ようやく、ここまで来ました。
私が一番伝えたかった記事です。
私が探した、文献、サイトでは
不思議なほど、情報が出てきませんでした。
欲界に未練たらたらで、不還果について
文字を羅列するようなサイトしかありませんでした。
不還果に到達していない人が不還果についていくら語ろうが、
それはよくわからない文章にならざるを得ません。
不還果以降について体験者の文章がない理由もわかる気がしますが。
言葉にしにくい、だから、誤解を与えないために、
書けないというのが本当の所だと思います。
不還果について話す前に個人的な意見を書きます。
不還果に到達するのはかなり難しいです。
預流果から一来果は比較的楽ですが、
一来果から、不還果は本当に分厚い壁を感じました。
(なぜ、分厚いか?、
は不還果が神と呼ばれる領域の入り口なんじゃないかって思います。
ただ、境界線を乗り越えただけですが。)
私は一来果までは北海道出身の大便のような男のサイトと
悟りの階梯を参考にしてました。
あまり、他人をどうこう言う気はないのですが、北海道出身のその男は
一来果までしか到達してないと思います。
(本人談と不還向・不還果の記事で間違いを言っているから。)
その記事でコメントで訂正入れてるのは私ですが…
そして、その男は今、“自我”に支配されてます。
一来果までは、“ヒト”なんです。
不還果からは、神と呼ばれる領域に足を踏み入れるので、
(勘違いして欲しくないのは神になる訳じゃないということです。
世の中で自分は神だっていう人は
総じて頭がおかしい人だと思うので気をつけて下さい。)
自分の中の“ヒト(自我)”の行う行為にストレスを感じるようになります。
不還果に到達するのに必要なのは、真理の理解と瞑想、圧倒的な禅定です。
(瞑想と禅定は似ていますが、おそらく、別物です。)
わかりやすく言うと、瞑想=リラックス状態、
禅定=ものすごく集中した状態 だと思います。
前回同様、悟りの階梯に沿って話をしていこうと思います。
>>禅定を体験して不還果に
>>一来果を超えて不還果に達するためには、最低もう一度だけ「無我」を「体験」しないといけません。でも一来果に達した修行者が次に不還果に達する時は、ほとんどの場合、瞑想に習熟して禅定に入り、禅定の世界・梵天界を体験しています。一瞬の「無我」だけでなく圧倒的な禅定体験が、不還果に達する鍵になります。
私が不還果に到達した時は、5日間ほど、ずっと、瞑想状態が続いてました。
(眠っている時はわかりませんが、
その5日間の間にある時、圧倒的な禅定体験を経験しました。)
後から振り返ると凄い事だなって思いますが、体験してた当時はそれが当たり前でした。
それと、圧倒的な禅定体験をしている時は、感情がざわめく事すらありません。
心だけで反応している状態です(私の語彙力ではこれ以上の表現は出来ません。)。
>>不還果に達したほとんどの人が禅定に入って梵天界を体験し、そうでなくても三度目の「無我」を「体験」し、身体で感覚を味わう欲界への執着だけは完全に消えてしまいます。欲界への執着が完全に消えますので、不還果では心を欲界に結び付ける五種類の執着・五下分結が全て消えると言います。下分結とは、下の境涯・欲界に結び付ける煩悩ということです。その五つとは何でしょうか? 千五百種類もの執着・煩悩の中、欲界に対する執着をたった五つにまとめて消し去るからには、あっと驚くものであって欲しいものです。
>>ところが五下分結とは、預流果で既に消え、一来果でも既に消えていると再確認された有身見、疑、戒禁取の三結と、後の二つは、激しい欲、激しい怒りだけです。無知の中では相変わらずの三結と、欲と怒りの中では激しいものが消えるだけなのです。これでは『欲、怒り、無知が弱まる』と言われた一来果と、ほとんど変わりません。
ここは間違いです。
ここで表現されている“激しい欲”、“激しい怒り”というのは
不還果に到達する前に感じていた、“少しの欲”や“ちょっとし怒り”の事です。
つまり、欲や怒りというものは、不還果に到達すれば消えます。
>>でも、決定的に違う点があるのです。一来果では弱まるだけだった下界・欲界への執着・煩悩が、不還果では完全に消えていることです。不還者の心にはもはや俗世間に対する欲も怒りもありませんから、この世界に関する全てのことに、心はもう揺れません。ただ淡々と日常生活の仕事をこなして過ごすだけです。お腹が空いたら、身体を維持するためにだけ何かを取り入れる、誰と何があっても、仏教のこと以外なら自分がすぐに引いて他者を許し、自分を懺悔するのです。この世への執着が全く消えた分、智慧がかなり大胆に現れますから、他の生命に対する慈悲に溢れた、心静かな聖者という感じになります。
私がこれまで、欲は薄らぎ、やがて消える、と言ったのは
不還果に達すれば、欲界への執着が消えるからです。
上の引用部分と下の引用部分をよく読んで下さい。
矛盾部分に気付くと思います。
上の引用部分“無知の中では相変わらずの三結と、欲と怒りの中では激しいものが消えるだけなのです。これでは『欲、怒り、無知が弱まる』と言われた一来果と、ほとんど変わりません。”
この書き方だと、“少しの欲”と“ちょっとした怒り”は残る事になります。
下の引用部分“一来果では弱まるだけだった下界・欲界への執着・煩悩が、不還果では完全に消えていることです。”
どこが矛盾してるかわかりますか?
下の引用部分では“欲界への執着・煩悩が完全に消える”と言っているのです。
enotakaさんのブログでコメントさせてもらいましたが、
疑う事は非常に大事です。
だから、私のブログも疑って下さい。
あくまで、このブログは私の体験談なんです。
不還果に到達すれば、“この世”という世界への未練はなくなります。
つまり、自分が今後、死のうがどうなろうが、どうでも良くなります。
また、ここまで来れば、金銭欲や顕揚欲、名誉欲などで、狂うこともありません。
それらから、離れようとする動きになります。
少しだけ番外編。
悟りの階梯を進んでいない人が
ただ瞑想に励んで禅定に達した人は、その素晴らしさに囚われます。
>>悟りの段階に達していず、つまり「私」がいるという有身見が消えず、無常や無我が一瞬も「体験」できていないまま、ただ瞑想に励んで禅定に達した人は、その素晴らしさに囚われます。その一方で、この欲界に対する執着も、消えるわけではありません。禅定を楽しんだ後は、日常生活の中で欲を楽しんだりします。
>>このような凡夫の禅定者は、死後に梵天界に輪廻しますが、そこでの長寿を終え、禅定の功徳が切れたら、また欲界のどこかに輪廻してしまいます。欲界の楽に対する執着や、以前に行った善悪業のカルマが欲界に引き込むのです。そうして輪廻の苦しみが続きます。
以上です。
>>から始まるのは、全部、転載部分です。
次回は阿羅漢向について話します。
それと、体調が急激に悪くならなければ、月曜には記事の更新を止める予定です。
私が一番伝えたかった記事です。
私が探した、文献、サイトでは
不思議なほど、情報が出てきませんでした。
欲界に未練たらたらで、不還果について
文字を羅列するようなサイトしかありませんでした。
不還果に到達していない人が不還果についていくら語ろうが、
それはよくわからない文章にならざるを得ません。
不還果以降について体験者の文章がない理由もわかる気がしますが。
言葉にしにくい、だから、誤解を与えないために、
書けないというのが本当の所だと思います。
不還果について話す前に個人的な意見を書きます。
不還果に到達するのはかなり難しいです。
預流果から一来果は比較的楽ですが、
一来果から、不還果は本当に分厚い壁を感じました。
(なぜ、分厚いか?、
は不還果が神と呼ばれる領域の入り口なんじゃないかって思います。
ただ、境界線を乗り越えただけですが。)
私は一来果までは北海道出身の大便のような男のサイトと
悟りの階梯を参考にしてました。
あまり、他人をどうこう言う気はないのですが、北海道出身のその男は
一来果までしか到達してないと思います。
(本人談と不還向・不還果の記事で間違いを言っているから。)
その記事でコメントで訂正入れてるのは私ですが…
そして、その男は今、“自我”に支配されてます。
一来果までは、“ヒト”なんです。
不還果からは、神と呼ばれる領域に足を踏み入れるので、
(勘違いして欲しくないのは神になる訳じゃないということです。
世の中で自分は神だっていう人は
総じて頭がおかしい人だと思うので気をつけて下さい。)
自分の中の“ヒト(自我)”の行う行為にストレスを感じるようになります。
不還果に到達するのに必要なのは、真理の理解と瞑想、圧倒的な禅定です。
(瞑想と禅定は似ていますが、おそらく、別物です。)
わかりやすく言うと、瞑想=リラックス状態、
禅定=ものすごく集中した状態 だと思います。
前回同様、悟りの階梯に沿って話をしていこうと思います。
>>禅定を体験して不還果に
>>一来果を超えて不還果に達するためには、最低もう一度だけ「無我」を「体験」しないといけません。でも一来果に達した修行者が次に不還果に達する時は、ほとんどの場合、瞑想に習熟して禅定に入り、禅定の世界・梵天界を体験しています。一瞬の「無我」だけでなく圧倒的な禅定体験が、不還果に達する鍵になります。
私が不還果に到達した時は、5日間ほど、ずっと、瞑想状態が続いてました。
(眠っている時はわかりませんが、
その5日間の間にある時、圧倒的な禅定体験を経験しました。)
後から振り返ると凄い事だなって思いますが、体験してた当時はそれが当たり前でした。
それと、圧倒的な禅定体験をしている時は、感情がざわめく事すらありません。
心だけで反応している状態です(私の語彙力ではこれ以上の表現は出来ません。)。
>>不還果に達したほとんどの人が禅定に入って梵天界を体験し、そうでなくても三度目の「無我」を「体験」し、身体で感覚を味わう欲界への執着だけは完全に消えてしまいます。欲界への執着が完全に消えますので、不還果では心を欲界に結び付ける五種類の執着・五下分結が全て消えると言います。下分結とは、下の境涯・欲界に結び付ける煩悩ということです。その五つとは何でしょうか? 千五百種類もの執着・煩悩の中、欲界に対する執着をたった五つにまとめて消し去るからには、あっと驚くものであって欲しいものです。
>>ところが五下分結とは、預流果で既に消え、一来果でも既に消えていると再確認された有身見、疑、戒禁取の三結と、後の二つは、激しい欲、激しい怒りだけです。無知の中では相変わらずの三結と、欲と怒りの中では激しいものが消えるだけなのです。これでは『欲、怒り、無知が弱まる』と言われた一来果と、ほとんど変わりません。
ここは間違いです。
ここで表現されている“激しい欲”、“激しい怒り”というのは
不還果に到達する前に感じていた、“少しの欲”や“ちょっとし怒り”の事です。
つまり、欲や怒りというものは、不還果に到達すれば消えます。
>>でも、決定的に違う点があるのです。一来果では弱まるだけだった下界・欲界への執着・煩悩が、不還果では完全に消えていることです。不還者の心にはもはや俗世間に対する欲も怒りもありませんから、この世界に関する全てのことに、心はもう揺れません。ただ淡々と日常生活の仕事をこなして過ごすだけです。お腹が空いたら、身体を維持するためにだけ何かを取り入れる、誰と何があっても、仏教のこと以外なら自分がすぐに引いて他者を許し、自分を懺悔するのです。この世への執着が全く消えた分、智慧がかなり大胆に現れますから、他の生命に対する慈悲に溢れた、心静かな聖者という感じになります。
私がこれまで、欲は薄らぎ、やがて消える、と言ったのは
不還果に達すれば、欲界への執着が消えるからです。
上の引用部分と下の引用部分をよく読んで下さい。
矛盾部分に気付くと思います。
上の引用部分“無知の中では相変わらずの三結と、欲と怒りの中では激しいものが消えるだけなのです。これでは『欲、怒り、無知が弱まる』と言われた一来果と、ほとんど変わりません。”
この書き方だと、“少しの欲”と“ちょっとした怒り”は残る事になります。
下の引用部分“一来果では弱まるだけだった下界・欲界への執着・煩悩が、不還果では完全に消えていることです。”
どこが矛盾してるかわかりますか?
下の引用部分では“欲界への執着・煩悩が完全に消える”と言っているのです。
enotakaさんのブログでコメントさせてもらいましたが、
疑う事は非常に大事です。
だから、私のブログも疑って下さい。
あくまで、このブログは私の体験談なんです。
不還果に到達すれば、“この世”という世界への未練はなくなります。
つまり、自分が今後、死のうがどうなろうが、どうでも良くなります。
また、ここまで来れば、金銭欲や顕揚欲、名誉欲などで、狂うこともありません。
それらから、離れようとする動きになります。
少しだけ番外編。
悟りの階梯を進んでいない人が
ただ瞑想に励んで禅定に達した人は、その素晴らしさに囚われます。
>>悟りの段階に達していず、つまり「私」がいるという有身見が消えず、無常や無我が一瞬も「体験」できていないまま、ただ瞑想に励んで禅定に達した人は、その素晴らしさに囚われます。その一方で、この欲界に対する執着も、消えるわけではありません。禅定を楽しんだ後は、日常生活の中で欲を楽しんだりします。
>>このような凡夫の禅定者は、死後に梵天界に輪廻しますが、そこでの長寿を終え、禅定の功徳が切れたら、また欲界のどこかに輪廻してしまいます。欲界の楽に対する執着や、以前に行った善悪業のカルマが欲界に引き込むのです。そうして輪廻の苦しみが続きます。
以上です。
>>から始まるのは、全部、転載部分です。
次回は阿羅漢向について話します。
それと、体調が急激に悪くならなければ、月曜には記事の更新を止める予定です。
自分は一来果かもしれません。確かに常に感謝している状態です。
もし僕の体験が勘違いでも、それ自体が誰かの役には立つと思うので、自分の変化について書きます。書いている暇があるなら精進しろと自分で思いますが、ここに体験を記すほうが影響が大きいと思うのでそうします。
禅定前(人生が辛い、ずるをしたくもなる。でも怠けないで善人でありたい。内観し続ける。種々の哲学書(原始仏典含む)を読み続ける、ポジティブであることを決意する、黙想を習慣にする。)→最も信じていた論理が認識の生む錯覚と気づくと同時、突然自分も含めた世界が得体の知れない恐ろしいものに思える。→禅定直後(自分の感覚の変化、世界が輝いて見える、強烈な喜悦、言語による思考ができない。肉食が急に嫌になる。)→三週間後(深い安らぎ、ここでものすごい性欲があった。後に劇的に微弱になる。怒りは滅多に感じず、湧いても微弱。もろもろの法を自然と理解する)→それ以降(心は平安、しかし生活が煩わしく感じる。嬉しさも悲しみも等しく激しい感情のブレで苦しく、静穏が一番楽であることに気づく。食事量の減少。鬼和尚のブログ、仏典等を読んでは座る。)論理は錯覚であっても重要なツールであって、必須だと考えています。
主に原始仏典(中村元著)で学びました。
内観というのは、何故自分はこの気持ちであり、この行動をとったのだろうかと、原因をひたすら追っていく作業として書いています。自分の欠点が次々浮上するので辛いです。この辛さ自体に正面から向き会って、後は諸仏菩薩が引っ張り上げてくれると思えば、自然と事が進むと思います。
預流道、果~阿羅漢道、果があるそうですよ
その上も5段階ありますね