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A4 紫式部の遅い結婚と子供の誕生、そして結婚後早くも3年目の夫の疫病死

  紫式部は藤原氏の名門の北家に属する人であることは前に書きました。しかし権力闘争は同門でも兄弟でも厳しい競争があり、名門に属するといっても将来にわたって安定して暮らすことはできませんでした。
  紫式部も中納言になった曾祖父までは右大臣と酒を酌み交わし、歌作り会も主催して、清少納言の祖、清原深養父(ふかやぶ)や紀貫之などを自宅に呼んで歌を作らせていて、生活の援助もしていました。しかしその後は、貴族にまで出世する先祖がなく、紫式部の一家は没落してしまいました。
  紫式部は970年代中頃の生まれで、一条天皇や定子などと同世代。一家の没落のため結婚は遅れ、父親の年齢に近いまたいとこの藤原宣孝と997年秋頃に結婚。宣孝の4番目の一番若い妻であり正妻ではありませんでした。そして、1001年までの間に唯一の子供賢子を出産しました。
  しかし、結婚僅か3年後の1001年に宣孝は疫病であっけなく死んでしまいます。結婚生活は順調で充実していただけに紫式部の落胆は非常に大きなものでした。正妻ではなく、宣孝と一緒に住んでいなかったので、死に目に会うことはできませんでした。
  宣孝の死後しばらくの間、紫式部は時間の感覚を無くしていたようです。妻が夫の喪に服する期間は一年。宣孝は夏に亡くなったので、決まりにより一年間を夏の喪服のままで過ごしました。
  紫式部は今まで多くの大切な人を失ってきたことを思い起こしました。母、実の姉、そして親友だった「姉君」。でも母が死んでも姉がいたし、姉を喪った時には身代わりに「姉君」を慕いました。しかし、宣孝を喪い思い知りました。文字どおりかけがえのない人に、身代わりなどというものはあり得ません。
  でも、娘のいる紫式部は出家することもできず、生きていかねばならなかったのです。
参考 山本淳子著 紫式部ひとり語り
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