すいません、私は人のブログにお邪魔する事が多いんですが、
(許可を取って、コメントしまくるとか。)
そこで感じた事があったので、それを記事にしようと思います。
“悟り”という言葉を理解しないまま、なんとなく、
で使っている人が多い気がします。
“悟りの階梯”という言葉がある時点で、
ある一点を指して、“悟り”と言っている訳じゃありません。
預流果の人も、阿羅漢果の人も、同じ“悟り”の人なんです(言葉で言うなら)。
ただ、そこには月とスッポン、アリとゾウ、人と神、ヤムチャと孫悟空、
ぐらいの違いがあります。
預流果と阿羅漢果ではものすごい差があります。
預流果や一来果ぐらいは、正直、ブログを見る限り、ちらほらいます。
(ご本人たちは悟っていないと言い張ってますが。)
批判してる訳じゃないんです。
ただ、正しく言葉を使って欲しいんです。
“悟り”というものへの幻想を抱くのを止めて欲しいんです。
お釈迦様の教えは、人のために書かれたものです。
つまり、“悟り”っていうのは、誰にでも出来るものなんだという事を
わかって欲しいんです。
(許可を取って、コメントしまくるとか。)
そこで感じた事があったので、それを記事にしようと思います。
“悟り”という言葉を理解しないまま、なんとなく、
で使っている人が多い気がします。
“悟りの階梯”という言葉がある時点で、
ある一点を指して、“悟り”と言っている訳じゃありません。
預流果の人も、阿羅漢果の人も、同じ“悟り”の人なんです(言葉で言うなら)。
ただ、そこには月とスッポン、アリとゾウ、人と神、ヤムチャと孫悟空、
ぐらいの違いがあります。
預流果と阿羅漢果ではものすごい差があります。
預流果や一来果ぐらいは、正直、ブログを見る限り、ちらほらいます。
(ご本人たちは悟っていないと言い張ってますが。)
批判してる訳じゃないんです。
ただ、正しく言葉を使って欲しいんです。
“悟り”というものへの幻想を抱くのを止めて欲しいんです。
お釈迦様の教えは、人のために書かれたものです。
つまり、“悟り”っていうのは、誰にでも出来るものなんだという事を
わかって欲しいんです。
虚実を語り、それに欺かれた人が悟りを得ないまま失意に自死することを危惧して、批判しておきます。
修行者は行の過程で一切を捨てていきますので、
そのときにそれでも期待する精神的状況を得られなかった場合に、呪うように死ぬ可能性があります。
それゆえ私は、安易に道の人(の生活に他人が入ること)をすすめません。
だとすれば、ここに要は無いですね。
https://j-theravada.net/world/study/
をルーツとすれば、成程、とは思える。