仏教ではない感じ方としての目安として
四向四果について書いていこうと思います。
あくまでも判断するための目安程度です。
(預流向、一来果、不還果、阿羅漢果について)
預流向:真理に気付く。本質を追究している。
一来果:常に、感謝している状態。
(感謝を心がけている人は一来果には該当せず)
不還果:欲への執着がない。
阿羅漢果:自分がない。ただそこにある存在。
以下、補足として
四向四果、それぞれの段階に達したとしても、それで安泰という事はないです。
一来果に達したとしても、すぐに一来果ではなくなる、という事はあります。
それは預流果、不還果、阿羅漢果然りです。
悟りの階梯では、振り子のように進んでは下がり、下っては進んだりします。
もちろん、進んでさらに進む、下ってさらに下がる事もあります。
ただ、一度到達した者が再度、到達しようとするのは
全くの未到達だった時に比べて、難易度は下がると思います。
(中には堕落し過ぎて、難易度が跳ね上がる人もいるかもしれませんが…)
“諸行無常”
この言葉の示す通り、変わらないものはないんです。
話変わって
阿羅漢果に到達するには出家しなければいけない、
と悟りの階梯(日本テーラワーダ仏教協会)には書かれてあります。
これは間違いないと思います。
全ての欲、欲を起因とする物・事象から離れる事が一番の方法だと思います。
阿羅漢向に到達した時、一番意識したのは欲から離れるという事でした。
言うは易し、行うは難し、でしたけどね。
昔は出家すれば、俗世から離れる事が出来たのだと思います。
不還果、阿羅漢向に到達した人は“欲から離れる”という事を意識してみて下さい。
四向四果について書いていこうと思います。
あくまでも判断するための目安程度です。
(預流向、一来果、不還果、阿羅漢果について)
預流向:真理に気付く。本質を追究している。
一来果:常に、感謝している状態。
(感謝を心がけている人は一来果には該当せず)
不還果:欲への執着がない。
阿羅漢果:自分がない。ただそこにある存在。
以下、補足として
四向四果、それぞれの段階に達したとしても、それで安泰という事はないです。
一来果に達したとしても、すぐに一来果ではなくなる、という事はあります。
それは預流果、不還果、阿羅漢果然りです。
悟りの階梯では、振り子のように進んでは下がり、下っては進んだりします。
もちろん、進んでさらに進む、下ってさらに下がる事もあります。
ただ、一度到達した者が再度、到達しようとするのは
全くの未到達だった時に比べて、難易度は下がると思います。
(中には堕落し過ぎて、難易度が跳ね上がる人もいるかもしれませんが…)
“諸行無常”
この言葉の示す通り、変わらないものはないんです。
話変わって
阿羅漢果に到達するには出家しなければいけない、
と悟りの階梯(日本テーラワーダ仏教協会)には書かれてあります。
これは間違いないと思います。
全ての欲、欲を起因とする物・事象から離れる事が一番の方法だと思います。
阿羅漢向に到達した時、一番意識したのは欲から離れるという事でした。
言うは易し、行うは難し、でしたけどね。
昔は出家すれば、俗世から離れる事が出来たのだと思います。
不還果、阿羅漢向に到達した人は“欲から離れる”という事を意識してみて下さい。
諸行無常と言われますが、諸行無常も一つの行ではないのですか???
では、諸行無常と言う行は無常なのでしょうか。無常であるならば、諸行無常も移り変わるものであり、諸行無常は成立しないとなります。
このため、諸行無常を真理とする以外になく、こうすると諸行無常は常となり、ここに無常でない行が存在するのです。
煩悩を断つための修行???
ははは、無駄、無駄。
煩悩の正体も見極めないで、それを断つ事などできませんよ。
人は、自分を主体として物事を観る限り、そこに煩悩が働くのです。
つまり、自分の煩悩を断とうと修行する事自体が煩悩によるものであり、この状態でいくら修行しても煩悩を断つことなどできないのです。
そして、自分を中心として物事を観るのを愚痴と言います。
では、自分を中心として物事を観るのが煩悩ならば、世界全体を中心として、また、他の人を中心として物事を見定めるのを何と言うのか。これが菩提であり、煩悩と菩提は、実は見定める時の中心が変化しているだけで、同じものなのです。
そして、これを知恵と言います。
煩悩も菩提も同じもの、愚痴も知恵も同じもの。
ただ、物事を観る中心が変わっているだけ。
ところが、この変化は劇的なものがあります。
そのような基礎も理解していないブログは参考になりません。