阿羅漢果までの道のり

悟りの階梯 阿羅漢果までの道のりで感じた事、
この世界の真理について時間の許す限り記事を書いていこうと思います。

今後の予定

2013-07-08 15:10:00 | 自己紹介
とりあえず、自分がこれから歩みそうな道は大きく分けて2つです。

1つ目は、“死ぬ”ことです。


推論ですが、“この世”と“あの世”の大きな違いは

時間の感覚だと思ってます(自分には確かめる術が今はないですが)。

ここで死ぬと、効率が悪いなって思いますが、

自分ではどうすることもできませんからね。


2つ目は“生きろ”って言われた時ですね。
(生死は強引な手段を使わない限り、コントロール出来るものじゃない、
 と思ってるので、こういう表現をしました。)

不食なり、ものすごい少食で元気に生きていけないと
生きていくのは厳しいですから。

私からすると、それは“奇跡”に感じます。
(不食を実践できている人は阿羅漢果の精神レベルに到達してる気がします。)


この“生きろ”と言われた場合、重要になってくるのは

何を生業にして、仕事を通して、この世に貢献していくか?、です。
お金のために仕事をするのは私には不可能です。

私は山(一応火山)のある県に住んでいるのですが、

そこに移住して、仕事をしようかと思ってます。
(今も同じ県内の田舎にすんでますが、
 さらに田舎なので、秘境のように感じます。)

具体的に何をするかは、まだ、決めてません(見当はつけていますが)。
体が元気じゃないと何もできませんからね。

移住するために準備がいるのかどうかまで、きちんと考えてやるつもりです。


それと、精神世界関連で商売する気はありません。
(だって在り方に反するから。)


前から言っているように、記事更新は今日で終わりです。
(コメント返しはすると思いますが)

これ以上書けないんです。
書けば書くほど、蛇足になるので。

今の私に悟りの階梯に関して書けるのはここまで、って事です。

もし、記事更新する時は阿羅漢果に到達した時だと思います。

これも以前に書きましたが、生かされている間は

日月神示に専心しようと思ってます。

それに関してのブログはここ以外でやってくと思います。

間違いなく言えるのは日月神示に出会えたのは

悟りの階梯を上ったからだと思います。

凡夫のままでは、日月神示に出会えなかったでしょう。


人を介在する事の弊害は大きなものがあります。

それは宗教も同じです。

誰かが言っているから、こういう文献が残っているから

だから、正しい、って事はありません。

いろんなことを参考にしながら、

真理を自分で探し当てるしか道はありません。

阿羅漢向にも壁を感じた…

2013-07-07 19:13:40 | 悟りの階梯
不還果に到達した後、少し、自我に囚われていた時間がありました。

具体的にどういう事かと言うと、

自分という“存在”が消えることへの恐れです。

それともう一つ、神通力の魅力、です。

神通力の魅力は、すぐに、消えましたが、
(神通力を目的にしたら明らかに違うと感じたので)

“存在”に対する執着を手放すのはけっこう時間を要しました。

この“存在”に対する執着が消えないと阿羅漢向にもなれない、

停滞のイメージです。

今回はこれで終わりです。

日月神示から抜粋

2013-07-06 23:44:56 | 日月神示
wikipediaからの抜粋になります。

完訳 日月神事は明日、届くようなので、
ブログの更新をやめたら、そちらに専心しようと思ってます。

体調と相談して、必要ならば、国立図書館に行くかもしれませんね。


>>「腹一杯食べてはならん、死に行く道ぞ、二分を先づ神にささげよ。流行病は邪霊集団のしわざ、今にわからん病、世界中の病はげしくなるぞ。」(五葉之巻第十四帖)、「みなみな気つかん理、気つかん病になってゐるぞ。ツキモノがたらふく食べてゐることに気づかんのか。食物節すればツキモノ改心するぞ。」(冬の巻補帖)

これを感じた事はありますか?

私がお邪魔しているenotakaさんのブログを読んでいて、

はっとさせられたのが、“顔つき”のお話をされていた事です。
enotakaさんがブログで仰られてるような顔つきが見てとれた訳じゃないのですが…

私は、特異な病状で、理由は医学的にもよくわかりませんが、

この世の食べ物を食べると、ものすごく病状が悪化します。
(肉類だけでなく、野菜も無理な体になりました。)
記事にまでして何が言いたいのかっていうと、

食べた後と食べる前では、顔つきが違うんです。
(信じてもらえなくても結構です。)

私のように不食する必要はないと思いますが、

腹八分目をしていれば、私のように猛烈に苦しむ事はないと思います。
(私も元々大食いではなかったんですがね…)

不還果に到達するために。

2013-07-06 16:19:46 | 悟りの階梯
ようやく、ここまで来ました。

私が一番伝えたかった記事です。



私が探した、文献、サイトでは

不思議なほど、情報が出てきませんでした。

欲界に未練たらたらで、不還果について

文字を羅列するようなサイトしかありませんでした。


不還果に到達していない人が不還果についていくら語ろうが、

それはよくわからない文章にならざるを得ません。

不還果以降について体験者の文章がない理由もわかる気がしますが。

言葉にしにくい、だから、誤解を与えないために、
書けないというのが本当の所だと思います。

不還果について話す前に個人的な意見を書きます。

不還果に到達するのはかなり難しいです。

預流果から一来果は比較的楽ですが、

一来果から、不還果は本当に分厚い壁を感じました。
(なぜ、分厚いか?、
 は不還果が神と呼ばれる領域の入り口なんじゃないかって思います。
 ただ、境界線を乗り越えただけですが。)

私は一来果までは北海道出身の大便のような男のサイトと
悟りの階梯を参考にしてました。

あまり、他人をどうこう言う気はないのですが、北海道出身のその男は
一来果までしか到達してないと思います。
(本人談と不還向・不還果の記事で間違いを言っているから。)
その記事でコメントで訂正入れてるのは私ですが…
そして、その男は今、“自我”に支配されてます。

一来果までは、“ヒト”なんです。

不還果からは、神と呼ばれる領域に足を踏み入れるので、
(勘違いして欲しくないのは神になる訳じゃないということです。
 世の中で自分は神だっていう人は
 総じて頭がおかしい人だと思うので気をつけて下さい。)

自分の中の“ヒト(自我)”の行う行為にストレスを感じるようになります。

不還果に到達するのに必要なのは、真理の理解と瞑想、圧倒的な禅定です。
(瞑想と禅定は似ていますが、おそらく、別物です。)

わかりやすく言うと、瞑想=リラックス状態、
          禅定=ものすごく集中した状態   だと思います。


前回同様、悟りの階梯に沿って話をしていこうと思います。

>>禅定を体験して不還果に

 >>一来果を超えて不還果に達するためには、最低もう一度だけ「無我」を「体験」しないといけません。でも一来果に達した修行者が次に不還果に達する時は、ほとんどの場合、瞑想に習熟して禅定に入り、禅定の世界・梵天界を体験しています。一瞬の「無我」だけでなく圧倒的な禅定体験が、不還果に達する鍵になります。

私が不還果に到達した時は、5日間ほど、ずっと、瞑想状態が続いてました。
(眠っている時はわかりませんが、
 その5日間の間にある時、圧倒的な禅定体験を経験しました。)

後から振り返ると凄い事だなって思いますが、体験してた当時はそれが当たり前でした。
それと、圧倒的な禅定体験をしている時は、感情がざわめく事すらありません。
心だけで反応している状態です(私の語彙力ではこれ以上の表現は出来ません。)。


>>不還果に達したほとんどの人が禅定に入って梵天界を体験し、そうでなくても三度目の「無我」を「体験」し、身体で感覚を味わう欲界への執着だけは完全に消えてしまいます。欲界への執着が完全に消えますので、不還果では心を欲界に結び付ける五種類の執着・五下分結が全て消えると言います。下分結とは、下の境涯・欲界に結び付ける煩悩ということです。その五つとは何でしょうか? 千五百種類もの執着・煩悩の中、欲界に対する執着をたった五つにまとめて消し去るからには、あっと驚くものであって欲しいものです。

>>ところが五下分結とは、預流果で既に消え、一来果でも既に消えていると再確認された有身見、疑、戒禁取の三結と、後の二つは、激しい欲、激しい怒りだけです。無知の中では相変わらずの三結と、欲と怒りの中では激しいものが消えるだけなのです。これでは『欲、怒り、無知が弱まる』と言われた一来果と、ほとんど変わりません。

ここは間違いです。
ここで表現されている“激しい欲”、“激しい怒り”というのは
不還果に到達する前に感じていた、“少しの欲”や“ちょっとし怒り”の事です。
つまり、欲や怒りというものは、不還果に到達すれば消えます。


>>でも、決定的に違う点があるのです。一来果では弱まるだけだった下界・欲界への執着・煩悩が、不還果では完全に消えていることです。不還者の心にはもはや俗世間に対する欲も怒りもありませんから、この世界に関する全てのことに、心はもう揺れません。ただ淡々と日常生活の仕事をこなして過ごすだけです。お腹が空いたら、身体を維持するためにだけ何かを取り入れる、誰と何があっても、仏教のこと以外なら自分がすぐに引いて他者を許し、自分を懺悔するのです。この世への執着が全く消えた分、智慧がかなり大胆に現れますから、他の生命に対する慈悲に溢れた、心静かな聖者という感じになります。

私がこれまで、欲は薄らぎ、やがて消える、と言ったのは
不還果に達すれば、欲界への執着が消えるからです。


上の引用部分と下の引用部分をよく読んで下さい。
矛盾部分に気付くと思います。

上の引用部分“無知の中では相変わらずの三結と、欲と怒りの中では激しいものが消えるだけなのです。これでは『欲、怒り、無知が弱まる』と言われた一来果と、ほとんど変わりません。”
 この書き方だと、“少しの欲”と“ちょっとした怒り”は残る事になります。

下の引用部分“一来果では弱まるだけだった下界・欲界への執着・煩悩が、不還果では完全に消えていることです。”
 どこが矛盾してるかわかりますか?
 下の引用部分では“欲界への執着・煩悩が完全に消える”と言っているのです。


enotakaさんのブログでコメントさせてもらいましたが、
疑う事は非常に大事です。

だから、私のブログも疑って下さい。
あくまで、このブログは私の体験談なんです。

不還果に到達すれば、“この世”という世界への未練はなくなります。
つまり、自分が今後、死のうがどうなろうが、どうでも良くなります。
また、ここまで来れば、金銭欲や顕揚欲、名誉欲などで、狂うこともありません。
それらから、離れようとする動きになります。


少しだけ番外編。

悟りの階梯を進んでいない人が
ただ瞑想に励んで禅定に達した人は、その素晴らしさに囚われます。

>>悟りの段階に達していず、つまり「私」がいるという有身見が消えず、無常や無我が一瞬も「体験」できていないまま、ただ瞑想に励んで禅定に達した人は、その素晴らしさに囚われます。その一方で、この欲界に対する執着も、消えるわけではありません。禅定を楽しんだ後は、日常生活の中で欲を楽しんだりします。

>>このような凡夫の禅定者は、死後に梵天界に輪廻しますが、そこでの長寿を終え、禅定の功徳が切れたら、また欲界のどこかに輪廻してしまいます。欲界の楽に対する執着や、以前に行った善悪業のカルマが欲界に引き込むのです。そうして輪廻の苦しみが続きます。


以上です。

>>から始まるのは、全部、転載部分です。

次回は阿羅漢向について話します。
それと、体調が急激に悪くならなければ、月曜には記事の更新を止める予定です。

一来果に到達するのに重要な事。

2013-07-05 18:51:42 | 悟りの階梯
今回も一来果についての話から書いていきます。

一来果は煩悩が弱まるだけ(こっから転載)。

>>預流果に達してからは、説法を聴くだけではもう進みません。瞑想修行もして、もう一瞬だけ、「私がいない、何もない」瞬間を「体験」すると、第二段階の一来果に達します。

ここからは、“瞑想”と日常生活が重要になってくると思います。
日常生活を通して、不自由を経験しつつ、
より深いレベルで“諸行無常”と“諸法無我”を理解していく事になると思います。


>>一来果では、有身見、疑、戒禁取の三結は当然消えていますが、その他に、欲、怒り、無知の三煩悩が、いずれも弱くなります。


>> 一来果の次の不還果がまたちょっと劇的に段階が上がりますので、この一見中途半端な一来果は、学界では「阿羅漢果が当然第一に確定し、それから預流果と不還果、それからだいぶ後に一来果が加わって、悟りが四段階に揃えられたのだろう」と、四沙門果「説」が時代を経て徐々に発展したその最後に付け足しのように成立したものと見られています。


ここの文章は間違いに思います。


一来果を体験した事のある人間がこんな文章を書く訳がないと思います。

 預流果 → 一来果 → 不還果 → 阿羅漢果

一段階、上がる際に、分厚い壁があります。

預流果と一来果には大きな差があるように感じます。

“四沙門果「説」が時代を経て徐々に発展したその最後に付け足しのように成立したものと見られています。”
一来果を体験したのなら
決して、“最後の付け足しのように成立したもの”とは言えないと思います。


>>「私がいる」という最大の邪見が消えて預流果に達してから第三の不還果に達するまでのこの一来果は、煩悩が完全に消えたわけでもない、禅定に入って梵天の世界に遊べるわけでもない、ただひたすら仏道を学び瞑想修行に明け暮れ、それでも心が成長した気配は、もう一瞬の「無我」の「体験」以外およそ感じられない地味な段階です。でも、自分でも気付き難くても「以前のように激しくしつこく欲しがらなくなった、激しくしつこく怒らなくなった、以前よりはものごとを明晰に処理できるようになった」など、心のレベルは進んでいます。


言葉にすると、一来果もあんまりすごくないんじゃないか?
って思うかもしれません。
言葉にすると大した事じゃないと思うかもしれませんが
体感してみて下さい。
一来果まで来たら、人生における苦しみはかなり薄らいでいると思います。

それと、一来果に達した後の生活と“八正道”を比較してみて下さい。
自然と“八正道”に書いてある“在り方”になっていると思います。

私が一来果で経験した変化は

自然と、日常の全てに感謝している“状態”になった事です。
微妙な意味合いがわかりますか?
感謝“する”じゃなくて、常にしている“状態”なんです。


欲や怒りが薄らいだ事によって、
感謝している“状態”になり、幸せを感じる“状態”になりました。

この変化って小さく思えるかもしれませんが
大きな変化だと思うんです。


それまでの自分を振り返ると
感謝する事は大事、心がけているけど中々できない。
ある日常の一点や心がけている時は出来るけど、
そうじゃない時は忘れてしまう感覚、と言えば、いいですかね。

それをごく自然と出来る状態、
また、平凡な日常や、当たり前に出来る事に“幸せ”を感じる事が
出来るようになるのは大きな変化なんだと私には思います。


>>その進みの度合いも、千五百もある煩悩のどれが特に弱まるかも、おそらく人によってそれぞれ微妙に違うのでしょう。それを全部まとめて一言で表現すると、釈尊がおっしゃったように「三結が消えた、プラス、欲、怒り、無知が弱まった段階」になるのです。


>>一来果に達すると、輪廻が後たった一回だけで済むようになります。完全に悟ったわけではありませんし、禅定に入って梵天界に遊ぶこともまだできません。完全な悟りのために、もう一回だけ再挑戦しないといけません。もう一回だけこの世界に戻るから、「一来」と呼ばれるのです。


――転載ここまで――


預流果に到達した人が、日常生活を送りながら、
瞑想状態の機会を作っていれば、自然と到達できるようになると思います。

ただ、この段階でも
油断、慢心、驕りがあれば、すぐに堕ちる気がします。


それだけ“自我”の支配時間が長いと言えばいいのでしょうか。
それと、この段階でも、
まだ、“無我”というよりもどちらかと言えば“非我”です。
あと少しで、溶け合わさりそうな段階、かと思います。
(あくまで私の感覚ですので、こうじゃないかって思ったらコメントして下さい)


次回は、不還果についてお話します。
悟りの階梯の記事は阿羅漢向まで、書く予定です。
それ以降は、自分の今後について触れた後、
(そこで、阿羅漢果について少し触れます、すごく抽象的に終わると思います。  阿羅漢果じゃない者が、阿羅漢果について語るのは不適切だと思うので。
 話の構成上、触れないといけないというか… 数日後にはわかります。)


基本的に記事の更新はしないと思います。
ブログにお邪魔することはある、と思います。
(私の事が嫌なら、来るな、と言って頂ければ行きませんので)