真珠

深海の真珠は輝かず。

幸せな国

2005年08月13日 | 時事評論

 

幸せな国とはどんな国だろうか。今の日本は本当に幸せな国と言えるだろうか。先に行われた調査でも、中国、アメリカ、日本の三国中で、未来に希望が持てない若者が一番多かったのが、日本だという。そうだろうなとも思う。(日本青少年研究所・読売新聞全国青少年意識調査)fuji05_05_24


どうしてこんな国になってしまったのだろうか。これは単に統計の問題としてのみならず、この調査結果は、私の生活体験からくる実感とも一致する。

私は団塊の世代に属するのだが、確かに今の青少年は一般的に言っても私達の世代よりも、正義感や他者への思いやりやモラル意識は弱いようにに思う。


私自身はいわゆる団塊の世代を低く評価するものであるが、それでも、まだこの世代には社会をよくしようとか、秩序を守ろうといった意識は今の青少年よりももう少し強かったように思う。今の青少年は団塊の世代の子供たちである。その資質において幾何級数的に悪化しているような気がする。現在の日本は過去の遺産によって世界に冠たる面も少なくないが、やがて世界からも軽蔑される国民になるのではないかと危惧している。これが杞憂であればよいのだが。


以前森嶋通夫という文化勲章を受章したロンドン在住の経済学者が、『なぜ日本は没落するか』という著書を出した。今日の教育と青少年の現実から、彼等が社会の中枢を担う50年後を経済の論理から予測したものである。以前にこの本を読んだとき、この悲観的な事実認識に対する筆者の処方箋や問題改善のための提案が少ないので、無責任な学者だなという印象をもった記憶がある。きちんとした書評を残していないので、手元に同書がない今、正確な論評はできない。またその必要はないと思う。皮肉なことに、この学者には『なぜ日本は「成功」したか』という著書もあった。

それはとにかく、私がここで言いたいのは、一国の隆盛とか活力というものは、その国民の持つモラルと深く関係しているという事実である。このことは昔から多くの識者によって主張もされてきたことである。


多くの若者が、新興宗教に走り、集まって練炭自殺を図り、年間三万人にも及ぶ自殺者が出ているというのに、国民の間から、それらを問題視する声がいまだに大きな声となって沸き起こらない国。金利を30パーセントもとる消費者金融会社のコマーシャルがテレビを占領している国。またその御曹司が税金逃れのために香港に住民票を移すような国民を抱えている国。ここには、国家や同胞の幸福について思いやる意識の、そのかけらさえなく、自分だけが儲かればよいよいという動物以下の人間の姿がある。そして、今日の日本には明らかにこうした人種が増えている。これは、私のこれまでの短い人生からも実感するところである。(誰か知っていれば教えてほしいのだが、欧米にはいわゆる日本の消費者金融会社に相当するものがあるのだろうか。あるとすれば、金利はどれ位なのだろうか。)


そして、多くの国民には人間的な娯楽も少なく、パチンコなどのみすぼらしい娯楽で貴重な人生の時間を浪費している(まー、これは趣味の問題なので、このことで深く論議するつもりもないが)。街角や湖畔でゆっくりと半日を友人や家族と談笑して時間をすごすという文化もない。たとい愛知万博でロボットがラッパを吹こうが、リニアモーターカーが時速500キロで走ろうが──誤解を避けるために言うが、それらの科学技術の業績を否定しようというのではない、──それらは人間の幸福とは、あまり関係がないのではないかということを言いたいのである。そこにあるのは、何が幸福であるのかという根本問題についての確信が、あるいは思考が、個人にそして国民に欠けているという事実ではないだろうか。知識は多いが、確信ある価値判断はもてないでいる。もちろん、その方が企業にとっては都合がいいには違いない。そして今日の多くの経営者は、国民の幸福よりも、企業の利益を優先する価値観の持ち主で占められている。


田中角栄が『列島改造論』を引っさげて、日本列島を不動産屋の投機の対象とし、その結果として、いわゆるバブル経済が発生し、それが崩壊して今日にいたるまで、日本の政治を担ってきたのは旧田中派、竹下経世会である。この間に明らかに国家と国民の品性が下落して来たという印象が、私の生活の実感としてある。それはテレビドラマ、音楽、演劇、いわゆる芸能人など、文化、芸術、生活様式一般の質の低下にも及んでいる。


お互いがお互いを思いやることのできない国民は、決して幸福になることはない。そして強い主体性を持たない国民は、アメリカ人のような、金とセックスと暴力への剥き出しの欲望の文化に対しても、抵抗力を持たない。少なくともアメリカ人にはそうした表面的な欲望肯定の裏には、中絶堕胎に反対し、富豪は莫大な寄付行為をするという伝統もある。アメリカ北部のエスタブリッシュメントの宗教や南部の保守主義者たちの偏狭すぎるほどのモラリストがいる。その背後には宗教の浸透と隆盛がある。


靖国神社の道徳がいったいどれほどの防波堤になることができるというのか。それは真実の宗教の概念に当てはまるのかどうかすら疑問ではないか。そして、自分の宗教を相対化してみることもできない。


聖書では3000年前にすでに同胞から利息を取って貸し付けることを禁じ(レビ記25:36)、売春と姦淫を禁じ(出エジプト記20:14)、自分と同じように隣人を愛することを命じ(レビ記19:18)ている。日本が縄文弥生以前の眠りにふけっていた2000年前に、すでに離婚を禁じ(マルコ10:9)、憐れみ深い人、平和を実現する人は幸せである(マタイ5章)と言っている。


こうした教えを信奉する人の充満する国が幸福な国といえるのではないか。一億円もの大金を賄賂として受け取りながら、検察からもお目こぼしをもらえるような国がその国民が幸福であるはずはない。だからこそ聖書は、「いかに幸いなことか、主を神とする国、神ご自身に選ばれた国民は」(詩篇33:12)と言うのである。



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