汚水溜めの如き中国人 2009/8/13
中国人を支那人と書いてきたヘラルド・トリビューン紙がHan(漢族)という表記を遣い始めた。
「ウイグルで支那人が支那人を殺している」では何だか分からない。
中国人といっても実は文化も人種も異なるウイグル族や満州族がいる。それを人口と粗野さで優る漢族が領土ごと支配している。
そういう内実を伝えるのに十把一絡げで支那人ではまずいことにやっと気付いたということだろう。
実はそこを一番混同してきたのは日本人だった。
例えば中国好きの吉川幸次郎は北京にいくとすぐ長袍(チャンパオ)に着替え、瓜皮帽(ワラビー)をかぶって喜んでいた。
しかし彼は長袍も瓜皮帽も満州族の風俗で、それを漢族がどんな想いで見ていたかは知らなかった。
清朝を建てた満州族は吉川よりはモノが見えていた。彼等は漢族が「汚水溜めの強欲な殺し屋」(J・スティルウエル米司令官)であることを見抜いていた。
漢族をまともにするためにぼさぼさの髪を満州式の辮髪に結わせ、だらしない着物をきちんとした満州服に着がえさせた。
漢族がまっとうでないから、その悪い血に感染しないよう、満州族と漢族の婚姻は禁止し、後宮にも漢族の女は入れなかった。
米国は黒人との結婚を禁じてきた。白人の血が汚れるとでも思ったのだろうが、満州族も同じ目で漢族を見ていたわけだ。
満州族は乾隆帝を頂点に絢燗の文化を誇った。ずるい漢族は「乾隆帝は康煕帝と漢族の女の間の子、清朝の文化には漢族の血も混じっている」というまことしやかな嘘を創った。
それでも「俺たちを奴隷扱いした」ことへの恨みは忘れなかった。
だから辛亥革命で満州族のくびきを脱すると、漢族は辮髪を切り、長抱を脱いで人民服に着替えた。これは満州服を憎んだ孫文が日本の鉄道員の服をモデルにデザインしたものだ。
そこへ吉川幸次郎が来て孔子は偉い、李白の詩もいい、と言いながら長袖を嬉しそうに着て乾隆帝の治世を褒めそやす。漢族は「おちょくっているのか」と思ったことだろう。
再び漢族の時代が来ると彼等は持ち前の汚水溜め根性を丸出しにする。
清朝最後の皇帝溝儀を北京にとどめ、故郷の満州に帰らせなかったのもその汚水溜め根性からだった。
清の皇帝が漢族の新政府のもと北京におわせば、清の版図つまりチベットもウイグルも満州もそのまま新政府が相続したように世界に印象付けられる。
世界が錯覚するのを待って用済みになった薄儀は北京から追い出された。
日本はそのころやっと漢族と満州族の性根の違いに気づき、追われた薄儀の面倒をみることになる。
そんな折、正確には一九二八年夏。蒋介石配下の孫殿英が清朝の王墓「東陵」を爆破して乾隆帝から西太后の墓まで荒らした。
副葬の金銀財宝は奪いつくされ、とくに西太后墓では石棺がひっくり返されて遺体は屍姦され、彼女の口の中に入れてあった宝石「夜明珠」まで奪われた。
墓荒らしはまもなくばれたが、蒋はそれを罰しなかった。清は外来王朝で、おまけに漢族を奴隷扱いした。蒋は孫殿英を不問に付す代わりに賄賂を要求した。
孫は蒋に盗掘の品々を献上し、西太后の口の中にあった夜明珠は蒋の妻、宋美齢に贈った。
彼女はそれをスリッパの飾りにして来客に嬉しそうに見せた。一体彼女はどんな神経をしていたのだろうか。
天津でこの墓荒らしの顛末を聞いた薄儀は激怒した。祖父の醇親王は漢族を「不逞の家奴」と呼んだ。家奴とは奴隷のことだ。その言葉が真実だったと知った溝儀は清朝の再建を誓い、日本に支援を求めた。日本は孫文を支援して結果的に家奴を野に放ってしまった。その不明を償うために日本は懸命に協力した。
かくて満州国が生まれたが、世界はもう漢族のまやかしに乗せられていた。
いま不逞の家奴はチベットについでウイグルを泣かせている。
日本の読み違いがこの災厄を生んだ。「汚水溜め」に蓋をするのは日本人の歴史的義務ではなかろうか。
故人の墓を暴いて鞭打ちする、こんな習慣は日本には勿論無い。
これが現代も行われている。文化大革命の時に墓を荒らされる備えをした要人がいたと記録されている。
どうしようもない国だと改めて実感する。
中国人を支那人と書いてきたヘラルド・トリビューン紙がHan(漢族)という表記を遣い始めた。
「ウイグルで支那人が支那人を殺している」では何だか分からない。
中国人といっても実は文化も人種も異なるウイグル族や満州族がいる。それを人口と粗野さで優る漢族が領土ごと支配している。
そういう内実を伝えるのに十把一絡げで支那人ではまずいことにやっと気付いたということだろう。
実はそこを一番混同してきたのは日本人だった。
例えば中国好きの吉川幸次郎は北京にいくとすぐ長袍(チャンパオ)に着替え、瓜皮帽(ワラビー)をかぶって喜んでいた。
しかし彼は長袍も瓜皮帽も満州族の風俗で、それを漢族がどんな想いで見ていたかは知らなかった。
清朝を建てた満州族は吉川よりはモノが見えていた。彼等は漢族が「汚水溜めの強欲な殺し屋」(J・スティルウエル米司令官)であることを見抜いていた。
漢族をまともにするためにぼさぼさの髪を満州式の辮髪に結わせ、だらしない着物をきちんとした満州服に着がえさせた。
漢族がまっとうでないから、その悪い血に感染しないよう、満州族と漢族の婚姻は禁止し、後宮にも漢族の女は入れなかった。
米国は黒人との結婚を禁じてきた。白人の血が汚れるとでも思ったのだろうが、満州族も同じ目で漢族を見ていたわけだ。
満州族は乾隆帝を頂点に絢燗の文化を誇った。ずるい漢族は「乾隆帝は康煕帝と漢族の女の間の子、清朝の文化には漢族の血も混じっている」というまことしやかな嘘を創った。
それでも「俺たちを奴隷扱いした」ことへの恨みは忘れなかった。
だから辛亥革命で満州族のくびきを脱すると、漢族は辮髪を切り、長抱を脱いで人民服に着替えた。これは満州服を憎んだ孫文が日本の鉄道員の服をモデルにデザインしたものだ。
そこへ吉川幸次郎が来て孔子は偉い、李白の詩もいい、と言いながら長袖を嬉しそうに着て乾隆帝の治世を褒めそやす。漢族は「おちょくっているのか」と思ったことだろう。
再び漢族の時代が来ると彼等は持ち前の汚水溜め根性を丸出しにする。
清朝最後の皇帝溝儀を北京にとどめ、故郷の満州に帰らせなかったのもその汚水溜め根性からだった。
清の皇帝が漢族の新政府のもと北京におわせば、清の版図つまりチベットもウイグルも満州もそのまま新政府が相続したように世界に印象付けられる。
世界が錯覚するのを待って用済みになった薄儀は北京から追い出された。
日本はそのころやっと漢族と満州族の性根の違いに気づき、追われた薄儀の面倒をみることになる。
そんな折、正確には一九二八年夏。蒋介石配下の孫殿英が清朝の王墓「東陵」を爆破して乾隆帝から西太后の墓まで荒らした。
副葬の金銀財宝は奪いつくされ、とくに西太后墓では石棺がひっくり返されて遺体は屍姦され、彼女の口の中に入れてあった宝石「夜明珠」まで奪われた。
墓荒らしはまもなくばれたが、蒋はそれを罰しなかった。清は外来王朝で、おまけに漢族を奴隷扱いした。蒋は孫殿英を不問に付す代わりに賄賂を要求した。
孫は蒋に盗掘の品々を献上し、西太后の口の中にあった夜明珠は蒋の妻、宋美齢に贈った。
彼女はそれをスリッパの飾りにして来客に嬉しそうに見せた。一体彼女はどんな神経をしていたのだろうか。
天津でこの墓荒らしの顛末を聞いた薄儀は激怒した。祖父の醇親王は漢族を「不逞の家奴」と呼んだ。家奴とは奴隷のことだ。その言葉が真実だったと知った溝儀は清朝の再建を誓い、日本に支援を求めた。日本は孫文を支援して結果的に家奴を野に放ってしまった。その不明を償うために日本は懸命に協力した。
かくて満州国が生まれたが、世界はもう漢族のまやかしに乗せられていた。
いま不逞の家奴はチベットについでウイグルを泣かせている。
日本の読み違いがこの災厄を生んだ。「汚水溜め」に蓋をするのは日本人の歴史的義務ではなかろうか。
故人の墓を暴いて鞭打ちする、こんな習慣は日本には勿論無い。
これが現代も行われている。文化大革命の時に墓を荒らされる備えをした要人がいたと記録されている。
どうしようもない国だと改めて実感する。
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