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クレオパトラ7世 CleopatraⅦ(20) アレキサンドリアへの上陸

2012-07-02 21:25:36 | Weblog
クレオパトラ7世 CleopatraⅦ(20) アレキサンドリアへの上陸

シーザーがポンペイウスを追ってエジプトのアレキサンドリア港に上陸したのはポンペイウスが死んだ4日後のことであった。アレキサンドリアの荘厳な宮殿や寺院、劇場、ファロス島にそびえ立つ灯台、世界最大のアレキサンドリア図書館などを眺めて、シーザーはエジプト文明に感動し、ポンペイウスによってこの地に招かれたことを知った。この年、ポンペイウスは58歳。シーザーは52歳であった。
ポンペイウスがエジプトの軍司令官であるアキラスによって殺害されたことを知らされ、ポンペイウスの遺品とともに彼の首も渡された。シーザーは涙を流して、「おお、わが婿よ、わが同士よ」と語りかけた。そしてポンペイウスを殺害するように命じたテオドトスを鎖に繋がせた。
ローマの船隊がやって来たのを見て、アレキサンドリアの50万の市民が波止場を埋め尽くした。シーザーは緋色のマントをひるがえして4千の兵と800人の騎兵を従えて王宮へ向かって行進した。群集は突然の侵入者に対して敵意を持って騒然として眺めていた。
その頃、クレオパトラは密偵からポンペイウスが殺害されたことや、それを追って来たシーザーがアレキサンドリアに上陸したことを知らされた。戦いの準備中にはシリア総督のビブルスから、シーザーのガリア戦記を見せてもらいシーザーが世紀の英雄であることを知りポンペイウスに対比しうる人物であることも判った。そしてこのガリア戦記を読んで如何にして戦うかを勉強していた。
密偵からの情報でクレオパトラは、ポンペイウスの死に哀悼しながらもシーザーがアレキサンドリアへ来たことを小躍りして喜んだ。「そうだ、シーザーに会って、戦局を好転させるチャンスが来たわ」と。

クレオパトラ7世 CleopatraⅦ(19) シーザー:ノート 14

2012-06-01 19:21:58 | Weblog
    クレオパトラ7世 CleopatraⅦ(19) シーザー:ノート 14
ローマ内戦(1)

シーザーはひそかに戦闘準備をする中で護民官であるマルクス・アントニーとカッシウス・ロンギニウスを使って幾たびか和平の妥協案を執政官らに申し込むが妥協案は議会にも上程されない。元老院はガリア総督の召還と、後任にはシーザーの敵側であるL.ドミティウス・アエノバルブスの派遣を可決して、執政官の立候補には本人がローマに帰還して行なうように決定した。
シーザーはこれらの決定に対して、もはや一刻の猶予もならないと悟った。そして配下の部隊に「アリミヌムに向けて前進すべし」と命令した。
ラヴェンナとアリミヌムの間にはルビコンという小さな川が流れている。ローマ法では如何なる将軍であろうと自ら兵を率いてこの川を渡れば祖国の敵となり、死刑につながる大逆罪である。ラッパ隊は突撃ラッパを吹き出した。「ものども続け、賽は投げられたり(Jacta alea est)」。それは前49年1月10日の暁のことであった。シーザーの内乱記によれば「部下の志気を確信し、シーザーは第13連隊と共に、アリミヌムをおとしいれたり」とある。
シーザーの快進撃でローマの各地は次々に降伏していく。ローマはパニック状態になり住民は4方8方に遁走して行く。元老院議員たちも狼狽をきわめる。頼りのポンペイウスはここで戦う意思はなく、自分の地盤である東方属州のあるブルンディシウムへと逃げて行く。ついに元老院議員たちもポンペイウスの後を追ってローマから脱出していった。


 クレオパトラ7世 CleopatraⅦ(18) シーザー:ノート 13

2012-05-04 14:42:51 | Weblog
    クレオパトラ7世 CleopatraⅦ(18) シーザー:ノート 13
ローマ内戦へのプロローグ(2)

国父たち(元老院派)はシーザーに対抗させるためポンペイウスに前55年に再度、執政官に任命した。しかも、イスパニア属州総督の任務を持ちながら、ローマに留まった。これは法律に違反する行為だったが、国父たちはローマに居て欲しかったためである。前52年には三度、彼を執政官に選び、しかも単独での執政官に任命した。これはポンペイウスに全面的に独裁権を与えて、国庫金の自由支出とイタリア全土からの徴兵権も任せた。
シーザーはポンペイウスに与えられた栄典を、自分にも与えて欲しいと友人を通じて、自分の次の執政官職を1年繰りあげることと、就任前に属州から離れることを止めてほしいと要請したが元老院はこれを拒否した。
前50年12月1日の元老院の会議においてM.マルケルス新執政官は問いかけた。
ポンペイウスから指揮権を召しあげてはどうか。
―― 反対、反対
シーザーの後任者を即刻に任命すべきか。
―― 賛成、賛成
と満場一致で答えた。
そのあくる日、マルケルスは開会するとすぐさま「シーザーが十個連隊を率いて、ローマに向かって前進中である。この共和国の敵を倒すにはいかにすべきか」と叫んだ。
シーザー派のクリオは「それは嘘だ」と言ったが、議会は狼狽の極に達した。
マルケルスらはポンペイウスのいるカプアに行き、属州総督のポンペイウスに言った。「祖国防衛のため、貴官はシーザー征伐に乗り出すことを命ずる。その目的にかんがみ、武装部隊の指揮権、ならびに徴兵の権限を付与する」
ポンエイウスは答えた「本官は執政官の要請に服するものである」と。

  参考文献 
    発行所 株式会社 みみず書房
    題名 クレオパトラ 消えうせし夢
    著者  ブノワ=メシャン

クレオパトラ7世 CleopatraⅦ(17) シーザー:ノート 12

2012-04-24 11:04:03 | Weblog
クレオパトラ7世 CleopatraⅦ(17) シーザー:ノート 12
  ローマ帝国の歴史

ローマの起源は紀元前8世紀中頃にイタリア半島を南下したラテン人の1派がテヴェレ川のほとりに形成した都市国家ローマである。イタリア半島中部の先住民はエトルリア人で彼らは海を往来する民族であり、小アジアのリディア(現在のトルコ・古代アナトリア半島)からやって来た。その後、ローマ人と同化して消滅した。ローマ建築に特徴的なアーチも、もとはエトルリア文化の特徴といわれる。初期の王政ローマ王はエトルリア人であったともいわれ、異民族の王を追放してローマ初期の共和制に移行していった。
古代ローマは多部族からなる都市国家から始まり領土を拡大して地中海全域を支配する世界帝国になった。当初の正式な国号は元老院ならびにローマ市民(Senatus Populusque Romanus)であり共和制が成立して以来、帝国の滅亡まで、使用された。
時代区分
1 王政期
紀元前753年(建国)から前509年まで。伝説上の7人の王が治めていた期間(伝承による)
2 共和政期
紀元前509年から前27年まで、イタリア半島の1都市国家から地中海の全域に属州を持つ帝政になるまでの期間。政治は元老院と執政官ら政務官を中心として、民会などで一般ローマ市民の意思も反映されながら運営された。
内乱の一世紀は共和制ローマ後期、紀元前133年のティベリウス・グラックスとローマ元老院(セナトゥス)の対立によるグラックスの死から紀元前27年の帝政の始まりまでをさす。
3 帝政期
ローマ帝国(Imperium Romanum)ローマ都市国家から、地中海にまたがる領域国家へと発展した段階以降を表す言葉である。
帝政前期 前27年-395年  
マルクス・アントニーを滅亡に追いやった、オクタウィアヌス(尊称アウグストゥス・
前27年1月16日)より、帝政を開始、ローマ帝国となった。
テオドシウス1世は古くからの神々を廃し392年にキリスト教を国教とした。
395年に東ローマ帝国と西ローマ帝国に分裂。その後、帝国の統合されることはなかった。
帝政の分裂
395年、テオドウシスは死にさいして帝国を東西に分け、長男アルカディオスに東を、次男のホノリウスに西を与えて統治させた。それ以前の皇帝も帝国の分割統治を行なうのが普通であったが、これ以降、帝国が再統一されることはなかったが3世紀後半には20年間の統一があった。
西ローマ帝国
395年―480年
首都はローマからミラノ、後にラヴェンナに移った。
西ローマ帝国はゲルマン人の侵入により衰退して滅亡した。
東ローマ帝国
395年―1453年。首都をコンスタンティノポリスとした。
東ローマ帝国はオスマン帝国により征服された。
オスマン帝国は小アジアのアナトリアの小君侯国から発展したイスラム王朝であるオスマン朝である。1299年―1922年。
第1次世界大戦後のオスマン帝国解体のために樹立された大国民議会政府が祖国解放戦争に勝利してオスマン帝国を倒してトルコ共和国を樹立した。

クレオパトラ7世 CleopatraⅦ(16) シーザー:ノート 11

2012-04-12 11:01:34 | Weblog
    クレオパトラ7世 CleopatraⅦ(16) シーザー:ノート 11

  ローマ内戦へのプロローグ

ローマ内戦は紀元前49年―前45年のシーザーとグエナス・ポンペイウス及び元老院派との間で行われた戦争と、68年―70年の間に起きたローマ帝国の内戦があり、後者は
ローマ皇帝として4人が次々と擁立されて、この内戦を収めたウェスシバアヌスが新たな皇帝となった。
シーザーはローマの世論工作のために急使を出して自己の勝利を誇張して市民広場にて宣伝し「43万人の蛮族どもを、わずか1日にして殲滅せり」と伝え、自分の書いたガリア戦記をまとめて山のような黄金と戦利品、奴隷をもたらし、「ガリアの地はこれよりローマの属領とせり」と厳かに宣言した。
ローマ市民の熱狂と喝采に対して元老院は異例の栄典措置を議決せざるを得なかったが、元老院派のシーザーに対する反感は強まる一方であった。個人の栄光を飾りたてるのは個人的権力に憧れているとしかとりようがない。シーザーがもし支配者として君臨すればシラ(Lucius Cornelius Sylla前136-前78:ギリシャを平定した後、ローマ内戦に勝ち終身独裁官になり、反対派を厳しく弾圧して恐怖政治をしいた。)の先例があり共和国の基礎を脅かすシーザーの覇権に対して終止符を打つのは急務となっていた。
元老院派は共和国の法律を持ち出した。シーザーは前60年にコンスルに選任され、前59年1月1日就任した。法律では何びとであれ執政官職についたものは満10年間の間を置かなくては、再任を禁じている。シーザーは前49年でなければ立候補できず、軍隊の指揮権を持つ候補者は、誰でもまず自分の位階級をはずし、部隊を解散し、しかるのちローマにやってきて市民の投票を頼まねばならない。
この規定によりシーザーは統治権限の失効する日(前50年)と執政官に再任され得る日(前48年の初め)との間には1年間(前49年)の空白の期間があり、その間は軍隊も持てず、位階級も外され、政敵からの攻撃により裸にされることになる。元老院派はこの機会にシーザーに止めを刺すためにポンペイウスを味方に引き込むべく栄典を与えて両者は対決へと向かわざるを得なくなった。

クレオパトラ7世 CleopatraⅦ(15) シーザー:ノート 10

2012-03-23 13:15:14 | Weblog
    クレオパトラ7世 CleopatraⅦ(15) シーザー:ノート 10
  アレシアの戦い(3)

最後の総攻撃でもシーザー率いるローマ軍に敗退したウェルキンゲトリクスは、翌日、全ての将兵の前で言った。
「この戦いは己の栄誉のためでは無く、全ガリア人を解放するための戦いだった。運命が私に敗北を与えたのであれば、それに従うことにしよう。私を殺すか、あるいは生きたままローマ軍に引き渡すか、諸君らが選択したまえ」
ガリアの兵たちはウェルキンゲトリクスを引き渡すことを選んだ。
ウェルキンゲトリクスは族長たちを率いてローマ軍の包囲線に進み、全ての武器をローマ軍に差し出した。ブルタルコスは降伏の様子を次のように記述している。「ウェルキンゲトリクスは着座するシーザーの周りを馬にまたがってゆうゆうと一周した。しかる後、ウェルキンゲトリクスは馬から下り、すべての武具を脱ぎ捨てて、シーザーの足元にひざまずいたが、ローマ軍に拘束された」と。
ガリアの兵と市民は全て捕虜となったが、アルウェルニ族などは解放されて、一部はシーザーの軍に吸収された。そしてローマ兵一人につき一人ずつ奴隷として与えられた。
ウェルキンゲトリクスの降伏は全てのガリアの抵抗の終焉でもあった。紀元前51年には全ての部族がローマ軍の支配下に置かれた。
シーザーはガリア征服によりガリアのパトロネジ(保護者、親分)となり莫大は富と名声を手にした。
元老院は通常は5日間と定められた凱旋式を20日間開くことを許可したがシーザーはこれを断った。


クレオパトラ7世 CleopatraⅦ(14) シーザー:ノート 9 ・アレシアの戦い.2

2012-03-05 13:29:43 | Weblog
クレオパトラ7世 CleopatraⅦ(14) シーザー:ノート 9
アレシアの戦い(2)

シーザーのガリア戦記によるとアレシアのガリア軍は8万、ガリア部族連合軍(開囲軍)は25万と記録しているが、現代の歴史家は、おそらくガリア軍は2万から3万、ガリア開囲軍は5万から7万ぐらいで、ローマ軍の6万とほぼ同等であったと考察している。
開囲軍は、到着した翌日、ローマ軍に攻撃をしかけたが多くの損害を出して退却した。翌日は夜襲をして土塁まで取り付くことに成功した。これを見たウェルキンゲトリクスも直ちに出陣して、内からの包囲線突破を仕かけた。
これに対してシーザーはマルクス・アントニーとガイウス・トレボニウス(後にシーザー暗殺に加担した)に騎兵で迎撃を命じ出撃させガリア軍を撃退し、開囲軍も撃退されて土塁から退却した。戦役が長引く中でローマ軍も食糧が欠乏してきたが、包囲下のアレシアのガリア軍も食糧は底をついて最悪の状況に追い込まれていた。
10月2日、開囲軍のウェルカッシウェラウヌス(ウェルキンゲトリクスの従兄弟)は25万の軍を率いて北西からと南西の二手に兵を分けて最後の総攻撃を仕掛けた。ガリア軍の総攻撃によりローマ軍の包囲網は崩壊の危機にさらされた。シーザーはティトゥス・ラビエヌス(ローマ内戦で敵対)、ブルトゥス・アルビヌス(シーザー暗殺に加担)、ガイウス・ファビウスらに出撃させた後、自らも死を覚悟して最後の予備軍を率いて出撃した。緋色のマントをひるがえすシーザー総司令官の姿を目にしたローマ軍は一斉に沸き立ち反撃に転じた。
シーザーの出撃によって、ガリア軍は壊滅し、ウェルカッシウェラウヌスが捕虜となって開囲軍は敗退し、ウェルキンゲトリクスもアレシアに引き上げて最後の開囲作戦も失敗に終わった。

クレオパトラ7世 CleopatraⅦ(13) シーザー:ノート 8 ・アレシアの戦いー1

2012-02-23 11:20:08 | Weblog
クレオパトラ7世 CleopatraⅦ(13) シーザー:ノート 8

アレシアの戦い-1

アレシアの包囲線については「ガリア戦記」でシーザーは詳細に記述している。総延長18km、高さ4mの土塁を築き、アレシア全体を囲んだ。土塁の前に幅4.5m,深さ1,5mの壕を2列掘り、アレシア側の壕には川からの水を満たした。そして至るところに先のとがった杭を埋めてカモフラージュした。監視所を23箇所、出撃拠点を7箇所設けて、包囲線のどこに攻撃を加えられても救援が送り出せるようにした。
ローマ軍はおよそ3週間で、この大工事を行なった優れた工兵を持っていた。
ウェルキンゲトリクスは工事を妨害するために何回か騎兵を送り出したが、雇兵であるゲルマン騎兵の奮戦によって撃退されている。内側からの包囲線の突破は出来ないとして、同盟部族へ外側からの攻撃を依頼するため使者を出した。
最初の包囲線が完成すると、ローマ軍は外からの攻撃を防ぐために、同じように総延長21kmに及ぶ外部包囲線をこれも3週間ほどで完成させた。
シーザーはローマ軍60,000人の30日分の食糧を運びこませて、外からの連絡を絶たれても抵抗できるようにした。
アレシア内では人心の動揺、環境の悪化、食糧不足など深刻な問題が出てきた。ウェルキンゲトリクスは、口減らしのため戦闘にたえないアレシアの住民であるマンドゥビイ族を都市から追い出すことにした。追い出された住民はローマ軍に助けを懇願したが、シーザーはこれを無視した。その後、追放された住民がどうなったかは不明である。
9月末にようやく外部のガリア部族連合軍、歩兵250,000、騎兵8,000が到着してアレシアの南西に布陣した。

クレオパトラ7世 CleopatraⅦ(12) シーザー:ノート 7

2012-02-01 10:06:36 | Weblog
   クレオパトラ7世 CleopatraⅦ(12) シーザー:ノート 7

アウァリクムの包囲戦では住民など4万人を皆殺しにして兵糧などを確保したローマ軍は春も近づき戦いの好機とみて積極的な作戦行動に出た。シーザーは6軍団でウェルキンゲトリクスの部族であるアルウェルニ族の主たる城市であるゲルゴウィア攻略に乗り出した。ガリア人連合軍はエラウェル川(現:アリエ川)に架かる全ての橋を破壊してエラウェル川の向こう岸(ゲルゴウィア側)に沿って進軍した。シーザーはガリア軍を牽制する部隊と橋を作る部隊の2手に軍を分けて架橋して河を渡ることに成功した。
ゲルゴウィアではガリア軍を包囲しての対戦であったがウェルキンゲトリクスの強力な抵抗により、ゲルゴウィアの戦い(現:クレルモン=フェラン/フランスの中央高地の都市)では敗退した。ローマ軍は800人が戦死し、6,000人以上が負傷する大きな被害を受けてエラウェル川を再び渡って撤退した。ローマ軍はガリア・ナルボネンシス(現:プロヴァンス1帯)まで後退し戦力を再編成した。
ウェルキンゲトリクスはローマ軍を追いディジョン(フランス中部・コート=ドール県の県庁所在地)で攻撃を仕掛けたが、ローマ軍はゲルマン騎兵とローマ重装歩兵の共同作戦によってガリア軍を撃退してガリア軍は逆に追われる立場になり、アレシアへ逃げ込んだ。シーザーはこれをチャンスとみて包囲作戦に出ることにした。包囲軍はローマ正規軍12個軍団とゲルマン人騎兵、クレタ投石兵、ヌミディア人(北アフリカの遊牧民)軽装歩兵等を合わせて約60,000人となり戦力は強化された。
※ ローマの正規軍はローマ市民権を有するものだけで構成された。1個軍団は騎兵200強を含んだ5,000~6,000人の軍団兵となっていた。
ガリアでの最後の戦いは「アレシアの戦い」といわれる。紀元前52年8月から10月にかけてガリア総督シーザー率いるローマ軍とアルウェルニ族のウェルキンゲトリクス率いるガリア人連合軍との間で行われた、古代ローマに於ける最大の包囲戦となった。
※ アレシアの位置はフランス東部のブルゴーニュ地域のコート=ドール県でセーヌ川の源泉がありフランスを代表するワインの生産地でもある。
※ アレシアはハエドゥイ族を中心とした部族連合Mandubiiが首都とした都市で、シーザーが征服した後はローマの町オッピドゥム(植民地の拠点)となった。

[流形文字B・小文字]の発表

2012-01-14 10:00:12 | Weblog
[流形文字B1・小文字]の発表

今回は[流形文字B・小文字]を発表いたします。小文字も濁点を少しはぶきました。「流形文字A3」を読まれる方は覚えやすいと思います。小文字は筆記しやすいようにしております。「ひらがな」で書くより3倍以上の早さになると思います。
今、クレオパトラで、シーザー・ノートを書いていますが、シーザーは戦争で暗号を使っていたといいます。その暗号はアルファベットの順を3つづらして書いたとのことですが、この方式が暗号の基本になっているとのことです。また、レオナルド・ダ・ヴィンチは文字が反対になる鏡文字を左手で書いています。
今のところ、流形文字も暗号でしょうか。しかし、世界で一番簡単な易しい文字と思いますが。それでは[流形文字B]もよろしく。皆様方の健康と幸運を//