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解説-26.「紫式部日記」日記の構成と世界-C年次不明部分

解説-26.「紫式部日記」日記の構成と世界-年次不明部分

山本淳子氏著作「紫式部日記」から抜粋再編集

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日記の構成と世界-年次不明部分

構成
A前半記録体部分
B消息体部分
C年次不明部分
D後半記録体部分

今回は「C部分年次不明部分」

  「十一日の暁」に始まる中宮御堂詣での記事と、「源氏の物語、御前にあるを」に始まる、源氏物語にまつわる道長との贈答、さらに「渡殿に寝たる夜」に始まる、深夜に局の戸を叩いた人物との贈答から成る。

  これらは年次が示されないことから「断片記事」とも呼ばれるが、三つの記事は無関係ではなく同質性を持つ。それは、紫式部がいかにも女房らしい風流をしおおせているということである。

  最初の記事では、月夜の舟遊びを見ての独り言がそれである。大蔵卿藤原正光の、若者に交じって舟に乗り込んだものの、年齢に気が引けて身を縮めている様子を目にして、紫式部は思わず「舟のうちにや老をばかこつらむ」と漏らしてしまった。
  それは「白氏文集」「新楽府」の一首「海漫漫」の内容を典拠としており、それに気づいた中宮の大夫藤原斉信(ただのぶ)は、すかさずその次の一節「徐福文成証拠多し」を朗詠したという。

  女房と貴顕との間の、漢詩文素養に基づいた格調高い応酬で、「枕草子」を彷彿とさせる。それも紫式部は、決して素養をひけらかしたのではなく、独り言のように言った言葉を斎信に聞きつけられており、これは節度ある風流であった。

  第二と第三は一連のものともされる。時の最高権力者道長から和歌で「「源氏物語」作者のおまえは「好き者」と評判だ、口説かずに素通りする男はおるまい」とからかわれて、紫式部は「私には殿方の経験などまだございません(実はこの時、娘賢子がいた)のに、どなたが「好き者」などと噂を立てていらっしゃるのでしょうかしら?」と上手にかわす。
  また夜に局の戸を叩かれ、その時は「おそろしさに音もせで明かした」が、翌朝送られた歌には返歌を贈り「ただ事ではないないというほどの叩き方でしたけれど、本当はほんの「とばかり」、つかの間の出来心でしょう?」と切り返す。

  この箇所は、紫式部と藤原道長との情事の有無という文脈で取りざたされることが多いが、「紫式部日記」の記事の主眼はそれではなく、あくまで和歌、しかも贈答を中心としている。

  「源氏物語」を軽く扱われ自身は「好き者」とからかわれて「めざましう」心外な思いであろうとも、夜中に侵入されかかり「おそらしさ」に身を硬くしようとも、言葉つまり知性によって丁々発止のコミュニケーションを持ちえたことを、一つの手柄として記しているのである。

  このようにここでの紫式部は、教養においても色事をめぐっても、貴顕男性にとって会話に手ごたえのある女房である。

  紫式部は消息体で女房生活指南を記して、男性貴族たちの「気の利いた会話のできる女房が少なくなった」という言葉に反発し、「彰子後宮にもっと風流を」と主張した。年次不明記事は、自身におけるその体験実例集である。事例なので時間軸から切り離して、消息体の直後にまとめ置いたのだろう。
  時間的には前半記録体に入るものもあるのかもしれないが、女房として迷い悩む自分を記した前半記録体には、貴顕と堂々と渡り合う姿はそぐわない。

次回は D後半記録体部分
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