日々雑感  ~ 青亀恵一

日々感じたことをこのページで。 別ブログ「美代ちゃんのらっきょう畑で」もよろしく・・・リンクフリー

残っていた日本人の心・日本の家族

2006-02-16 07:22:49 | スポーツ
皆さんは、トリノオリンピックで、3度目となる五輪にフィギュアスケート・ペアの米国代表として出場、ショートプログラムで6位につけた井上怜奈選手(29)のことを感動的に応援されたことでしょう。
ショートプログラムで、オリンピック史上初のスロートリプルアクセル(3回転半ジャンプ)を成功させ、フリーでの期待が大きく膨らんだが、残念ながら失敗し7位となったが、感動は金メダルでした。
彼女の人生も、家族の生きざまもすごい。
彼女は、喘息の病気があって、その治療の一環としてスケートを始めたそうである。
(以下毎日新聞より)
『井上選手は中学3年の時、アルベールビル五輪にペアで、2年後のリレハンメル五輪はシングルで出場。 母 玲子さんは「才能と言われるが、親があきれるほど運動神経がなかった」と笑う。 あるコーチは「練習の鬼」と評した。
井上選手の演技をいつも楽しみにしていた父雅彦さんが肺がんで亡くなったのは97年2月。45歳だった。』
長野五輪予選では、闘病中の父が自動車に布団を敷き、駆けつけた。 その姿を見た井上選手は泣き崩れ、試合は最悪の出来で、五輪選手に選ばれなかったという。
父は、そのような動揺を与えた自分の行動を悔いたという。
(以下 毎日新聞より)
『「余命3、4年」と宣告された時の雅彦さんの気がかりは、人付き合いの苦手な、当時早大生だった娘の将来。
「時間をかけて大人にしていこうと思ったが時間がない」。
親元を離れ、練習拠点を米国に移すよう命じた。
「病気の父をおいては行けない」と泣く井上選手に、玲子さんは「大変な治療を受けるお父さんをがっかりさせないで」と諭した。
「泣きながら成田空港のゲートをくぐる怜奈の姿が今も思い浮かぶ」と母は話す。
父を失い、一度はやめようと思ったスケート。
母 玲子さんは、再びスケート靴を履いた理由を人づてに聞いた。
「母に希望を与えたかった」』(以上 毎日新聞より)

スケートへの想いを家族の絆・想いへと昇華した。
98年、井上選手は、23歳の時に肺がんを患った。
母にショックを与えまいと、自身が肺がんを患ったことを、知人を通じて知らせた。
(以下TVより)
はるか離れたアメリカで、抗がん剤の投与を受け、副作用の吐き気やむくみに耐え続けながらも、休まずリンクへ通ったそうである。
幸い、初期であったため、順調に回復。
闘病中に、ジョン・ボルドウィンからペアの申し出があった。
ジョン・ボルドウィンは、無名の選手だった。
井上選手は、いつ自分が倒れるか分からない状況でペアを組む事は、彼のスケート人生をも犠牲にしかねないということで、断った。
しかし、いろいろなことを乗り越えてきた彼女のスケート人生に感動した彼は、引き下がらなかった。
彼の一途な思いに彼女は動かされ、そして、ペアを組んだ。
全米選手権 2001年 11位  2002年 4位  2003年 3位  2004年 優勝  2005年 2位 と実力をつけた。
しかし、2006年オリンピック出場するためには、同じ国籍をとらなければならない。 そして、彼女は、(家族との絆が国籍を変えることによって断ち切られる想いに)悩みに悩んだが、日本国籍を捨てて、アメリカ国籍を取得。
トリノを目指す今年1月の全米選手権。
ショートプログラムでは、4位と出遅れてしまった。
しかし、彼らは、公式戦では成功したペアは未だいないスロートリプルアクセル(3回転半ジャンプ)を試み、初めて成功させ、大逆転で出場権を得た。(TVより)

母は語る。
「強さと優しさを父親から受け継ぎ、立派な大人になった」(毎日新聞より)
井上選手は語る。
「父の笑顔が見えるようで、ちょっと親孝行・・・・」(TVより)
これ以上望めないと思った。3回出たけど、最後の五輪が一番いい思い出になった」  会場からは、SP(ショートプログラム)6位から順位を下げたが、挑戦に大きな拍手が起こった。(日本海新聞より)

『「昨年と同じ自分では嫌だ、と力を続けたからこそ」と、母は、一人娘の活躍を見つめる。』(毎日新聞より)
「難難、汝を玉にす」とは、正にこの事でしょう。

父親もすごい。母親もすごい。 ましてや、本人がすごい。そして、ペアのジョン・ボルドウィンもすごい。 
こんな人生に会えたことが、私の、日本の、トリノ五輪での得た最大の収穫(表現が少し不遜ですが)ではなかったかと思います。




最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。