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政治そのほか速

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歴史的資産になった「ジョブズの家」

2015-02-09 13:44:04 | キャリア・教育
 
  • <noscript></noscript>ジョブズが育った家
  •   スティーブ・ジョブズの育った家が、地元の市の歴史的資産として認定されました。

      これまでシリコンバレーのガレージと言えばヒューレット・パッカード社発祥のガレージが有名でしたが、それをもしのぐ重要建築物と言えましょう。 最初のアップルコンピュータが作られたのもこの家のガレージ。ジョブズと、アップルの共同創業者であるスティーブ・ウォズニアック、ジョブズの妹のパトリシアの3人で組み立てたそうです。

     

    現住人は父親の再婚相手、持ち主はジョブズの妹

      さて、この家ですが、今でもジョブズという苗字の人が住んでいます。よく知られた話ですが、スティーブ・ジョブズは赤ちゃんの時にジョブズ家の養子となりました。そして1986年に母親のクララが肺がんで亡くなった後、父親が再婚。今この家に住んでいるのは再婚相手のマリリンです。ただし、持ち主は妹のパトリシア(パトリシアもジョブズ家の養子です)。

      ちなみに、「歴史的資産認定」ですが、された方は「困ったな」と感じているかもしれません。というのも、家の増改築には市の認可が必要なのですが、今後はちょっとしたリモデルもそう簡単には許されなくなるからです。

     

    個人住宅の増改築基準が厳しい米国

      アメリカの住宅は中古が常に流通しており、中古になっても価値があまり落ちません。その背景には、厳しい建築のルールがあり、断熱材の入れ方からコンセントの数や位置まで細かく指定され、それが実際に守られるように、たとえ個人住宅の増改築であっても綿密に審査されます。アメリカの建築の認可基準は市ごとに違うのですが、スティーブ・ジョブズの育った家のあるカリフォルニア州ロスアルトス市の認可は大体以下のような感じ。

     1)建築前に設計図の審査
     2)近所の人に告知、設計図に文句がある人からの異議申し立て受け付け
     3)工事中に役所の担当者が来て配線などの「壁の裏側」がきちんとしているか確認
     4)建築後に再度、役所の担当者が来て確認

      それぞれの過程で「ダメだし」が入ってやり直させられるのも日常茶飯事。普通の家の増改築でもこれだけ厳しいわけで、スティーブ・ジョブズの家はもうこのまま住むしかない、という感じかと思われます。

     

    妹パトリシアは困窮している?

      ちなみに、この家のオーナーである妹のパトリシアは、シングルマザーとしてかなり困窮した生活をされている模様。ちなみに、家の価格サイトZillowでこの家の現在価値を見てみると160万ドル、1億5000万円超でした(今ある古い家を取り壊して新築すれば300万ドルはいくでしょう)。この家を所有しながらなぜ困窮?と不思議に思いますが、サンノゼマーキュリー紙によれば、彼女と現在の家の住人であるマリリンとは口もきかない仲のようですので、いろいろ難しいことがあるのでしょう。トルストイの名作、『アンナ・カレーニナ』の冒頭に「幸福な家族はどれも似通っているが、不幸な家族は不幸のあり方がそれぞれ異なっている」という一文がありますが、ふとそれを思い出しました。

     

    ジョブズも歴史的に重要な家を取り壊していた

      なお、生前のスティーブ・ジョブズも、近隣のウッドサイドという市の歴史的に重要とみなされる家を壊して新しい家を建てようとして大反対にあい、6年間も裁判をすることになりました。結局、ジョブズその裁判に勝ち、家は2011年に取り壊されたものの、再築される前にジョブズは亡くなってしまいました。彼の育った家はこれからどんな運命をたどるのでしょうか。


大学より起業!「天才」向け奨学金

2015-02-09 13:44:04 | キャリア・教育
 シリコンバレーといえば、大学を中退したアバンギャルドなCEOばかり、というイメージを持つ人もいるかと思います。

  大学中退のCEOとしては、オラクルのラリー・エリソンとアップルのスティーブ・ジョブズ、最近ではフェイスブックのマーク・ザッカーバーグが有名です。シリコンバレー以外ではビル・ゲイツもいます。こうした「目立つ人」がいるために、大学中退がまるで一般的なことのように思われがちですが、実際には彼ら以外の大学中退者はあまりいません。

  「大学中退→起業して大成功」は、ごく一握りの傑出した人たちの話なのです。ベンチャーから大企業まで、多くの会社のサイトには経営陣の経歴が載っていますが、大体において華々しい大学名、大学院名が並んでいます。

 

大学をやめて2年間は起業に専念

 

  しかし、そんな流れに逆らうのがThiel Fellowship(シール奨学金)です。

  この奨学金は最初は20 under 20という名称で昨年開始されました。20歳以下の起業家の卵20人に10万ドルを提供するというもので、選ばれた起業家は大学をやめて2年間は起業に専念するのがルールです。

  先月末に2013年の春期の募集が終わったところですが、これまでに40人ほどが奨学金を受け取っており、その内容はIT系だけではなく、原子力、代替エネルギー、ロボティクス、3Dプリント、遺伝子工学など多種多様です。

  シール奨学金をはじめたピーター・シールはドイツ生まれ、カリフォルニア育ち。ペイパル社を共同創業して大成功したのを皮切りに、フェイスブックへのエンジェル投資などを経てビリオネアとなり、現在は幾つかのファンドを運営しています。チェスマスターの称号も持ちます。

 

「教育バブル」で学位習得に疑問

 

  さて、シール奨学金の背景にあるのはアメリカの「教育バブル」です。

  アメリカの大学の学費はうなぎ登りに上がっています。安価に優良な教育を提供することで知られるカリフォルニア大学(University of California)の学費ですら、1995年に4000ドルだったのが2011年には1万3000ドルになりました。1年当たりの上昇率は実に8パーセントです。親と子の両方が借金をして学費をまかなうケースも増えており、国全体の学費ローン残高総額は1兆ドル(80兆円)を超えています。

  「そこまでの費用を出して学位を取る意味があるのか」

  「起業希望の若者は、大学で起業を学ぶより実際に起業して学んだ方がよいのではないか」

  そんな発想がシール奨学金の土台にあります。

  ただし、ピーター・シール本人は「(大学中退は万人向けではなく)この奨学金は一部の優秀で才能ある若者のためのもの」であるとはしています。

 

どんな若者が受け取っている?

 

  さて、では、実際に奨学金を受け取った「一部の優秀で才能ある若者」はどんな人たちでしょうか。

  受賞者の一人、スージェイ・タイルは10歳で「真剣に」バイオ燃料の研究を始め、14歳でハーバード大学に入学。現在はモバイルゲームのベンチャーを起業中(バイオ燃料はどこにいったのか、という話はおいておいて)。

  デビッド・ルアンは3年生の時に大学のクラスを取り始め、12歳の時にコンピュータサイエンスを修了したのちイェール大学へ。現在はロボット工学のベンチャーを起業中。

  アンドリュー・スーは12歳で大学に入学、16歳で3つの学位を取った後、スタンフォード大学の博士課程へ。現在はモバイル教育アプリのベンチャーを起業中。

  なんといいますか、こういう人たちは確かに大学にいる必要はあまり無い気もします。

 

志ある若者よ応募を

 

  とはいえ、こうした天才の皆さんが必ずしもスムーズに起業に成功するわけではありません。アンドリュー・スーがはじめたAiry Labsは150万ドルの増資に成功したものの、早々に社員20名を解雇してしまいました。前後して複数の社員が「アンドリューの両親が実質上のマネジメント。毎日夜遅くまで働かされ休暇も取れない。しかも朝9時から夜6時までは私語厳禁」といった苦情をオンラインで公表し、アメリカ企業としてはありえないブラックぶりで話題になりました。

  天才を輩出した教育パパ・ママの熱心さは、ベンチャー経営ではマイナスになったようです。

  とはいえ、これからもシール奨学金は続いて行く予定ですので、我と思わん20歳以下の皆さんはぜひ応募をご検討ください。


「妊娠サポートアプリ」Glow

2015-02-09 13:44:04 | キャリア・教育
 

男性2人で創業

  • <noscript></noscript>Glowアプリのスタートアップ画面
  •   Glow(グロウ)というモバイルアプリがあります。

      創業者はマックス・レヴチン(♂)とケビン・ホウ(♂)。マックス・レヴチンは、1998年にPaypal社を創業、上場させたのちにeBayに15億ドルで売却、さらに2004年にSlide社を創業しGoogleに1億8200万ドルで売却したシリアルアントレプレナーです。

      創業者の名前の後に(♂)マークが付いているのは、Glowが「妊娠をサポートするアプリ」だから。なんだかとても女性的な内容なのに、むさ苦しい男性2人チームではじめられたGlow。ではありますが、よく考えると男女が両方いてはじめて実現するできごとですので、男性が創業者の方が「妊娠・出産は女性の問題ではなくカップルの問題」という事実の社会啓蒙(けいもう)のためにはよさそう。

     

    「排卵日です」というメッセージも

      Glowアプリには男性バージョンと女性バージョンがあり、基礎体温や月経の期間などを記録、それに基づき妊娠しやすい日を割り出せるようになっています。さらに、単なる記録機能だけでなく、いろいろなメッセージが配信されるようにもなっています。「ビタミン摂取せよ」「排卵日です」などなど。将来的には「カップルで素敵なディナーに行きましょう」といった軽やかな(おせっかいな)メッセージも出す計画とのこと。

      なお、Glowでは、上述の「基本データ」だけでなく、性交渉を行った日、オーガズムの有無など、多角的なデータ(!)を記録でき、そうしたユーザデータを匿名化して収集。「どうしたら妊娠しやすいのか」という情報の精度を、現在の医学でわかっている以上に高めて行く、という野望を持っています

     

    目玉は「不妊治療の互助会」

      しかし、今のところ、目玉は「不妊治療保険」的なGlow Firstというサービス。Glowアプリの利用は無料でできますが、Glow Firstは有料で、月々50ドルの会費を支払い、妊娠したらその時点で終了、10ヵ月たっても妊娠しなかったカップルはその時点で全員から集まった会費を分け合う、という「不妊治療の互助会」的サービスです。

      アメリカの不妊治療は非常に高価で、体外受精ともなれば1回当たり1万~4万ドル(100万~400万円)もするのにもかかわらず、成功率は全年齢層平均で3割未満しかないため、何度もトライする人も多く、痛い出費です。Glow Firstはそうした人たちのニーズを突いたサービスと言えましょう。Glow以外にも妊娠のための記録アプリは多数ありますが、Glow Firstを取り入れたことでGlowは他とは一線を画した差別化を実現しました。結果、8月にローンチしたばかりにもかかわらず、600万ドルの増資に成功しています。

     

    センシティブな情報収集がどこまで受け入れられるか

      ただ、匿名とはいえセンシティブな情報を吸い上げられるアプリでもあり、どれくらい市場で受け入れられるのか、まだまだ未知数。ちなみに、「子供をはぐくむアプリ」だから「育てる」という意味のグロウなのね、と思った方もいるかもしれませんが、それはgrow。glowは「輝く」という意味なのであります。


三陸鉄道「お座敷列車」希望乗せ

2015-02-09 13:44:04 | キャリア・教育
三陸鉄道「お座敷列車」希望乗せ 

尾藤千秋 58 新潟トランシス社長

 

 <前途洋々のつもりが>

  • <noscript></noscript>
  •   男の子なら誰でも鉄道や車が好きな時期があるでしょう。私はそのまま大人になりました。列車の設計をしたくて大学では機械工学を学び、1979年、ローカル線や寝台列車の客車製造に強い、富士重工業に就職しました。希望通りに設計部門に配属され、前途洋々のつもりでした。

      2年目のある日、上司から「国鉄からローカル車両の発注がなくなる」と言われました。国鉄が、合理化のため赤字ローカル線を廃止したり第3セクターにしたりし始めたのです。それ以後、富士重の鉄道部門の採算は悪化し続け、私は、列車の車台の上にバスの車体をのせた低コスト車両を設計したほか、航空機部品など他部門に一時、移ったこともありました。

     <元ライバルが同僚>

      2003年、社員約30人の鉄道部門ごと今の会社に出向になりましたが、実際は片道切符でした。私は家族を宇都宮市に置き、新潟市へ単身赴任です。管理職だったので富士重に残ることもできたのですが、みんながバラバラになったら技術が分散して車両が作れなくなる。「鉄道の仕事がやりたい」と強く思いました。

      今の会社は、経営破綻した新潟鉄工所の鉄道部門などを、石川島播磨重工業(現IHI)が引き取って設立しました。元ライバルと一緒に仕事をするのは難しいことでした。設計思想や図面の描き方など様々な違いがあり、お互い技術者としてのプライドから、熱くなるとつい「前の会社では」という言葉が出る。何度も議論して、長所を認め合い、一つのカラーが出てくるのに5年かかりました。

     <復興の象徴>

      入社以来、厳しい環境続きでしたが、やりがいは大きかったです。思い出深いのが、日本初の第3セクター鉄道として1984年に開業した三陸鉄道(岩手県)で、入社6年目だった私も設計に加わりました。

      従来のローカル線の車体は2色でしたが、三陸鉄道は「海」の青、「情熱」の赤、「誠実」の白と、3色で塗り分けました。ワンマン運転の車両は当時珍しく、一人ですべて操作できるよう料金箱や運転席を工夫し、後のローカル線のモデルとなりました。

      東日本大震災の際の津波で、三陸鉄道は車両16両のうち3両が浸水したほか、駅や線路が流失しました。すぐに担当者を送り出し、私も1か月後には現地に入って復旧を手伝いました。

      新しい車両も作りました。三陸鉄道と議論を重ね、特に、お座敷列車はくつろげるように居酒屋風の内装にし、三陸鉄道の望月正彦社長に「思った通りの仕上がり」と言ってもらえました。14年4月の全線復旧では、地元は30年前の開業当時をほうふつとさせる盛り上がり。人々の思い入れ、熱意を肌で感じ、涙が出ました。

      6月に社長になりました。経営環境は順風とはいえませんが、ほかの交通機関と組み合わせて提案していけば、鉄道はまだ捨てたものではないのです。(聞き手 寺島真弓)

     

      《メモ》 1979年武蔵工業大卒。趣味は鉄道模型だが、「自分が手掛けた車両は作らない」。新潟トランシスは、2003年2月の設立。ディーゼルエンジンで駆動する鉄道車両「気動車」で、国内でのシェア(市場占有率)は8割を占める。東京の臨海部を走る「ゆりかもめ」や、富山市の次世代型路面電車(LRT)なども製造した。従業員は371人。本社・東京都。


仕事は協力あってこそ

2015-02-09 13:44:04 | キャリア・教育
仕事は協力あってこそ 

金川裕一(かながわ・ゆういち) 54 キューアンドエー社長

 

  <街の電器屋を起業>

  • <noscript></noscript>
  •   会社を起こしたい。パソコンが家庭でも使われ始めた1996年、横河電機の社員時代です。IT機器の困りごとに応えられる店を出そうと、社内ベンチャー制度に応募しました。

      パソコン周辺機器が売れていた頃です。モノも売り、顧客に届け、設定する。「IT時代の電器屋さん」を目指しました。経営陣からは「無理だ」といわれましたが、36歳の時に認められました。諦めかけた時、当時の美川英二社長に、「3度の提案をけられて諦めるのか」と叱咤(しった)された後です。ある役員が反対しましたが、美川さんは「若い連中が一生懸命なんだ。お前は何様だ」。どなりつけた言葉が忘れられません。

      <業態を変える>

      東京・三鷹と吉祥寺に店舗を出しました。私の地元で土地カンもあり、近所の人が来てくれるはず。しかし、客足は伸びず、パソコン関連用品などの在庫は増え続けました。秋葉原とは違い、出店地域にはITの集客力はなかったのです。業者が集積しない街に顧客は来ない。競合がなければ競争もなく、リピーターも生まれない。店を持つ難しさを実感しました。開店後、間もなく店舗を閉めました。

      訪問サービス専門の会社から事業買収し、店舗を持たない業態に転換しました。草分けだったパソコンの設置やインターネットの設定を行うサービス業です。顧客は、量販店などに頭を下げて紹介してもらいました。軌道に乗るまで約10年かかりました。

      母体の横河電機は成果主義に移行し始めていました。仕事ができる社員が業績を支え、成果に応じて報酬を決める。当然だと思っていました。

      成果とは何か。考え直す出来事がありました。目立たないけど、実直な社員が「何でもやります」と頭を下げて大企業から仕事を取ってきた。作業は膨大で受注単価は安い。

      何でこんな仕事を、と文句を言う社員もいましたが、仕事がなければ業績は上がらない。皆で毎日残業し、土日も交代で出勤し、力を合わせて受注をこなしました。大企業の信頼を得たためでしょう、2003年には創業以来初めて月次ベースで黒字転換しました。

      私は学生時代はバレーボールの選手でした。病気でやめていた時期は、球拾いでした。でもチームのためには球拾いは大切です。レギュラーだけが偉いわけではない。仕事も同じです。こつこつ働く努力が信頼につながる。エリートだけでは成り立たないのです。

      <安心して働く>

      06年には人事制度を改革しました。競争を強いるだけでは、安心して働けない。成果給を廃止し、勤続年数やポジションに応じた年功制を採用しました。

      時代には逆行しますが、チーム全員の協力を大切にしたい。06年度から12年度まで営業黒字が続いています。

      起業した時を除けば仕事を選んだことはありません。一生懸命やればいい仕事ができる。社員が失敗を恐れずに挑戦し続ける環境を作ることが経営者の仕事だと思っています。(聞き手 中島千尋)

     

      《メモ》 早大教育学部を卒業し、1982年に横河電機製作所(現横河電機)入社。96年に社内ベンチャー制度で「横河マルチメディア」を設立し、2001年に横河電機を退職した。キューアンドエーは12年に横河電機から独立。訪問や電話によるパソコンサポートの草分け的な企業で、運営は仙台、広島、福岡など全国6か所のオペレーションセンターで手がけている。本社は東京都渋谷区。13年3月期の売上高は97億円。