
蘇州は春秋時代に呉の都が置かれていました。
今から遠く2500年程前のことです。
万年橋のすぐ東側に胥门[ xu men ]がある。
胥门とは呉の国の重臣、伍子胥からとった名前だという。
伍子胥は呉の躍進に大きく貢献したが、呉王夫差に越軍からの攻防に備えるよう度々苦言を呈すが次第に疎まれるようになり、最後には剣を与えられ自害を命じられます。
死にあたって伍子胥は家族の者に「自らの死後、越軍が来て呉を滅ぼす。越軍の来攻を見るために、わが目玉をくりぬいて東門にかけよ」と命じたと言う。このことは『史記』にも書かれています。
東門とは葑门[ feng men ]のことで、ここ胥门は反対の西門にあたる。
実際に目玉はどこにかけられたのかは定かではない。
その後、伍子胥の予言通り、越が攻め入り呉(蘇州)は滅ぼされてしまいます。
呉に伍子胥はなくてはならない存在だったため、越からの贈賄工作など様々な手段で伍子胥が夫差の不興を買うよう仕向けられ、両者の不仲を増大させたという。
陰謀に満ちた悲しい死です。
悲しい歴史があって、今の蘇州があるんですね。
臥薪嘗胆、呉越同舟という言葉もこの地から生まれました。
今から遠く2500年程前のことです。
万年橋のすぐ東側に胥门[ xu men ]がある。
胥门とは呉の国の重臣、伍子胥からとった名前だという。
伍子胥は呉の躍進に大きく貢献したが、呉王夫差に越軍からの攻防に備えるよう度々苦言を呈すが次第に疎まれるようになり、最後には剣を与えられ自害を命じられます。
死にあたって伍子胥は家族の者に「自らの死後、越軍が来て呉を滅ぼす。越軍の来攻を見るために、わが目玉をくりぬいて東門にかけよ」と命じたと言う。このことは『史記』にも書かれています。
東門とは葑门[ feng men ]のことで、ここ胥门は反対の西門にあたる。
実際に目玉はどこにかけられたのかは定かではない。
その後、伍子胥の予言通り、越が攻め入り呉(蘇州)は滅ぼされてしまいます。
呉に伍子胥はなくてはならない存在だったため、越からの贈賄工作など様々な手段で伍子胥が夫差の不興を買うよう仕向けられ、両者の不仲を増大させたという。
陰謀に満ちた悲しい死です。
悲しい歴史があって、今の蘇州があるんですね。
臥薪嘗胆、呉越同舟という言葉もこの地から生まれました。


胥门の前には伍子胥の像がある。

胥门の真ん中にある頑丈な鉄門。実際、胥门は清初期に再建されたものだそうです。

胥门を抜けると小さな運河に小さな橋が架かっていました。
このようなアーチ型の石橋は、旧市街の至る所にあります。
このようなアーチ型の石橋は、旧市街の至る所にあります。