
クレオパトラ7世 CleopatraⅦ(6) シーザー:ノート 1
ジュリアス・シーザー。Gaius Julius Caesar,ラテン語ではガイウス・ユリウス・カエサル。前100年~前44年3月15日。
ユリウス氏族カエサル家はローマの名門中の名門であり貴族(パトリキ)であった。
シーザーの父の名も同名で、父は後にアジア属州総監を勤めている。母はアウレリアといい、祖先には幾人もの執政官を輩出している。
父の死後、前83年、シーザーは神祇官(しんぎかん)を務めるがこの職務はパトリキ(貴族)のみに開放されており、パトリキと結婚する必要があったので、騎士階級の娘であるコッスティアと別れてコルネリウス氏族(古代ローマの有名氏族)のルキウス・コルネリウス・キンナの娘コルネリアと結婚した。(キンナ=民主派 マリウスの死後、前86・85・84年執政官に就任。スッラ討伐軍の編成の途中で事故死。)
前90年代から前80年代、ローマは戦乱に明け暮れていた。当時、元老院を中心とした寡頭政治を支持する閥族派(オプティマテス)と、民衆を基盤とする市民会の選挙政治を中心とする民主派(ポプラレス)の2つの政治勢力が対立していた。各派の中心人物は閥族派がルキウス・コルネリウス・スッラ、民主派がガイウス・マリウスであった。シーザーの叔母ユリアはマリウス家に嫁いでいたため、シーザーは民主派と目されていた。
両派は互いに相手を弾圧してローマの覇権を争っていた。マリウスが前86年に歿してから前83年にはスッラがローマに進軍し、民衆派を制圧して終身独裁官となり民主派を徹底して粛正した。シーザーも民衆派のキンナの婿であるので処刑のリストに載っていたが、政治活動をしたことのない18歳の若者であったことから、スッラの支持者や、ウェスタの坐女からも助命嘆願が相次ぎ、スッラもしかたなく同意した。しかし、代わりにキンナの娘、コルネリアとの離婚を命じたが、シーザーはそれを拒否して前81年に小アジア・アカエアへ亡命した。
亡命したシーザーはシキリア属州(イタリア共和国シチリア島・シシリー島)駐屯軍に籍を置きビテュニア遠征(小アジアの北西・ボスボラス海峡・黒海に面している・古代ビテュニア共和国)に派遣されてビテュニア王ニコメデス4世のもとに長期間 滞在したが、この時、王とカエサルは男色関係にあったのではないかという噂が流れたが、この噂は生涯ついてまわり、「ビュテュニアの女王」などと政敵からの攻撃材料にされたという。
いよいよ秋になりましたが、皆様 ご機嫌いかがでしょうか。
クレオパトラがシーザーに会うまえにはシーザーのことを勉強したとのことです。
それで、しばらくシーザー:ノートを開くことにいたしました。アシカラズ
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