さっき見たカエルは二度嗤う

ちょっと一言いいたい、言っておかねば、ということども。

男らしい牡

2011-03-27 23:52:58 | ○日々のさざめき
昨日、見るともなく見ていたテレビで、8人の子を奄美で育てるお父さんの奮闘の番組を観た。片親で子育てだけでも大変なことであるのに、自給自足を目指して家作りから畑作りとこなす姿はたくましく、雄々しく映った。

男らしい男というか、男の中の男というか、でもなにか、ちょっと違うものを感じていた。子どもの数が多過ぎるからか、やることが極端すぎるからか、番組の中で話が進み、何年も前に別れてからほかの男と三つ子を作った元妻がその男とも別れ、奄美を訪ねてきた。

やり直しを提案する元妻に対し、8人の子(末っ子は1歳)を置き去りにしていった事実の重さを告げつつ、けんもほろろの態度を示したお父さんの態度は無理からぬものと思った。

しかし、その後の展開をみて唖然とした。結局のところ、この男はこの、鬼畜のような女を、再び妻として受け入れたのだった。そして、さらに、顎を外しそうになったのは、女が妊娠していたことだ。いったい、この男は何なんだ? と素朴に疑問がわいた。と同時に共感と同情を寄せていた気持ちが急速に萎えて行くのを感じた。

そうなったから受け入れたのか、受け入れを決めてからそうなったのか、そんなことはどうでもいい。それよりも、男の中の男ということばが、しっくりこない理由がわかった。男の中の男とは多分に人間的、情緒的な言葉だが、この男の行動はもっと生臭くて具体的で生物的なものだった。

そして、ああ、そうか、と合点が言った。男らしい「男」ではなく、男らしい「牡」なのだった。おそらくこの男の行動は人間の理知的な行動とは対局にある、獣とか畜生の行動なのだろう。そう思ってみれば、そもそも、この時代に子どもを8人もつくること自体、常識的ではなかった。8人に三つ子を加えて11人、さらにまた一人身ごもって12人。これで終わりとはかぎらない。観るのをやめた後にさらにそんな話が続いたかもしれない。

番組で描き出されたのは大家族物語というよりも、牡と牝の奔放な物語だった。それが見えてから、急速にむなしくばかばかしくなり、番組に興味を失ってしまい、テレビを消したのだった。

朝であう人々のこと(2)

2008-05-25 20:41:29 | ○日々のさざめき
すれ違う場所で、時間がわかる。そういう人がいる。私にとっての時計男は、たぶんどこかの小学校か中学校か高校の校長であろう。駅と反対方向に背広を着て歩いてくるサラリーマンはいない。こちらにあるのは小学校か中学校か高校だ。あの貫禄からするとヒラでないのはもちろん、教頭でも役不足だ。白髪、四角い顔にメガネ。校長でなくてはならない容貌なのである。

自宅から駅までの内に、踏切がある。いつも同じ電車が通過した後、遮断機があがると、向こうから先頭きって歩いてくるのは必ず校長男だ。私が時間通りに出てきさえすれば、電車が通過した後、必ず踏切の手前で出会う。わたしの出が遅ければ踏切より遙か手前で出会うことになる。こんなことはないが、もし私の出が早ければ、踏切の向こう側で出会うことになるだろう。校長男が時計男たる所以である。

校長男はいつもせわしなく煙草をぷかぷかしながら歩いてくる。時勢でもあり、学校ではおちおちたばこも吸えないのだろう。しかし、歩行喫煙は校長にあるまじき行いではある。注意するべきだが、「校長のくせに」と言えるのかどうかがポイントとなってくるので、やはりやめておく。

わたしがいつも見るので時計男としているが、相手はどうなのだろう。やはり、毎日顔を合わせているわけだから、向こうも私のことをいつもすれ違う男と認識しているのかもしれない。毎度すれ違う場所が違うのだから、向こうにとってはアテにもなんにもならないわけで、少なくとも彼にとっての時計男には成り得てないだろうが、それでも、お互いに見ない日があると、いったいどうしたのだろう、風邪でも引いたのだろうかと思いを馳せるのかもしれない。

彼は校長男、たぶん。

○朝出会う人々のこと(1)

2008-05-11 23:09:40 | ○日々のさざめき
腰を痛めてから、駅まで30分歩くことにした。それまでは単車だったが、医者に1日1時間以上歩くようにいわれたことから、徒歩に変えた。往復で1時間だし、「以上」の部分については、駅構内や駅階段、着駅から勤務先までの徒歩で十分まかなえると判断したのだった。

朝を歩くと、(昼でも夜でもそうかもしれないが)様々なものと出会いが有る。日ごろ目もくれない道ばたの雑草や、街路樹の種類、住宅の軒から見える花など、文学的なものはもちろんそうだが、なによりも興味深い出会いは同じように朝を歩く人々である。

ほとんどはすれ違う人々、向かってくる人々のことだが、1名だけ、一緒に駅に向かう人で気にかかる人がいる。わたしは、彼の職業を刑事と睨んでいる。それは、その顔つき、歩き方、服装、革靴の底の減り方、鼻息の荒さで判断しているわけだが、本当のところはわからない、尾行していけば突き止められるかもしれないが、そんなに暇ではない。

刑事男は、私よりも後の時間に反対方向に向かう列車に乗るのだが、たいてい私よりも早い。私が家を出て歩き始めると、10メートルくらい先に彼の背中がある。ごくたまに、私が出るのが早かったらしく、彼の姿を後に発見することがあるが、このときは気が気でない。追い抜かせたくはないからだ。

前を行く刑事男の歩き方はせかせかせず、一歩一歩かみしめるような歩き方をするので、抜けそうな気もするが、案外抜けない。無理に抜くとそのあとが苦しくなりそうなので(だって、ほっとして速度をゆるめてもう一度抜き返されたりしたらお互いにばつが悪いだろう)、抜くのはあきらめる。

刑事男は、駅に着くと私とは反対側のホームのベンチに座る。たいてい同じ椅子にすわっている。もしそこに先客などいたりした場合、彼はきっとこういうだろう。
「悪いがそこは俺の席だ」
たとえ、先客にこのとんでもない非常識な主張に対する異論があったとしても、彼の顔つき、格好、所作をみれば、超論理的事情による緊急避難として自らを説得し、やむなく席を立つだろう。

刑事男はその席に座るとまっすぐに背筋をのばし、必ず右足を上にして足を組む。両手はダスターコートのポケットに突っ込んで、真正面を見るともなく見ている。そして、私は目の前に滑り込んできた電車に乗る。だから、彼のその後の行動は全く不明だ。

おそらくは次に来る反対方面の電車に乗り、次のターミナル駅でおり、まっすぐに支庁舎のならぶメイン通りに向かい、警察署の前で門に立つ警官から敬礼を受け、片手をちょっとだけ挙げてこたえつつ、中に消えていくのだろう。

彼は刑事男、たぶん。

○究極の選択を迫られる我が家の異臭さわぎ

2008-01-20 23:41:29 | ○日々のさざめき
その日帰宅すると、台所で中学の娘がカレーを暖めていた。あらかじめ言っておいたように、鍋底がこげつかないように、お玉でかきまわしながらあたためている。その姿に、なにかこちらもあたたまる思いであった。しかし、彼女はどうも、私の帰宅する玄関の音を聞いてから台所にたったらしく、まだまだそのときはあたためはじめであったようだ。

外出着を脱いだ私はいつものようにトイレに入り用を足した。においが少し気になり、スプレーをかけたあと、トイレを出ると、私はめんくらった。あれ、このにおいは? なにゆえ?
私より先に、テーブルでパソコンを打っていた息子が「なんか、臭くね? このにおいは…」と言いかけて、妹が暖めているものを見て口ごもった。わたしもそれを察して「どうした? カレーこがしてないか?」と娘の背中に問いかけた。娘はまさにかきまわしながら
「こがしてないよ、かきまわしてるから」とこたえるのだが、どう考えてもこのにおいのもとはその鍋の中のものらしいのだ。

いままでに二日目のカレーをあたためて堪能したことはずいぶんあるが、こんな異臭がしたことはない。どうもアノにおいとしか言いようがないのだが、まさか自分のトイレのせいかともう一度トイレをのぞいたが、さわやかな芳香のにおいしかない。においはどんどん強まっている。

そうこうする間に娘は暖め終わったカレーをごはんにかけて息子と私と3人分用意し、自分がせっせと食べ始めた。急いでいるのは書きかけの小説を続けたいからに違いない。
息子は黙って目の前の大好きなカレーをみおろしている。私はおそるおそる口に運んでみた。すると多少濃いめというか粉っぽいが味はまさしくカレーだったものだから安心して食べ始めた。「おう、大丈夫大丈夫、<味>はカレーだから」
言うと、息子もようやくカレーにスプーンをつっこみ、ひどく緩慢な動きで口に運び始めた。

そこへ妻が帰ってきたのだった。玄関あけるなり、叫んだ。
「うう、なにこのにおい、どうしたの? う○このにおいじゃない?」
息子が凍り付いた。みんなが口に出さなかったのに」
「カレーを食べているのにカレーがう○こくさいというのは最悪だな」
と、やぶれかぶれに言う私。
妻は部屋に入るとますますさわいだ。
「うわー、くさい。なに、これ、ほんとにカレーのにおい、これ?」
「いや、焦がしてはいないんだけどさ」
「焦がしたって、こんなにおいしないよ、ふつう。もしかして、腐ってたんじゃないの」
スプーンが止まった。

私が「そういえば、今日は3日めだった!」と言うと、
「やめなやめな、もう、なにやってんのみんな」
と妻が皿を回収して行った。
「えー、わたしもう食べちゃったよ」と、書きかけの小説の続きを書きたくて既に食卓を離れてパソコンを打っていた娘が言う。
私も半分くらい食べた所だったので残りは捨てた。
息子はなんと用心深く、ほんの少し口を付けた程度だった。カレーは息子の大好物なのだ。
娘が「なんか、お腹いたくなってきた」と言う。
「気のせいよ、そんな大丈夫だから」妻は自分の言動でかえって騒動をひきおこしてしまったから、今度は鎮静させようとしていた。

便秘気味の私はその後、2度もトイレに行き、息子は別のものを食べ、娘は寝てしまった。
その夜中に、娘は2度トイレで吐いた。
やはり、腐っていたのだろう。

というわけで、我が家は期せずして、あの有名なカレーにまつわる究極の選択劇をやらされたわけだが、以前は想像で、カレー味のう○こよりう○こ味のカレーをとると思っていたが、経験してみると、う○こ臭のカレーはなんとか食べられるということがわかった。だからどうだということもないが。まあ、味がカレーであってくれたことはとても大きなアドバンテージであった。

○冷蔵庫内に個室が欲しい

2007-10-26 00:02:16 | ○日々のさざめき
私は無類のチョコレート好きである。ほとんど毎日食べないと気が済まないほどで、大人の男としてはちょっと珍しいタイプかもしれない。チョコレート好きは子供の頃からで、高校生の時に森永ハイクラウンを5箱ぐらい一度に食べて、鼻血を出したこともある。なぜこれほど贅をつくしたかと考えるにやはり、小学校の頃の強烈な体験があったからと思われる。

板チョコには山がある。我が家は3人兄弟だったので、一枚のガーナミルクチョコレートを三人で分けて食べた。食べる時はだから、1山単位だ。たまに贅沢する気分で思い切って2山放り込んで目をつぶり、恍惚に浸ることもあったが、1山が口に入れる1単位であったことには違いがない。ところが、ある日、私は近所の友達の家を訪れた際、そこで信じられない光景を目にしたのだ。友人がなんと、板チョコをマルで頭からかじりながら歩いてきたのだ。わたしはその場で腰を抜かしかけるほどのショックを受けた。とんでいって、この罰当たりが! と、脳天を叩きたいほどだった。
ずっとあとに、チョコバーというのが出て、そのCMで「丸かじり」という表現が使われたが、それより、ずっと以前にそいつは無謀にも板チョコをまるかじりしやがったのである。外紙が剥け、その上から銀紙がめくれ、そこから出た茶色い部分。これはそそられる。やはり、ずっとあとに、そうした板チョコの姿がポスターか中吊りになって登場した記憶がある。
腰を抜かすほどのショックから立ち直ったわたしはこのとき思ったのだ。いつか、おれも必ず板チョコをまるかじりしてやる、と。(ここで暗転。「5年後」と文字スーパーがはいり、ハイクラウン食べて鼻血を流しているシーンにつながる)

子供の頃好きだからとむやみに食べた反動で、おとなになって、かえって嫌いなものになる、ということをよく聞くが、私にとって、チョコレートはそうはならなかった。2児の父となっても相変わらず好きで、弱っている。おそらくは子供たちよりも好きであり、困るのはそのことである。

スーパーで買ってきたチョコレートを、誰がいくつ食べたかとけんかになるのは、大人の方からすると、かっこわるい。だって、子供同士ならよく見かける光景だが、そこに親父までまきこまれているのは珍しいではないか。恥ずかしいけんかをなくすためには、板チョコをひとりにひとつずつ、というのが望ましいのだが、それでは毎日のように買う我が家にとってあまりに不経済になってしまう。
やはり、家族で食べるのは徳用袋が文字通りお徳だから、どうしてもそちらを買ってしまう。(さいわい、細君は辛党で、さいわいというか、これはこれで困ることもあるが、それについては本題からそれるのでまたの機会に語ることにする。)

徳用袋は娘と息子とわたしの3人で分け合うことになる。ところで、娘は成長するに連れて、味覚が母親に似てきたようで、だんだん、チョコレートに固執しなくなったが、息子は無類の甘党であり、家のなかでは宿敵に近い。コーラはほとんど毎日飲んでいる。

チョコレートは溶けると食感が落ちるので、冬でも冷蔵庫の中に入れておくことが多い。最初冷蔵庫の中のさまざまなところに隠していたが、そのうち、すぐに見つけ出されるようになってしまった。見つけた息子に「あー、こんなところに、隠してあったよ」とチョコの袋を取り出して見せられると、食卓でむつかしい顔をして新聞を読んでいる私はどんな顔をしていいのかわからなかった。

あーあ、と思うのである。情けないではないか、父親が自分のためにチョコレートを隠し、それを息子に発見され、自分だけずるいと糾弾されるのである。しかし、週末に買った徳用袋を解放しておいたら、月曜に会社から戻ったらまずなくなっているのである。楽しみに帰ってきたのに冷蔵庫を覗くと、もうすでに一つも残っていない。しかも、腹の立つことに、空き袋はそのままなのだ。
扉をとじるなり、息子、娘に怒鳴り散らす。
「空の袋をそのままにするな、ちゃんと捨てなさい!」本当は、「なんで全部食べちゃうんだ、少しは残しておけよ!」と言いたいのである。あまり、ブーたれたので、最近は申し訳程度に1個だけ残っていることもある。
このように、世の中には、人知れず大好きなものを保護したいという大人もいるのだ。

さて、というわけで。
冷蔵庫メーカーにお願いしたいのだが、冷蔵庫に小さな個室をいくつか作れないかということである。その個室には、キープレートがついていて、パスワードを入力すると解錠できるのだ。こうすれば、家族の被害にあうことなく、大人も子供も、自分の好きなものを守ることが出来るのだ。すばらしいアイデアだと思うのだが、いかがだろうか。

○ご飯&コーラの食卓

2007-07-08 23:04:13 | ○日々のさざめき
我が家は晩酌というものがない。それというのも、妻の育った家庭に晩酌というものがなかったからだ。親がまったくの下戸だったようで、食卓にビールや酒が並ぶことがなかったそうだ。

私の方はしっかりと晩酌のある家に育っただけに、結婚した当初はどうもしっくりこなかった。ビールを飲んではいけないということではない。飲みたい時には飲むのだが、ふつうにご飯の席にビールが用意されるにすぎない。ご飯もみそ汁もすでにそこにある。酒のための肴が特別に用意されているわけではなく、ふつうにご飯のおかずが並んでいる。これは晩酌ではない。

これについて、そうではない、飯やみそ汁は酒を飲み終えるころあいをみて、後から用意すべきものである、と説明するべきであったが、経験のないひとにそういうことをいうのをつい面倒に思って説明することをしなかったために、結局そのまま過ぎた。

こどもたちもそんな中で育ってきたのでやはり晩酌というものがわからない。私がビールを飲み、妻がコーラを飲むという形態をみてきているので、当然こどもたちは、母親と一緒にコーラを飲みながら食事をすることになる。

これはおかしい、と。コーラはご飯を食べながら飲むものではない、といったことがあるが、受け入れられなかった。お父さんばっかりビール飲んだらずるい、ということらしい。ビールとコーラはちがう、といってもこどもには通用しない。
なにしろ、母親にしてからが、口に出さないだけで、やはり、父親ばかりビールを飲んだらずるい、と思っているのだから、仕方がない。

晩酌ではないので、毎日必ず飲む訳ではない。妻や子どもらも、わたしがビールを飲まない時は牛乳や野菜ジュースを飲んで、コーラは飲まない。あくまで、炭酸には炭酸を、ということらしい。

かくて、我が家では、ご飯を食べながらビールを飲む父とご飯を食べながらコーラを飲む母子という信じられないような異様な食卓風景が常になってしまった。

○妻の留守

2007-06-17 16:09:08 | ○日々のさざめき
某月某日(晴れ)

久々に妻が出かけた。
帰ってきたときに部屋がきれいになっているかきたないままかによって、
その後の機嫌が左右されることを知っている私は早速台所に立ち、洗い物に
とりかかり、掃除機をかけ、玄関の靴をそろえ、175×90の部屋に比して
大きすぎるけれど自慢の大きな食卓の上を何一つ置かないまっさらな状態にする
(これが妻の一番喜ぶこと)。

洗濯物をとりこみ、きれいにたたんで、すっきりした部屋ができあがる。
これで、いつ帰っても大丈夫、と残り少ない時間を楽しもうと本を広げた
ところ、先に上の息子が帰ってきた。「腹減ったー」と、戸棚から菓子袋を
引っ張り出して、塵一つない食卓の上に広げてむしゃむしゃと食べ始める。

そうこうするうち、下の娘が帰ってきて、バッグをその辺に放り出しざま。
「腹減ったー」と、やはり戸棚から別の菓子袋を取り出して、食べ始める。
すっきりした175×90のひろい食卓の上はたちまち、菓子であふれかえり、
先ほど掃除機で磨き上げた床に、食べこぼしが落ち始める。

「おい、おまえたち、そこ食べ終えたら絶対きれいに片づけとけ。いいな」と
念をおしているところへ、玄関のチャイムが鳴る。
妻だ! 妻が帰ってきた。

妻はカギは持っているはずだが、いつもチャイムを押して開けてもらうのを
待っているから、いそいで玄関に向かう。
子どもたちの脱ぎ散らかした靴が散乱しているのに気づくが、もう遅い。

「ただいま……、あーあ、家ん中、汚い! ちょっと、あたしが居ないと
これだもん、もう、いやになる!」


……こっちもイヤになる。