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6.日本-三浦按針(ウィリアム・アダムス)の情報 6回目 終章

6.日本.-三浦按針(ウィリアム・アダムス)の情報 6回目 終章

 アダムスのオランダ人との交流 アダムスの死亡と、残された日本への好意的手紙

 ●オランダ貿易 つづき アダムスの死と手紙

 「1611年、オランダ船が一隻日本にやって来た(ブラック号が平戸入港)。積荷は絹織物、毛織物、鉛、象牙、ダマスク織、黒タフタ織、生糸、胡椒などだった。オランダ商人は前年に来る約束に反していたが、大いに歓迎された」

  アダムスはこうしたオランダ人との交流で、本国のイギリスが東インド諸島で活発な交易活動に入っていることを知った。特にインド南西部で商館の設置を計画しているらしい。自分の存在をイギリスからの仲間も知ったら好都合のはずだ。今おかれている状況を家族に伝えることもできるだろう。家族の近況も気になった。妻や子供たちのことを思うと涙があふれてくるのだった。離れ離れになって既に13年。

 「どんな方法でもいいから家族と連絡が取りたいと願い、手紙を書いた。誰の手を経てもいい。何とか家族にこの手紙が届くように神に祈った。生きている間に何としても会いたい」

  アダムスの願いは叶わなかった。皇帝に最後まで使え、ここに引用した手紙が家族に届くことを願いながら平戸の港でその生涯を終えている。彼が亡くなったのは1619年か1620年のことだ(1620年平戸にて没。家康は1616年6月1日没)。この頃にはオランダの日本との交易は活発になっていた。日本への影響力も出始めていた。アダムスの貢献に対するオランダ人の感謝の気持ちは当然にあるべきだろうと思うのだが、多分オランダ人は何もしていないだろう。

  日本のオランダとの交易の経緯にはロマンに満ちたこうした事件があったのだ。大航海時代にあって、確かにバーチャス(1575?~1626年)の旅行記も面白いのだが、アダムスの描き残したこうした出来事にかないはしない。この時代に航海に従事した英国人は数々の未開の地の発見や、そこでの起業に多大な貢献をしてきた。商業の発展と文明の伝搬の担い手だったと言える。もし手紙が故国に間違いなく届くような環境であったなら、アダムスはもっと詳細にこの国の出来事を書き残していたはずだ。彼が手紙で伝えるこの島のことはあまり多くないのだが、ほとんどが好意的な記述となっている。

 「この国は素晴らしい国である。北は北緯48度、南は35度。北東から南西に広がる国土は二百二十リーグ(およそ1800Km)の長さをもっている。東西の広がりは経度で13度。この緯度での経度一度の差は二十リーグである。日本人は礼儀正しく好感が持てるのだが、戦になると勇敢である。仁義が重んじられ、それに違反する者は厳しく処分されている。礼節によって統治されているといってもいいくらいだ。この国よりも礼節が重視されている国は他になかろう。神を敬うことには熱心である反面、多様な考えを持つことには寛容である。イエズス会とフランシスコ会の僧侶がいて、多くの日本人の改宗に成功し、教会も各地にできている」

 ●カソリック宣教師の傲慢

  最初のオランダ商館は、アダムスが生涯を終えることになった平戸に開設されている。商館はこじんまりとしたものだったが、ポルトガル人は必死になって設置を阻もうとしたり、破壊させようと画策した。
―中途半端ですがおわりますー

参考
 本書の原題「日本:地理と歴史 この列島の帝国が西洋人に知られてから現在まで、及びアメリカが準備する遠征計画について」 著者チャールズ・マックファーレン(1799~1858年) 訳者 渡辺惣樹(1954年~)訳者書名「日本 1852」
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