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B14 紫式部日記 中宮彰子が一条天皇に捧げる新作追加の『源氏の物語』豪華本を制作

  1008年は『源氏の物語』にとって特別な年でした。あの藤原公任(きんとう 小倉百人一首では大納言公任)から、読者であるということをほのめかされたのです。十一月一日、中宮彰子の生んだ皇子の誕生五十日(いか)の儀の宴でのことです。
  日没頃から始まった儀には、お産の時と同様に多くの公卿たちがつめかけました。それぞれ一条天皇に自分の娘を入内させています。右大臣と内大臣までが参上されたのですから、どちらも道長と中宮彰子の前に負けを認めたということでしょう。
  そんな時です。簀子敷から公任が廂の間を覗き込まれ、『源氏の物語』の女主人公の名前を口にされました。

― 左衛門の督(かみ)、「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ」とうかがい給ふ。源氏に似るべき人も見え給わぬに、かの上はまいていかでものし給はんと、聞き居たり。 ―
[現代語訳
 左衛門督藤原公任が「失礼。この辺りに若紫さんはお控えかな」と中を覗かれる。ここには光源氏に似ていそうな方もお見えでないのに、まして紫の上などいるはずもないではありませんか。私は存じませんことよ、と聞くだけは聞きましたが応えないでおきました。]

  公任は『源氏の物語』を読んでおられた。そのことを知らせるために、わざわざ「若紫」と、光源氏の妻の名前で呼ばれたのです。今や公任は道長の後塵を拝するしかなく、道長に従うしかない。漢詩・和歌・管弦のすべてに長け有職故実(ゆうそくこじつ 古来の先例に基づく、朝廷・公家・武家の行事や法令・制度・風俗・習慣・官職・儀式・装束などのこと)にも通じている公任が、中宮彰子の一女房にすぎない紫式部の、しかも和歌や日記よりずっと格式の劣る物語などというものの登場人物名を口にされたのは中宮彰子への点数稼ぎだったはずです。
  見え透いたおだてに乗るものですか。意地悪な心が起こって、紫式部は公任を黙殺しました。紫式部自身にとっても紫の上は、現実の誰にも代え難い大切な存在です。紫式部などと一緒にしてほしくありません。額に手をかざして紫式部を探す公任を横目に、紫式部は格下の文芸の作者が正道の文化の重鎮を袖にする小気味良さと、中宮女房ならではの、中宮様の権力を笠に着る快感とに、ほくそ笑みました。
  ですがいっぽうで、紫式部は深い喜びを禁じえませんでした。公任が言われた「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ」という言葉は、中国唐代の伝記小説『遊仙窟』の一場面に倣ったものです。ですから『源氏の物語』での密かな引用にも気が付いて、そのことをほのめかして下さったのです。
  紫式部が知の限りを注ぎ込んで成したものが、しかるべき人にきちんと理解されている。それを知った喜びは、まさに物語作者としての手ごたえ以外の何物でもありませんでした。

  その年には、中宮彰子の発案で『源氏の物語』の豪華本が制作されるということもありました。中宮彰子は、長くそばを離れていた一条天皇のために、内裏還御土産物として『源氏の物語』新本を作ることを思い立たれたのです。一条天皇は以前に、この物語を読み、紫式部へのお褒めの言葉を口にされたことがありました。中宮彰子は、そのことを思い出して、続きをお見せすれば必ずや一条天皇を楽しませることができると、考えになったのでしょう。

  中宮彰子は出産からまだ二月の体で、しかも底冷えのする霜月に、新本制作作業を見守ります。道長も「冷たい時節に、子供を産んだばかりでこんなことをする母親がどこにいる」と叱りますが、中宮彰子は耳も傾けません。その熱意を紫式部は微笑ましく拝見していました。
  紫式部には分かっていました。この『源氏の物語』は、中宮彰子と一条天皇の間を取り持つ仲立ちになるのです。中宮彰子は冊子作りの作業の中で、もう物語を読んでいるので、余裕をもって一条天皇とともに楽しむことができます。読み終えた後には、二人で感想を述べ合うこともあるでしょう。一条天皇は中宮彰子の感想や意見の中に、一条天皇と初めて出会った時の、十二歳の少女とはもう違うことに、遅まきながら気づくことでしょう。長く中宮彰子に目を向けることのなかった一条天皇が、大人の女に成長した中宮彰子を知り、そのとき二人の関係は大きく深まる良い機会になるのではないでしょうか。

参考 山本淳子著 紫式部ひとり語り
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