2013年2月、機内1泊含む6泊7日のフランス(パリ)旅行です。
日本旅行さんの旅コロンブスブランド<往復ビジネスクラス直行便利用!びっくりモンサンミッシェル・パリ7日間>です。
2日め、<モンサンミッシェル一日ツアー>です。
現地引き受けツアー会社がヨーロッパの日本語現地ツアー会社の<みゅう>さんでしたから、これは、<みゅう>さんの<パリ発モンサンミッシェル一日観光ツアー(格安フリーツアー)>だと思います。
個人で申し込んだときと違うのは、ホテルまでバスが迎えに来てくれたことです。
帰りは本来の解散場所からホテルまで、ガイドさんが地下鉄を使って引率してくれました。
翌日からフリーですから、フリー行動中のことで知りたいことがあったらこの一日ツアーの中でガイドさんに教えていただくことになります。
まだ暗い、6時30分に出発しました。
凱旋門が見えました。
途中ポンレヴェックの街に立ち寄りました。
<Les Tonneaux du Pere Magloire(レ・トノー・デュ・ペール・マグロワール)>さんという、カルバドス(リンゴの蒸留酒)を作った樽の中にテーブルがあるノルマンディー伝統料理(フォアグラとチーズフォンデュが有名)のレストランで、食事等はできなかったのですが、名物のチーズを買いました。
街の名前にもなっている「ポンレヴェック」というウォッシュタイプのチーズです。
ポンレヴェックは「ノルマンディー3大チーズ(カマンベール・リヴァロ(強烈な匂いのウォッシュタイプ)・ポンレヴェック)の産地の一つだそうです。
「ポンレヴェック」も結構強烈な匂いで、家族に不評でした><。
ドライバーさんと。
ポンレヴェックは「花咲くチーズの街」と言われるそうで可愛い小さな街でした。
街の入り口にある惣菜屋さんに入ってみました。
買い食い。
これはたぶん、タルトタタン。美味しかった!
タルトタタンとは、型の中にバターと砂糖でいためた(キャラメリゼ)リンゴを敷きつめその上からタルト生地をかぶせて焼いたフランス菓子のことだそうです。
こちらはお惣菜だったのですが、何だったかしら?
モンサンミッシェル到着~。
モンサンミシェルとはフランス西海岸サン・マロ湾上に浮かぶ小島の名前で、修道院も同名なのだそうです。
「聖ミカエルの山」という意味で、大天使ミカエル(旧約聖書にその名が現れる天使で、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教に引き継がれ、いずれにおいてももっとも偉大な天使の一人とされている)に由来するそうです。
カトリックの巡礼地のひとつで、1979年「モン・サン=ミシェルとその湾」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されたそうです。
世界遺産の厳島神社がある広島県廿日市市とは姉妹都市だそう。へー。
有名なオムレツの「ラ・メール・プラール」ですよー。
支店も含め島内に3店あるそうです。
実はここのオムレツは日本人の口にあまり合いませんが、「ラ・メール・プラール ガレット(いわゆるフランスのガレットではなくクッキーみたいな箱入りのお菓子です)」は安くて美味しいです。
「ラ・メール・プラール」とはプラールおばさん(お母さん)という意味だそうです。
巡礼宿を営んでたプラールおばさんは、命がけ(山賊や過酷な暑さ・寒さや食糧到達の難しさ、そして潮に飲まれて命を落とす危険など)でモン・サン・ミッシェルにやってきた巡礼者たちを元気づけようと、孤立する島内でも手に入る卵を使い、中を泡状にして大きく膨らませ少ない卵でも特大に見えるオムレツを考案したのだそうです。
上る上る。
着いたー。
潮の干満の差が激しい所として知られ、満月と新月のときには、引き潮により沖合い18kmまで引いた潮が猛烈な速度で押し寄せ、かつては多くの巡礼者が潮に飲まれて命を落としたそうです。
966年ベネディクト会の修道院が建てられ、増改築を重ねて13世紀にはほぼ現在のような形になったそうです。
剣と秤を持つ金のミカエル像が立つ尖塔と鐘楼はゴシック・リヴァイヴァル建築で、1897年に完成したものだそうです。
1337年から1453年の116年間の現在のフランスとイギリスの国境線を決定することになった対立状態を100年戦争と呼ぶそうですが、その間は島全体が英仏海峡に浮かぶ要塞の役目を果たしたそうです。
また18世紀末のフランス革命時に修道院は廃止され、1863年まで国の監獄として使用されその後荒廃していたそうですが、1865年にナポレオン3世により再び修道院として復元されたそうです。
修道院の歴史から、主要部はゴシック様式、教会堂はカロリング(8世紀頃フランク族が開いた王朝)様式、身廊はノルマン様式(11世紀にイギリスで発達したロマネスク様式に属する建築様式)、100年戦争で破壊されたロマネスク様式だった内陣はフランボワイヤン・ゴシック様式(15世紀から16世紀にかけての後期フランス・ゴシックの様式で装飾が火炎の形状=フランボワイヤンに似るところから呼称される)で再建され、周囲を13世紀の重層構造の修道院建築と13~15世紀の軍事施設が取り囲んでいるそうです。
こんな巻き上げ機で荷物を上げていたそう。
降りてきました。
ランチはここにしよう。
「Le Mouton Blan (ル・ムートン・ブラン)」。
日本語メニューがありました。
スペシャリティ・メニューで24ユーロ。
名物生牡蠣。
りんごのお酒。
ヨーロッパの寒い地方では、どこもりんごのお酒が名物ですねー。
名物オムレツ。
モンサンミシェルはフランス北西のノルマンディー地方にありますが、良質の牛乳の産地です。
この良質な牛乳から造られた良質なバターが使われているのだそうです。
タルトタタン。
美味しかったです。
ごちそうさまでしたっ。
お土産やさんも素敵。
再度、有名なオムレツやさん「ラ・メール・プラール」を覗いてみました。
<モンサンミッシェル一日ツアー>終了。
3日め。午前中はフリーです。
ホテルを出て…。
地下鉄の駅(14号線クールサンテミリオン駅)に行き(徒歩3分)…。
地下鉄に乗る(シャトレ駅で4号線に乗換えて)…。
駅に着き、階段を上がる(シテ駅)…。
シテ島はセーヌ川の中州で「パリ発祥の地」と言われ、「パリから○km」というときの起点がここシテ島だそうです。
何の行列?
お聞きしたら、役場が開くのを待っていて、何か手続きをするのだそうです。
サントシャペルに向かう。
サントシャペルとは聖なる礼拝堂という意味だそうです。
ゴシック建築の傑作と言われ、ルイ9世が1239年から収集し始めた聖遺物(イエス・キリストや聖母マリアの遺品、キリストの受難にかかわるもの、聖人の遺骸や遺品など)を納めるために建設された礼拝堂だそうです。
ルイ9世の宮殿からサントシャペルに直接通り抜けられるようになっていたそうです。
フランス革命期(18世紀にフランスで起きた市民革)、聖歌隊席や内陣障壁は破壊され尖塔は引き下ろされ遺物は散逸してしまったそうですが、繊細な石細工の美しいステンドグラスは破壊されずに残ったそうです。
バラ窓は15世紀に加えられたそうです。
サントシャペルの隣にコンシェルジュリーがあります。
かつての牢獄。
フランス革命の後恐怖政治(投獄・殺戮等の手段によって反対者を弾圧して行う政治のこと。ロベスピエールを中心とするジャコバン派が行った)の時代、王族・貴族などの旧体制派が収容され、一般市民・貴族・学者含め2780名に死刑判決が下されたそうです。
マリー・アントワネットが投獄されていたことで有名です。
残念ながら休館期間中でした。
当時の牢獄は有料で、富裕層や著名人は家具のある独房に入り読書や仕事をすることもできたそうです。
日本式に言うと「地獄の沙汰も金次第」ってやつ? うーん。
さて、ここはどこでしょう?
サントシャペルから徒歩すぐです。
はい、ノートルダム寺院です。
ウィキによれば、ローマ・カトリック教会の大聖堂で、「パリのセーヌ河岸(シュリー橋からイエナ橋までのおよそ8kmで、中州であるシテ島とサン・ルイ島、セーヌ川にかかる橋、エッフェル塔なども含まれるそうです)」という名称で周辺の文化遺産とともに1991年にユネスコの世界遺産に登録されたそうです。
現在もパリ大司教座聖堂として使用されているそうです。
ノートルダムとはフランス語で「我らが貴婦人」という意で聖母マリアを指すそうです。
1163年に着工されいったん1225年に完成し、追加変更の工事を経て、双塔は1250年に、最終的な竣工は1345年だったそうです。
全長127.50m、身廊の高さ32.50m、幅12.50mとか。
9000人を収容し、トリビューン(階上廊)には1500人が昇れるようになっているそうです。
フランス革命以降自由思想を信奉し宗教を批判する市民により破壊活動・略奪が繰り返されたため、19世紀大規模改修が行われ、尖塔の復元・福音史家と十二使徒の彫刻の付加などが行われたそうです。
この日はトリビューン(階上廊)には上がれませんでした。
コンシェルジュリの休館もあり、何かそういう期間だったのかなー。
「聖母マリアの門」の有名な「聖ドニの像(フランスの守護聖人)」。
伝説によると聖ドニはモンマルトルで斬首されたが、自分の首を持ってパリ郊外の現在はサン・ドニ大聖堂のある地まで歩き、そこで倒れて絶命したとされているそうです。
3世紀、古代ローマ帝国がガリア(フランス)を支配し、キリスト教を弾圧していた頃の話です。
ガーゴイル。
雨樋から流れてくる水の排出口を言うそうですが、古代エジプト・古代ギリシャの時代から悪魔・怪物・架空の動物などがかたどられているそうです。
サン・ルイ島の有名なジェラートの「ベルティヨン本店」さん。
創業1954年だとか。
今ではパリの街中のあちこちで見かけるそうですが、本店は落ち着いた雰囲気です。
ここで同席した日本人女性から、この日はオペラガルニエの内覧が可能と伺い急いでオペラガルニエに向かいました。
入場時間まで時間があり、また観光客目当てのスリや署名詐欺が多かったため、時間までギャラリー・ラファイエット( デパート)に避難してカフェしました。
有名なガラスと鉄鋼のドームは1912年に造られたそうです。
いよいよオペラガルニエ内覧です。
設計が公募され、171の応募の中からシャルル・ガルニエの案が採択され、1862年に着工・1874年に竣工したそうです。
ネオ・バロック様式の典型と言われる絢爛豪華なもので、当時最新の素材とされていた鉄を使用したことによって、従来不可能とされていた巨大な空間を確保できたそうです。
有名なシャガールの天井絵。1864年に置かれたそうです。
図書館。
午後はシティラマ社のパリ半日観光に参加しました。
「充実のパリ半日観光ツアー☆セーヌ川クルーズ、エッフェル塔入場見学付!<午前・午後/日本語イヤホンガイド> 59ユーロ。
14時30分にシティラマ社を出発し(マイバス社の並びにあります)車窓からパリ市内を眺め、エッフェル塔の下で、エッフェル塔入場とエッフェル塔前から出航するセーヌ側クルーズのチケットを渡され、そこでツアーは解散、後は自力で観光・ホテル戻りでした。
冬の夜のパリは暗くて、ちょっと不安になりました。
車窓からの見学コースは、ルーブル美術館・ノートルダム大聖堂・ソルボンヌ大学・パンテオン・サン・ジェルマン・デ・プレ・オルセー美術館・シャンゼリゼ大通り・凱旋門・エッフェル塔・アンヴァリッド(廃兵院)・コンコルド広場・マドレーヌ寺院・オペラ座です。
モンマルトル以外の有名な観光地はだいたい入っている感じでした。
こんなバスで、日本語のイヤホンがあります。
日本人は私だけだった><。
エッフェル塔で解散まで、車内からの観光スタート。
ヴァンドーム広場のヴァンドームの円柱。
ナポレオン1世がアウステルリッツの戦い(ナポレオン率いるフランス軍が、ロシア・オーストリア連合軍を破った戦い)に勝利したことを記念して建てられたものだそうです。
ルーブル美術館。
セーヌ川。シテ島側から見たポン・ヌフ橋。
バスティーユ広場。
ノートルダム寺院。
パンテオン。
ソルボンヌ大学。
オルセー美術館。
コンコルド広場。
エッフェル塔。
すべて車窓からでした><。
ここで解散。
この後ツアーに付いているチケットで、エッフェル塔に上り、セーヌ側クルーズに乗船し、エッフェル塔のシャンパンフラッシュを見るのですが、撮影をミスし画像がありません。
エッフェル塔のシャンパンフラッシュを見た後は、タクシー乗り場がそばにありタクシーでホテルに戻りました。
4日め。
マイバス社のロワール一日観光に参加しました。
「内容充実!ロワール地方3つの古城巡り<終日/日本語ガイド/昼食付>」160ユーロ。
シャンボール城(入場観光)・洞窟レストランでランチ・シュノンソー城(入場観光) ・アンボワーズ城(車窓観光)・ル・クロ・リュセ(入場観光)です。
8時30分でもこんな真っ暗。
最初のトイレ休憩で軽食。
こんなバスです。
美しいフランスの景色が続きます。
ヤドリギ。
このツアー中によく見かけました。
「落葉樹が葉を落としている冬に、このヤドリギだけが地に根も付けないで、青々とした葉をつけています。」
確かに。
ヤドリギがあるところ、必ず川や沼があるそうです。水分が必要なのですね。
クロ・リュセ城(レオナルド・ダ・ヴィンチ・パーク)。
1516年国王フランソワ1世の招聘でイタリアからクロ・リュセ城へとやってきたレオナルド・ダ・ヴィンチはすでに60歳を過ぎていたそうですが、1519年にこの世を去るまでの3年間をこの地で過ごしたそうです。
レオナルド・ダ・ヴィンチを見舞うフランソワ1世。
フランソワ1世の王妃カトリーヌ・ド・メディシスだったかな?
レオナルド・ダ・ヴィンチの描く女性には常に母カテリーナの面影があるとか。
レオナルドの父親ピエロは辣腕の公証人だったそうですが、母カテリーナは使用人であり、レオナルド・ダ・ヴィンチは庶子として生まれたそうです。
ここの売店で何気なく買った「レオナルド・ダ・ヴィンチ」という赤ワインで、初めて酒石を見ました。
コルクに付いたきらきらしたものは「ワインのダイアモンド」とも呼ばれていて、ミネラル分や酸に富んだ良い年のワインの証だそうです!
洞窟レストランでランチ。
ロワール地方郷土料理のリエットとサラダ。
お肉と野菜のココット鍋
赤ワインを注文しました。
ピタパン。
鴨のロースト。
りんごのタルト
シュノンソー城。
後期ゴシック様式と初期ルネサンス様式が混在した当時の装飾の美しさが残る素晴らしい城として有名だそうです。
国庫への債務のためシャルル8世侍従のトマ・ボイエの息子がフランソワ1世に献上した城は、フランソワ1世が1547年に死ぬと、アンリ2世(フランソワ1世の次男)が愛妾のディアーヌ・ド・ポワチエに贈ったそうです。
王妃カトリーヌ・ド・メディシスが貰い受けることを望んだというのに。
メディチ家出身のカトリーヌ・ド・メディシスが王妃として嫁いでくる前から家庭教師のディアーヌ・ド・ポワチエと愛人関係にあり、王妃とは不仲だったと言われているそうです。
が、王妃との間に10人の子どもが生まれているのだそうです。ふーん。
ディアーヌ・ド・ポワチエは大変美しい女性だったそうですが、アンリ2世より20歳年長だったそうです。
アンリ2世は馬術試合の怪我がもとで亡くなり、王妃カトリーヌは既に60歳になっていたディアーヌを追い出したとも言われていますが、代わりの領地を与え余生を全うさせたそうです。
カトリーヌ・ド・メディシスの肖像。
博識の日本人ガイドさん。
ディアーヌ・ド・ポワチエの肖像。
ルイ14世(1638年-1715年)の肖像。
身長が160cm程度しかなく、王としての威厳を演出するためにも背を高く見せようとし、ハイヒールを履きかつらで髪を盛り上げ大きな姿を演出したそうです。
ブルボン朝最盛期の王で太陽王と呼ばれたそうで、ベルサイユ宮殿を改装・増築し、1682年に政府と宮廷をベルサイユ宮殿に移したそうです。
1789年のフランス革命の勃発まで代々のフランス国王が住み、その好みでこの宮殿を美しく飾ったのだそうです。
ウィキを読むと、王さまって可愛そう。
侍医により「歯はすべての病気の温床である」と、12回にわたる手術の末すべての歯を抜かれてしまったそうです(下顎の歯と一緒に顎までくだき、上顎の歯と一緒に口蓋の大部分を取り除いてもしまったそうです)。
当時は麻酔もないため歯は麻酔なしで引き抜かれ、抜いた後は真っ赤に焼けた鉄の棒を歯茎に押し当て消毒としたのだそうです。
どんな激痛だったことでしょう。
王ともあろう人がなぜこんなことに甘んじたのか?
また王はサナダムシにも悩まされ、歯のない口から莫大な量の食べ物をかみくだかずまる飲みしたのだそうです。
歯がないため噛むことができす、まる飲みした食物の消化不良にも悩まされたそうです。
痛々しい。
移動。
アンボワーズ城。
シャルル7世(1403年-1461年7)・ルイ11世(1423-1483年)・シャルル8世(1470年-1498年)・フランソワ1世(1494年-1547年)らヴァロワ朝(中世フランス王国の王朝で1328年から1589年まで続いた)の国王が過ごした城だそうです。
初めてフランス式庭園(幾何学的構成の庭園)が作られたところだそうです。
屋上から。
パリに戻ってきました。
たまたまエッフェル塔のシャンパンフラッシュの時間でした。きれーい。
<フランス(パリ)旅行 ダイジェスト その2-2>はこちら。
<フランス(パリ)旅行 ラウンジ・エア・ホテル・ホテルの朝食>はこちら。
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