さっき見たカエルは二度嗤う

ちょっと一言いいたい、言っておかねば、ということども。

●VISAカードは驕れる金持ちのお遊びカードか

2006-08-25 00:25:04 | ●CM放談
これが本当にカードのイメージを上げると思っているのかと、最初はびっくりしまいた。

インドを思わせる異郷の地の市場のような所で、小さな女の子が鳥を5羽求める。
少女の持っている金では、一羽しか買えないと商人はいう。少女はがっかりした顔をするが、それでもその一羽を買っていく。なんでもおにいちゃんのためだと言う。本当の肉親なのか、親しい年上の知人なのかはわからない。そして、そのおにいちゃんが今どういう状態にあるのかもわからない。でも、少女の希望からは、買った鳥をおにいちゃんがいるであろう建物に向けて空に放てばとてもよろこばしいことなのだろうと察しられる。そして、どうやら、その鳥の数も多い方がいいようだ。
その傍らで少女と商人とのやりとりを見ていた金持ちのアメリカ人観光客(リチャード・ギア)は、おもむろにVISAゴールドカードを取り出して商人に目配せする。商人はすべて心得まいたとの顔でこたえる。そして…
少女がなけなしのお金で買い求めた一羽の鳥を、こんなんでは足らないかもしれないけど、でもあたしが一生懸命工面して貯めたお金だから、おにいちゃん、みてて、とばかりにまさに駕篭から鳥を放とうとしたその時、彼女の背後で起きたできごとは少女にはあまりにも衝撃的だった。
あらかじめ金持ちのアメリカ人がふくんだとおりに一斉におびただしい数の鳥が羽ばたいていく。空を覆い尽くさんばかりの数だ。おそらく、少女が何年働いても手に出来ないほどのお金が必要な数の鳥。
あまりのできごとに驚いて少女が振り返ると、そこには意味深な目配せをする商人とアメリカ人の姿が。見事なまでに描く金のチカラ。
アメリカ人は商人に目で言う。
「このことは内緒だ。何を聞かれてもオレのことはその子にしゃべるんじゃないぜ」
商人も目で答える。
「もちろんですとも、だんな。聞かれたってあたしは何もしらねえよ、きっとアラーの神の思し召しだろうぜっていってやりまさあ」
そして、満足げに笑い合う。
少女も心の中で叫ぶ。金がない自分の願い事を助けてくれたことへの感謝の気持ちを? とんでもない。
少女は心の中でこう叫んでいる。
「まったく、なんてことをしてくれたんだ、あんたらは! この籠から鳥が飛び立ったら、あたしも元気でいると教えてあげられる、とあらかじめ決めてあったのに、それは一羽よりも数羽は飛ばしたいって思ったけど、あれはなあに? あんなにたくさんの鳥が飛んでしまったら、もう何もメッセージがつたわらないの。台無しだわ。なんで? なんであんな余計なことをしてくれたの。あのアメリカ人が大金持ちで、道楽で人の計画をめちゃくちゃにしてくれたの? そんな大金持ってたように見えなかったけど、あのキラキラ光る四角いカードをつかったのだとしたら、あんなものは大嫌い! 一生軽蔑してやる!」

しかし、彼女の目の前で、いかにも彼女をこの上なく幸せにしてやったと疑わない愚かな大人たちの子供じみた仕草を見ると、少女は苦笑いする他なかった。

●時代をきちんとよんでいるのか八景島シーパラ。

2006-08-19 21:11:12 | ●CM放談
八景島シーパラダイスのCM。テレビよりも山手線の車内モニタでよく見かける。出ている男がやたらバカっぽいので、なんとなく視聴後不愉快な気分になったのだけれど、そんなことよりも、CM自体の組み立てが間違っていることに気がついたのだった。
それは、時代がよめていない、ということである。これはCMとしては致命的なことだ。端的に言えば、男と女の役割が逆だったのだ。
CMのなかで女が先ず言う。癒されたい私は水族館がいい。男が言う。おれは遊園地で絶叫したい。
これや、逆であろ。遠い昔はいざ知らず、今や元気ないのは男の方で、つまり癒されたいのは男の方で、やたらと元気ある昨今の女性は、むしろ好んで絶叫マシンを楽しんでいるではないか。それが今というものである。
逆に言えば、だからこそ、CMの表現になりうるのである。男の子は元気に遊園地のジェットコースターで叫び、女の子は水族館でおしとやかに鑑賞、というのでは、そもそもCMのネタにならないはずなのだ。
伝えたい要旨は八景島ならどちらも楽しめますということで、これは良い。しかし、そこにもっていくための手法が間違っている、というか、はずしてしまっているのである。

さて、こうした考え違いを最初のプランナーが立てたとして、細かくは、先輩格のプランナー、プロデューサー、と制作会社内だけでもかなりの段階があるし、大まかでも、制作会社、広告代理店、クライアントと、3つの関門が合ったはずだが、それらをことごとく通ってしまったのは何故だろう。ちょっとした個人の思い違いはあるだろうが、CMとして完成させるまでに関わっていく多くの人たちが誰も違和感をもたなかったというのが解せない。
誰かひとりでも、「これって、逆じゃない?」と素朴な疑問を発していたら、このCMは優秀とはいわないまでも、そこそこの仕上がりとなったはずだ。少なくとも、このような失敗作とはならなかったであろう。