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4.日本-三浦按針(ウィリアム・アダムス)の情報 4回目

4.日本.-三浦按針(ウィリアム・アダムス)の情報 4回目

 アダムスと徳川家康と面会が続きます。家康はいろいろと質問をぶつけた後、西洋式帆船の建造の話をします。

 ●大坂の皇帝(徳川家康のこと) つづき

 「皇帝は次に、我々の国では戦争があるかと聞いてきた。ポルトガルとスペインとはいつも戦っていますが、それ以外の国とは仲良くやっています、と答えた。続けて何を信仰しているか、との質問が続いたが、天地を創造した神にいつも祈っていると話した。皇帝は矢継ぎ早にいろいろな質問をぶつけてきた。この国に辿り着いた経緯も詳しく聞いてきたので、持っていた世界地図を見せながら、マゼラン海峡を抜けてやって来たことを丁寧に説明した。皇帝はこの説明に納得せず、私が嘘をついていると感じたらしい。
  その後も質問は夜が更けるまで続いた。船にはどんな商品を積んでいるのか、とも尋ねられたので持参したサンプルを見せた。皇帝が尋問を終え部屋を出ようとするとき、我々もポルトガル人のように、この国と貿易が可能かと問いかけた。皇帝の答えは聞き取ることができなかった。
  この質問攻めの後に牢に入れられたのだが、二日後にはまた引き出されて再び質問攻めにあった。ヨーロッパの国々の政情、戦争と平和の成り行き、ヨーロッパの動物の種類。それこそ世の中のありとあらゆることについて質問を受けたのだった。皇帝は私の説明に満足した様子だったが、その日も結局牢に戻された。ただその夜に戻された牢は少しだけ過ごしやすかった」

  アダムスの対応はナイーブで、船乗りらしい率直さが微笑ましい。対照的なのは皇帝の驚くべき好奇心だ。アダムスも彼の質問に素早く、そして隠しだてなく答えている。英国が誇る海の外交は、昔からこうしたすばらしいものだった。

 「結局、三十九日間牢に入っていたことになる。我々の船(エラスムス号)はどうなったのか、船長はどうなったのか。状況は一切知らされなかった。この間にも、イエズス会士やポルトガル人たちは、私たちを海賊で皇帝に厄災をもたらし、全ての国の敵である、と言い張っていた。もし我々を処罰しなければ、この国にやって来て交易しようとする者がいなくなるだろうととまで言うのだ。何とか処罰させようと必死だった」

  ポルトガル人は後から来たものには情け容赦なかった。もちろんオランダ人も立場が逆転したときには同じようなものだった。必要に応じてキリスト教の信仰を否定することも厭わなかった。

 「皇帝は、日本に何の害も与えていない者を処刑することは正義に反するとして、このオランダ人たちを殺すわけにはいかない、と言ってくれた」
 「私が牢に入っている間に、我々の船は大阪の港近くに曳航されてきていた。牢に入って四十一日目、皇帝から再び呼び出され、書き留められないくらいたくさんの質問を受けた。最後に皇帝は、仲間のところに戻ることを許してくれた」
 「港に係留されている我々の船を目指して小舟を漕いだ。船上では船長も仲間もいて、元気に私を迎えてくれた」
 「船にあったものは何もかも持ち去られていた。特に航海に必要な観測器具は喜んで持っていったらしい。ところが、皇帝は持ち去られたものを元に戻すよう命令してくれた。その上、相当のお金を食料や必需品購入用に支給してくれた。しばらくして将軍の住む関東(Quanto)という島に向かうことを命じられた。江戸(Jeddo)という町に近いらしい。我々は船で移動したいと懇願したが、皇帝は許可しなかった。乗組員たちは船長に反抗し始めていて、日本人から支給された全てをよこせと要求していたから、もし皇帝が船での移動を許可していたら、船長も私も殺されていたかもしれない」  

 ●西洋式帆船の建造(一艘目、後に大き目のをもう一艘建造)

  これからおよさに年間、我々の船に戻ることはきっぱりと断られた。彼らはこの国で残りの人生を楽しく穏やかに過ごすことだけを考えろというのだった。皆それぞれが勝手に住みやすいところを探して散っていった。皇帝からは十分の米と年間現在価値で三万~五万円相当の金貨が与えられた。アダムスだけは他の乗組員と違い、新しいことにチャレンジするタイプで能力もあったから、皇帝が彼を認め始めた。そうして彼に相談するようになっていった。これまでの外国人では考えられないことだった。

 「四、五年も経ったある日、皇帝は私に西洋式帆船の建造を命じた。船大工もいないし、造船の知識も持ち合わせていないと答えたのだが、とにかくやってみろと言う。失敗してもかまわないと言うのだ」
 「およそ八十トンの船を何とか完成させた。皇帝は十分に気に入ってくれたようだ。皇帝は私をいっそう可愛がるようになって、お呼びがしきりとかかるようになった。プレゼントもしばしばいただいた」

  アダムスが実際に携わったのは製図だけで、あとは日本人の船大工やら鍛冶屋が活躍してくれた。みんな船の構造をよく理解していたらしく、アダムスは指揮をするだけで十分だった。
  この仕事が終わると、皇帝はアダムスをさらに重用した。難にでも興味を示す皇帝のよきアドバイザーといった立場だった。

 「たくさんのことを皇帝に伝授したが、中でも皇帝が喜んだのは幾何と代数だった。これにはイエズス会の連中もポルトガル人も驚いたようだ。彼らの商売に利用しようと、私にせっきんしてきた。私は彼らのために皇帝への便宜をはかってあげた。かつて私に向けられた彼らの悪意を考えると、少しお人よしすぎたかもしれない」
―つづくー 
 次回は、●故郷への手紙、●オランダ貿易

参考
 本書の原題「日本:地理と歴史 この列島の帝国が西洋人に知られてから現在まで、及びアメリカが準備する遠征計画について」 著者チャールズ・マックファーレン(1799~1858年) 訳者 渡辺惣樹(1954年~)訳者書名「日本 1852」
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