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日本歴史紀行

歴史 今日の出来事 1281年 6月9日(弘安4年5月21日) 元寇 弘安の役




元寇防塁
福岡市西区今津 生の松原

1281年6月9日 弘安4年5月21日
元寇 弘安の役 


元寇 文永の役
大規模な外敵の襲来だった1274年 文永11年の文永の役を教訓に鎌倉幕府は、肥前、肥後の御家人に現在の福岡市、博多湾の海岸線一帯に長大な防塁〜(石築地いしついじ)を築かせ、再度の襲来に備えていました。


7年後の弘安4年5月21日、(1281年6月9日)、日本はフビライ・ハンが送り込んだ元(モンゴル人)、高麗(朝鮮人)、漢人(中国人)らを中心とした大陸からの総勢約30万の兵、4000艘もの船団の二度目の外征を迎え撃つことになりました。




弘安の役
日本には古来から〜先例というものに重きをなす考えがあります。

元寇〜最初の襲来であった文永の役での苦戦は、日本の武士は戦いに名誉を重んじ、一対一の戦いでは、互いに名乗り、戦に挑むものてしたが、異国相手に この戦いが通用しないことを痛感した鎌倉武者は、前回の戦いを先例に例え、役割りを分担し、集団で戦うことを重きを置いていました。

前回、なだらかな砂浜だった博多津は、高さ約2メートルの石築地の壁と化した防塁に遮られていました。

何より守る鎌倉武者が集団で挑み、夜間には彼らが停泊する船をも攻撃するといった執拗さでした。

そして神風と現代にも用いられる台風が元の軍勢に襲い掛かりました。

鎌倉武者の継続的な挑戦に、夜間の船団への襲撃、加えて台風の襲来に元軍は次第に疲弊し、彼らの間に疫病も蔓延する事態もあり、壊滅状態となりました。

総兵力を8割とも失われた元軍。
この有り様に元軍指揮官らは多くの兵を残したまま大陸へ引き上げてしまい、残された多くの兵は鎌倉武者たちの残党狩りによって多くが処刑されました。

外征という国家存続の危機に晒された日本でしたが、国土防衛のために領土を奪えた訳でもなく、命懸けで侵略を防いた御家人たちに幕府は充分な恩賞を出せず、この時期からの幕府への不満と御家人たちの貧困化は約半世紀後の幕府崩壊へと繋がることになります。






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