日々雑感  ~ 青亀恵一

日々感じたことをこのページで。 別ブログ「美代ちゃんのらっきょう畑で」もよろしく・・・リンクフリー

蟻は、蟻として

2006-04-09 07:24:57 | 社会
春は、別れと出会いの季節である。
それも、大きな別れと大きな出会いを経験する。
そして、人はひとまわり大きくなれる可能性をもつ。

夜の街を歩けば、そこここで歓送迎会が催されている。
特にこの時季には、花見と兼ねることも多い。
そして、男性ばかり、あるいは女性ばかりというグループではなく、
男女がまとまった形での宴が多い。

そして、この時季は、そういう状況でもあるので、
1年を通して初めて、宴を共にするという人との会話もある。
宴が進むと遠慮がちだった会話が、
しだいに本音を語るものになる。

この人は、こういう面を持っていたんだ。
という発見も珍しくもない。

また、いろいろなご指導もいただく。
私は、そのような席で、人生訓をいただいた。

大先輩曰く、『人とのつきあいは、「分かりました」から』
「まずは、それからだ」ということだ。
「若い者は、理屈っぽくていかん。
理屈で物事は、まわらん。」

確かに、会話の基本は、まず聞くことからというのは、納得できる。
この「分かりました」という言葉の中には、
必ずしも、相手の意見に賛同することでは無い場合も、
含んでいることもあるのだと解釈した。

私は、「分かりました」というのは、
「納得した」「同意見である」
という意味しかないと思っていた。

ところがそうではない「分かりました」もあるということだ。
「あなたの考えを、聞いた。」
「あなたの言わんとすることは、理解した。」
を表すということだ。
いわば、相づちの意をもつ「分かりました」だ。

人生は、奥深く、難しい。

特に日本語は、一つの言葉に、相反する意味を持って
使われている場合も少なくない。
そして、それは、非常に日本人らしい面でもある。
直接的な表現で、白黒をつけないのである。

また、言葉一つでも、それぞれの理解度によって、
その使われ方が違うのだ。
そして、誤解も生まれる。
言葉というのは、必ずしも共通語ではないのだ。
言葉というものは、限界があるといえる。

日本には、「以心伝心」という言葉がある。
また、「あ・うんの呼吸」という言葉もある。

これは、一面そのような言葉の限界を、
暗に言いえた言葉かもしれない。

しかし、それは長年つき合っていて、
その間に相手の心情を、言葉少なくとも理解できるということであり、
前提となるものがある。
その前提が無い場合は、どうしても言葉によって意志を伝えざるを得ない。

先輩の教えは、会話の基本と言葉の奥深さを言ったものであると理解した。
「上手に会話せよ」ということを含んでいる。

そして、それは、つづいて判断にまでも踏み込んでくる。
「そうは言っても、・・・・・・」である。
多くの理解を得るまでは、益・効果がないということにも行きつく。
それこそ、理屈で物事は、まわらんということ。

人は、それぞれ考え方が違い、それぞれの人生を生きてきた。
違いがあるからこそ、話に内容が膨らんでくると思っている。
違いを理解してこそ、自分の考えも深まってくると思う。

そのためには、そのことを表さなくてはならない。

「偉大なるイエスマン」という人がいたが、
やはり、その背景には、一つの考え方があって欲しい。

この歳になると、頭も大分、硬直化しているかもしれないが、
少なくとも、目標に向かっての歩き方は、納得したものでありたい。


人は、それぞれ今までの自分があり、
その上にこれからの自分が、納得した形でつくられることが、
人の生きることであるような気がする。

人ひとりの存在は、視点を変えれば、
小さなもの、微々たるものである。

われわれが、蟻を見るがごとく。

しかし、小さいといえども蟻は不要か。

「蟻は、蟻として、蟻の生き方をしてこそ、蟻である」

聞く耳と、流されない心。
人生のありようを感じた一夜だった。

PS
確かに理屈っぽいが。
UPが遅くなりました、LSFMさん。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。