タミヤ本社
静岡市駿河区恩田原
今やバンダイと並ぶ日本が世界に誇る模型メーカー、株式会社タミヤ(旧社名 株式会社 田宮模型)は、静岡市駿河区小鹿に産声をあげました。
タミヤ発祥の地碑
静岡市駿河区小鹿
創業者の田宮義雄氏は、家業が製茶業を営んでいたことから製茶にて生計を立てていましたが、自動車修理会社への就職を経て運送業~田宮自動車商会を始めます。
やがて田宮バスを設立し、路線バス事業にも拡大させますが、バス事業は静岡電気鉄道 (現在の静岡鉄道のバス事業部門 しずてつジャストライン)への統合で運送事業から撤退しました。
太平洋戦争時に軍用機部品の製造工場を起業しますが、静岡大空襲に遇って工場は灰になり、終戦後は建物の建築用資材に需要が興ると判断して昭和21年 、製材会社~田宮商事合資会社【後の田宮模型へと繋がる】を起業します。
ところが社屋で火災を起こして社屋から資材に至るまで焼失してしまったことから、木製模型のメーカーとして再起を計ります。
戦後の昭和20年代以降のこの頃、フジミ、アオシマ、今井科学、そして東京にバンダイの前身~萬代屋が相次いで起業し、今日に続く模型メーカーが産声を上げています。
田宮は主に戦艦や戦車といったミリタリー製品で勝負し、静岡市内で起業した他の模型メーカーと凌ぎを削るように木製模型を開発していきます。
そしてプラスチックという素材とともに、そのプラスチックで形作ったプラスチックモデルがアメリカの進駐軍を通して持ち込まれました。
日本で最初にプラスチックで模型を開発、製造して売り出したのは、東京のマルサン商店で、昭和33年12月、原子力潜水艦ノーチラス号が日本におけるプラモデルの第一号でした。
翌、昭和34年、田宮をはじめとした静岡の木製模型メーカーは、製品の宣伝、販売の拡大を目指した生産者見本市をかつて徳川最後の将軍〜徳川慶喜の屋敷だった浮月楼で開催します。この催しは現在の静岡ホビーショーと名前を変えて現在に続く日本最大の模型見本市となります。
木材よりも精巧な加工モデルを作り出すプラスチックという素材で模型が作れることで、静岡の模型メーカーも徐々にプラスチックモデルを作り出すようになります。
タミヤ初のプラモデル
戦艦 大和
タミヤは1/800の戦艦 大和を開発してプラモデルメーカーの仲間入りを果たしました。
この大和は、残念ながら大ヒットとはなりませんでしたが、後のミリタリーミニチュアシリーズの先駆けとなるパンサー戦車の大ヒットにより、模型メーカーとして、その名を不動のものとしました。
タミヤの強みは、開発におけるモデルの細部にまでこだわる技術力でした。
車モデルを作り出す際には実車を取材して開発、戦車モデルを作り出す場合は海外の博物館に赴き取材する手法で、開発に手を惜しまない姿勢は、創業者 田宮義雄 氏の子、田宮俊作 氏が指揮して推し進めました。
ポルシェを製品化する際、実車の細部にこだわる余り、ポルシェの実車を購入し、細部まで分解し、開発に活かしたなんてエピソードもありました。
タミヤの伝説となったポルシェ実車購入
ポルシェ911の実車 〜(タミヤ本社ショールーム)
ここまで開発にこだわるタミヤの模型を手にした人は、もう玩具とは呼べない精巧なものでした。
タミヤの代名詞である赤と青の星のロゴマークは、芸術大学生だった田宮俊作氏の弟、田宮督夫氏が手がけました。
昭和36年、タミヤは1:35スケールのパンサー戦車を開発します。
戦車モデルの内部にマブチモーターと乾電池を組み込んで走らせるこのアイデアに跳んだモデルは大ヒット作となり、タミヤの屋台骨を支えるヒット作となりました。
こんな逸話があります。
昭和38年、タミヤは日本傑作機シリーズと銘打って第一弾として零戦~海軍零式艦上戦闘機52型を売り出しました。
間もなく田宮俊作氏は、木村秀政氏という日本の飛行機の第一人者(日本初の旅客機 YSー11を開発)から銀座に招待を受け、お褒めの言葉とともに、同席した模型ファンでもある龍角散社長、木村屋パンの社長からも歓待を受け、忘れられない一夜を過ごしたそうです。
以降もタミヤは精巧なミリタリーミニチュアシリーズや、艦船モデルシリーズ~ウォーターラインシリーズや現在もヒットし続けてるミニ四駆シリーズと、日本のトップ模型メーカーの一躍を担っています。
毎年好評の静岡ホビーショー会場にて、陸上自衛隊が車両展示しているのが16式機動戦闘車
近年、子供に大人気のミニ四駆
後の看板シリーズ〜ミリタリーミニチュアシリーズへ。タミヤ浮上の足がかりとなったパンサー戦車
タミヤ初期の木製模型
タミヤ初のプラモデル
タミヤ初のプラモデル
戦艦 大和
タミヤ歴史館
タミヤ歴史館