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10- 平安人の心 「賢木:政敵一家の朧月夜との逢瀬がばれ失脚の危機」

山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集
 賢木;さかき

  光源氏、二十三歳の秋。六条御息所は、葵の上の死後、光源氏からの音沙汰がなくなり自分が見限られたことを悟った、光源氏との決別を決め、娘と共に伊勢に下ろうとしていた。光源氏は、御息所が潔斎のために籠る野宮を訪い、手折ってきた榊(さかき)を御息所の御簾のうちに差し入れた。二人は長年の愛執を振り返り、涙を流し和歌を詠み合って別れる。
  その冬、光源氏を常に愛息子として慈しんでくれた父・桐壺院が崩御した。光源氏は精神的にも政治的にも後ろ盾を喪い、悲しみに暮れる。いっぽう未亡人となった藤壺への想いはやまず、光源氏は実家に帰った藤壺のもとに忍び込む。だが想いを遂げることはできず、むしろ藤壺の心を遠ざける結果を招いてしまう。光源氏との間の不義の子である東宮(のちの冷泉帝)の安全だけを願い、世の噂を危ぶむ藤壺は、桐壺院の一周忌を終えて出家する。少年の日からの義母への恋は、ここに永遠に終止符を打たれたのだった。

  喪失感の反動のように、光源氏は朧月夜との危険な恋にのめり込む。朧月夜は朝廷の女官長・典侍(ないしのかみ)として朱雀帝に仕える身となっていたが、内裏でも、また朧月夜の実家の右大臣邸でも、二人は逢瀬を繰り返した。そしてそれはついに、光源氏の政敵、朧月夜の父・右大臣と、姉で朱雀帝の母でもある弘徽殿大后(おおぎさき)の知るところとなる。「このついでに光源氏を失脚させるよい機会」。光源氏を憎悪する大后はそう策略をめぐらせる。
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  「源氏物語」の作者、紫式部は貴族の中でも「受領(ずりょう)階級」という階級に属するといわれることがある。「受領」とは地方に下った国主のことで、確かに紫式部の父親は越前守や越後守だった。だが三代前、紫式部の曾祖父までさかのぼれば、何と彼らは公卿。現代の内閣閣僚にあたる人々だ。紫式部の祖先は立派なセレブだったのだ。
  国司は朝廷から派遣されて地方の各国に赴き、その国を治める。赴任先では権力の頂点にいるといってよい。だが朝廷全体における地位を示す位階は、治める国にもよるが、六位からせいぜい四位(しい)程度だ。「ここから上が貴族」という五位のラインを挟んで上下に位置し、決して上流貴族とはいえない。だからこそ、特有の自由な気風や上昇志向を持ち、成金的ないっぽう、多少の愛執も漂う。

  平安の才女たちは、多くがこの階級に属していた。清少納言の父・清原元輔(もとすけ)は周防守や肥後守だったし、和泉式部の「和泉」という名は夫が和泉守だったことによる。紫式部の父の藤原為時は、紫式部が二十歳の頃、越前守となった。実はこの役職以前、父親には十年間、決まったポストがなかった。その末にようやく就いた国守の座だ。ある年の除目(じもく;人事異動)での失意を詠んだ漢詩が藤原道長の心を動かしたらしい。紫式部の青春時代は父の失業時代とちょうど重なる。婚期が遅くなったのはそのせいともいう。華やかな貴族社会や恋に憧れつつ、満たされなかった紫式部の娘心を想像してしまう。

  紫式部の直系の曾祖父である藤原兼輔は、中納言だった。また父の母の父で、紫式部には同じく曾祖父にあたる藤原定方は、何と右大臣だった。その時左大臣の座にいたのは藤原忠平。彼の直系の曽孫が藤原道長である。紫式部は、道長一家の繁栄を目にするにつけ、過去の栄光と今の落魄(らくはく:落ちぶれ)を痛感したことだろう。

  少し前まで華やかだったのに、今は没落して受領階級となった家の娘。「源氏物語」を読むとき、作者のこの「負け組」感覚を忘れてはならない。それは東宮はおろか親王にさえなれなかった皇子である光源氏のリベンジにつながり、政争に負けた桐壺・明石一族のお家復活劇につながるのだ。
  ほかにも、物語中には数々の没落者がひしめく。父に先立たれた末摘花、六条御息所、空蝉、そして宇治の女君たち。中でも空蝉は、実家の昔への矜持(きょうじ:プライド)と今属する受領階級への引け目とを二つながら心に抱く点、紫式部自身の分身ともいえる。彼らへの、紫式部の恋しくも暖かいまなざしに注目したい。
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