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5.日本-三浦按針(ウィリアム・アダムス)の情報 5回目

5.日本.-三浦按針(ウィリアム・アダムス)の情報 5回目

 アダムスの心情、望郷 二隻目の百二十トンの西洋式帆船建造

 ●故郷への手紙

  アダムスはイギリスに妻と子供を残していた。五年目も終わる頃、帰国したいと皇帝に訴えた。しかし、アダムスは皇帝にとって手離せない人間になっていた。それに比べ、船長はさほど役に立っていなかったから、彼の帰国は許された。船長はアジアに来ていたオランダ艦隊に採用され、艦隊はマラッカ諸島に向かい、ポルトガル艦隊と交戦した。オランダ艦隊はこの海戦に勝利したのだが、船長は戦死した。アダムスがこうした顛末を知るのはまだ先のことだった。アダムスは船長がどうにか母国に帰って、家族や友人に自分の置かれた状況を伝えてくれることを期待していたのだ。
  アダムスの日本での驚くような体験は、彼自身が妻や友人に宛てた手紙で知ることができる。妻への手紙は不完全で日付がなく、友人への手紙は1611年10月22日付けとなっている。こうした手紙でアダムスがヨーロッパを出発したのが1598年6月だったことがわかるのだ。

  この手紙をしたためた時期には、アダムスは船長の戦死を知っていたから、自分が日本で生きていることを故国に伝えることはできないだろうと絶望していた。友に宛てた手紙にはこうある。

 「故国にいる者は私が生きているのか死んでいるのか、何の手掛かりもないだろう。妻には何とか私が日本で生きていることを伝えたいものだ。未亡人として生きる妻、父無し子として生きる子供たち。そのことを思うと悲しみでいっぱいだ」

 これに続くアダムスの言葉には望郷の思いが溢れている。

 「ラトクリフとライムハウスの町には僕のことを知っている者がいるはずだ。ニコラス・ディギンズ、トーマス・ベスト、ニコラス・アイザック、ウィリアム・アイザック、ウィリアム・ジョーンズ、それからビーケットさん。もしこの手紙がこのうちの一人にでも届くことがあったら、私が罪深き巡礼者としてまだ生きていて、神の加護を願っていることをわかってくれるだろう」

 ●オランダ貿易(二隻目の百二十トン帆船建造)

  アダムスが最初に建造した帆船は、日本人の船乗りを乗せて沿岸を二、三度航海した。アダムスは皇帝の命令で二隻目の百二十トンの帆船を建造した。この船は都(大坂)と江戸を航海した。この二つの都市の距離はちょうどロンドンとイギリス西南端にあるランドエンズとほぼ同じくらいである。江戸と大坂を結ぶ航路では遭難が多発していた。1609年、大型のスペイン帆船セントフランシスコ号が夜半この沿岸で座礁した。160人が溺れてしまったが、340人以上が救助された。このニュースペイン(メキシコ)に向かう船にはマニラ総督に匹敵する重要人物がいた。助けられた乗組員はみな親切な扱いを受け、彼らをアカプルコ(メキシコ太平洋岸)に帰すのにアダムスの百二十トンの船が使われた。アダムスは帰国するチャンスだったが、この船に乗り込むことは許されなかった。

  1610年にアカプルコに向かったこの船は無事戻ることができた。その翌年には救助のお礼の品々を満載した船がニュースペインからやってきた。その翌年には救助のお礼の品々を満載した船がニュースペインからやってきた。その船には両国の継続的な交流を求める特使も乗っていた。
  この事件についてアダムスは1611年に書いた手紙の中で触れている。この頃には彼の建造した百二十トンの船はフィリピンで使われていたことがわかっている。この事件の頃にはアダムスは地方領主のような扱いを受けていた。妻や子供たちとと暮らせたら、あるいは家族と手紙のやりとりだけでもできたら、アダムスは相当に幸せだったに違いない。

 「私の仕事に対する皇帝の評価は高く、家来が八十人から九十人も持てる身分に取り立ててくれた。大勢の召使や奴隷を従えたようなもので、いわば英国の地方領主のようなものだ。こんな扱いを受けた外国人はこれまで一人もいないらしい。
  1609年、二隻のオランダ船が日本にやって来た。この二隻の主な任務は、ここにマニラから年二回やって来るポルトガルの船を海上で捕獲することだった。追跡が遅れて捕獲には失敗した。彼らが皇帝の住む駿府にやって来ると大歓迎された。年に二、三隻の交易船を日本に送ることに合意すると、彼らは皇帝の発行した朱印状を携えて去っていった」

  この使節の交渉にあたったのはもっぱらアダムスだった。オランダはアダムスに大きな借りを作ったと言えそうだ。

―つづくー 
 次回は、●オランダ貿易のつづき、●カソリック宣教師の傲慢

参考
 本書の原題「日本:地理と歴史 この列島の帝国が西洋人に知られてから現在まで、及びアメリカが準備する遠征計画について」 著者チャールズ・マックファーレン(1799~1858年) 訳者 渡辺惣樹(1954年~)訳者書名「日本 1852」
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