう。出家されるなら無上の覚りを開かれる仏陀となるでしょう。私には転輪王よりも仏陀になるように思われます。ところが、私はこの通り余命いくばくもない老人です。太子が覚りを開かれても、教えを聴くことができずにこの世を去らなければなりません。なんと残念なことだろうと思わず涙を流してしまいました。」
アシダ仙人の弁明を聴いた浄飯王は大変満足します。
そして、太子をゴータマ・シッダルタと命名し、優れた王に育てるための英才教育を施します。
 立派な王になるには優れた師をつけなければならないと考えた浄飯王は、シッダルタが7歳の時、当時のインドで一番の大学者と称されたバッダラニーを学問の師に加え、更にインド一番の武芸の達人と評判の高いセンダイダイバを武芸の師に迎えます。
シッダルタは一を聞けば十を知る天才でした。
まもなく二人の師は浄飯王に、「太子に教えることはもうございません」と辞を申し出ました。
 なに不自由なく育ったシッダルタですが、成長するにつれて、物思いに耽るようになります。
少年時代から瞑想を好み内省的だったシッダルタは、ある日、鳥が虫を啄むのを見て弱肉強食の過酷な現実を知り、悲嘆します。
そのシッダルタが出家を志す縁となったと言われるエピソードが、「四門出遊」です。
 ある日、東の城門を出た時、シッダルタは、歯がおち、腰が曲がり、杖に頼って歩く老人を見ました。
人は誰でも老いなければならないのだろうか。
シッダルタは老いの苦しみを痛感します。
ある日、南の門を出た時、病人を見ます。
シッダルタは人が病むという病苦の現実を深く感じます。
ある日、西の門を出た時、葬式の行列を目にします。
さっきまで元気だった人が青白くなって動かなくなる。
そして、焼かれて一つまみの白骨になる。
人は誰でも死んでいく。
必ず死ぬのに何故生きるのだろう。
シッダルタは死の苦しみを知らされます。
ある日、北の門を出た時、出家した僧侶を目にします。
人は限りある命を自分の欲を満たすために生きるのではない。
老・病・死を超えた普遍的な真理を求めるために生きているのではないだろうか。
老・病・死に直面しても崩れない本当の幸せを手に入れたい。
シッダルタは真実の幸せを求める気持ちを押さえることができなくなりました。

仏教

2017-02-17 10:47:19 | 仏教
精進料理』
 仏教では僧侶の殺生が禁じられ、大乗仏教では肉食さえも禁じられたためかどうか。
野菜・豆類・穀類を工夫して調理する精進料理が考えられました。
精進料理は僧侶には必須の食事とされ、「行」の一つとして重視されています。
 精進料理は冠婚葬祭やお盆等の際に民間でも作られるようになりました。
料理屋の精進料理は時として仏教の食事の概念と離れた美食を目的に作られることもあるため、動物の出汁を使うこともあるそうです。
中国・台湾・香港・韓国・日本では精進料理を名物とするレストランや料理屋が数多く存在し、特に台湾の精進料理は有名で、広く浸透しているようです。
シンガポールやマレーシアでも、少数ながら仏教系の精進料理があるそうです。
 ところで、率直な疑問ですが、そんな精進料理を食べた修行僧は長生きしたのでしょうか。
昭和40年代、有名な永平寺の僧侶の寿命を過去帳をもとに調べた学者がいました。
結果は散々なものでした。
若い頃からの低栄養と苛酷な寒さのために、多くの僧侶は20歳前後で感染症(ほとんど結核)で亡くなり、一部の僧侶が長生きをしたことがわかりました。
そこで、「高僧だから長生きしたのではない。長生きしたから高僧と呼ばれるようになったのだ」とかの結論に至ったとか。

韓国・釜山の日本総領事館前に設置された少女像に黙とうする女性たち=6日(聯合=共同)

2017-01-17 19:55:54 | 仏教
慰安婦像の撤去が先だ 駐韓大使の「一時帰国」では韓国に伝わらない日本政府と国民の怒り
韓国・釜山の日本総領事館前に設置された少女像に黙とうする女性たち=6日(聯合=共同)
 日本政府が韓国・釜山の日本総領事館前に設置された慰安婦像への対抗措置として9日に一時帰国させた駐韓大使らについて、外務省を中心に早期に帰任させようとする動きがある。だが、早期帰任は各種世論調査で今回の措置を評価している国民感情からかけ離れている。第一、早期に帰任させても慰安婦像がすぐに撤去されることはないだろう。帰任は像が撤去されてからで十分だ。

 駐韓大使らを早期に帰任させたい理由とは何か。共同通信が13日夜に配信した記事は「韓国側の問題解決に向けた取り組みを促すためにも、駐韓大使の不在長期化は好ましくないと判断しているもようだ」と解説している。14日付の毎日新聞朝刊は「韓国内の混乱が深まっていることもあり、大使帰任によって事態打開に向けた韓国側との連絡を密にする」と説明する。

 「いまさら何を」と、ため息が出るような言い分である。

 韓国の尹炳世(ユン・ビョンセ)外相は平成27年12月28日の慰安婦問題をめぐる日韓合意で、ソウルの日本大使館前の慰安婦像撤去について「適切に解決されるよう努力する」と明言した。

 だが、事態は進展しないまま2つ目の慰安婦像が釜山の日本総領事館前に建った。そもそもソウルの慰安婦像が日韓合意の4年前の23年12月に設置されてから今まで、日本政府は何をやっていたのか。

 外務省幹部は駐韓大使らを帰任させて「北朝鮮への対応を協議する必要がある」とも説明する。慰安婦問題と安全保障問題は別次元の話だから切り離すべきだというのだが、理解に苦しむ。

 慰安婦像をソウルと釜山の日本公館前に設置した団体は北朝鮮と連携し、日韓関係を悪化させることを目的としている。ここで毅然(きぜん)と対峙(たいじ)することが、日韓の安全保障協力を確かなものにするとみる方が自然ではないか。

 本来であれば今回の大使らの「一時帰国」は、もっと厳しい措置である「召還」でもいい。あえて控えめな「一時帰国」にしたのは「釜山の像設置阻止には韓国外務省がかなりがんばった」(政府関係者)ことへの日本政府の配慮だろうが、もう配慮が必要な段階は過ぎた。いま大切なことは日本の怒りと慰安婦像設置が国際法違反であることを明確に示すことだ。

 現状のままで駐韓大使らを帰任させても、日本政府と国民の怒りは韓国に伝わらない。ここを理解させなければ、済州島の日本総領事館前に、新たな慰安婦像が設置されるニュースに接する日はそう遠くないことだろう。(田北真樹子)