阿見AC日記

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中学3年生 高校3年生へ伝えたいこと

2011年07月22日 | 楠康夫 理事長
 中学3年生は、高校生で陸上競技と、どう向き合っていこうか? 進路の第1弾かと思います。

 高校3年生は、大学?実業団?専門学校?就職?将来を決めていく第2弾かと思います。

 私もこの時代のことは、忘れることが出来ません。

 私の中学3年生の時は、竜ヶ崎一高か?土浦三高か?で、悩みました。

 当時、土浦三高が陸上競技では充実していました。阿見中の先輩も多く、『楠、三高にこいと誘われました。』練習にも参加させてもらったりもしていました。

 この時、3つ上の兄は土浦三高を陸上競技をやるのなら進めました。

 親は、陸上競技で飯は食べられない、勉強をしっかりやって、陸上競技は適当にやり、辞めなさい。竜ヶ崎一高に行って勉強でトップクラスになって大学進学を目指す事、親は進めました。

 私は、勉強も陸上もやると言うことで、竜ヶ崎一高を選択しました。当時は、本気でそう思ったのですが・・・

 昭和49年茨城国体の関係で香取先生が中京大から茨城県の教員になり、竜ヶ崎一高の先生として赴任され、私にとっては、運命的な出会いになりました。
 先生とその仲間との3年間、陸上競技の部活動の日々が、本当に楽しかった。勉強もやるつもりで行ったのですが、いつしか陸上をやりにいくようになりました。香取マジックですね。親も高校2年の県新人戦で私が1500m5000mで入賞してからは、勉強のことはガミガミ言わなくなり、その代わり、陸上で道を開けと言ってくれました。

 そして、高校3年生で北関東大会5000m13位、長野インターハイには行けませんでした。これで、陸上も終わりかと思ったものでした。しかし、大学に行って箱根駅伝を走りたい。そして、実業団に行きたいという思いがあり、香取先生に相談して、思いを伝えました。先生の母校の中京大の話もありましたが、体育大は私には無理だし、箱根には出場できない地区でした。月刊陸上競技・マガジンを見ていて駒沢大に行きたいと伝えました。

 そんな時に、私の姿を見ていた当時、竜ヶ崎一高野球部監督だった持丸修一先生が、駒澤大学野球部の太田監督を通して、陸上部の森本監督に私を紹介して頂きました。12月に面接兼セレクション、香取先生に連れて行ったもらい、世田谷の砧グランド、体育教官室で森本監督、高岡コーチとあった時の事、忘れられませんね・・・・ そして、駒澤大学に行くことになりました。

 親、先生、身内、知り合い、友達等が、いろんな情報を入れてくれると思いますが、

 私の場合は、反対もありましたが、陸上競技を続けたかった。たいして速くもないのに・・・・

 当時は、恥ずかしいから言わなかった、自分の決めた夢、目標だけは、絶対に忘れなかった。もし、今、陸上競技をあきらめたら、一生悔いを残してしまう。そう思いました。

 それが中学3年 高校3年生でした。

 大切なことは、今、自分がやりたいことは何なのか?それとどう向き合っていくのかを真剣に考える事が大切かと思います。

 結果だけを求めるのではなく、それに向かった計画的な努力をいかに進めることが出来たかが?人生において大切なことだと考えています。

 私が、ヤクルトで28歳で現役を引退したときは、陸上競技は人に伝えるものではなく、自分の思い出と決めていました。そして、ヤクルトの仕事を全力で覚えて、偉くなって高い給料をもらって、定年を迎えるつもりでした。陸上競技は趣味として・・・

 しかし、本当にやりたいこと、それに出会ったのは、小生41歳、2000年1月に、11人の5歳~小4とかけっこを初めてからなのです。

 それは、クラブ創造だったのです。

 ヤクルトの仕事、人も好きでしたが、このクラブ創造にかけるエネルギーに比べると、私の中からは小さなものになっていきました。

 48歳でヤクルトを退職しました。

 53歳になりましたが、人生悔いを残さない、失敗してもまた、また立ち上がる。その精神は、時代、時代で一番やりたいこと全力でやってきている事が、後で役に立つ、そんな人生をやってきました。

 これからも、同じです。

 人生の岐路、中学3年 高校3年生 私にとっても大切な時代でした。
 

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