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日本歴史紀行

歴史 今日の出来事 1828年 文政10年12月7日 明治維新最大の功労者  西郷隆盛 誕生 


西郷隆盛 像

東京都台東区 上野公園


明治維新 最大の功労者として知られる西郷隆盛。


日本人なら、知らない人の居ない元勲は、薩摩(現在の鹿児島県)の下級藩士 西郷吉兵衛、妻マサの長男として、1828年 文政10年12月7日に生まれました。


極貧の生活を体験した西郷は、藩の郡方書役助(年貢の調査役)となり、苦境に喘ぐ農民のために、農政改革の意見書を作成して提出、これを名君と誉れ高い時の藩主、島津斉彬が目を通し、西郷を抜擢する契機となりました。


斉彬は西郷を庭方役として側に置き、江戸への参勤交代に同行させ、国内外の時勢を教え、斉彬の密命により、斉彬の養女となった天璋院 篤姫の13代将軍 徳川家定への輿入れや、斉彬が江戸老中、阿部正弘と共に擁立を目指す、一橋慶喜(後の徳川慶喜)の次期将軍継嗣問題の工作を命じられます。


この工作の中で、水戸藩校 弘道館を設立した水戸学者 藤田東湖や蘭学者で越前藩士 橋本左内と交流し、幕政改革の必要性を認識しました。


西郷は斉彬の目指す一橋慶喜の将軍就任により、幕府と有力外様諸藩による中央集権国家の実現により、ペリー来航以来の外国から日本を守る富国強兵を実現すべく奔走します。

ところが、主君、島津斉彬の急死以降、西郷は後継者の新藩主、島津久光と反りが合わず次第に対立する様になり、二度の流罪となるも薩摩藩の朋輩からは絶大な支持を持つことから返り咲き、激動の京都で幕府、幕府親藩、長州、土佐といった外様藩、さらには公家衆と互角に渡り歩き、その存在感は比類無きものとなりました。





やがて西郷は倒幕派へと変心、その胆力をもって藩主、島津久光すら凌ぐ薩摩藩最大の実力者となり、薩長同盟、薩土盟約、王政復古、鳥羽伏見の戦いから始まる戊辰戦争、そして江戸無血開城の勝海舟との会見と、幕末維新の政変劇には西郷の影響が尽きませんでした。

江戸無血開城をもって明治維新を遂げ、その後の戊辰戦争終結を経て明治新政府では参議の職で屋台骨を支えました。


謀略、暗殺、魑魅魍魎(ちみもうりょう)のうごめく幕末維新の政変時にあっても、政治家としてではなく、武人として生きた西郷。

次第に明治政府の中で孤立し下野、故郷の鹿児島に帰るも、明治政府へ不満を爆発させた不平士族に担がれる形で挙兵し、最後の内乱となる西南戦争を起こして敗れて自害、49年の生涯を閉じました。





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コメント一覧

aoikitakaze4390031
@kikokikonoriko19888888 おはようございます。
西郷隆盛はナポレオンを崇敬していたといいます。
西郷もナポレオンも下層の士卒から身を起こした偉人でしたが、西郷は担がれる形ながら西南の役という内乱で民と国を苦しませ、ナポレオンもまた、前半生の栄光を塗りつぶす様な苦しみを民と国に負わせたと思います。
kikokikonoriko19888888
歴史に疎い女性の目から、独断的に考えると、
とり残されてゆく我が子が、
つぎの時代に受け入れられなくて
世に迷う子羊になるくらいなら、、、と、
死に場所を幼い子の達成感とともに、
母親も
生死を共にしたような、、、
切ない、、
時代のクレパスに、
「俺たちの時代を俺たちは生きるゾ~、、」と叫びながら
進め―、、勧め―、、と言いながら死んだという
ナポレオンのような、、
敵は、、時代の変遷だけ、、という、、
残党を、、永遠に、
「俺たちは生きた!」と言いながら
生かせる道は、、死ぬしかなかったような
切ない、、、西郷さんの、、
見え過ぎる目が 哀しく思えます。
歴史になっていませんね、
すみません、、、女性の本能が思いつく独断と偏見でした。
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