叡福寺 太子廟
大阪府南河内郡太子町 叡福寺
叡福寺 二天門
叡福寺の創建は、西暦620年(推古天皇28年)、聖徳太子が民情視察を兼ねて愛馬 黒駒で駆けていたところ、磯長(しなが)の地を気に入り、自らの墓所とすることを決めたことから始まります。
翌年の621年(推古天皇29年)、太子の生母、穴穂部間人皇后が病に倒れます。太子と正室 膳部苔岐々美郎女(かしわでのほききみのいつらめ)の必死の看病も実らず帰らぬ人となり、磯長の地に埋葬されて円墳が築かれました。
年が明けて622年(推古天皇30年)
続いて太子と妃も病を発症して倒れました。
2月21日、妃が亡くなり、翌日 2月22日には太子自身も帰らぬ人となりました。余りに早い病の発症から伝染病かと思われます。
太子廟
太子が生前に墓所と決め、母が葬られた磯長の円墳に太子と妃も共に埋葬されます。
叡福寺 金堂
ひとつの円墳に三者が共に埋葬されたことになり、推古天皇は、太子の霊をなぐさめるべく、墓守を配し、坊堂を建立して香華寺としたのが始まりとされています。