昭和は遠くなりにけり この国を愛し、この国を憂う がんばれ日本

昭和21年生まれの頑固者が世相・趣味・想いを語る。日本の素晴らしさをもっと知り、この国に誇りを持って欲しい。

秋田県特別攻撃隊招魂祭に参列してまいりました

2015-05-03 03:54:58 | 政治・世相
4月29日に、秋田市川尻の総社神社で行われた「秋田県特別攻撃隊招魂祭」に参列してまいりました。
その、招魂祭の当日の様子です。
参列者はおよそ100名くらいでしょうか、現職の自衛官もおられますし、女性の姿もそこそこ見られます。

正午ちょうどに開式ですが、まず「昭和天皇武蔵野陵遥拝」をいたします。
続いて国歌斉唱で二斉唱するのですが、この国歌を雅楽の伴奏で斉唱します。慰霊碑前には神職(神主)が四名おられます。
この神職が奏でる笙(鳳笙)、篳篥(ひちりき)、太鼓などの音調は、それだけで荘厳な雰囲気を醸し出します。
続いて「国の鎮め」ラッパ吹奏があります、物悲しいラッパの音が響き渡ります。

この後が「神事」です。修祓、献饌、祭詞奏上などがあった後、神前神楽が奉奏され巫女さんが神楽を舞います。

続いて「追悼文朗読」があり「秋田県特別攻撃隊英霊ご芳名奉読」に続きます。
この奉読は祀られている57柱の全英霊のお名前、部隊、階級、出身地、年齢が読み上げられるのですが、地域はそれこそ県北から県南の全域に及び、ご年齢は最高齢で29歳、もっともお若い方は19歳でありました。

この奉読の後「大西中将遺書朗読」があります、
大西中将は「特攻の生みの親」とされ、特攻隊を送り出し、多くの若者を死なせた全責任を取り割腹自決した方です。
昭和20年8月16日未明、軍令部次長大西瀧治郎中将は、特攻で死なせた部下たちに謝し、世界平和を願い、次世代に後事を託す遺書を遺して自刃しました。部下たちの苦悩、苦痛を思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと、介錯を断っての最期だったそうです。

この後、玉串を捧げ拝礼が行われます。
その際に3名の方のハモニカ演奏が行われましたが、曲目が「同期の桜」で非常にこれが感動的でありました。
玉串奉納は代表数名が行い、私達一般参加者は最後に合同して拝礼します。
この後撤饌、昇神、神事が終了いたします。
続いて主催者ツバサ広業の舛谷現社長から御礼のご挨拶があり、その後の聖寿万歳は「天皇陛下万歳」を参列者で行います。

最後に「海ゆかば」を合唱(二回)行います。

海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
山(やま)行かば 草生(くさむ)す屍
大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死(し)なめ
かへりみはせじ


この曲は大東亜戦争期、ラジオ放送の戦果発表(大本営発表)が玉砕を伝える際に、必ず冒頭曲として流された曲であるそうだ。
私は正直言うとこの曲をよく知らない、しかし、他の参列者は朗々と合唱していた。
この後、閉式の辞があり滞り無く終了、約80分の行事でありました。



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