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14-後半.紫式部の育った環境 父の浮沈 (紫式部ひとり語り)

14-後半.紫式部の育った環境 父の浮沈 (紫式部ひとり語り)

山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集

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父の浮沈 つづき

  だが父は知らなかった。この宴の主催者である道兼様が、実は花山体制の転覆をはかる敵側から天皇のもとに送り込まれた密偵であったことを。尾多気からわずか一年数か月後の寛和(かんな)二(986)年六月二十三日未明、道兼様は天皇を言葉巧みに内裏の外に連れ出し、あろうことか山科の寺で出家させてしまった。

  愛妃の弘徽殿女御忯子(しし)様を身重で喪われた天皇の悲しみにつけ込んだのだ。天皇は、神道の祭りを行わなくてはならない存在だ。仏教は異教、その専門家たる僧侶であってはならない。僧になりたければ位を降りるしかない。だから、出家させたとは退位させたということなのだ。新しく立てられた天皇はたった七歳。後の世に一条天皇と呼ばれる帝である。

  つまりこれは、政変だった。仕組んだのは、一条天皇の外祖父、右大臣藤原兼家様。道兼様はその息子だ。兼家様は四代前のご先祖藤原良房様以来実に百二十年ぶりの外祖父摂政となって、すべての権力を握られた。

  旧勢力となった義懐(よしちか)様と「五位の摂政」藤原惟成(これしげ)は自ら出家。即日、蔵人以下新天皇のもとの新体制人事が行われて、父は失職した。(「日本紀略」寛和二年六月二十三日)。

  それから十年、父には職がなかった。官人としての資格のみで、所属する職場のない「散位」になったのである。兼家様の息子の三兄弟、道隆様、道兼様、そして道長殿が次々台頭するのを遠くに見ながら、鬱屈の日々が続いた。私はこうした父のもとで育ったのだ。

  我が家は輝かしい名家だ。だが父には職もない。漢学は素晴らしい学問だ。だがそれを修めた父は世に用いられぬ。私は私の血と教養に胸を張る。だが一体それが何になるのだろうか。

つづく
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