阿羅漢果までの道のり

悟りの階梯 阿羅漢果までの道のりで感じた事、
この世界の真理について時間の許す限り記事を書いていこうと思います。

最後の投稿

2014-08-20 18:26:08 | 自己紹介
この記事を最後に記事を投稿するのを止めます。

このブログの記事はほとんどが不還果の時に書いたものです。

不還果の時にはこのブログの記事が正しいと感じました。
(訂正する部分としては、現象に意味も何もないという事です。
 生まれた意味、生きる意味、死ぬ意味、個人で考えれば、
 そこに善や悪などの意味もありますが、本質的には意味も何もありません。)


それから、たぶん、阿羅漢果に到達する人は私以外にも出てくると思います。
このブログを読まれている方、気が向いたらで良いと思うので、
自分の体験している事を記録して下さい。
その記録は自分にも、また、他の人にも役に立つと思います。
預流果の時、一来果の時、などの体験談があれば、
他の人が悟りを開く助けになると思います。


私にはあまり時間が残されていません。
今、存在しているのも奇跡的なことだと思っています。

ブログを再開した時に、
今は、阿羅漢果の状態ではない、と説明しました。
この部分の説明をします。

阿羅漢果の状態は、自分がない状態です。
ただそこにある状態なので、自主的に何かをする事ができないんです。

別の存在に頼まれて何かをするという事はありますが、
自分で何かをするという事ができなくなります。
(意思を伴う事ができなくなるという表現が正しいでしょうか。~したいという事がない。
 つまり、本能的な部分、最低限の食事、排泄、睡眠など)
そういう訳で、阿羅漢果の状態じゃなくなるまで待ってからブログを再開しました。


最後に、多くの人が考えるほど、悟りを開く事は難しいことではないと思います。

誰かが出来るなら、誰でも出来る事だと思います。


四向四果について

2014-06-22 03:28:41 | 在り方
仏教ではない感じ方としての目安として

四向四果について書いていこうと思います。

あくまでも判断するための目安程度です。
(預流向、一来果、不還果、阿羅漢果について)


預流向:真理に気付く。本質を追究している。

一来果:常に、感謝している状態。
    (感謝を心がけている人は一来果には該当せず)

不還果:欲への執着がない。

阿羅漢果:自分がない。ただそこにある存在。


以下、補足として
四向四果、それぞれの段階に達したとしても、それで安泰という事はないです。

一来果に達したとしても、すぐに一来果ではなくなる、という事はあります。

それは預流果、不還果、阿羅漢果然りです。

悟りの階梯では、振り子のように進んでは下がり、下っては進んだりします。
もちろん、進んでさらに進む、下ってさらに下がる事もあります。

ただ、一度到達した者が再度、到達しようとするのは
全くの未到達だった時に比べて、難易度は下がると思います。
(中には堕落し過ぎて、難易度が跳ね上がる人もいるかもしれませんが…)


“諸行無常” 

この言葉の示す通り、変わらないものはないんです。



話変わって

阿羅漢果に到達するには出家しなければいけない、
と悟りの階梯(日本テーラワーダ仏教協会)には書かれてあります。

これは間違いないと思います。

全ての欲、欲を起因とする物・事象から離れる事が一番の方法だと思います。

阿羅漢向に到達した時、一番意識したのは欲から離れるという事でした。

言うは易し、行うは難し、でしたけどね。

昔は出家すれば、俗世から離れる事が出来たのだと思います。

不還果、阿羅漢向に到達した人は“欲から離れる”という事を意識してみて下さい。


阿羅漢向・阿羅漢果について

2014-06-07 18:01:56 | 悟りの階梯
過去の記事の訂正をする前に、阿羅漢向・阿羅漢果について書いていきたいと思います。


阿羅漢向とは…

心の底から解脱したいと思う事です。

色々と情報を探しましたが、阿羅漢向の説明が少なく、
あったとしてもいまいちピンとこない表現ばかりです。

ex.梵天界への執着も「欲」と捉え、それすらも滅することに興味が向いた状態。
(言葉ではなんとなくわかるけど、つまり、どういう状態? と疑問に感じませんか?)

輪廻から解脱する、たったこれだけを志すだけなのに中々出来ませんでした。



阿羅漢向になってから、

“禅定”をして“無我”を体験します。

すると、阿羅漢果に到達します。

ここでいう“禅定”ではこれまでに感じていた幸福感もありません。
色界第四禅と呼ばれるものです。

“第四禅は幸福感を無くし、苦を無くし、また既に喜びと憂いが消えていることより、不苦不楽の、清らかな平安に(のみ)気づきがある禅定です。”(これは転載文です。)

そして、この時体験する“無我”は完璧に溶け合わさった状態です。

境界となるものが何もない、本当の“無我”を体験することで阿羅漢果に到達します。


阿羅漢果の状態を説明すると

ただそこに“ある”存在。
(“いる”ではなく“ある”、路傍の木石と同じ存在。
 “いる”だと少しでも自我が残った状態になる。)

そして、“自分がない”状態。
自分がない、だから欲もないんです。


以上、参考になればと思います。

更新再開をする予定です。

2014-06-06 23:25:08 | 自己紹介
一度、阿羅漢果に到達しました。

今は阿羅漢果の状態ではないのですが、
阿羅漢果の状態だった時を思い出して記事を書こうと思います。

合わせて、過去の記事で自分が勘違いをしていた部分があるので
それも訂正したいと思います。

阿羅漢果ではない状態で

阿羅漢果について書いて大丈夫なのか? と思うかもしれませんが、

阿羅漢果の状態では書けないという事も含めて、

今後の記事で書いていきたいと思います。

1週間程度で記事を書きあげる事ができると思います。

全ての記事を書いたら、もう二度と記事を更新する予定はありません。

今日はこれで終わりにします。

今後の予定

2013-07-08 15:10:00 | 自己紹介
とりあえず、自分がこれから歩みそうな道は大きく分けて2つです。

1つ目は、“死ぬ”ことです。


推論ですが、“この世”と“あの世”の大きな違いは

時間の感覚だと思ってます(自分には確かめる術が今はないですが)。

ここで死ぬと、効率が悪いなって思いますが、

自分ではどうすることもできませんからね。


2つ目は“生きろ”って言われた時ですね。
(生死は強引な手段を使わない限り、コントロール出来るものじゃない、
 と思ってるので、こういう表現をしました。)

不食なり、ものすごい少食で元気に生きていけないと
生きていくのは厳しいですから。

私からすると、それは“奇跡”に感じます。
(不食を実践できている人は阿羅漢果の精神レベルに到達してる気がします。)


この“生きろ”と言われた場合、重要になってくるのは

何を生業にして、仕事を通して、この世に貢献していくか?、です。
お金のために仕事をするのは私には不可能です。

私は山(一応火山)のある県に住んでいるのですが、

そこに移住して、仕事をしようかと思ってます。
(今も同じ県内の田舎にすんでますが、
 さらに田舎なので、秘境のように感じます。)

具体的に何をするかは、まだ、決めてません(見当はつけていますが)。
体が元気じゃないと何もできませんからね。

移住するために準備がいるのかどうかまで、きちんと考えてやるつもりです。


それと、精神世界関連で商売する気はありません。
(だって在り方に反するから。)


前から言っているように、記事更新は今日で終わりです。
(コメント返しはすると思いますが)

これ以上書けないんです。
書けば書くほど、蛇足になるので。

今の私に悟りの階梯に関して書けるのはここまで、って事です。

もし、記事更新する時は阿羅漢果に到達した時だと思います。

これも以前に書きましたが、生かされている間は

日月神示に専心しようと思ってます。

それに関してのブログはここ以外でやってくと思います。

間違いなく言えるのは日月神示に出会えたのは

悟りの階梯を上ったからだと思います。

凡夫のままでは、日月神示に出会えなかったでしょう。


人を介在する事の弊害は大きなものがあります。

それは宗教も同じです。

誰かが言っているから、こういう文献が残っているから

だから、正しい、って事はありません。

いろんなことを参考にしながら、

真理を自分で探し当てるしか道はありません。