阿見AC日記

阿見アスリートクラブで起こった出来事、試合速報、お知らせ、などなど

クラブを作って19年 

2018年12月15日 | 楠康夫 理事長
2000年1月小生41歳で、11名の子供たち、当時年長~小学4年生男女が集まりスタートした
アスレッコクラブ(今のスポーツ少年団小学生の部の名称)

2002年4月にその子たちの成長と共に中学の部を作りました。

2004年4月 高校の部を設立

その子たちの夢、憧れの存在として
2006年からは、筑波大卒の植竹万里絵さん(現荒川)をトップ選手として採用して、競技を中心に事務を手伝う形でクラブに関わるようにして、阿見アスリートクラブの名で全国に売り出しました。

いつの日か、クラブ育ったメンバーが、トップ選手として全国で世界で戦う姿を見てみたい。

2018年1月、その夢は叶い、2000年1月に11名でスタートした時の年長5歳だった楠康成が、クラブのトップ選手になりました。
あれから18年・・・・・の年月が立つんですね~~~

たつのこフィールドができるまでの中学生の部は、阿見の多目的ナイターグランドで練習会をやりました。

発足当時は、立派なナイター照明をつけ、私が一人立ち子供達を待つシーン
監督、選手1~2人という場面も何度もありました。
懐かしいですね~~~でも不思議と心は温かく、やる気がみなぎるものでした。

今もやる、グランド外にある坂を使った練習、当時からやっています。

その頃、子供たちに、『この坂は、いつか世界に繋がる坂になる』と時々言っていました。
皆の嬉しそうな笑顔が今も心に残っています。

今、クラブの職員として、コーチ、事務、運営に大奮闘してくれている
植村真維コーチも中学までは、夜の練習会は、ここやりました。
ここでの思い出は、人一倍強いと思います。
産休・育休が明けて、復帰してきた立花千晶コーチも、マイコーチと同級生なので、思いは同じだと思います。
特に、冬寒く、薄暗い、その中での練習、結構、思い出していると思います。

なぜ、私が水曜日のナイター練習会にこだわるか?
ここが、中学の部の平日の練習会を確立できた原点だからなのです。
ここが阿見町になければ、阿見アスリートクラブ世代間育成システムはできなかったからです。

康成は、小学生Sコース(5・6年)限定の火曜日練習会で参加していましたので、このナイターでの練習会はやっているのです。康成が『この坂は、いつか世界に繋がる坂になる』と言っていたことを覚えているか?いないかは解りませんが、長男の康平は、覚えていると思いますよ。

苦節19年、んんんんん~~ 楽しい19年、ンんんんん~~~ やりがいのある19年、んんんんん~~ 生きがいのある19年・・・・一言ではなかなかくくれませんが これからに続く19年、私にとってはそんな感じですかね。日本人的には、もっと感動的にくくりたいですが、私にとって、まだまだ、続いていくその通過点であるのは確かなことであります。
私の世代間育成システムづくりの一つのこだわりかもしれませんね。

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