真珠

深海の真珠は輝かず。

信仰深くあること──人間は生まれながらにしてカトリック教徒である

2005年08月13日 | 芸術・文化

 

 西洋には「人は生まれながらにしてカトリック信者である」ということわざがあるらしい。ローマ法王ヨハネ・パウロ二世が死去して、新しい法王の選挙が話題になったとき、そんなことわざを思い出した。手元にあることわざ辞典には、この事項の説明がないので、その意味する正確なところはよくわからない。誰か知っておられれば教えていただきたいと思う。

ただ、このことわざからわかることは、西洋社会においては、カトリック教が浸透していて普遍的であったこと、また、カトリック教徒であることは出生によって規定されていること、そして、「人間は本質的にはカトリック教徒である」という人間観が示されているらしいことである。

もしこのことわざの解釈が大きく誤っていないとすれば、「人間は本質的にカトリック教徒である」とはどういうことなのだろうか。カトリック教会では、その教義や信仰の内容は、ローマ法王をはじめとする神父さんら聖職者によって、組織として教会の権威として確定されている。そして、原則的にカトリック教会は過つことがないと考えられているから、信者は安心し信頼して、自分自身の信仰の内容を教会に決めてもらうことができる。そうして、カトリック信徒の家庭に出生した者は、精神的に新たに生まれ直すことなく、そのままカトリック教徒として生きることになる。したがってある意味では気楽である。何が善であるか、良心に反するか反しないのかなど、あれこれくよくよ、自分で思い悩んだりすることも無い。教会が自分の信仰の世話をしてくれるし、神父さんに自分の懐疑を解いてもらえる。自分の頭で何が真理であるかを見極める苦労もない。またその能力がなくとも、教会に世話してもらって、信仰を維持してゆくことも出来る。ただ信じていれば良い。

このように、人間には他者の支配を喜んで受け、外的権威を自ら進んで肯定する傾向があるという意味で、「人間は生まれながらにしてカトリック教徒である」といえるのかもしれない。しかし、何の論証もなく、自己の良心のみを最終的な決定権者とすることもなく、外的な権威に盲目的に依存させるような信条や宗教は本質的に不自由な宗教であり信条である。

何が真理であるかを、独立した自分の良心や判断で確かめようともせず、外的な権威に依存して決定するこうした傾向が人間には本質的にある。それをこのことわざは示している。確かに信仰深くあることは、魂の救済と深い倫理性を養う上で意義があるとしても、それが感情の枠から出ようとしない限り、他者との対話や共同性から閉ざされて、狂信性を帯びる恐れはある。そして、人間のこの傾向が、教祖や教義に対する盲従と盲信に結びついたときにいっそう危険なものになる。「信仰深くあれ」という名目で疑うことが禁じられ、その教義ついて自己の良心に照らして独自に思考し、批判的に吟味する道が閉ざされている場合には、そして、その信仰が、殺人を肯定するような教義を持つ宗教によるものであれば、いっそう危険なものになる。ここでは信仰深くあることは戒められなければならないのである。

もちろん、信仰上においてだけ、単なる教義上だけで殺人や窃盗を肯定しているのであれば、犯罪は構成しない。しかし、その狂信的な教義を実際に実行すれば、当然に刑法上の犯罪を構成し、不法行為として国家の法規範に抵触し、その犯罪は国家権力によって糾されることになる。

その端的な事例となったのが、オーム真理教事件である。多くの高学歴の青年が、松本智津夫という教祖の狂信的で愚かな教義を盲信盲従して、殺人という犯罪を犯し、他人の人権を最大限に侵害するばかりでなく、自らの貴重な人生をも棒に振ってしまった。ここには「人間は生まれながらにしてカトリック教徒である」ということわざに示されるような、外的な権威に盲従盲信する人間の本質的な傾向が、現代においてもなお顕著であることが示されている。価値観や判断能力を独自に確立することの難しさという普遍的で原理的な人間の能力の問題と──これは人類の動物としての資質の到達水準を示している──、さらには、国家や社会の組織や制度の発達の程度、一国の学術文化教育の水準の問題として、日本の公教育がかかえる特殊な問題が存在している。

人類がまだサルからそれほど進化していないのだとすれば、それは、人類の現時点で到達している能力と資質の問題だからどうしようもない。しかし、国家や社会の制度、教育の問題などは、少なくとも、それらを改革することによって、人間社会の抱える問題を解決できる場合が少なくない。日本の公教育はどうかといえば、事実として、「生まれながらのカトリック教徒」を育てているのではないだろうか。あるいは、太平洋戦争前の、権威を疑うことを許さず、自主的な思考を育成してこなかった皇民教育をいまだ克服できないでいるか。

少なくとも、特定の教義や個人に盲従して、その支配に自己をゆだねる精神構造をもった、上祐史浩や村井秀夫のような市民、国民の発生を可能にしている。また、政治家も教育関係者も、そうしたオーム真理教事件の根本原因を正確に認識しておらず、この事件が何よりも日本の公教育の欠陥による失敗であるという深刻な事実認識もない。そのために、同種の事件の再発の可能性の根を摘むことができないでいる。植物の種が存在する限り、日光や土壌など条件さえそろえば、芽は必ず吹きかえすのである。

上祐や村井などが、早稲田大学や大阪大学、東京大学といった教育機関に学び、そして、その多くが理工系学部出身者であったことは看過されるべきことではない。そこに深刻な教育上の欠陥が存在していると見るほうが自然である。日本の民主主義教育の未熟と奇形を見るべきかもしれない。この事実を特に日本の教育関係者と政治家は深刻に受け取るべきである。

国民の自己教育の欠陥は、さらに、北朝鮮や中国などの全体主義的な独裁国家などとの外交問題の対処の仕方に、また、オーム真理教(「アーレフ」に改名)や共産党や創価学会などの個人崇拝の問題が発生しやすい全体主義的な組織や団体に対して、どのように対処して行くべきかという内政的な問題の処理方法にもつながってくる。民主主義的な国家の外部と内部に存在する、そうした反民主主義的な政治団体や宗教組織に対して、民主的な国家や国民はどのように適切に対処してゆくのかという根本問題が含まれている。

ヨーロッパ中世のように、いまだ権威や教祖に喜んで自己の支配をゆだねる「カトリック教徒」の多いわが国において、いったいどのような思想と価値観で国民は自己を教育し、どのような原理で国家や社会を組織し統治運営すれば、より高い自由と真理と善を実現した国家と社会を享受しうるのか、そして最大多数の国民の幸福を保証できるのか。国民一人一人の良心と判断で考えたいものである。

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花の命

2005年08月13日 | 日記

 

命のはかなさは桜の花にたとえられる。本当にそのとおりで、たった一日見なかっただけなのに、あれほど満開だった桜の花が、今朝見るとすでにほころび、その花々の間から新芽が見える。朝晩はまだしも、昼中はすっかり寒さも和らぎ、春爛漫の時期に入る。

 

桜の花のことで西行のことを思い出し、久しぶりに彼の歌集を開いた。釈迦入寂と時を同じくして如月満月のころに、かねての願いどおりに桜の花の下に逝った西行らしく、桜を愛でた歌には事欠かない。

自然が春の命に脈動する様子を歌ったのは次の歌である。花と鳥が、春の到来を受けて共に和して生命を謳歌する。ここに植物と動物がこぞって神の創造を賛美する姿を見る。


70   白川の  春のこずゑの  うぐいすは  花のことばを  聞く心地する
  

平明な歌で、何の注釈もいらない。花の名所で有名な京都白川を通り過ぎようとした時のこと、桜の梢で囀っている鶯の鳴き声を聴いたとき、あたかも桜が私に語り掛けて来るような気がしましたよ、という。単純なことばで、美の極地を現す。


今年も西行を忘れずにやって来た春を前にして、あらためて、彼の精神的な内面を知らされるのは次の歌である。俗名佐藤義清は武士の身分も妻子をも棄て、その名の通り、西方浄土を求めて旅に出た。そうして、この世の思い煩いをすっかり棄てて自由な身になったはずなのに、桜の花に対する執着だけは棄てきれないでいる。そして、あらためて、煩悩の源である自分の心の執着の深さに気づかされて歌う。

76   花に染む  心のいかで  残りけん  捨て果ててきと  思ふわが身に

花に執着する心がどうしてこんなに強く残っているのでしょう。すべてを振り捨てて出家してきたと思っていた私でしたのに。

もちろん、春を感じさせるのは、花ばかりではない。雨も、しとふる春雨もさらにしみじみと春の物思いに耽けさせる。岸辺にうな垂れ、風に乱れる新緑の柳は、自由になろうと釈迦の跡を慕って出てきたのに、かえって在家のときよりもさらに矛盾する西行の心を思い乱れさせる。


  
雨中の柳

 53   なかなかに  風のほすにぞ  乱れける  雨に濡れたる  青柳の糸

しっとり雨に濡れて岸辺に佇んでいるみずみずしい新緑の柳を、風は親切に吹いて乾かせてあげようとしてくれるのですが、そのためにいっそう柳の心は思い乱れるのです。

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中国の反日運動

2005年08月13日 | 時事評論

 

ここ二三日、中国のあちこちで、反日運動が広がっている。商店や百貨店のみならず、領事館や大使館でも、民衆の、多くは若者であるが、投石などがあった。


テレビでの報道を見る限り、中国の治安当局は、これらの暴徒を積極的に取り締まっているようには見えなかった。

最近の日本の教科書検定問題や国連の常任理事国承認をめぐる問題が、中国国民の反日感情をいっそうに刺激することになったようである。


成熟した民主主義国家では、こうした抗議行動が暴徒化することがほとんどないことを考えれば、あらためて中国の民主化の問題と、その全体主義的体制の現実とを再認識させてくれる。


いずれにせよ、中国の国家体制のあり方は、日本の政治体制にも直接間接に影響を及ぼすものである。つまり、日本が完全な独立国家になるためには、中国がその政治体制を変革することなくしてはありえないということである。


日本が完全に独立するためにも、中国は早く民主化を達成する必要がある。日本が完全な独立国家になり、その国内から植民地的な文化を払拭して行くためには、まず、日本の国内に外国軍が、現在においてはアメリカ軍であるが、駐留している限り不可能である。


実際の問題として、現在の段階では、日米安保条約を解消することは非現実的であり、実行することは出来ない。それは、隣国に中国や北朝鮮といった体制を異にする軍事的国家が存在するからである。その現実は現実として、一方で、現在の日本は真の独立国家ではないのだと言うことを常にしっかりと自覚しておく必要がある。自国の軍隊だけで自らの国家を防衛できないような国家が、真の独立国家と呼べないのは当然である。


しかし、10年後か20年後になるかそれは現実の問題としてわからないとしても、しかし、将来の課題として、在日アメリカ軍の撤退の問題を片時も忘れてはならないことは言うまでもない。この問題は、単に国防の問題にとどまらず、文化の問題、倫理の問題でもあるからである。今日の日本社会の腐敗と堕落は、自国の国防を他国に依存して、それを恥とも思わないような国民の倫理的意識に由来しているからである。だから、実際の問題として、わが国には独立国家としての文化も成立せず、植民地文化がはびこり、また自国の植民地文化の傾向に気づきもせず、まして恥とも思わない国民の腐敗と堕落の根源となっているのである。


そして、在日アメリカ軍が日本から撤退する条件は、中国の完全な民主化以外にありえない。だから、中国が現在の擬似社会主義体制から、民主的国家に転換することなくして、在日アメリカ軍の撤退は非現実的であり、不可能である。


日本が民主主義国家として真の独立を果たすためには、中国本土の民主化の達成が不可欠である。あらゆる機会を利用して、中国の民主的改革が達成されるように、働きかけなければならない。中国の反日的運動を、その真の動機において、つまり、天安門広場で挫折した民主化への欲求の、中国人自身の民主的な体制変革へと運動を転化させる必要がある。

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桜満開

2005年08月13日 | 日記

 

今年も桜の季節がやって来た。昨日の陽気で、今日は一気に開花した。桂川の土堤に植わった桜を眺めながらバイクで走る。菜の花と調和して否応でも春の到来を告げる。

近くの自衛隊桂駐屯地の桜も見事に開花していた。白い花、ピンク、濃い紅、緑の桜もある。一口に桜といっても種類はさまざまである。今が最盛期だと思う。桜でも紅葉でも、その最盛期に出会うのは難しい。ただ。神のめぐによってのみ。今年は、少し開花が遅れ、駐屯地内で開かれた桜祭りの時期には、まだほとんど蕾の状態だった。今日こそが祭りにふさわしい。

桂離宮もすぐ近くにあるのに、まだ内部に入ったことがない。有名な竹穂垣をいつも外部から眺めるだけである。

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ローマ法王ヨハネ・パウロ2世の死──カトリック教について

2005年08月13日 | 芸術・文化

 

ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が2日午後9時37分(日本時間3日午前4時37分)、バチカンの法王宮殿で死去した。享年84歳だった。パウロ2世法王の法王就任は、1978年であるから、ほぼ四半世紀にわたって法王の座にあった。


法王は私の青年時代以降の時間をほとんど同時代人として生きてきた。法王は1920年のポーランドの生まれで、したがってナチスドイツの侵攻を青年時代に体験している。反ナチス運動に参加もしていたようである。そして、ポーランドの労働組合のワレサ書記長らの精神的な支柱となって90年以降のゴルバチョフのペレストロイカに始まる共産主義崩壊の歴史的な現場に立ち会ってきた。


幸いにして、現代においてカトリック教は、わが国においても支配的な宗教ではなく、また中世のように、カトリックの教義に反するという理由で、異端審問にかけられることもない。私が勝手に聖書を研究したからといって、それによって自由な信仰を妨げられることもない。思想信条の自由、宗教の自由は、人類の歴史的な成果であり、先人が血と汗と涙を流して購いとった成果である。私たちもその恩恵によって自由を享受している。


カトリック教徒は世界に十一億人いるそうである。もちろん、そのすべてが真のキリスト者ということは、そもそもありえない。しかし、その長い伝統と、その教義のゆえに、私もまたカトリック教については相応の敬意をもっている。カトリックのキリスト教は純粋で、多くのキリスト教のなかでも、もっとも非俗的で、多くのプロテスタント教会や新興宗教のキリスト教が、その教義を変質させ、混乱し俗化してしまっている中にあって、なお、高貴な宗教であることは認めている。


中南米アメリカ諸国で影響力をもった、いわゆる「解放の神学」についても、法王がどのような見解を持っていたのかわからない。しかし、カトリック教は中南米においても抑圧的な政権の支柱になるとともに、また一方で下級神父を中心にして、抑圧された貧しい人々のために多く働いてきたことも事実である。


私はもちろんカトリック教徒ではないが、しかし、聖書を私自身の思想と哲学の源泉と認めている点で、接点もしくは共通点はあるかもしれない。特に、結婚観や避妊の問題については、カトリックと私の考えはほとんど一致している。離婚を認めないこと、妊娠中絶には反対であることなどである。


私の「教会観」については、また別に論じることはあると思う。ただ個人的には、私の立場は、単なる聖書研究者で十分である。そしてまたヘーゲル主義者として、私はヘーゲルのカトリック観を肯定し継承している。ヘーゲルのカトリック批判は、彼の「精神哲学の第二編、客観的精神・§552」以降に展開されている。すなわち、「カトリック教は精神的に不自由な原理の上に成立している宗教」であるということである。ヘーゲルはまた言っている。「もし、宗教において非自由の原理が放棄されていないとすれば、たとい、法律や国家の秩序が理性的な法律の組織に改造されたとしても、そのときには何の役にもたたないだろう」と。


まあ、「何の役にも立たない」とまでいうのは言いすぎであるとしても、フランス革命が宗教改革を経ない国家の改造であったように、現代の日本社会が、太平洋戦争後に制定された日本国憲法によって、より理性的な法組織に改変されたとしても、それが、「宗教改革なき革命」である点では同じである。それは言わば「現代の愚事」のひとつであって、その悲喜劇が現代の日本を覆っている。


しかし、いずれにせよ、カトリックが二十一世紀以降の人類の国家の精神的支柱になることはありえない。私たちが、万葉集の純朴な天真爛漫や、古代ギリシャの人間的な優美さを思い出すように、カトリックの清貧と従順を懐かしく思い出すとしても、それはすでに失われた過去の歴史の思い出としてであって、現代の精神的な原理としてではない。

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団塊の世代の反米主義

2005年08月13日 | 時事評論

 

団塊の世代には、反米的傾向が色濃い。この反米主義は、六十年安保世代や七〇年安保世代の両方にも共通している。また単に左翼のみならず、右翼にもその傾向がある。六十年安保世代で左翼から右翼に転向した西部邁氏は学生時代には、全学連の闘志だったし、その安保闘争を通じて、青年時代に反米主義を体験している。また「保守」と目されている小林よしのり氏は団塊の世代よりも少し遅れてきた世代であるが、団塊の世代の反米主義の影響を受けているようである。

この団塊の世代の一般的な反米の傾向は、この世代が七〇年安保の時期に青春時代を過ごしたということと大きく関係しているように思われる。若者は、いずれも正義は自分にあると信じて、一方的な主観のみで世界を断罪するものである。若者固有の正義感が世界の進歩と発展の原動力になることも事実だが、しかし、その経験の浅さ、視野の狭さから一面的で公平な評価を期待できない。当時のベトナム反戦運動、世界的な規模で広がった大学紛争を通じて、若者たちが、アメリカの政策に反対することは当時の趨勢でもあった。


それが潜在意識化しているのかどうか、団塊の世代がやがて定年を迎え、社会の第一線から退こうという壮年、熟年の時期にあっても、この傾向は現れるようである。アメリカの新しい国務長官ライス女史の目つきの印象についての滴水亭の亭主の記事を氏のサイトで読んだときも、改めてこの世代の一般的な反米的傾向を実感させられた。


ただ団塊の世代でなくとも、一般的に日本人のアメリカについての感情については、複雑で屈折したものにならざるをえない。それは、ペリー提督が黒船を引き連れて日本を訪れて以来の、太平洋をはさんで対峙する日本とアメリカとの歴史的な因縁からもそうならざるを得ない。

私たちのアメリカ観を歴史的にも哲学的にもきっちりと確立しておくことは大切であるが、ここでは特に、アメリカの本質とその世界史的な使命を考察するとともに、団塊の世代の反米的傾向についても、その意義と限界を明らかにしておきたい。


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ホリエモンとユダヤ人(2)

2005年08月13日 | 時事評論

 

もちろん、グローバリズムの否定的な側面のみを強調するのは、公平な見方ではない。物事は弁証法的に見なければならない。すなわち、物事には肯定面もあれば否定面もある。逆に伝統的なもの民族的なものがすべて無批判に肯定すべきもの優れたもの、すべて保守すべきものという見方も一面的に過ぎる。


むしろ、多くの場合、社会や人類は過去や伝統を否定しつつ発展してゆくものである。特に、日本の伝統や過去の文化、習俗に不合理なもの不効率なもの、不平等なものなども少なくない。たとえば、太平洋戦争前に存在した小作人制度や貧困からくる人身売買にも等しい公娼制度、これは江戸時代から続く日本の悪しき伝統以外の何ものでもない。もちろん、封建社会には、現代のような衆愚政治はなかったかも知れないが、その権威主義、事大主義、身分制の不自由は今では想像もできないものだろう。福沢諭吉の自叙伝などを読めばその消息もよくわかる。


ホリエモン氏のグローバリズム、その変革の意思にも肯定的な側面をみなければならない。彼は現代日本の抱えている多くの不合理、不効率を必ずしも明確に理論的に、あるいは思想的にきちんと定式化して、改革しようとしているのではないかも知れないが、彼がいわば本能的に直感的に示している改革の意思は、肯定的に評価できるものも少なくない。それは、日本の政治や行政の現実が多くの点で、国際的な標準にも達しておらず、それが国民や消費者の一般的な利益に反しており、一部の利益団体や既成団体の既得権益を守るだけのものになっている場合も少なくないからである。

日本がアメリカの国務省の人身売買監視室から、強制労働や性的搾取に関する行政の取り組みが不十分であるとして、監視リストの対象になっているように、グローバル化することによって、日本国民が国際的な福祉水準に達するという側面も少なくないということである。むしろ、グローバル化が日本国民にとって一般的な利益になる場合が多い。


IT技術や国際電話、また、今回ホリエモン氏が参画を狙っている、マスコミや放送は、まだまだ規制の多い分野であり、もっと自由に開放することが、国民の利益になる場合が少なくない。テレビ、ラジオ、新聞その他のマスコミ関係にも、ホリエモン氏のような成金趣味の人間であっても、自由に参入し、その競争の中で、国民が取捨選択する選択肢が増えたほうが、業界、国民の双方にメリットとなる。ホリエモン氏がフジテレビの筆頭株主になって、その「支配権」を牛耳るかどうかは別にしても、多くの新しい挑戦者が、テレビ、新聞、ラジオなどの沈滞化し停滞した業界に新風を吹き込むのは、むしろ歓迎すべきであるのかも知れない。

また、ホリエモン氏が乗り込むことによって、崩れるような企業の文化、伝統といったようなものなら、所詮その程度のものとして崩壊したほうがましだともいえる。


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ホリエモンとユダヤ人

2005年08月13日 | 時事評論

 

ライブドアの社長、堀江貴文氏すなわちホリエモン氏には何かユダヤ人と共通する点があると思う。これは一見奇妙な連想に思われるかも知れない。ユダヤ人はその宗教的な理由から彼らの言う異邦人の社会になじめず、既存の体制、社会から絶えず抑圧され迫害を受けてきた。そして、ホリエモン氏がテレビや新聞などのマスコミに登場し、そこで発言するのを聞くにつれ、総体的に浮かび上がってくるのは、いわゆる既成秩序というか既成体制に対するホリエモン氏の反感のようなものである。ホリエモン氏はネクタイを決して締めない。それは氏に似合わないということもあるかも知れないが、同時に彼にとってネクタイは搾取の象徴のように受け取られているらしいことである。horie

ホリエモンとユダヤ人も何らかの理由で、共同体から疎外されてきたこと、その結果として、共同体に対してかなり屈折した感情を持っているらしいと感じる。ホリエンモン氏の生育環境について詳しいわけではない。氏はかって、「この世で金で買えないものはない」と発言したそうである。そして、家賃二百万円とかの豪壮なアパートに住んでいる。もちろんそんなことは、成金趣味の下品な行為にしか見えず、インドネシアのスカルノ元大統領の愛妾だったデビ婦人の成金特有の悪趣味と同じように不愉快にしか思わない。


堀江氏は大きな富を所有している。しかし、彼にとって彼の富は、ちょうど貧者のあるいは疎外者の裏返しの富であって、多くの場合、貧困に悩み、そのゆえに社会から疎外されてきたことに対する一種の見返しの手段としての富のように思われることである。彼は、その富によって、かって彼を疎外し仲間はずれにしてきた(時にはいじめにも遭ったのかもしれない)社会、あるいは学校に意趣返しをしたいのかも知れないと思った。ユダヤ人に金持ちが多いのも論理的には同じ理由によると考えられる。これは私の直感的な印象であって、明確な証拠があるわけではない。


ただ、はっきりしていることはホリエモン氏には国家や民族や地域社会といった共同体に対する親愛感というものがあまり感じられないことである。これは韓国のマスコミに、日本企業の買収を勧めたことにも現れている。ここには、かって教育大付属池田小で多数の児童を殺傷して死刑になった宅間守や神戸児童殺傷事件を引き起こしたサカキバラ少年に共通する土壌があるのではないだろうか。社会や国家に対する敵意や憎悪が犯罪という行為にまでいたらなくとも、既存の体制を自分の信じる金の力で変えたい、それによって、かって自分を見下した社会に意趣返しをしたい。そういう潜在意識がホリエモン氏にあるのではないだろうか。


これも現代資本主義に特異な社会現象のひとつだと思う。しかし、一方で資本の論理によって社会のグローバル化がいっそう進展してゆくことが予想される中で、こうした事件は、ホリエモン氏のように取り立ててニュースに取り上げられることもないくらいに、いずれ日常化してゆくことが予想される。あるいはすでに日常化しているともいえる。今回は、買収の対象がフジテレビであったこと、堀江氏がたまたまマスコミの「寵児」だったことによる。事実、この事件を契機に、ホリエモン氏の兄貴分である、ソフトバンクインベストメントの北尾氏の存在が明らかになった。


グローバリズムは国家や民族の垣根を取り払う。そこには多くの場合、剥き出しの資本の論理が現れる。二十一世紀の国家と民族が直面せざるを得ないひとつの問題であるといえる。

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幸せな国

2005年08月13日 | 時事評論

 

幸せな国とはどんな国だろうか。今の日本は本当に幸せな国と言えるだろうか。先に行われた調査でも、中国、アメリカ、日本の三国中で、未来に希望が持てない若者が一番多かったのが、日本だという。そうだろうなとも思う。(日本青少年研究所・読売新聞全国青少年意識調査)fuji05_05_24


どうしてこんな国になってしまったのだろうか。これは単に統計の問題としてのみならず、この調査結果は、私の生活体験からくる実感とも一致する。

私は団塊の世代に属するのだが、確かに今の青少年は一般的に言っても私達の世代よりも、正義感や他者への思いやりやモラル意識は弱いようにに思う。


私自身はいわゆる団塊の世代を低く評価するものであるが、それでも、まだこの世代には社会をよくしようとか、秩序を守ろうといった意識は今の青少年よりももう少し強かったように思う。今の青少年は団塊の世代の子供たちである。その資質において幾何級数的に悪化しているような気がする。現在の日本は過去の遺産によって世界に冠たる面も少なくないが、やがて世界からも軽蔑される国民になるのではないかと危惧している。これが杞憂であればよいのだが。


以前森嶋通夫という文化勲章を受章したロンドン在住の経済学者が、『なぜ日本は没落するか』という著書を出した。今日の教育と青少年の現実から、彼等が社会の中枢を担う50年後を経済の論理から予測したものである。以前にこの本を読んだとき、この悲観的な事実認識に対する筆者の処方箋や問題改善のための提案が少ないので、無責任な学者だなという印象をもった記憶がある。きちんとした書評を残していないので、手元に同書がない今、正確な論評はできない。またその必要はないと思う。皮肉なことに、この学者には『なぜ日本は「成功」したか』という著書もあった。

それはとにかく、私がここで言いたいのは、一国の隆盛とか活力というものは、その国民の持つモラルと深く関係しているという事実である。このことは昔から多くの識者によって主張もされてきたことである。


多くの若者が、新興宗教に走り、集まって練炭自殺を図り、年間三万人にも及ぶ自殺者が出ているというのに、国民の間から、それらを問題視する声がいまだに大きな声となって沸き起こらない国。金利を30パーセントもとる消費者金融会社のコマーシャルがテレビを占領している国。またその御曹司が税金逃れのために香港に住民票を移すような国民を抱えている国。ここには、国家や同胞の幸福について思いやる意識の、そのかけらさえなく、自分だけが儲かればよいよいという動物以下の人間の姿がある。そして、今日の日本には明らかにこうした人種が増えている。これは、私のこれまでの短い人生からも実感するところである。(誰か知っていれば教えてほしいのだが、欧米にはいわゆる日本の消費者金融会社に相当するものがあるのだろうか。あるとすれば、金利はどれ位なのだろうか。)


そして、多くの国民には人間的な娯楽も少なく、パチンコなどのみすぼらしい娯楽で貴重な人生の時間を浪費している(まー、これは趣味の問題なので、このことで深く論議するつもりもないが)。街角や湖畔でゆっくりと半日を友人や家族と談笑して時間をすごすという文化もない。たとい愛知万博でロボットがラッパを吹こうが、リニアモーターカーが時速500キロで走ろうが──誤解を避けるために言うが、それらの科学技術の業績を否定しようというのではない、──それらは人間の幸福とは、あまり関係がないのではないかということを言いたいのである。そこにあるのは、何が幸福であるのかという根本問題についての確信が、あるいは思考が、個人にそして国民に欠けているという事実ではないだろうか。知識は多いが、確信ある価値判断はもてないでいる。もちろん、その方が企業にとっては都合がいいには違いない。そして今日の多くの経営者は、国民の幸福よりも、企業の利益を優先する価値観の持ち主で占められている。


田中角栄が『列島改造論』を引っさげて、日本列島を不動産屋の投機の対象とし、その結果として、いわゆるバブル経済が発生し、それが崩壊して今日にいたるまで、日本の政治を担ってきたのは旧田中派、竹下経世会である。この間に明らかに国家と国民の品性が下落して来たという印象が、私の生活の実感としてある。それはテレビドラマ、音楽、演劇、いわゆる芸能人など、文化、芸術、生活様式一般の質の低下にも及んでいる。


お互いがお互いを思いやることのできない国民は、決して幸福になることはない。そして強い主体性を持たない国民は、アメリカ人のような、金とセックスと暴力への剥き出しの欲望の文化に対しても、抵抗力を持たない。少なくともアメリカ人にはそうした表面的な欲望肯定の裏には、中絶堕胎に反対し、富豪は莫大な寄付行為をするという伝統もある。アメリカ北部のエスタブリッシュメントの宗教や南部の保守主義者たちの偏狭すぎるほどのモラリストがいる。その背後には宗教の浸透と隆盛がある。


靖国神社の道徳がいったいどれほどの防波堤になることができるというのか。それは真実の宗教の概念に当てはまるのかどうかすら疑問ではないか。そして、自分の宗教を相対化してみることもできない。


聖書では3000年前にすでに同胞から利息を取って貸し付けることを禁じ(レビ記25:36)、売春と姦淫を禁じ(出エジプト記20:14)、自分と同じように隣人を愛することを命じ(レビ記19:18)ている。日本が縄文弥生以前の眠りにふけっていた2000年前に、すでに離婚を禁じ(マルコ10:9)、憐れみ深い人、平和を実現する人は幸せである(マタイ5章)と言っている。


こうした教えを信奉する人の充満する国が幸福な国といえるのではないか。一億円もの大金を賄賂として受け取りながら、検察からもお目こぼしをもらえるような国がその国民が幸福であるはずはない。だからこそ聖書は、「いかに幸いなことか、主を神とする国、神ご自身に選ばれた国民は」(詩篇33:12)と言うのである。


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タイトルについて

2005年08月13日 | Weblog

 

このウェブログの副題にしている「薔薇と十字架」は、ヘーゲルの法哲学序文から引用したものである。十字架とは、もちろんそれはイエスの十字架上での犠牲のシンボルであるが、また、ここでは、理性的なものを認識する際の労苦を意味している。それに対し、薔薇は喜びの象徴である。ルター主義者でもあったヘーゲルが、ルターの家紋である白い薔薇に囲まれた黒い十字架と、そこに記された「キリスト者の心は十字架の真中にある薔薇の花に向かう」という銘文との連想において記述したものである。rosecross

十字架と薔薇は、ルターにおいてキリスト教信仰の純粋な象徴であったが、ヘーゲルにおいては、それは理性に対する信仰になった。理性に対する信仰とはなにか。現実の中の対立と分裂の中に和解させる力としての理性に対する信頼である。ヘーゲルにおいては「分裂の只中にあって統一を回復するところに精神の真の生命がある」(金子武蔵)。ヘーゲルは言う。


「しかしながら、精神の生というものは、死を避け荒廃からおのれを清く保つ生のことではなくして、死に耐え死のただなかにおのれを保つ生のことである。精神がその真実態をうるのは、ただ絶対の四分五裂のただなかにありながら、そのうちに己れ自身を見出すことにのみよっている。」(現象学序文金子訳)


この世界は対立と矛盾に満ち、人類はそれに苦悩している。冷戦後の今日もまだ、それらから解放されない。しかし、救いと喜びと精神の生は、この矛盾対立の中に調和と統一の可能性を見出すところにある。

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国家の身勝手

2005年08月13日 | 時事評論

 

@nifty:NEWS@nifty:マーティン首相、米国にカナダ産牛「輸入再開」を要求(読売新聞)


国家というのがどれほど身勝手なものか、またその「倫理的性格」という点ではどれほど低いかという事例が、この記事である。アメリカはあれほど強く日本にアメリカ産の牛肉の輸入を迫っておきながら、お隣のカナダ産の牛肉の輸入には見向きもしなかったのである。

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失われた大和撫子

2005年08月13日 | 芸術・文化

 

撫子は私の好きな花の一つである。一番好きな花かと問われると、必ずしもそうも断言できない。桜の花も好きだし、菊も、ダリアも、リンドウも、キキョウも、蘭も皆それぞれの趣があって好きである。しかし、撫子は、大和撫子を連想させることもあって、取り分けて好きな花の一つである。初夏の堤や海辺で、草むらの影にひっそりと咲いている撫子に出会うと、その清楚な美しさについ足を止め、見つめてしまう。


 
 

放つ矢のゆくへたずぬる草むらに見いでて折れるなでしこの花

 
             (草径集 大隈言道 なでしこ)


それにしても、なぜ大和撫子と言うのだろうか。どうして、日本の女性が撫子に結び付けられたのか、いつ、誰の発想に拠るのか調べようがなく私には分からない。しかし、撫子と日本の女性が結び付けられた大和撫子という可憐な言葉は本当に美しく、また、日本の女性にとっても名誉な言葉だと思う。


それにしても、最近残念に思うことは、この大和秋津島から、本当に大和撫子がすっかりいなくなってしまったように思われることだ。本当に美しいと思う大和撫子に、すっかり出会わなくなったと思う。現代の女性には失礼かも知れないが。寂しいし、残念なことである。どうしていなくなったのだろう。本当の大和撫子はどこに行ってしまったのだろう。西洋タンポポに土着のタンポポが追い払われたように、戦後の圧倒的なアメリカ文化の、洋風文化の流入によるものだろうか。


大和撫子の伝統はそんなに浅く、弱いものだったのか。もちろん、こんなことを言っても、現代の日本女性には一笑に付されるのが落ちだということも良く分かっている。しかし、私はこの事実を哲学の問題として考えて見たいのである。


まず、私が何に美を見出しているのか。また、美とはなにか。それを哲学的に理論的に考察することはここではできない。ただ、この国から内面的な精神的な深さを感じさせる女性がすっかりいなくなってしまった。それは、真の宗教がこの国から蒸発してしまったことに起因していると思う。真の宗教こそが、女性を内面から本当の美人に作るのである。その宗教が亡くなってしまったからなのだ。心に赤いバラ黒いバラを咲かせている女性がどこにもいなくなってしまったのである。


しかし、私はまた楽観している。キリスト教の真理が不滅であるように、この国においても、やがて可憐な大和撫子が復活すると信じている。ただ、儒教や神道の仏教の土壌の中から芽を出すのではないと思う。そうではなく、古臭い伝統主義者から蛇蝎のように嫌われたキリスト教の、そのキリスト教婦人の中に、大和撫子の再生を見ることを。


まもなく春が来て、きれいな桜が咲く。そして、また日本の初夏がやってくる。そのとき、どこかの浜辺で、岸辺で、ひっそりと咲いている大和撫子に会えるかも知れない。

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恥を知れ、東京四区選挙民

2005年08月13日 | 政治・経済

 


衆議院東京四区から選出された中西一善議員が、強制わいせつ罪で現行犯逮捕された。酒に酔った挙句の乱行である。ワイン一本、焼酎ボトル半分、ビールも2、3本を飲んでいたと言う。本人は被害者や国民に謝罪し、議員も辞職して事件の責任をとったが、それにしても、これほどの飲酒家を、なぜ東京四区の選挙民は国会議員に選んだのか。


衆議院議員を選ぶということは、国政に選良を送るということである。国家の指導者としてふさわしい人物を、地域の選挙民は責任を持って送り出す必要がある。単に地元の利益に貢献するかどうかという理由だけで選出すべきでないのはいうまでもない。国家全体にとって本当に有為な人材は誰かという基準で、市民は政治家を選ぶ必要がある。これほどの酒飲みが、本当に国家のために尽くすことができるだろうか。東京四区にはもっとふさわしい候補者はいなかったのか。


国民は自分たちが選出する代議士の品性、能力をつねに見極めなければならない。国会議員は地元を犠牲にしてでも、むしろ、その選出された地盤よりも日本国全体の国政に責任をになうに足る人材でなければならない。政治家と国民の一人一人がそうした気概を持つのでなければ、いつまでたっても日本の政治は高潔なものにならず、したがって、国民自身も幸福にならない。


国会議員は、したがって、知性、能力、品性,も最高の人材でなければならない。また最高のモラリストでなければならない。そうした、最高の人物のみを国政に参画させるようにする必要がある。日本の政治にいつまでも品格に欠けるのは、国政にふさわしい人物を国会議員に選出するという厳しい選択が国民の間になく、またそうした政治家を育てるという自覚もないからである。


現在の衆議院議員の定数は、四八〇人である。それにしても、国家に真に有為な優秀な人材が事実として四八〇人もいるだろうか。それほど日本は人材に豊富な国か。その中には、中西一善氏のような、凡庸な人物も少なくないはずである。議員定数の四八〇人は多すぎる。真のエリートが集まれば定数は半数の二四〇人で十分である。そうしてこそ、日本の政治は高貴なものになり、政治に国民の尊敬も集められるようになる。自分たちの選出した政治家と政治を軽蔑しかできないよう国民は、自業自得である。中西一善議員のような人物が国会に居座っている限り、いつまでたっても低劣な政治から救われない。信頼にたる政治が行われるようにはならない。


西洋に、「国民は自分にふさわしい政治しかもてない」ということわざがある。国民は、自分たちが選んだ人物が本当に国政にふさわしい人物であるか、よくよく胸に手を当ててて考えてみる必要があると思う。


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民主主義と孤独

2005年08月13日 | 政治・経済

 

久しぶりに、ヘーゲル辞典に「大人」と「青年(若者)」の項を追加した。

「伝道の書」の第一章の注釈は、とうの昔に書き上げたのに、電子テキストの空しさ、一瞬の内に消えてしまった。「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」(伝道の書第1章)という言葉を実感させられることになった。苦笑。その後、改めて書き直す意欲をまったく失ってしまう。宮崎駿男さんのアニメ「風の谷のナウシカ」の主題歌を聴きながら書く。安田成美さんの素人っぽい歌い振りが一番良いと思う。


ドラマや映画、演劇、小説、音楽などで本当に良い仕事をする才能が少なくなった今の日本で、宮崎駿男さんは貴重な存在だと思う。大学と大学院を真の意味での学問の府にすることができるか否かに、日本の命運がかかっている。大学での、芸術論や美学の教育の貧弱なことが、ろくなドラマしか作り出すことのできいない原因になっている。大学教育の貧弱なことは、なにも芸術、美学だけではない。学問全体にいえることである。そして多くの有為な若者の進路を正しく指導する能力を失っている。マスコミ関係者も国民に必要な情報や分析を的確に提供し得ているようにも思えない。高額の受信料を徴収していながら、NHKは、自前で優れた脚本家を育てることもできず、国民を満足させることのできるドラマを作ることもできず、韓国ドラマを嬉しげに放送して、恥も外聞もない。それにしても優れた芸術は、神の仕事に等しい。


個人が完全に自立するということには、すなわち自由であることの半面には、孤独を覚悟せざるを得ないのだろう。
特にプロテスタントでは、その精神的な営みのもっとも奥深いところに、ただ、神と自分だけが対面する場があり、そこで人間は絶対的な孤独を意識せざるを得ない。そしてキリスト教の神は精神的な神であり、聖書の神を自己の神とする限り、私の倫理的な性格が、自分の責任において問われざるを得ない。このことは、異教徒の与り知らぬ世界である。これは、ある意味ではキリスト者の特権であると共に、またそれが彼の運命である。善悪を知る果実を味わったキリスト者は、異教徒の持つ天真爛漫さを失ってしまったともいえる。しかし、異教徒の天真爛漫さは、完成されたキリスト者の真の天真爛漫さには、もちろん及ばない。キリスト者の不安は、罪の意識から来るが、しかし、それはもちろんキリスト者の真の姿ではない。キリスト教の目的は、罪からの解放であり、真の自由であるから。


それにしても、わが国の民主主義はキリスト教抜きの民主主義であり、したがって、それは、政治における自己の判断の倫理的な、宗教的な責任を自覚させることがない。民主主義はプロテスタンティズムの論理的な帰結として存在するのに、国家の統治原理として民主主義を導入し採用しておきながら、一方でキリスト教を受け入れないことが、どれほどの茶番になるかということに国民は気づきもしない。GHQの押し付けではなく、国民の主体的な選択になるまでは。


キリスト教抜きのわが国の民主主義が、倫理的な緊張感のない、義理と人情と飲み食いがらみの情実民主主義になるのは仕方がない。靖国神社への公式参拝を標榜する小泉首相を始めとして、現在の自民党員のなかに、いったい、どれだけの自民党員が自由と民主主義を、その真の概念において理解しているのだろうか。自民党の自由と民主主義を、その実態に合わせるのなら、党名を情実的自由民主党とでも改名すべきだろう。この自民党の体質が改革されない限り、日本の政治に乾いた風が吹くことがなく、水臭い孤独な民主主義に耐えるとができない。。


また東京大学という国立大学の中枢で、公務員として樋口陽一氏のように、キリスト教を抜きにした民主主義や人権の理論を展開することが、その真実の概念の理解から遠ざけ、今日の日本の現状に見るように、「欲望民主主義」や「戦後民主主義」、フェミニズム、左翼無国籍者として帰結することになっていることに、いったいどれだけ気づいているか。また、それが一方で、佐伯啓思氏や西尾幹二氏ような保守派から批判を招くことになっているか。とはいえ、彼らもまた、キリスト教を拒否する限り、必然的に、倫理的な根拠を天皇制や教育勅語に求めざるを得ない。しかし、天皇制や教育勅語が、真実の倫理的な基礎と成り得ないのは歴史と論理が証明しているではないか。あるいは、ニーチェのように、自己を神とする絶対的な傲慢に陥るかである。しかし、真理は自己を貫徹する。ただ、客観的な条件によって、それに要する時間がそれぞれ異なるだけだ。


明治期にも国家と社会の腐敗を、東京帝国大学の井上哲次郎教授らは、儒教や神道を背景とする教育勅語の創案によって防ごうとしたが、日本の敗戦と共に、その偽善によってすっかり信用を失墜させてしまった。そして、戦後60年、戦争によって国家に対する信用を失った国民は、その一方でキリスト教を拒否してきた日本は、さまざまな側面で、その倫理的な崩壊に直面することになった。今日の青少年の現実や学校の深刻な危機を、キリスト教と真実の民主主義なくしてどのように解決できるのか、私には分からない。またキリスト教の理解を欠いた、倫理的な宗教的な基礎を欠いた日本の民主主義が、どれだけ浅薄で歪んだものになっているか。


日本の民主主義のほかに、神のいない民主主義の一つの姿が、中国や北朝鮮の「人民民主主義」である。中国や北朝鮮の腐敗と堕落は、やがて、国家の骨組みすら腐らせてしまうだろう。この「人民民主主義」の大多数は、すでに、多くの国で歴史から姿を消したが、北朝鮮、中国、キューバなど、まだ幾つかの国で生きている。

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食卓の音楽

2005年08月13日 | 日記

 

月日の経つのは早いものです。もう今年も三月になりました。今日は久しぶりにゲオルグ・フィリップ・テレマンの音楽を聴きました。勘違いしていて、この作曲家はバッハの後の作曲家とばかり思っていたのですが、そうではありませんでした。テレマンがライプチッヒのトーマス教会の合唱指揮者の職を断ったために、その後任としてバッハがオルガン奏者として穴埋めにその地位に就いたのだそうです。ですから、テレマンはバッハとは同時代人か、多少先輩にあたると言うことになります。


今日は、彼の「ターフェルムジーク(食卓の音楽)」を聴いたのですが、とても自然で、技巧を感じさせず、モーツァルトの音楽を聴いたときと同じような快い感覚をもたらす音楽です。「食卓の音楽」とありますが、当時の人は、このような音楽を聴きながら食事をしたのでしょうか。難しいことを考えずに、純粋に音の世界を楽しむ、しかも、おいしい料理といっしょに味わうことは、きっとこの世にありながら、生きながらにして至福のひととき経験することになるのかも知れません。


今日は机の上でワープロを打ちながら聴いたのですが、次回は、この音楽の題名の「食卓の音楽」にふさわしく、食事をとりながら聴いてみようかなと思っています。所々、バッハの音楽を思わせるような個所もあります。やはり同時代人なのでしょう。クラシック音楽を聴いたのは久しぶりです。最近は、ポップスが中心でした。私の好きな歌手は、ダイアナ・ロス、クリス・レアなど。宮崎アニメソングも聴いていて楽しいです。最近では「冬のソナタ」のテーマソングなども聴いています。とても美しいと思います。残念なのは、最近の日本には本当に良い曲だなと感じる作品が少なくなったと思うことです。それとも、私の耳が時代遅れになっただけでしょうか。最近聴いていないビバルディやモーツァルト、やはり繰り返し聴く音楽は限られるようです。


昔書いた書評を少しずつ、ワープロに打って、ホームページに載せて行こうかなと思っています。今日は、栄光学園の校長先生だったグスタフ・フォス神父の『日本の父へ』という本の書評をワープロで打ち、ネットに載せました。1988年5月9日に書いたことになっていますから、17年前に書いたことになります。こうした本やテーマを取り上げたところに昔の私の興味や関心、問題意識がどんなところにあったかが分かります。今そうした書評を読み直しても、きわめてお粗末な書評だと思います。物足りないところがありますが、当時の文章をそのまま載せるようにつとめました。また折りがあれば、書きなおすか、追加したいと考えています。


幸いにしてと言うべきか、私はこうして地震にも津波にも襲われずに、命長らえて生きています。しかし、一歩一歩死に向かって行進している事実には変わりありません。昨年末のインド洋大津波で亡くなった10万人以上の人々との違いはただ時間の問題だけだと思います。死なない人間はいないのですから。


それにしても、亡くなった方々にも、きっと遣り残したことが多くあって、とても心残りだっただろうと思います。生き残っている私も限られた貴重な時間を本当に有意義なことだけに使いたいと思っているのに、なかなか、そうは行かないのは、私の愚かさ弱さゆえです。心は熱していても、肉体は弱いのです(マタイ書26:41)。どうか肉の弱さに打ち勝つことができますように。

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