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速記文字より生まれた流形文字をフォントにしました。

流形文字をダウンロードして文章を作成出来ます。魅惑的な文字が4つの方式で表現出来ます。ご利用をお願い致します。

[流形文字B・大文字]の発表

2012-01-10 14:15:00 | Weblog
    [流形文字B・大文字]の発表

皆様、辰年のお正月、いかが、お過ごしですか、早や、正月も半ばとなり、新しい年が始まりました。今年は「流形文字B」もよろしくお願い申し上げます。
[流形文字B・大文字]は鋭角と円形で均整がとれた文字にしました。英文と同じように最初の文字を大文字にしたりしてアクセントとしてもご利用ください。

クレオパトラ7世 CleopatraⅦ(11) シーザー:ノート 6

2011-12-23 10:14:43 | Weblog
    クレオパトラ7世 CleopatraⅦ(11) シーザー:ノート 6

ガリア戦争はシーザーがガリア(フランス・ベルギー・スイス・ドイツ等)をローマに従属させるために行なった戦争であった。戦争は紀元前58年から51年までの8年間に亘り、この中で55年と54年はブリタンニアに遠征している。
この戦争の中でシーザーは戦闘の顛末を記録してガリア戦記としてローマに報告している。
ガリアでの戦いは各部族との戦いでローマ軍も相当の打撃を受け壊滅した軍団もあった。開戦6年目(前53年)には第1回三頭政治の一人であるクラッススとその息子のブブリウスがパルティアの戦いで戦死し、前年にはポンペイウスの妻でシーザーの娘であったユリアも死去した。元老院では反シーザー派であるマルクス・ポルキウス・カト(小カト)らが暗躍して、ポンペイウスにも近づき両者間には隙間風が差込みつつあった。
ガリアの連合部族はアルウェルニ族(フランスのオーヴェルニゥ一帯の部族)のウェルキンゲトリクスにガリア軍の最高指揮権を委ねることで合意した。ウェルキンゲトリクスはローマ軍との戦闘を避けて、食糧などの供給を寸断して持久戦に持ち込むことにした。ガリア軍はローマの物資調達部隊の行動範囲にある全ての町を破壊し、焦土作戦により焼き払った。このなかでビトゥリゲス族は天然の要塞であるアウァリクムは攻略するのは不可能であると主張したので焦土作戦の対象から外した。ローマ軍は深刻な食糧不足状態に陥った。
シーザーはアウァリクムの城壁を攻略する装置を考案・設計させて25日間で完成させて攻城塔を前進させたが、その時大嵐に襲われた。この嵐は攻城作戦に有利になるとシーザーは考えた。嵐の来襲によってガリア兵の油断をついて城壁はついにローマ軍によって占領された。ローマ軍は飢餓と欲求不満によって城内の4万の住民に襲い掛かり逃れたのは800人ほどであったという。

いよいよ大晦日、皆様 いかがお過ごしですか。
皆様もすでにご存知ですが北朝鮮の金正日総書記(69才)が死亡しました。朝鮮中央通信によると金正日同志は12月17日午前8時半、現地指導に向かう途中列車の中で急性心筋梗塞で死去したと報じた。現地の場所も、列車名も不明でミステリーな死去でした。
それでは皆様 流形文字もよろしく、よい年をお迎えください。

クレオパトラ7世 CleopatraⅦ(10) シーザー:ノート 5

2011-12-02 12:10:04 | Weblog
   クレオパトラ7世 CleopatraⅦ(10) シーザー:ノート 5

紀元前54年、シーザー率いるローマ軍は2度目のブリタンニア侵攻を行なった。
戦力は5個軍団(約25,000)騎兵2,000。戦艦・商船800隻。
シーザーは第1次遠征の時に上陸するのに最適の場所としていた地点に上陸した。ブリタンニア人は最初はローマ軍の艦船の多さに圧倒されて上陸に抵抗しなかったが、内陸部12マイルの地点で戦闘態勢にはいった。ローマ軍はこれを撃退し、ブリタンニア軍の要塞を攻めてブリタンニア軍は敗走した。
翌朝、追撃の準備をしているところに、伝言を受け取った。それには前年と同じように嵐にあい、艦船同士が激突して甚大な被害が出たとのことであった。シーザーは「40隻あまりを失った」と記している。
このことで先発の軍団を呼び戻して艦船などの修繕に当たらせた。船を陸揚げしての修理に10日間、昼夜にわたり働いた。そしてブリタンニアに更に艦船を送るように手紙で指示している。
シーザーがキケロに宛てた手紙により9月1日には海岸にいたことが分かっている。その頃、シーザーの娘でグナエウス・ポンペイウスの妻であるユリアが死去したという知らせが届いたという。シーザーはユリアの死を大変悲しんだという。
艦船の修理が終わり、再びブリタンニア軍を追跡した。ブリタンニア軍は正面からの戦闘でシーザー軍を打ち破ることは出来ないと悟り、軍の大半を解散させ4,000のチャリオットでローマ軍の前進を阻むゲリラ戦術を行なった。
シーザー軍はタメシス河(テムズ河)を渡ってカッシウェッラウヌスの支配地(今のロンドンあたり)に入った。カッシウェッラウヌスはブリタンニア軍の総指揮に当たっていた。
離反する部族がでてきて、カッシウェッラウヌスは遂に降伏の交渉をする使者をローマ軍に送ってきた。シーザーは冬が近づいて来たことでの心配もありガリアへの帰還を望んでいたので交渉を成立させた。協定では人質と年間の貢物をローマへ送ることを同意し、再び戦争を起こさないことを約束させた。
テオドール・モムゼン(著作、ローマ史・ローマ公法・大学教授・ノーベル文学賞・デンマーク生まれ)は第2次遠征の結果について次のように記している。
「シーザーは勝利、兵士たちは戦利品を共に獲得することはできなかった。ローマ軍はカッシウェッラウヌスの懸命の防衛システムに阻止された。唯一、トリノウァンテス族より人質と服従をえたのが成果であったがトリノウァンテス族とカッシウェッラウヌスが仇敵の間柄であったからに過ぎない。また、ローマ軍の艦船・輸送船が北海では何の役にも立たないということが、この戦いで証明された。」
シーザーの記録によると、「ブリタンニア人は一夫、多妻制である。10または12人の妻を、特に同じ兄弟の間や、親子の間で共同で持ている。これらの妻に子供が生まれたら、処女の時に娶った者との間の子供と評する。」

クレオパトラ7世 CleopatraⅦ(9) シーザー:ノート 4

2011-11-14 14:40:46 | Weblog
    クレオパトラ7世 CleopatraⅦ(9) シーザー:ノート 4

紀元前61年、シーザーは前法務官(プロプラエトル)としてヒスパニア・ウルステリオル(スペイン・ポルトガル)属州総督として赴任している。この時、ローマ軍を率いてこの地方の部族を討伐して大金を手にした。
前60年、オリエントを平定して凱旋したポンペイウスと手を結んでコンスル(執政官)に当選。ポンペイウスに対抗する為、スッラ派の重鎮であるクラッススを引き入れて第1回3頭政治が結成された。この3者が手を組むことで元老院に対抗できる勢力を得て、議事録の即日公開制や、農地法の成立をさせて元老院議員に農地法を遵守させた。
前58年、コンスルの任期を終えて、前執政官の資格でガリア・キサルビナ・及びガリア・トランサルビナ等の属州総督に就任した。(ガリアの起源は前4世紀、イタリア半島北部の部族集団をローマ人はガリア人と呼んだ。これに対してアルプスの西側・北側はガリア・トランサルビナ=向こう側のガリアと呼ばれた。(ガリア=フランス・ベルギー・スイス・オランダ、ドイツの1部をさす。
この就任でガリヤの諸部族との戦争に踏み出した。前56年にはルッカ(イタリア)でポンペイウス、クラッススと会談を行なう。前55年にはポンペイウスとクラッススが執政官に選出されてシーザーはガリア総督としての任期が5年延長されることになった。
前55年と54年には2度にわたりブリタンニア遠征をおこなった。(ブリテン・英国のラテン語名)1度目の侵攻(前55年)では2個軍団(約10,000)騎兵2,000.輸送船80隻。
前58年からガリア戦争を始めたがガリア人の戦闘をブリタンニアが支援しているとして第1次ブリタンニア遠征を行なった。ローマ軍は上陸を試みるがブリタンニア側は騎兵やチャリオット(戦車)で海岸線に沿ってローマ軍の上陸を阻止した。ローマの軍船や輸送船は大きすぎて海岸に近づくことが出来なかった。
やっとのことで上陸したのはホワイト・クリフのディール城から半マイル南の地点であったという。シーザーの記録によると、真っ先に飛び降りたのは第10軍団の兵士のアクィリフェル(ローマ軍団の旗手)であった。彼は叫んだ「飛び込め、戦友たちよ、敵へアクィラ(鷲・わしの軍団旗)を奪われたくないのなら。私は己に課せられた義務の分は、共和国および将軍シーザーのために尽くすつもりだ」。
ローマ軍は軍船からカタパルト(投石機)や弩砲(どほう)の援護射撃をしながら、遂に上陸を果たしたがローマの騎兵隊を乗せた輸送船が到着していなかったため、ブリタンニア軍を追跡できなかった。その後、騎兵隊も戦線に参加するとまもなくブリタンニア側は部族の使節を送って交渉した。
しかし、輸送船団が上陸地点近くに接近した頃、嵐の到来で船団はバラバラになり難破する船や、航行不能になる船が続出してガリアへの帰還が危惧された。これを見たブリタンニア人は今までの交渉を破棄して嵐の後、大軍でローマの陣営を攻撃した。ローマ軍は味方になるブリタンニア人を集めて、この攻撃を阻止して焦土作戦を実施した。
この戦闘の後、再びブリタンニア人は使者を送ってきた。シーザーは前の交渉の倍の人質を要求したが、冬が近づく中で戦線維持は困難とみて全員ガリアへ帰還した。
この第1次遠征は成功とは言えず、テオドール・モムゼン(ドイツの歴史家)は「ガリアへ戻れただけでもよかった」と記している。
シーザーのブリタンニア遠征の報告を受けた元老院はこの栄誉を祝して20日間の感謝祭を決議した。後にキケロは「ブリタンニアには金も銀も無く失望した」と言い、また、他人は「シーザーは真珠を探すためにブリタンニアへ遠征した」と記した。シーザーもこの遠征で「成功した」との文言はない。

クレオパトラ7世 CleopatraⅦ(8) シーザー:ノート 3

2011-10-31 11:33:43 | Weblog
    クレオパトラ7世 CleopatraⅦ(8) シーザー:ノート 3

財務官としてシーザーはヒスパニア(Hispania.イベリア半島のスペイン・ポルトガル・アンドラ・ジブラルタルの領域の古名)に赴任して、この地でアレキサンダー大王の像を見た時、「自分はアレキサンダー大王の年齢と同じになったが、何もなし得ていない」といい、偉業達成の意気込みを見せている。その後、ローマに戻り、財務官の任期を終えたことで元老院の席を得た。
ローマに帰ったシーザーは宿敵であったスッラの孫にあたるポンペイアと結婚した。ポンペイアは裕福であったので、その財産を買収や陰謀などに使ったという。紀元前65年には上級按察官(古代ローマの政務官職の一つ・主に公共建築の管理、祭儀の管理を行なう)に就任してマリウスの戦勝碑の修復や多額の公費を使い公共事業や公共祭儀を行なった。
紀元前63年、シーザーは最高神祇官(古代ローマの国家の神官職で神官の長で神官団を監督し任期は終身で他の官職との兼任も可能・この職はアウグストゥスも就任して以降はローマ皇帝が兼ねるようになった)に立候補したが、多額の借財を抱えて、落選すれば国外退去をする覚悟であったが二人の対立候補を抑えて当選して晴れて公邸に住み身となった。
この年、ルキウス・セルギウス・カティリナー一味による国家転覆の陰謀が発覚した。この年の執政官であったキケロはカテリーナ一一味を断罪し陰謀者は処刑された。紀元前62年にシーザーはプラエトル(法務官)になったが、シーザーはクラッススと共に陰謀を裏で画策していたとも伝えられ、陰謀者の処刑には反対していた。シーザーがこの陰謀に関わっていたという審議の会議中に、シーザーは部下から手紙を受け取った。それを見たマルクス・ポルキウス・カト(小カト・キケロ派の元老院議員)は「その手紙は陰謀の証拠であるから見せろ」と迫った。シーザーは「これは大したものではない」と途惑う様子を見せたが、小カトは執拗に要求したので中身を見せると、それはセルウィア(小カトの異父姉)からの恋文だったという。「この女たらし!」と罵倒したが、これ以上シーザーを追及できなくなり、議場は大爆笑となり、シーザーへの疑いはうやむやになってしまった。

クレオパトラ7世 CleopatraⅦ(7) シーザー:ノート 2

2011-10-17 10:22:33 | Weblog
    クレオパトラ7世 CleopatraⅦ(7) シーザー:ノート 2

紀元前80年にスッラは終身独裁官を辞して前78年には死亡し、シーザーはローマに帰還した。ローマに帰ったシーザーは弁舌で一躍 有名になった。その頃、ローマでは属州統治において現地民への脅迫や搾取・収賄を行う者が多く、このような属州総督を次々に告発した。その中には前81年に執政官に選出されたグナエウス・コルネリウス・ドラベッラもいた。この頃、弁舌で知られていたキケロ(マルクス・トウッリウス・キケロ:弁舌家・政治家・国家論などの著作家・執政官)もシーザーの弁舌を賞賛したという。
シーザーはドラベッラの告発が不調に終わったことで復讐を恐れて紀元前75年にロードス島に逃がれてキケロの師で修辞学の権威として有名であったアッポロニウス・モロンに師事している。
エーゲ海からロードス島に渡る途中でシーザーはキリキアの海賊に捕らわれ身代金20タレントを要求されたが、シーザーは「20では安すぎる、50タレント要求しろ」と言いい「自分が戻ったらお前たちを磔にしてやるぞ」と言った。そして身代金が支払われて釈放されると海軍を招集して海賊を捕らえ、ベルガモンの獄につないだ。
その後、アシア属州総督に処刑を命ずるが、総督はこれを拒否して奴隷に売ろうとしたので、シーザーは海路を引き返して自分の命令で海賊を磔にした。
ローマに戻ると軍団司令官に選出されてクルスス・ホノルム(貴族階級者が最高の官位である執政官(コンスル)に就任するまでの名誉のコース)への道を歩み始めた。
前73年には、スパルタクスらによる第3次奴隷戦争が勃発している。この戦争で活躍したのがグナエウス・ポンペイウスやマルクス・リキニウス・クラッススらであったが、この戦争にシーザーの活躍した記録はない。前69年には財務官に就任する。叔母のマリウスの寡婦ユリアとシーザーの妻コルネリアも死亡した。
シーザーは叔母のユリアの追悼演説で「ユリウス氏族はアエネアス(トロイの王家につながる武将で後にローマ建国の祖となったといわれる)の息子アスカニウス(ローマ神話に登場する伝説の王)に由来し、したがって女神ウェヌスの子孫であり、また母方はアンクス・マルキウス(王政ローマ第4代の王)に連なる家柄であると述べている。

クレオパトラ7世 CleopatraⅦ(6) シーザー:ノート 1

2011-10-01 09:17:29 | Weblog
   クレオパトラ7世 CleopatraⅦ(6) シーザー:ノート 1

ジュリアス・シーザー。Gaius Julius Caesar,ラテン語ではガイウス・ユリウス・カエサル。前100年~前44年3月15日。
ユリウス氏族カエサル家はローマの名門中の名門であり貴族(パトリキ)であった。
シーザーの父の名も同名で、父は後にアジア属州総監を勤めている。母はアウレリアといい、祖先には幾人もの執政官を輩出している。
父の死後、前83年、シーザーは神祇官(しんぎかん)を務めるがこの職務はパトリキ(貴族)のみに開放されており、パトリキと結婚する必要があったので、騎士階級の娘であるコッスティアと別れてコルネリウス氏族(古代ローマの有名氏族)のルキウス・コルネリウス・キンナの娘コルネリアと結婚した。(キンナ=民主派 マリウスの死後、前86・85・84年執政官に就任。スッラ討伐軍の編成の途中で事故死。)
前90年代から前80年代、ローマは戦乱に明け暮れていた。当時、元老院を中心とした寡頭政治を支持する閥族派(オプティマテス)と、民衆を基盤とする市民会の選挙政治を中心とする民主派(ポプラレス)の2つの政治勢力が対立していた。各派の中心人物は閥族派がルキウス・コルネリウス・スッラ、民主派がガイウス・マリウスであった。シーザーの叔母ユリアはマリウス家に嫁いでいたため、シーザーは民主派と目されていた。
両派は互いに相手を弾圧してローマの覇権を争っていた。マリウスが前86年に歿してから前83年にはスッラがローマに進軍し、民衆派を制圧して終身独裁官となり民主派を徹底して粛正した。シーザーも民衆派のキンナの婿であるので処刑のリストに載っていたが、政治活動をしたことのない18歳の若者であったことから、スッラの支持者や、ウェスタの坐女からも助命嘆願が相次ぎ、スッラもしかたなく同意した。しかし、代わりにキンナの娘、コルネリアとの離婚を命じたが、シーザーはそれを拒否して前81年に小アジア・アカエアへ亡命した。
亡命したシーザーはシキリア属州(イタリア共和国シチリア島・シシリー島)駐屯軍に籍を置きビテュニア遠征(小アジアの北西・ボスボラス海峡・黒海に面している・古代ビテュニア共和国)に派遣されてビテュニア王ニコメデス4世のもとに長期間 滞在したが、この時、王とカエサルは男色関係にあったのではないかという噂が流れたが、この噂は生涯ついてまわり、「ビュテュニアの女王」などと政敵からの攻撃材料にされたという。

いよいよ秋になりましたが、皆様 ご機嫌いかがでしょうか。
クレオパトラがシーザーに会うまえにはシーザーのことを勉強したとのことです。
それで、しばらくシーザー:ノートを開くことにいたしました。アシカラズ
流星文字もよろしく

クレオパトラ7世 CleopatraⅦ(5) ポンペイウスの死

2011-09-17 10:54:42 | Weblog
   クレオパトラ7世 CleopatraⅦ(5) ポンペイウスの死

息子のグナエウスからも、エジプトの好意を聞いているポンペイウスは、妻と幼い次男と僅かの手勢をつれてエジプトのペルシオンの沖合に軍船で到着した。そして要塞に出陣しているプトレマイオス13世に助力を求めてきたのである。
王と3人の執行官はこのことについて議論したが、シーザーとの戦いで敗れてきたポンペイウスに対して、エジプトは中立の立場であり受け入れを拒否したいのだが、そうすればクレオパトラの方に追いやることになるし、ポンペイウスとシーザーとがエジプトで戦うようなことになれば困る。
議論の末、修辞学のテオドトスの意見でポンペイウスを殺害すことに決めた。そうすることで、シーザーへの友好を示すことが出来てエジプトでの用件もなくなり、早くローマに帰っていくだろう。ということになってポンペイウスを受け入れることにした。クレオパトラがこの席にいたら歴史もまた違っていたことでしょう。

不運なポンペイウスは何も知らず、迎えにきた小船に数人の従者とともに乗り移った。船が接岸しようとした時、立ち上がろうとして従者の腕に手をかけた瞬間、エジプトの兵士が後ろから剣で突き刺し、もう一人の兵が脇腹を刺した。そしてアキラスが短剣で胸を突いた。ポンペイウスはアッツとうめき声を上げて息絶えた。軍船からは、妻のコルネリアも見ていたが、そちらから悲嘆の叫び声が聞こえた。軍船はあわてて錨を揚げてその場を立ち去った。前48年10月16日の惨劇であった。

クレオパトラ7世 CleopatraⅦ (4)  運命の女王 4

2011-09-07 08:58:22 | Weblog
   クレオパトラ7世 CleopatraⅦ(4) 運命の女王 4

彼女は遥か昔、軍隊を率いて戦ったハトシェプスト女王を想いながら馬上から兵に向かって激励した「エジプトの3悪人を討つべし、敵はペリシウムの河口にあり!」女王の声は朝靄の中で凛と響いた。クレオパトオラ軍はペリシウム要塞の前方に対峙した。
「いざ、決戦の時」その時、歴史は大きく動いたのである。
それはローマの3頭政治の同僚であり、義父と女婿の間柄であるポンペイウスとシーザーはローマ帝国の支配権を争って戦っていた。ルビコン河を渡って「賽(さい)は投げられた」それから18ヶ月後の、前48年8月9日「ファルサロスの会戦」である。ポンペイウスの4万7千の兵と、シーザーの2万2千の兵との「天下分け目の決戦」となったのである。
シーザーは激しく訓示した「戦友諸君、この1日ですべてが決まる。われらの追跡する敵は眼前にいる。われらに追われ、イタリア全土を逃げ回った敵があそこに見える。いざ、戦わん!」と。
この会戦でポンペイウスは大敗し、シーザーの追跡を逃れるべく選んだのがエジプトの地であった。