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日本歴史紀行

静岡県知事選挙 企画 初代静岡県知事 関口隆吉 1



初代静岡県知事 (1836年~1889年)

関口隆吉像



関口隆吉は、1836年 天保7(1836)年、江戸で生まれました。


幕末から明治にかけて新政府の政治家として優れた手腕を発揮し、旧幕臣の勝海舟や山岡鉄舟などと親交がありました。





旧幕臣 関口隆吉は、1836年 天保7年、江戸与力の関口隆船の次男として生まれました。


隆吉の家 関口氏は戦国時代 駿河の大名 今川氏に連なる関口親永に遡る家柄で、親永の娘は徳川家康の正妻 瀬名姫(築山御前)で、後の徳川将軍家、高家 今川家と縁のある家柄でした。

屋敷のある江戸 牛込の近隣で聡明な少年と知られた隆吉は、13歳で江戸三大道場のひとつ、斎藤弥九郎の塾 練兵館に入り、尊王攘夷思想と無念流の剣術を学びました。

当時、練兵館の塾頭を務めたのが長洲から剣術修行で江戸に来た桂 小五郎で、桂は免許皆伝の腕前で知られ、隆吉は桂と兄弟子の間柄でした。

1852年 嘉永5年、隆吉 17歳のとき、御持弓与力となって家督を継ぎます。

翌年 嘉永6年6月、ペリー率いるアメリカ東インド艦隊~世に言う黒船が浦賀に現れます。

この頃から江戸を中心とした世情はにわかに騒然となり始めました。

尊王攘夷、倒幕運動、大政奉還、王政復古、鳥羽伏見、そして無血開城と、およそ これら四文字の出来事をたどることにより、1853年 嘉永6年 ペリー来航から15年後の1868年、日本は明治維新を迎えることになります。


1853年 嘉永6年6月、浦賀沖に現れた東インド艦隊、ペリー来航で騒然となった江戸市中、その衝撃は全国に広がり、対応に苦慮する幕府の姿もあり、世情は開国か攘夷かで分かれ、特に西国 外様大名の諸藩では、いわゆる幕末志士が大量に発生しました。


関口隆吉は幕府への意見書などを建白するなどの攘夷論者であり、開国して貿易を盛んにして国を豊かにしようとする開国派として知られ始めた勝 海舟の考えに異を唱え、勝に斬りかかったこともありました。


襲撃するも、直心影流剣術の免許皆伝者でもある勝にあしらわれた隆吉、勝を知る交流のあった山岡鉄太郎(鉄舟)に顛末を話すと、勝の真意は、国を売ろうとする単純なものではなく、貿易で財政を豊かにしつつ海軍力を強めて国を守る。そのために幕府と朝廷との間を調製しなければならないと日々苦心してると諭されて行為を恥じ、攘夷一辺倒の考えから変化しました。


その後、江戸市中取締りを命じられた隆吉は、後に牧之原で茶園を開拓をする中条金之助景昭の下で治安を守る役を仰せられます。


1867年 慶応3年、幕府は大政奉還して政権を返上。

この頃の江戸市中は、薩摩、長洲らの倒幕の志士が辻斬り、強盗、放火、婦女暴行とあらゆる犯罪を繰り返して幕府を挑発する動きを活発し、隆吉ら幕府の取締りは至難を極めました。


結果的に鳥羽伏見の戦いで幕府は敗れ、徳川幕府は倒れ、260年に及ぶ江戸の武家政権は終焉しました。


この時、謹慎する将軍 徳川慶喜の護衛の任務にあった幕府精鋭隊に属していた隆吉。


新政府軍に恭順を示す将軍 徳川慶喜の除名を嘆願する役目に山岡 鉄舟が選ばれますが、山岡は太刀の大小も持ち合わせない困窮の身でしたが、隆吉が太刀を山岡に貸して江戸を発ち、駿府にあった西郷隆盛との直談判に向かいました。




政権を担っていた幕府は倒れ、倒した薩摩、長洲を中心とした外様藩の藩士から倒幕で目立った者が政政権を担う側となり、維新から10年あまり、日本はもっとも激しい変化にさらされます。



2に続きます。






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