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日本歴史紀行

歴史紀行リバイバル 8 神武天皇 御由緒 1




神武天皇 御像
静岡県焼津市焼津 焼津神社


先週はプリゴジンの反乱、週末からは、ロシア軍が占領下にあるウクライナ、ザポリージャ原発を爆破する用意があるという報道。

日本からウクライナへは遠い国ですが、国の大部分を占める穀倉地帯からは、莫大な小麦を収穫できたことから、世界の食料庫ともいわれました。

ロシアが原発を爆破などという蛮行に走れば、穀倉地帯にも壊滅的な打撃を与えることはもとより
、国家存続すら危ぶまれる余談を許さないウクライナ情勢がずっと頭の隅を離れません。


国家の存続という考えは、平民のぼくからは、途方もないことですが、我が国 日本国を生み出した誕生の経緯を考えた時、初代 神武天皇を考えます。



神武天皇 御由緒



初代天皇で在らせられる神武天皇は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の御孫で天孫降臨により地上に降りた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の3代目にあたり、神日本磐余彦火火出見天皇(かむやまといわれひこほほでみのすめらみこと)といいます。

皇后は、事代主神(大物主神)と玉櫛媛との間に生まれた媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)皇后といいます。




九州、日向国(現在の宮崎県地方)の高千穂宮で誕生された神日本磐余彦は、瓊瓊杵尊が天照大神から受けた天業恢弘(てんぎょうかいこう〜互いに争うことのない、永遠に困窮しない国を創る天子の事業を広めようとすること)の神託を実現するためには、どうすればよいか。
と考え、
四人の兄弟と重臣を集め、会談を行います。
東遷御前会議です。

やがて
台地が適していると考え東遷の旅に出ます。
神日本磐余彦、45歳の時でした。


紀元前667年
日向国から船団を率いて美々津の浜を出立した神日本磐余彦は、波の速い速吸之門(はやすいのと)で難儀すると、国神の珍彦(くにつかいのうすひこ)という者が現れ、水先案内を務め、宇佐(現在の大分県宇佐)に上陸します。

これ以降、神日本磐余彦は、豊前国〜岡の水門(おかのみなと〜現在の福岡県遠賀郡)、安芸国〜埃の宮(えのみや〜現在の広島県)、吉備国〜高島の宮(現在の岡山県)と東を目指し、この旅まで 4年を要しました。

紀元前663年
難波崎(現在の大阪港)に上陸してから内陸を目指しますが、生駒山に差し掛かると、この地を支配していた長随彦(ながすねひこ)の待ち伏せに遭い、長兄の五瀬命(いつせのみこと)が弓で射られ負傷します。

五瀬命は言います。〜我々は、日の神の子孫であるのに、お日様に向かって弓を射掛けて戦ったのが間違いであった。これからは遠回りしてでも、お日様を背負うて戦おう〜と言い残し、世を去りました。

神日本磐余彦は海路、南を目指し、紀伊国を経て熊野灘に出ると暴風雨に見舞われます。

神日本磐余彦が天神、海神に祈る中、次兄の稲飯命と御毛沼命が入水すると嵐は収まります。

稲飯命は鋤持神となり、御毛沼命は常世郷に去ってしまいました。

残された神日本磐余彦は、熊野に上陸しました。


2に続きます。












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