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15-3.紫式部の育った環境 弟、 惟規(のぶのり) (紫式部ひとり語り)

15-3.紫式部の育った環境 弟、 惟規(のぶのり) (紫式部ひとり語り)

山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集

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弟、 惟規(のぶのり) つづき

  そう案じていた矢先。何と惟規は唐突に職を辞し、散位になってしまった。二月一日の除目では父の為時に辞令が下り、越後守と決まった。惟規はその身を案じ、彼の地に下って側についていてやりたいというのだ。確かに父は老いている。前回の地方赴任は長徳二(996)年に越前守になった時で、それから数えても十五年の歳月が流れている。

  あの時は私も父と共に下向した。だが今度は、私は中宮様のもとで仕事を持つ身、下向することはできない。しかしだからといって、ようやく叙爵(じょしゃく)したばかりの惟規が行かなくてはならないものだろうか。今こそ自らの貴族人生に本腰を入れる時、都で仕事に励むのが当然だろう。親孝行は褒めてやりたいが、度が過ぎるのではないか。

  惟規のこうしたところは、たぶん父譲りなのだろうと、私は思う。父は矜持が高い割には地位に恋々としないところがある。高位の方に擦り寄り追従することも下手だ。 
  中宮様が二人目の御子をお産みになってすぐの正月だったろうか、初音の日(その月の最初の子 (ね) の日。特に、正月の最初の子の日)に帝の御前で催される管弦の演奏に、奏者として召されたにもかかわらず、なぜかさっさと家に帰ってしまった。

  あの時には私が父の代わりに道長殿からお𠮟りを受けた。「など、御てての、御前の御遊びに召しつるに、候はでいそぎまかでにける。ひがみたり (どうしてお前のお父さんは、帝御前での演奏会に呼んでやったのに、仕事もせずさっさと帰ってしまったのだ。偏屈だぞ)(「紫式部日記」寛弘七年正月二日)」。殿は父を偏屈だとおっしゃったが、私もそのとおりだと思う。そしてそんな偏屈者の血を、まさに惟規はうけているのだと思う。

  父が越後へと出発したのは、除目の後しばらく経た頃だった。惟規はそれには同道せず、少し間をおいて父を負った。すぐに里心がついたらしく、逢坂の関から都の歌仲間によこしてきた歌が伝わっている。

    父のもとに越後にまかりけるに、逢坂のほどより源為善朝臣のもとにつかはしける

   逢坂の 関うち越ゆる ほどもなく 今朝は都の 人ぞ恋しき

   [父のもとへと越後に下向した折、逢坂の関辺りから源為義朝臣に送った歌。

   逢坂の関を越えるやいなや、もう今朝は都人が恋しく思えてならないよ。]
   (「後拾遺和歌集」別466番)

つづく
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