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日本歴史紀行

歴史めぐり 街物語 3 ‐ 4 静岡市清水区 4




清水次郎長 像


静岡市清水区 南岡町 梅陰禅寺


清水次郎長(本名、山本長五郎)は、1820年 文政3年 に清水の美野輪で生まれました。

伯父の山本五郎八 の養子となり、五郎八の伜(せがれ)の長五郎だから次郎長だとして、いつしか次郎長と呼ばれるようになります。

若い頃の次郎長は、けんか、博打に明け暮れ、縄張りを広げ、ついには街道一の大親分と怖れられます。

やがて日本は、幕末 明治維新と時代の大転換期を迎えますが、次郎長も自身の人生を大転換させることとなります。

暴風を避けるために清水湾に入港した幕府海軍の咸臨丸が官軍の攻撃を受け、艦上にいた兵士が死亡し、遺体は海に投げ棄てられます。

官軍を怖れ、地元民すら遺体を引き揚げようとしないなか、次郎長が子分を引き連れて現れ、兵士の遺体を収用して埋葬まで行ないました。

後日 駿府藩に呼び出され、事情を問いただされた次郎長は、死んだら皆仏様、仏様には官軍も幕府軍もありません。それでも処罰されるなら、次郎長は喜んで罰を受けましょう。と答えました。

この一件で 勝海舟 、西郷隆盛の江戸城無血開城の会談を実現させるべく奔走した幕臣、山岡鉄舟は次郎長の男気に惚れ、また次郎長も西郷隆盛いわく山岡鉄舟先生は、金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ困った人だ。

その様な人でなければ偉業を任せられないと言わしめた幕府側の傑物、山岡鉄舟を歳も10歳以上年下ながら終生変わらぬ師と仰ぎ、人生の大転機をはかります。

次郎長の晩年は事業奉仕に邁進する人物となり、清水港の振興に奔走し、波止場堤を増築して清水港を外海港へと発展させ、相良油田の開発、三保半島の塩田開発、住居船宿 末広の建設。

私塾を開き、日本初の英語塾を開き、富士裾野で大開墾事業を行い、お茶、杉、檜、小麦などを開墾しました。



二人の親交は鉄舟が病没するまで続きました。
山岡が次郎長に贈った【精神満腹】の書。
次郎長が山岡に悟りとは何かを問い、山岡が答えたのが精神満腹です。













末廣 清水次郎長 船宿


静岡県静岡市清水区港町


末廣は、清水次郎長(本名~山本長五郎)が1886年 明治19年に清水港に近い巴川の河口近くに開業した住居を兼ねた船宿で、輸出港として急速に発展した清水港に出入りする海軍の船乗りや船業者が利用ました。

かつて、街道一の大親分として恐れられた次郎長ですが、折しも幕末 戊辰戦争が新政府軍有利で戦局が進むと新政府の東征大総督府が次郎長を清水港付近の治安の警護を要請し、次郎長も引き受けましたが、お役目を無事終えた二ヶ月後、幕府の咸臨丸が暴風雨を避けて清水港に寄港した際に新政府軍の襲撃に遭い 、乗組員が犠牲になり、遺体は巴川に打ち捨てられたままで、住民も港関係者も新政府軍を恐れて手を出さないことを聞いた次郎長は、子分達を連れて全ての遺体を引き揚げ、遺体を手厚く葬ったことを新政府に咎められると、~死んだら皆仏、仏様に官軍も賊軍もあるか。~と突っぱねたことで幕臣で、西郷 勝海舟の江戸無血開城の会談を仲介し、静岡藩大参事の役職にあった山岡鉄舟が次郎長の義侠心に感銘して対面し、また、次郎長は鉄舟を終生の師と仰ぎ、交流は鉄舟が病没するまで続きました。

鉄舟との出会いは次郎長の生き方を大転換させます。

富士裾野の開墾、三保の塩田、相良油田の掘削と、そして生まれ故郷の清水港の振興に人生を賭けました。

住居兼船宿として開業した末廣は、海軍の乗組員らが特に好んで宿泊し大繁盛、後に日露戦争で戦死し、軍神と称された広瀬武夫も当時、次郎長と意気投合し懇意となりました。

かつて街道一の大親分として恐れられた次郎長も晩年は清水の奉仕家として住民に、とくに弱者や子供に慕われる好々爺となりました。



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