amita_gate's memorandum

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超越的真理と政治(1) レヴィナスの「贖い」 業

2005-10-14 13:01:38 | 真宗についてのメモ
宗教の立場から政治上の事柄とどう向き合うかは非常に難しい問題である。
宗教の教説が特定の政治上のスタンスを支持するものなら、それは無常なものであって真理とは言い難い。
逆に、宗教の教説が、如何なる政治上のスタンスをも支持しないものなら、それは現実社会との関わりを失っているとの批判を被りうる。

宗教の教説は、現実社会の事柄から「超越」的であるが故に真であるが、私達は現実社会の事柄から「超越」的ではありえない。浄土は真実にあるが、私達はあくまで穢土に固執しており、そこから抜け出すことは出来ない。

フランスのユダヤ系哲学者、エマニュエル・レヴィナスは、(恐らくユダヤ教を基盤とした)独特の哲学を構築した人であるが、彼はこの関係を「贖い」として捉える。この世界の中に私達が囚われていること、それが「贖い」である。旧約聖書に見える、ヨナの受難(義人であり、何一つ悪いことをしていないはずのヨナが、それにも関わらず次々と神により苦難を与えられる)のように、私達がこの世界に生きていることは、無条件的な受難である。しかし無条件的な受難であるが故に、それを受苦することで逆説的に神の「栄光」は称えられる、と彼は言う。

これは仏教の教説の枠内で言うならば、業の考えに近い。世界がこのように苦しみに満ちているのは(このように苦しみに満ちた世界に私達が囚われているのは)、全て私自身の業によるものである。自らがこの世界のすべての苦しみを作り出したのであり、それ以外の何者もこの世界の苦に対して責任を持たない。世界が苦しみに満ちているという事実、それに私は責任を負っており、そこから抜け出す術はない。ただこのように、自らが業によりこの悪世界を生み出しているという自覚だけが、本願を頼らせ、浄土という救済を明らかにする。

2 コメント

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横超 (湖南)
2005-11-11 20:37:03
私達はあくまで穢土に固執しているから、横超するんですね。



私自身が業を作り、業に迷い、その最果てに浄土があるのですね。そこには私ではないものはあるのでしょうか。



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Unknown (amita_gate)
2005-11-12 22:44:41
コメントありがとうございました。



>私自身が業を作り、業に迷い、その最果てに浄土があるのですね。そこには私ではないものはあるのでしょうか。



阿弥陀仏の願力によって成っているのが浄土ですから、そこには私によるものは何もないのだろうと思います。
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