阿羅漢果までの道のり

悟りの階梯 阿羅漢果までの道のりで感じた事、
この世界の真理について時間の許す限り記事を書いていこうと思います。

阿羅漢向・阿羅漢果について

2014-06-07 18:01:56 | 悟りの階梯
過去の記事の訂正をする前に、阿羅漢向・阿羅漢果について書いていきたいと思います。


阿羅漢向とは…

心の底から解脱したいと思う事です。

色々と情報を探しましたが、阿羅漢向の説明が少なく、
あったとしてもいまいちピンとこない表現ばかりです。

ex.梵天界への執着も「欲」と捉え、それすらも滅することに興味が向いた状態。
(言葉ではなんとなくわかるけど、つまり、どういう状態? と疑問に感じませんか?)

輪廻から解脱する、たったこれだけを志すだけなのに中々出来ませんでした。



阿羅漢向になってから、

“禅定”をして“無我”を体験します。

すると、阿羅漢果に到達します。

ここでいう“禅定”ではこれまでに感じていた幸福感もありません。
色界第四禅と呼ばれるものです。

“第四禅は幸福感を無くし、苦を無くし、また既に喜びと憂いが消えていることより、不苦不楽の、清らかな平安に(のみ)気づきがある禅定です。”(これは転載文です。)

そして、この時体験する“無我”は完璧に溶け合わさった状態です。

境界となるものが何もない、本当の“無我”を体験することで阿羅漢果に到達します。


阿羅漢果の状態を説明すると

ただそこに“ある”存在。
(“いる”ではなく“ある”、路傍の木石と同じ存在。
 “いる”だと少しでも自我が残った状態になる。)

そして、“自分がない”状態。
自分がない、だから欲もないんです。


以上、参考になればと思います。

阿羅漢向にも壁を感じた…

2013-07-07 19:13:40 | 悟りの階梯
不還果に到達した後、少し、自我に囚われていた時間がありました。

具体的にどういう事かと言うと、

自分という“存在”が消えることへの恐れです。

それともう一つ、神通力の魅力、です。

神通力の魅力は、すぐに、消えましたが、
(神通力を目的にしたら明らかに違うと感じたので)

“存在”に対する執着を手放すのはけっこう時間を要しました。

この“存在”に対する執着が消えないと阿羅漢向にもなれない、

停滞のイメージです。

今回はこれで終わりです。

不還果に到達するために。

2013-07-06 16:19:46 | 悟りの階梯
ようやく、ここまで来ました。

私が一番伝えたかった記事です。



私が探した、文献、サイトでは

不思議なほど、情報が出てきませんでした。

欲界に未練たらたらで、不還果について

文字を羅列するようなサイトしかありませんでした。


不還果に到達していない人が不還果についていくら語ろうが、

それはよくわからない文章にならざるを得ません。

不還果以降について体験者の文章がない理由もわかる気がしますが。

言葉にしにくい、だから、誤解を与えないために、
書けないというのが本当の所だと思います。

不還果について話す前に個人的な意見を書きます。

不還果に到達するのはかなり難しいです。

預流果から一来果は比較的楽ですが、

一来果から、不還果は本当に分厚い壁を感じました。
(なぜ、分厚いか?、
 は不還果が神と呼ばれる領域の入り口なんじゃないかって思います。
 ただ、境界線を乗り越えただけですが。)

私は一来果までは北海道出身の大便のような男のサイトと
悟りの階梯を参考にしてました。

あまり、他人をどうこう言う気はないのですが、北海道出身のその男は
一来果までしか到達してないと思います。
(本人談と不還向・不還果の記事で間違いを言っているから。)
その記事でコメントで訂正入れてるのは私ですが…
そして、その男は今、“自我”に支配されてます。

一来果までは、“ヒト”なんです。

不還果からは、神と呼ばれる領域に足を踏み入れるので、
(勘違いして欲しくないのは神になる訳じゃないということです。
 世の中で自分は神だっていう人は
 総じて頭がおかしい人だと思うので気をつけて下さい。)

自分の中の“ヒト(自我)”の行う行為にストレスを感じるようになります。

不還果に到達するのに必要なのは、真理の理解と瞑想、圧倒的な禅定です。
(瞑想と禅定は似ていますが、おそらく、別物です。)

わかりやすく言うと、瞑想=リラックス状態、
          禅定=ものすごく集中した状態   だと思います。


前回同様、悟りの階梯に沿って話をしていこうと思います。

>>禅定を体験して不還果に

 >>一来果を超えて不還果に達するためには、最低もう一度だけ「無我」を「体験」しないといけません。でも一来果に達した修行者が次に不還果に達する時は、ほとんどの場合、瞑想に習熟して禅定に入り、禅定の世界・梵天界を体験しています。一瞬の「無我」だけでなく圧倒的な禅定体験が、不還果に達する鍵になります。

私が不還果に到達した時は、5日間ほど、ずっと、瞑想状態が続いてました。
(眠っている時はわかりませんが、
 その5日間の間にある時、圧倒的な禅定体験を経験しました。)

後から振り返ると凄い事だなって思いますが、体験してた当時はそれが当たり前でした。
それと、圧倒的な禅定体験をしている時は、感情がざわめく事すらありません。
心だけで反応している状態です(私の語彙力ではこれ以上の表現は出来ません。)。


>>不還果に達したほとんどの人が禅定に入って梵天界を体験し、そうでなくても三度目の「無我」を「体験」し、身体で感覚を味わう欲界への執着だけは完全に消えてしまいます。欲界への執着が完全に消えますので、不還果では心を欲界に結び付ける五種類の執着・五下分結が全て消えると言います。下分結とは、下の境涯・欲界に結び付ける煩悩ということです。その五つとは何でしょうか? 千五百種類もの執着・煩悩の中、欲界に対する執着をたった五つにまとめて消し去るからには、あっと驚くものであって欲しいものです。

>>ところが五下分結とは、預流果で既に消え、一来果でも既に消えていると再確認された有身見、疑、戒禁取の三結と、後の二つは、激しい欲、激しい怒りだけです。無知の中では相変わらずの三結と、欲と怒りの中では激しいものが消えるだけなのです。これでは『欲、怒り、無知が弱まる』と言われた一来果と、ほとんど変わりません。

ここは間違いです。
ここで表現されている“激しい欲”、“激しい怒り”というのは
不還果に到達する前に感じていた、“少しの欲”や“ちょっとし怒り”の事です。
つまり、欲や怒りというものは、不還果に到達すれば消えます。


>>でも、決定的に違う点があるのです。一来果では弱まるだけだった下界・欲界への執着・煩悩が、不還果では完全に消えていることです。不還者の心にはもはや俗世間に対する欲も怒りもありませんから、この世界に関する全てのことに、心はもう揺れません。ただ淡々と日常生活の仕事をこなして過ごすだけです。お腹が空いたら、身体を維持するためにだけ何かを取り入れる、誰と何があっても、仏教のこと以外なら自分がすぐに引いて他者を許し、自分を懺悔するのです。この世への執着が全く消えた分、智慧がかなり大胆に現れますから、他の生命に対する慈悲に溢れた、心静かな聖者という感じになります。

私がこれまで、欲は薄らぎ、やがて消える、と言ったのは
不還果に達すれば、欲界への執着が消えるからです。


上の引用部分と下の引用部分をよく読んで下さい。
矛盾部分に気付くと思います。

上の引用部分“無知の中では相変わらずの三結と、欲と怒りの中では激しいものが消えるだけなのです。これでは『欲、怒り、無知が弱まる』と言われた一来果と、ほとんど変わりません。”
 この書き方だと、“少しの欲”と“ちょっとした怒り”は残る事になります。

下の引用部分“一来果では弱まるだけだった下界・欲界への執着・煩悩が、不還果では完全に消えていることです。”
 どこが矛盾してるかわかりますか?
 下の引用部分では“欲界への執着・煩悩が完全に消える”と言っているのです。


enotakaさんのブログでコメントさせてもらいましたが、
疑う事は非常に大事です。

だから、私のブログも疑って下さい。
あくまで、このブログは私の体験談なんです。

不還果に到達すれば、“この世”という世界への未練はなくなります。
つまり、自分が今後、死のうがどうなろうが、どうでも良くなります。
また、ここまで来れば、金銭欲や顕揚欲、名誉欲などで、狂うこともありません。
それらから、離れようとする動きになります。


少しだけ番外編。

悟りの階梯を進んでいない人が
ただ瞑想に励んで禅定に達した人は、その素晴らしさに囚われます。

>>悟りの段階に達していず、つまり「私」がいるという有身見が消えず、無常や無我が一瞬も「体験」できていないまま、ただ瞑想に励んで禅定に達した人は、その素晴らしさに囚われます。その一方で、この欲界に対する執着も、消えるわけではありません。禅定を楽しんだ後は、日常生活の中で欲を楽しんだりします。

>>このような凡夫の禅定者は、死後に梵天界に輪廻しますが、そこでの長寿を終え、禅定の功徳が切れたら、また欲界のどこかに輪廻してしまいます。欲界の楽に対する執着や、以前に行った善悪業のカルマが欲界に引き込むのです。そうして輪廻の苦しみが続きます。


以上です。

>>から始まるのは、全部、転載部分です。

次回は阿羅漢向について話します。
それと、体調が急激に悪くならなければ、月曜には記事の更新を止める予定です。

一来果に到達するのに重要な事。

2013-07-05 18:51:42 | 悟りの階梯
今回も一来果についての話から書いていきます。

一来果は煩悩が弱まるだけ(こっから転載)。

>>預流果に達してからは、説法を聴くだけではもう進みません。瞑想修行もして、もう一瞬だけ、「私がいない、何もない」瞬間を「体験」すると、第二段階の一来果に達します。

ここからは、“瞑想”と日常生活が重要になってくると思います。
日常生活を通して、不自由を経験しつつ、
より深いレベルで“諸行無常”と“諸法無我”を理解していく事になると思います。


>>一来果では、有身見、疑、戒禁取の三結は当然消えていますが、その他に、欲、怒り、無知の三煩悩が、いずれも弱くなります。


>> 一来果の次の不還果がまたちょっと劇的に段階が上がりますので、この一見中途半端な一来果は、学界では「阿羅漢果が当然第一に確定し、それから預流果と不還果、それからだいぶ後に一来果が加わって、悟りが四段階に揃えられたのだろう」と、四沙門果「説」が時代を経て徐々に発展したその最後に付け足しのように成立したものと見られています。


ここの文章は間違いに思います。


一来果を体験した事のある人間がこんな文章を書く訳がないと思います。

 預流果 → 一来果 → 不還果 → 阿羅漢果

一段階、上がる際に、分厚い壁があります。

預流果と一来果には大きな差があるように感じます。

“四沙門果「説」が時代を経て徐々に発展したその最後に付け足しのように成立したものと見られています。”
一来果を体験したのなら
決して、“最後の付け足しのように成立したもの”とは言えないと思います。


>>「私がいる」という最大の邪見が消えて預流果に達してから第三の不還果に達するまでのこの一来果は、煩悩が完全に消えたわけでもない、禅定に入って梵天の世界に遊べるわけでもない、ただひたすら仏道を学び瞑想修行に明け暮れ、それでも心が成長した気配は、もう一瞬の「無我」の「体験」以外およそ感じられない地味な段階です。でも、自分でも気付き難くても「以前のように激しくしつこく欲しがらなくなった、激しくしつこく怒らなくなった、以前よりはものごとを明晰に処理できるようになった」など、心のレベルは進んでいます。


言葉にすると、一来果もあんまりすごくないんじゃないか?
って思うかもしれません。
言葉にすると大した事じゃないと思うかもしれませんが
体感してみて下さい。
一来果まで来たら、人生における苦しみはかなり薄らいでいると思います。

それと、一来果に達した後の生活と“八正道”を比較してみて下さい。
自然と“八正道”に書いてある“在り方”になっていると思います。

私が一来果で経験した変化は

自然と、日常の全てに感謝している“状態”になった事です。
微妙な意味合いがわかりますか?
感謝“する”じゃなくて、常にしている“状態”なんです。


欲や怒りが薄らいだ事によって、
感謝している“状態”になり、幸せを感じる“状態”になりました。

この変化って小さく思えるかもしれませんが
大きな変化だと思うんです。


それまでの自分を振り返ると
感謝する事は大事、心がけているけど中々できない。
ある日常の一点や心がけている時は出来るけど、
そうじゃない時は忘れてしまう感覚、と言えば、いいですかね。

それをごく自然と出来る状態、
また、平凡な日常や、当たり前に出来る事に“幸せ”を感じる事が
出来るようになるのは大きな変化なんだと私には思います。


>>その進みの度合いも、千五百もある煩悩のどれが特に弱まるかも、おそらく人によってそれぞれ微妙に違うのでしょう。それを全部まとめて一言で表現すると、釈尊がおっしゃったように「三結が消えた、プラス、欲、怒り、無知が弱まった段階」になるのです。


>>一来果に達すると、輪廻が後たった一回だけで済むようになります。完全に悟ったわけではありませんし、禅定に入って梵天界に遊ぶこともまだできません。完全な悟りのために、もう一回だけ再挑戦しないといけません。もう一回だけこの世界に戻るから、「一来」と呼ばれるのです。


――転載ここまで――


預流果に到達した人が、日常生活を送りながら、
瞑想状態の機会を作っていれば、自然と到達できるようになると思います。

ただ、この段階でも
油断、慢心、驕りがあれば、すぐに堕ちる気がします。


それだけ“自我”の支配時間が長いと言えばいいのでしょうか。
それと、この段階でも、
まだ、“無我”というよりもどちらかと言えば“非我”です。
あと少しで、溶け合わさりそうな段階、かと思います。
(あくまで私の感覚ですので、こうじゃないかって思ったらコメントして下さい)


次回は、不還果についてお話します。
悟りの階梯の記事は阿羅漢向まで、書く予定です。
それ以降は、自分の今後について触れた後、
(そこで、阿羅漢果について少し触れます、すごく抽象的に終わると思います。  阿羅漢果じゃない者が、阿羅漢果について語るのは不適切だと思うので。
 話の構成上、触れないといけないというか… 数日後にはわかります。)


基本的に記事の更新はしないと思います。
ブログにお邪魔することはある、と思います。
(私の事が嫌なら、来るな、と言って頂ければ行きませんので)

預流果に到達するために重要な事。

2013-07-04 22:55:57 | 悟りの階梯
預流果に到達するために重要な事を話す前に、

預流果について書いておきます。
悟りの階梯からの転載なので、そちらを読んでもらった方が良いと思います。

預流果に到達して消える煩悩は3つ(以下転載)。

>> 一つ目は、「有身見」と呼ばれる煩悩。
これは欲でも怒りでもなく無知に分類される、誤った見解・邪見です。「私の身体」「私という心身集合体」など、どう呼んでもいいのですが、とにかく何か「私」というものがいると錯覚している煩悩が、まず根こそぎ消えます。瞑想したり集中して仏法の話を聞いたりしている最中に、一瞬でも「私」がいない、何もない瞬間を「体験」して、「ああ、『私』がいるわけではないのだ」と納得した智慧が生まれ、有身見が消えるのです。

>> 「無常を悟る、無我を悟ることが仏教だ」と言われる、その無常、無我を一瞬だけでも「体験」して、「我がある」という邪見・煩悩が、単なる知識として分かるのではなく、本当に消えるのです。

正直、預流果の体感では、どちらかというと、“無我”というより“非我”
だと思います。
自分という存在が薄まる感じ。
“非我”という言葉を知らなければ、“無我”と表現してしまう感じです。
それほど、微妙な違いです。
“私以外の存在が私の中にいる”という感じでしょうかね。

>> 二つ目と三つ目は、一つ目の有身見が消えれば、自然に消える煩悩です。
この二つも無知に基づく邪見です。「疑」と「戒禁取」です。

>> 「疑」とは、「何が真実か分からないままぐずぐずウジウジしていること」です。預流果に悟ると、このウジウジ状態や真偽を見誤ることがなくなります。

>>三つ目の消える煩悩は、戒禁取。
しきたりや苦行などにこだわることです。このこだわりも、預流果に悟ると消えます。

>> 女人禁制の山や寺、火渡り、滝に打たれる行など、大変な意味や宗教的意義があるかのような奇習や奇行が、世の中にはたくさんあります。どれも伝統文化ですから、それを守る人々をないがしろにするのはよくありません。せっかく人が歩いている炭火に「無意味だ」と言っていきなり水を掛けたりするのは失礼です。でも、そこに文化以上の、何かの真実があるわけではないと分かっていますから、ありがたがる気持ちはなくなるのです。


――転載はここまで――


前回の記事で預流果はちらほら見かけるって言いましたが、

私の判断基準は、三つ目の消える煩悩、戒禁取、が消えている事、
(一番、目につきやすいから。)
真理の偽物の流布を行っている輩に対して、遺憾の意、あるいは怒りを
抱いているという点です。


預流果に到達した特典を以下に書きます(これも転載です)。


>> 預流果に達した人は、真理を一瞬だけでも「体験」していますから、それだけでも心はガラッと変わっています。心が変わってしまいましたので、心が決めるその後の進路も、悟りの方向に大きく転換しています。
いつか必ず、と言われても、いつまで頑張れば済むのか分からないと結構心配ですので、釈尊は、「八回目にはもう生まれ変わりません。七回生まれ変わる間には完全に悟れます」と限定しておられます。これも釈尊が決めたことではなく、天眼通で他者の生まれ変わりをたくさん観察して、事実として確認されたことです。経典には、預流果に悟ってから今生ですぐに阿羅漢果にまで達した根性のある人のことも多く記されていますが、この一生涯で決められなくても、死んでまた生まれ変わって七回輪廻する間には、必ず悟れるのです。

>>それでも、地獄や餓鬼(幽霊)に生まれ変わるのは、誰でも嫌です。お釈迦様は念のため、「預流果の人は天界か人界にだけ生まれ変わり、地獄、畜生、餓鬼界に生まれることは決してない」ともおっしゃっています。輪廻自体は苦しいですが、その中でも善趣と呼ばれる、悟りを目指せる好い境涯にだけ生まれ変わるのです。

>>善趣にだけ輪廻するのですから、預流果の人は当然、それをすれば必ず地獄に堕ちる六種類の悪業だけはできなくなっています。母殺し、父殺し、阿羅漢殺し、仏陀の身体を傷つけること、仏教の家族・サンガを仲違いさせること、仏陀の教えを貶したりその偽物を流布させること。この六つの悪業だけは、預流者は拒否反応を起こして、できないのです。

――転載ここまで――

“仏教の家族、サンガを仲違いさせること”、“仏陀の教えを貶したりその偽物を流布させること”が、それをすれば必ず地獄に堕ちる悪業となっています。

それを平然とやっている輩がネットの中にはよく散見されます。
“激しい怒り”という煩悩が消えていない預流果の人には、
その行為を行っている人に対する
不信感や怒りを感じるのではないか、って思います。



さてと、本題に入っていきます。

過去の記事でも、瞑想だけで悟りの境地に至るのは無理だと言いましたが、
入口の預流果で消える煩悩が、無知の煩悩だからです。

もちろん、瞑想で“無我(非我)”を経験しなければいけないと思いますが、
それだけでなく、真理も理解しなければ、“有身見”は消えません。

ここでいう真理とは

“諸行無常”と“諸法無我”、この二つです。

この2つの真理を理解出来れば、一来果もすぐです。
一来果の所で書きますが、上記の2つの真理をより深いレベルで
理解してるのが一来果だと思います。
申し訳ないですが、この辺は言葉にしにくいです。

四法印で知られていますが、

諸行無常、諸法無我、一切皆苦、涅槃寂静。

この言葉の並び通りなんです。

 諸行無常 → 諸法無我 → 一切皆苦 → 涅槃寂静 

こんな感じです。

私は表現力が豊かな方ではないので、
頑張って、理解して下さい。応援してます、としか申し上げられません。
(正直、参考になるサイトは探せばけっこう出てくると思います。)

ゆる~く書きますと、

この世に不変なものってないよね。 
→ 不変なものがないってつまるところ私もないよね。
→ 私がないんだったら、なんで今苦しいんだろう?もしかして幻想?
  苦しみがなくなった。やっぱり幻想だったんだ。
→ ああ、こんなに楽なんだ、居心地がいいな、

こんな感じでしょうか。
(幻想という言葉を使いましたが、もう少し的確な言葉があれば教えて下さい。)


結論として
預流果に到達するのに重要なのは

“諸行無常”と“諸法無我”、この2つの真理の理解です。



記事とは直接関係ありませんが

現在、日月神示の情報を探しています。
参考になる本、サイトなどがありましたら教えて下さい。
お願いします。

次回の記事は、一来果のお話です。
ついでに、悟りの階梯(以前紹介したサイト)の一来果に関する訂正、
を記事にしようと思います。