過去の記事の訂正をする前に、阿羅漢向・阿羅漢果について書いていきたいと思います。
阿羅漢向とは…
心の底から解脱したいと思う事です。
色々と情報を探しましたが、阿羅漢向の説明が少なく、
あったとしてもいまいちピンとこない表現ばかりです。
ex.梵天界への執着も「欲」と捉え、それすらも滅することに興味が向いた状態。
(言葉ではなんとなくわかるけど、つまり、どういう状態? と疑問に感じませんか?)
輪廻から解脱する、たったこれだけを志すだけなのに中々出来ませんでした。
阿羅漢向になってから、
“禅定”をして“無我”を体験します。
すると、阿羅漢果に到達します。
ここでいう“禅定”ではこれまでに感じていた幸福感もありません。
色界第四禅と呼ばれるものです。
“第四禅は幸福感を無くし、苦を無くし、また既に喜びと憂いが消えていることより、不苦不楽の、清らかな平安に(のみ)気づきがある禅定です。”(これは転載文です。)
そして、この時体験する“無我”は完璧に溶け合わさった状態です。
境界となるものが何もない、本当の“無我”を体験することで阿羅漢果に到達します。
阿羅漢果の状態を説明すると
ただそこに“ある”存在。
(“いる”ではなく“ある”、路傍の木石と同じ存在。
“いる”だと少しでも自我が残った状態になる。)
そして、“自分がない”状態。
自分がない、だから欲もないんです。
以上、参考になればと思います。
阿羅漢向とは…
心の底から解脱したいと思う事です。
色々と情報を探しましたが、阿羅漢向の説明が少なく、
あったとしてもいまいちピンとこない表現ばかりです。
ex.梵天界への執着も「欲」と捉え、それすらも滅することに興味が向いた状態。
(言葉ではなんとなくわかるけど、つまり、どういう状態? と疑問に感じませんか?)
輪廻から解脱する、たったこれだけを志すだけなのに中々出来ませんでした。
阿羅漢向になってから、
“禅定”をして“無我”を体験します。
すると、阿羅漢果に到達します。
ここでいう“禅定”ではこれまでに感じていた幸福感もありません。
色界第四禅と呼ばれるものです。
“第四禅は幸福感を無くし、苦を無くし、また既に喜びと憂いが消えていることより、不苦不楽の、清らかな平安に(のみ)気づきがある禅定です。”(これは転載文です。)
そして、この時体験する“無我”は完璧に溶け合わさった状態です。
境界となるものが何もない、本当の“無我”を体験することで阿羅漢果に到達します。
阿羅漢果の状態を説明すると
ただそこに“ある”存在。
(“いる”ではなく“ある”、路傍の木石と同じ存在。
“いる”だと少しでも自我が残った状態になる。)
そして、“自分がない”状態。
自分がない、だから欲もないんです。
以上、参考になればと思います。